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【小倉百人一首】36:清原深養父

2014年06月20日 06時21分02秒 | 小倉百人一首
清原深養父

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

清少納言の曽祖父にあたる。
生前は多くの歌人と交わっており高い評価を受けていたようだが、なぜか三十六歌仙には入らず、その後再評価されたのか中古三十六歌仙に入っている。
この清原氏というのは元々天武天皇の皇子・舎人親王の孫の代から始まったのだが、学問を家業とする中級貴族として続いてきた。
歴史的に有名なのは出羽清原氏で、出羽国の俘囚の長の清原氏はこの深養父の子孫を自称している。
平安時代の東北地方は、この出羽清原氏と、陸奥の安部氏を長とし、特に陸奥国は陸奥の金山を狙う朝廷との間に奈良時代から抗戦と従属を続け、平安時代中ごろには反独立国を築いていた。

少し時代が先になるが、1051年に始まった、源頼義と安部氏との戦争、いわゆる前九年の役で当初清原氏(当主は光頼)は傍観の態度をとっていたが、安部氏の軍に何度も苦戦を続けた頼義がおそらくかなりの低姿勢で清原氏に援軍を依頼した結果源氏に味方したため(実際に出陣したのは光頼の弟の武則)一気に形勢逆転し、勝負がつく。
そして安部氏の支配域を清原氏が手に入れることになり、清原氏が最終的なこの戦役の勝者となる。そしてもと頼義の配下で途中から安部氏側へ寝返った(というか安部氏と姻戚関係だった)藤原経清の遺児・清衡は母と一緒に清原氏に組み込まれて武則の妻子として清原氏を名乗らされる。
それから21年後、清原氏の当主は清衡の兄であり武則の嫡男であった清原真衡の代に移っているが、この真衡が叔父の吉彦秀武と争いを起こしたときに、清衡とその弟の家衡は秀武に味方する。結局真衡が勝利したものの、その真衡が急死したため、当時の陸奥守で、頼義の嫡男でもある伝説的武将・源義家の裁定で奥州は清衡と家衡に二分される。
これに不満を持った家衡は清衡を急襲し、妻子を皆殺しにするものの、生き残った清衡は義家の後援もあって最終的に家衡を倒して奥州を手に入れることになる。これが後三年の役である。
この清衡がいうまでもなく奥州藤原氏初代の藤原清衡。清衡を助けた源義家は朝廷に恩賞を求めるも、私戦であったことを理由に恩賞はもらえなかったため、自腹で家来に恩賞をだした。そして、それによって後の源氏の基盤を関東に築くことになる。この源氏と奥州藤原氏の因縁は四代目泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで続くことになる。

【小倉百人一首】35:紀貫之

2014年06月20日 03時53分42秒 | 小倉百人一首
紀貫之

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける

『古今集』の四人の選者のなかで中心的な役割を担っていたと思われる。
『古今集』には漢文で書かれた真名序と仮名で書かれた仮名序があり、貫之は仮名序を執筆した。
この仮名序はその後長く歌道界の師表となった非常に重要な内容なので、ちょっと長くなるが冒頭部分を記載しておこう。


大和歌は、人の心を糧として、万の言の葉とぞ成れりける。
世の中にある人、事、業、繁きものなれば、心に思ふことを見るもの、聞くものにつけて言ひいだせるなり。
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり。


さて、『古今集』について解説しておくと、全20巻に1111首が撰進されており、成立は10世紀のはじめに醍醐天皇(60代)の勅命によって編纂されたことによる。

この『古今集』はその後に続く勅撰和歌集の手本となり、百人一首にもここから24首が入選している。
この後も多くの勅撰和歌集が編纂されたが、そのうち最初の3つ、すなわち『古今集』『後撰集』『拾遺集』を三代集と呼ぶ。
その後編纂された『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』を三代集とあわせて八代集と呼ぶ。
さらに続く『新勅撰集』『続後撰集』までが百人一首にとられてる歌集で、『続古今集』『続拾遺集』『新後撰集』『玉葉集』『続千載集』『続後拾遺集』『風雅集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺集』『新続古今和歌集』とあわせて十三代集。先の八代集とあわせて二十一代集と呼ばれる。


また長くなるが、『古今集』から百人一首に選出された歌は以下のとおり。

猿丸大夫安部仲麻呂喜撰法師小野小町参議篁僧正遍昭河原左大臣光孝天皇中納言行平在原業平朝臣藤原敏行朝臣素性法師文屋康秀大江千里菅家源宗于朝臣凡河内躬恒壬生忠岑坂上是則春道列樹紀友則藤原興風、紀貫之、清原深養父


さて、紀貫之といえば『土佐日記』も有名であるが、この日記の内容は土佐へ受領として赴いた貫之が、任期を終えて京へ帰るまでの途上を日記風に書き記したものである。当時は活版印刷などはないから当然、人から人へ書き写して伝わってきたのだが、驚くことに本人の自筆本が15世紀頃まで残っていたことがわかっている。そのため自筆本を直接書き写したものは現在まで残っており、内容が正確にわかっているのもこの日記の価値を高める一因といえる。




【小倉百人一首】34:藤原興風

2014年06月20日 03時47分18秒 | 小倉百人一首
藤原興風

誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

藤原京家で唯一百人一首に選出された歌人。
以前にも書いたとおり、藤原四家のうち、京家は一番ふるわなく、歴史上の有名人もまったくといっていいほどいない。
ある意味この興風が一番の有名人かも知れない。三十六歌仙にも入っており、この時代の歌人の中では知名度は高いほうだった。

【小倉百人一首】33:紀友則

2014年06月20日 02時03分26秒 | 小倉百人一首
紀友則

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

三十六歌仙の一人で紀貫之の従兄弟にあたる。
紀氏は飛鳥時代から続く豪族で、元々は武門の家柄だった。実際、奈良時代の蝦夷討伐の司令官として紀古佐美などがでている。ただ、平安時代になり承和の変で紀氏が失脚すると以降は藤原北家におされ、以後高級官僚がでることはなく、友則や貫之のように文人・歌人として名を残すようになった。
友則自身も有名なこの歌で名を残すだけでなく、『古今集』の選者としても名を残している。