豚も杓子も。

私にすれば上出来じゃん!と開き直って、日々新たに生活しています。

いつか

2006年08月19日 | Weblog
長野県の上田市にある「無言館」という美術館をいつか訪れて見たいと思っています。
戦場に赴いたまま還ることのなかった画学生の絵が収集されている美術館です。
絵は、本当にさまざまで、今までテレビで見たことのあるものは、出征前に描きおいていた地元の風景や家族の肖像などのごく穏やかなものばかりでした。特に名のある作家というわけではなく、専門家には評価されない作品がその多くを占めているのだそうです。
このごろ、映像や文字でもよく取り上げられているので、ご存知の方も多いでしょう。今日も、ここの館長さんの記事を地元紙で見つけました。さきごろ「うつくしむくらし」という本を出版されたそうです。

「うつくしむ」とは、「慈(いつく)しむ」「愛(いつく)しむ」の元になっている古語。「かわいがり、大切にいとおしみ、許す意味を含んだ美しい和言葉」なのだそう。

中で印象的だったのが「身内だけへの愛は同量の憎しみを生む」という文章でした。戦後60周年の去年は、この無言館にも反戦平和運動に携わる人たちが大挙して訪れられたのだそうです。館長さんは、それがたとえ平和に向かうものであってもその中に「熱狂がはらむ危うさ」を感じられます。
そして、それは先の「身内だけ・・」の言葉につながり、そうならない暮らしを可能にするのが芸術作品と向き合う体験のはずではないかと問われます。向き合うことで何に自分が感動するか、何が気になるのか、ひいては自分が何者かを考えるにいたるのだと。
その体験が、バラが好きな人がゆりを好きな人を否定しないことを導き、他人の価値観を認めることができて共存が可能になる。そんな暮らし方が「うつくしむくらし」であると。

空想上のきれいな考えと捨て去るにはあまりに魅力的な考え方。
ゆっくりと収集作品の一点一点をたどっていったいつかのテレビ番組を思い起こしました。どの作品にも大切なものをいつくしむ気持ちが込められていたように思います。生きた時間が凝縮されたような作品に見えました。
守るべきものが漠然としている、むしろそれすらわからないと、何に向かっていけばいいのかを問うことすらもできないような気がします。
美しいこと、心地よいこと、楽しいこと、なくしたくないことをしっかりと感じること。まずはこれを大切にすることくらいしかできない自分がいます。
積極的に何かに参加することは、その方向に力を注ぐことそのものが目的になるようでかなりためらいを感じてしまうのです。

大事なものを持っていること、そしてほかの人もそうであることを認める想像力。これを養うのに何を持ってすべきか。これも途方に暮れるばかりです。
でも、大事なものを守ろうとして戦う前に、その戦いを回避する手段を考え出そうとしなければ、あまりにも人間という動物が可哀想だと思います。