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【小倉百人一首】9:小野小町

2014年06月06日 01時55分25秒 | 小倉百人一首
小野小町

花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに

いわずと知れた”世界三代美女”の一人である(たぶんこの呼称は日本限定だと思うが)。おそらく日本史上最高の美女といってよいだろう。
前回の喜撰同様、六歌仙の一人に入っており、選者の紀貫之

 小野小町は古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず。いはば、よき女のなやめる所あるに似たり。
 強からぬは女の歌なればなるべし。

 (小野小町は昔の衣通姫の流れを汲んでいる。その歌はあはれ(しみじみとしてる)ようで強くはない。
 言ってみれば悩みのある美女に似ている)

ここで衣通姫はなんだ?という疑問にぶつかると思うが、衣通姫とは「衣を通り抜けるほどの美しさ」の姫の意で具体的には允恭天皇(19代)の皇女・軽大娘皇女をさす。この皇女は実の兄と恋に落ちてしまい、それが発覚して伊予へ流罪になった兄を追い、二人で自害したという伝説がある。

ようするに絶世の美女であることは紀貫之も認めているのだ。
ただ、素性についてはまったくといってよいほどわかっておらず、生地が秋田といわれているがそれも確証はない。ただし仁明天皇(54代)の頃の実在の人物である文屋康秀が三河に赴任した際、視察にこないかと誘われた小野小町が返した歌があるので実在の可能性は十分ある。

 わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ

この時代、女性の本名が残ることは滅多になく、皇族か天皇の母となった人が系図に名を残すのみ、といってよいほど。
なので小町も名前ではなく、官職名ですらない。小町という呼び方自体も歴史の謎となっている。

当時の更衣(天皇の側妾)が「町」と呼ばれる部屋を与えられて○○町と呼ばれたのは事実なので、小野小町もその類かもしれないが、それでも「小町」は他に例がないので、この説を採るならもう一ひねり推理が必要だ。
ただ、この意味不明な小町が地域限定美人の代名詞である○○小町という通称が定着したのは不思議である。

【小倉百人一首】8:喜撰法師

2014年06月06日 01時20分26秒 | 小倉百人一首
喜撰法師

わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり

平安時代の僧、ということ以外は何もわからない謎の人物。

古今集の仮名序では六歌仙の一人に数えられているが、そもそも古今集の選者・紀貫之はその仮名序で、柿本人麻呂山部赤人を歌聖として別格扱いで紹介し、その二人にはるかに劣る6人として六歌仙を紹介している。そしてそれ以外の歌人は論評に値しないとばっさり。
ちなみに他の5人は僧正遍照在原業平文屋康秀小野小町、大友黒主。大友黒主以外は百人一首に入選してるのでそのうち紹介。

で、この喜撰はどう評価されているかというと、

 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし

 (表現する言葉がはっきりせず(歌の)最初と最後のまとまりが曖昧。いってみれば秋の月を見てたら暁になって雲に隠れるようだ)

という酷評。
さらにこれに続く紹介がまた謎過ぎる。

 詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず

 (詠んだ歌は数が少なく、歌を通じてはよくわからない)

・・・これは一体どういうことだろう?そもそも歌人の歴史の中で歌聖の二人を除いたその他の中で冠絶した6人のうちの一人なのに、「よく知らず」というのが意味がわからない。
わからないといえば、百人一首には六歌仙のうち5人が選ばれてるのになぜ大伴黒主だけはずれてるのかも不思議だ。単に選んだ藤原定家の好みといってしまえばそれまでだが、六歌仙とは繰り返しになるが、紀貫之が数ある歌人のうちの選りすぐりとして選んだ人なのである。

ちなみに現代まで伝わっている間違いなく喜撰の歌といえるのはこの一首だけ。
この歌では「うぢ山」を「宇治」と「憂ぢ」の掛詞にしている。


謎の人物ではあるものの、喜撰の名前は有名らしく、宇治茶の名前にもなり、その最高級のものは上喜撰と呼ぶ。
幕末にペリーが来航したときの狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」でも知られている。