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【小倉百人一首】6:中納言家持

2014年06月03日 05時33分53秒 | 小倉百人一首

中納言家持

鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

本名は大伴家持。生年は712年で、死没は785年だから奈良時代をほぼまるまる生きた人になる。

大伴家というのはもともと飛鳥時代から続く武門の名家で、父の旅人は九州で起きた反乱の平定に功をあげたりしてる。
ちなみに名前でわかるとおりこの家持の官位は中納言だけど、父と祖父は大納言まで昇進してるのでれっきとした上級貴族の家系でもある。

事跡としては万葉集の編纂をしたと見られていることで有名であるが、仮に家持が編者だったとしても家持一人でなしたわけではなく、それまでに編纂され続けたものを最終的に家持が完成させたと見られている。

家持の生涯を語る上では奈良時代の政争の話がかかせない。

聖武天皇(45代)期は官人としても歌人として順調だった家持。
749年、聖武天皇が病気のため、その娘の孝謙天皇に譲位した際、それに反対的だったのが当時右大臣だった橘諸兄(この人も万葉集の編纂をした人の候補にあがっている)。
聖武上皇はその後も長生きして、756年に崩御する際、道祖王を立太子するよう遺言した。ちなみに孝謙天皇は女帝で独身なので子供は当然おらず、この道祖王は結構血筋の離れた相手。
が、翌年には道祖王は廃太子され、代わって大炊王が立太子される。
この大炊王も血筋でいえば道祖王と同じくらいの人なのだが、実は孝謙天皇期に目覚しく台頭した藤原仲麻呂が自邸に住まわせて面倒を見ていた人なのである。仲麻呂は光明皇太后に気に入られてたらしいので、立太子にはそのあたりが関係してそうである。
当然、大炊王が即位すれば、それは面倒を見てきた藤原仲麻呂の時代の到来にもなるわけだが、これをよく思わなかった橘諸兄の息子の奈良麻呂はクーデターを企てる。
が、結局これは事前に発覚してしまい、奈良麻呂とその一味は処刑される。他にもこの事件に関連して流罪や罷免にあった人は全部で400人以上にのぼる。
これで藤原仲麻呂の政敵は一掃され、翌年の758年に孝謙天皇が譲位して大炊王が即位し、淳仁天皇となると太師(太政大臣に相当)になり権力の頂点に立つ。ちなみに人臣で初めて太政大臣になったのはもう少し時代が下って857年に藤原良房が任命されたのが初。

 

   元明
持統 ||  ┏元正
||━草壁皇子┻文武━聖武━孝謙(称徳)
天武┳大津皇子
  ┣舎人親王━淳仁
  ┗新田部親王┳塩焼王━氷上川継
        ┗道祖王



藤原仲麻呂は完全な中国かぶれで官職名をすべて中国風に変更するということをやったりするのだが(そのため太政大臣に相当する官職だったが当時は太師という呼称だったため歴代太政大臣には数えられない)、その独裁政治が災いして政敵はどんどん増えていく。
763年、この仲麻呂の暗殺計画に加わったのが家持といわれる。いわれる、というか実際に逮捕されたものの結局処罰は受けずに済んだが、薩摩へ赴任させられることになる。家持が再び中央に復帰するのは770年。

この間、道鏡を信任しだした孝謙上皇と仲麻呂の仲は悪くなり、結局仲麻呂も(このときには恵美押勝という名前になってる)クーデターを起こしたが失敗し戦死する。まったく余談だが、この乱で功をあげた牡鹿嶋足は蝦夷出身者でありながら最終的に正四位上まで昇進するという空前絶後の出世を遂げる。
また、淳仁天皇も廃位されて淡路に流され(そのため諡号はなく淡路廃帝といわれた)、孝謙上皇は再度即位(これを重祚という)して称徳天皇(48代)となる。

さて、この後は道鏡が代わって目覚しく出世し、法王という称号を受けて皇族に近い扱いを受けるのだが、宇佐八幡宮事件という前代未聞の天皇家のっとりともとれる事件を契機に道鏡は失脚し、道鏡に皇位を譲れなかった称徳天皇も失意のうちに崩御する。
この宇佐八幡宮事件というのは奈良時代最大の事件として著名であるがいまだにその真相は明らかになっていない。ただ、この称徳天皇は生前に宝字称徳孝謙皇帝という代わった称号を名乗っており、藤原仲麻呂が中国かぶれだったのと同様に、この女帝も中国かぶれだった可能性はある。そうすると、古代中国の理想であった禅譲も真似してやってみようとしても不思議ではないかもしれない。

だいぶ話がそれたが、称徳天皇が崩御した770年に家持は中央へ復帰し、その後は順調に官位を上げ従三位下となり、いわゆる公卿となる。
称徳天皇は独身だったため、次代の天皇は光仁天皇となるのだが、これが波紋を呼ぶ。
実は称徳天皇まではずっと天武天皇の子孫が占めていたのだが、光仁天皇は天智天皇の子孫にあたる(もっとも皇后は天武系の人だが)。

とはいえ、天武の直系の血筋は途絶えても傍系はまだいる。その一人が臣籍降下していた氷上川継という人で、結論からいうと782年、クーデターをを計画していたことが発覚し伊豆へ流罪となった(光仁天皇の服喪の最中だったために死罪は免れた)。
で、家持もこの乱には加わっているという嫌疑をかけられ京を追放になる。

ほどなく許されて再び参議として復帰し、中納言兼春宮大夫になったが最後は奥羽地方の反乱を鎮圧するために陸奥按察使持節征東将軍に任官になった。結局没したのが陸奥なのか京なのかは不明。

さて、これで家持の生涯は終わりかというとまだ続きがある。
桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都をする際、その計画の責任者になったのが藤原種継という人なのだが、この人は遷都前に暗殺され、その首謀者が直前に亡くなった家持だということになったために官職が剥奪され、埋葬も禁止されたのだ。
ようやく罪が許されるのは20年もたった806年である。なので万葉集が世に出るのもその後になる。


歌に話を戻すと、万葉集に収録されている歌の中の実に1割以上が家持の歌なのである。そのため家持が編纂したといわれている。
面白いことにこの百人一首の歌は万葉集には入っていない。

さて、柿本人麻呂のところで正岡子規の『歌よみに与ふる書』を紹介したが、写実的ではない歌を嫌った子規はこの歌に関しては「家持のは全くない事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし」と言っている。

【小倉百人一首】5:猿丸大夫

2014年06月03日 02時49分47秒 | 小倉百人一首
猿丸大夫

奥山に もみぢふみわけ なく鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき

前回の山部赤人が詳細は不明ながらも確実に実在した人物であると見られてるのに対し、この猿丸大夫はそもそも実在したかどうかも不明な人である。
その正体については色んな有名人の偽名説があり、柿本人麻呂も候補の一人。大夫が五位以上の官位の人の通称なのでそれなりに身分の高い官人だろうとは言われている。

それでも面白いのは、正体不明の人なのに歌はちゃんと後世に残っており、古今和歌集の真名序にも名前をあげられているので、少なくともそういう人物がいたという認識は当時の人たちは持っていたようだ。

この歌自体は花札の紅葉に鹿の出典にもなっている。