貞信公
小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
本名は藤原忠平。
関白藤原基経の四男で、
菅原道真の政敵だった時平の弟にあたる。
長兄で左大臣だった時平が39歳の若さで病死すると、跡継ぎの保忠が若年ということもあり、35歳にして藤原氏一門を率いることになる(これを藤氏長者という)。
ちなみに時平と忠平の間には
伊勢との恋愛で有名な仲平という兄がいたが、これを差し置いての就任である。
醍醐から朱雀へ皇位が移ると、しばらく置かれなかった摂政につく。その後、朱雀が元服した際に摂政を降りようとしたものの、後で述べる政情不安のために慰留されている。
醍醐天皇のもと、兄時平が進めていた国政改革を引き継ぎ、後に延喜の治と呼ばれる治世を築く。ちなみに鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、この時代の天皇親政を理想として建武の新政と呼ばれる政治改革を行ったがあまりにめちゃくちゃだったため、あっという間に武士の支持を失い、南北朝の動乱につながっていく。
さて、延喜の治とは、具体的には律令体制の立て直しを目的とした中央集権と農地確保のための法整備なのだが、すでに律令体制への回帰は不可能な状態であった。
というのも、政治の礎ともいうべき税収は一部の特権貴族や大寺院の持つ荘園が多すぎて、税収対象となる土地の面積が少なすぎ、おまけに時平が行った荘園整理令も、最も荘園の恩恵を受けている藤原氏が例外をいくらでも作ってしまうため、有名無実なのであった。班田収受の法も与えるべき公地がなく崩壊していた(ちなみにこの崩壊した税収制度は豊臣秀吉が太閤検地を行うまで続く)。
また、国司(○○守)は任地の税をノルマ分だけ中央に送れば、それ以上の税収は全て自分の懐にいれられるため、中級・下級貴族は国司になることを望んで藤原北家の顕官に任官運動をし、赴任先で重税を課して財産を築くという始末。もちろん税収の対象となるのは荘園以外の土地になるため、現地の荘園主や土地開墾で不法に得た土地主との対立もあったりしている。
ちなみに国司には実際に現地に赴く人を受領、代理人に任せる人は遥任と呼ぶ。基本的に大貴族は遥任である。
このような世相の中であるにも関わらず廟堂のトップである忠平をはじめ朝廷の貴族たちはみな典型的な事なかれ主義者で、政治とはただ儀式・行事を先例に基づき行うこととしか考えていなかった。
そして2つの有名な反乱が起きる。承平天慶の乱、すなわち藤原純友の乱と平将門の乱である。
まず平将門の乱について解説すると、元々桓武天皇の孫の高望王のその孫にあたる平将門は土着の豪族として同族と縄張り争いを行った末に勝利し、関東に地盤を築いていた。この時代の土着の豪族というのは税を納めるべき土地ではなく自ら開墾した違法な土地を基盤として持ち、受領と駆け引きをしながらかろうじて武力によって自分の土地を守っている者(これが武士の発祥という説もある)のが多かった。これは受領が赴任中に開墾した土地を、任期切れの後も手放さないように土着したのが要因。そんな中でも将門は関東で大きな勢力を保持することに成功していた。
939年、あらたに赴任した武蔵権守と武蔵介は現地の郡司(国の下の行政単位である郡を統括)といざこざを起こし、それを将門が仲介するという出来事があった。
これをきっかけにこの武蔵権守の興世王は将門と親交を深めたようだ。が、郡司が都へ行って、権守・権介・将門の違法を訴えたため、忠平は将門を都へ召還して事実を問いただした。ちなみに将門はかつてこの忠平に仕えていた。
これに対して将門は常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府から、無実を証明する書をだしてもらうことで逆に郡司が讒訴をしたと判断される。
将門のために5カ国の国司が味方したというのは影響力の大きさを物語っている。朝廷もそれに気づき、将門を任官しようと考えたらしい。
