平兼盛
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
前回に続きこれも忍ぶ恋の歌。
兼盛はこの時代を代表する歌人で、後の勅撰和歌集に多数の歌が入選している。
百人一首の歌は詠まれたときのエピソードが伝わっているのがいくつかあるが、この歌は960年、天徳内裏歌合の結びの一番に詠まれた歌。相手の壬生忠見が詠んだ歌と、どちらが優れているかを決める判者(審判)の藤原実頼が勝者を決めることができず、しかも臨席している村上天皇からは「引き分けはダメ」といわれて困った挙句、天皇がこの歌をつぶやいたために勝ちとした、というエピソードが残っている。
こういう背景から、この歌と壬生忠見の歌については好みや優劣をめぐって後世にも話題を提供し続けた。
ちなみにこの歌合の参加者は他に坂上是則の息子の坂上望城、清原元輔、藤原朝忠、伊勢の娘の中務などがいる。
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
前回に続きこれも忍ぶ恋の歌。
兼盛はこの時代を代表する歌人で、後の勅撰和歌集に多数の歌が入選している。
百人一首の歌は詠まれたときのエピソードが伝わっているのがいくつかあるが、この歌は960年、天徳内裏歌合の結びの一番に詠まれた歌。相手の壬生忠見が詠んだ歌と、どちらが優れているかを決める判者(審判)の藤原実頼が勝者を決めることができず、しかも臨席している村上天皇からは「引き分けはダメ」といわれて困った挙句、天皇がこの歌をつぶやいたために勝ちとした、というエピソードが残っている。
こういう背景から、この歌と壬生忠見の歌については好みや優劣をめぐって後世にも話題を提供し続けた。
ちなみにこの歌合の参加者は他に坂上是則の息子の坂上望城、清原元輔、藤原朝忠、伊勢の娘の中務などがいる。
参議等
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
本名は源等。河原左大臣こと源融の兄・弘の孫にあたる嵯峨源氏。
この歌は古今集にある
浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに(読み人知らず)
という歌の本歌取り。百人一首ではこの歌から3つ連続で忍ぶ恋の歌が続く。
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
本名は源等。河原左大臣こと源融の兄・弘の孫にあたる嵯峨源氏。
この歌は古今集にある
浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに(読み人知らず)
という歌の本歌取り。百人一首ではこの歌から3つ連続で忍ぶ恋の歌が続く。
右近
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
女流歌人なので本名は不明。この右近という名は、父親の藤原季縄の官職に由る。醍醐天皇(60代)の中宮である藤原穏子(朱雀・村上の生母)に仕えた。この藤原穏子は藤原基経の娘なので、醍醐・朱雀・村上の三代にわたり藤原氏が外戚であったことになる。
これが摂関政治を強める一因になったのはいうまでもない。
この右近は数々の貴族との浮名を流した女性で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順が相手として知られている。藤原敦忠は藤原時平の息子、師輔は藤原忠平の息子(なので敦忠と師輔はいとこ同士)、朝忠は藤原定方の息子。源順は嵯峨源氏出身の貴族である。
この歌の意味は、自分をふった男に対して、「自分はなんとも思わないが、神に誓った恋を破るあなたに神罰がくだり死なせるのが惜しい」といった内容になる。強がりともとれるし、ちょっと薄ら寒い内容だ。ちなみにこれだけ相手がいると誰にふられたときの歌なのか気になるが藤原敦忠という説が有力らしい。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
女流歌人なので本名は不明。この右近という名は、父親の藤原季縄の官職に由る。醍醐天皇(60代)の中宮である藤原穏子(朱雀・村上の生母)に仕えた。この藤原穏子は藤原基経の娘なので、醍醐・朱雀・村上の三代にわたり藤原氏が外戚であったことになる。
これが摂関政治を強める一因になったのはいうまでもない。
この右近は数々の貴族との浮名を流した女性で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順が相手として知られている。藤原敦忠は藤原時平の息子、師輔は藤原忠平の息子(なので敦忠と師輔はいとこ同士)、朝忠は藤原定方の息子。源順は嵯峨源氏出身の貴族である。
この歌の意味は、自分をふった男に対して、「自分はなんとも思わないが、神に誓った恋を破るあなたに神罰がくだり死なせるのが惜しい」といった内容になる。強がりともとれるし、ちょっと薄ら寒い内容だ。ちなみにこれだけ相手がいると誰にふられたときの歌なのか気になるが藤原敦忠という説が有力らしい。
文屋朝康
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
六歌仙の一人・文屋康秀の息子。それ以外にはわかっていることはあまりなく、当時の歌合にでているところを見ると、生前から名声はあったと思われる。
ただし後の勅撰和歌集に選ばれた歌は『古今和歌集』に1首と『後撰和歌集』に2首があるに過ぎない。
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
六歌仙の一人・文屋康秀の息子。それ以外にはわかっていることはあまりなく、当時の歌合にでているところを見ると、生前から名声はあったと思われる。
ただし後の勅撰和歌集に選ばれた歌は『古今和歌集』に1首と『後撰和歌集』に2首があるに過ぎない。