が、武蔵の正式な国司である武蔵守が赴任してくると、その武蔵守と不和になった興世王は将門のもとに転がり込んで来、さらに常陸国で指名手配を受けていた男も匿ったことにより、常陸国の国司軍と戦闘になる。これに勝利した将門はなし崩し的に朝敵ならざるを得ず、ついには「新皇」を名乗り、支配下にある関東八カ国(下野、上野、常陸、上総、安房、相模、伊豆、下総)に国司を置く。
度重なる正規軍との戦いに勝利してきた将門だが、平貞盛・藤原秀郷の連合軍と戦い破れ、最終的には流れ矢にあたり新皇となってからわずか3ヶ月で死亡する。
将門があっけなく敗れた原因は、平貞盛の捜索に時間を割いた後、結局見つけられず軍隊を解散させ、手元にはわずかの兵しか残さなかったためいわれている。
将門の目的はおそらく関東に武士の独立国を築くことだったのだろう。が、その権力の正統性については「自分も天皇家の血を引いている」ところに求めたあたり、独創性のなさを感じる。これを意識したのかはわからないが後の源頼朝は天皇から征夷大将軍に任じられる形をとって自らの政権の正統性を確立したが、それと同時に武士の任官は将軍からしかできないようにしたというところに優れた独創性を感じる。
さて、ここで登場した平貞盛は父・国香(将門の叔父)をかつて将門に殺されており、その復讐のためにたびたび将門に挑んできた豪族で、将門討伐の功により出世、その子孫からは平清盛を輩出する伊勢平氏や、後の鎌倉幕府の執権となる北条氏がでる。
話は前後するが、反乱の報が朝廷に届いたとき、当時六十台半ばの高齢だった藤原忠文(藤原式家)が征東大将軍(征夷大将軍と同じもの)に任じられたが、結局東国に着く前に乱は終息を迎えた。
将門の反乱には、律令制度の不備や上流貴族の恣意的な政治のために不遇な境遇におかれた在郷豪族の立場を代弁したといえる部分もあり、反乱者にも関わらず関東においては人気があり、その後様々な伝説が生まれた。
藤原純友は藤原北家の出自を名乗っているがこれはあやしい。
元々伊予で海賊討伐をして名を成していたが、いつの間にか海賊側になっていた。そして九州北部から瀬戸内海沿岸に勢力をのばす。その背景は、地元の豪族たちが海賊退治で功をあげても受領に横取りされる現状に対して不満を抱いていた、というものがあったといわれている。
当時の海運は瀬戸内海が重要なルートであったため、ここの制海権を制する影響は大といえる。時同じくして将門が関東で反乱を起こした頃、摂津、讃岐、淡路など瀬戸内沿岸の主要国の国府をおびやかすようになり、山崎にも警備軍が置かれるようになった。東西で起きた反乱に、朝廷側の動揺は激しく将門と純友が共謀して反乱を起こしたという説も信じられた。
が、将門の方があっけなく滅びたため、軍を純友側へ集中できるようになった朝廷は本格的な討伐に乗り出す。小野好古(
小野篁の孫で小野道風の兄)と、大蔵春実の軍が首尾よく討伐に成功し、伊予に逃げた純友はそこで橘遠保に捕らえられて獄死したとも、討たれたともいわれる。これだけの大きな反乱なのに首謀者の末路がはっきりしないのは不思議だが、とにかく将門の敗死から一年後のことである。
さて、この時代の天皇は朱雀天皇(61代)だが男子に恵まれなかったため、早々と弟に皇位を譲り上皇となる。
その弟というのが村上天皇であるがこの頃関白であった忠平は、高齢を理由に致仕を願う。が、それは許されず村上の即位から3年後に死去する。
この忠平が藤氏長者であったのは実に35年間にもおよび、本来であれば嫡流であるはずの兄時平の家系に代わって、忠平の子孫が藤原氏の中心となり、後には道長などが登場する。
貞信公というのは諡号。ちなみに父・基経の諡号は昭宣、祖父・良房は忠仁である。
この歌は小倉山の紅葉をみた宇多上皇が、醍醐天皇にも見せたいといったとき、その気持ちを汲んで詠ったもの。小倉山は紅葉の名所であるとともに、後に
藤原定家がその地の山荘で百人一首を選定した場所として知られる。
最後に脱線するが、国司の下にはNo.2の権守とNo.3の介がいて、後に権守は見られなくなり、介がNo.2となる。
上総、常陸の国は平安時代以降、親王を国司とする親王任国となったので、介が実質的なトップとなった。織田信長が家督を継いだ直後、上総守を名乗ったがすぐに上総介にかえたのはこのせいかもしれない。