清原深養父
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
清少納言の曽祖父にあたる。
生前は多くの歌人と交わっており高い評価を受けていたようだが、なぜか三十六歌仙には入らず、その後再評価されたのか中古三十六歌仙に入っている。
この清原氏というのは元々天武天皇の皇子・舎人親王の孫の代から始まったのだが、学問を家業とする中級貴族として続いてきた。
歴史的に有名なのは出羽清原氏で、出羽国の俘囚の長の清原氏はこの深養父の子孫を自称している。
平安時代の東北地方は、この出羽清原氏と、陸奥の安部氏を長とし、特に陸奥国は陸奥の金山を狙う朝廷との間に奈良時代から抗戦と従属を続け、平安時代中ごろには反独立国を築いていた。
少し時代が先になるが、1051年に始まった、源頼義と安部氏との戦争、いわゆる前九年の役で当初清原氏(当主は光頼)は傍観の態度をとっていたが、安部氏の軍に何度も苦戦を続けた頼義がおそらくかなりの低姿勢で清原氏に援軍を依頼した結果源氏に味方したため(実際に出陣したのは光頼の弟の武則)一気に形勢逆転し、勝負がつく。
そして安部氏の支配域を清原氏が手に入れることになり、清原氏が最終的なこの戦役の勝者となる。そしてもと頼義の配下で途中から安部氏側へ寝返った(というか安部氏と姻戚関係だった)藤原経清の遺児・清衡は母と一緒に清原氏に組み込まれて武則の妻子として清原氏を名乗らされる。
それから21年後、清原氏の当主は清衡の兄であり武則の嫡男であった清原真衡の代に移っているが、この真衡が叔父の吉彦秀武と争いを起こしたときに、清衡とその弟の家衡は秀武に味方する。結局真衡が勝利したものの、その真衡が急死したため、当時の陸奥守で、頼義の嫡男でもある伝説的武将・源義家の裁定で奥州は清衡と家衡に二分される。
これに不満を持った家衡は清衡を急襲し、妻子を皆殺しにするものの、生き残った清衡は義家の後援もあって最終的に家衡を倒して奥州を手に入れることになる。これが後三年の役である。
この清衡がいうまでもなく奥州藤原氏初代の藤原清衡。清衡を助けた源義家は朝廷に恩賞を求めるも、私戦であったことを理由に恩賞はもらえなかったため、自腹で家来に恩賞をだした。そして、それによって後の源氏の基盤を関東に築くことになる。この源氏と奥州藤原氏の因縁は四代目泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで続くことになる。
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
清少納言の曽祖父にあたる。
生前は多くの歌人と交わっており高い評価を受けていたようだが、なぜか三十六歌仙には入らず、その後再評価されたのか中古三十六歌仙に入っている。
この清原氏というのは元々天武天皇の皇子・舎人親王の孫の代から始まったのだが、学問を家業とする中級貴族として続いてきた。
歴史的に有名なのは出羽清原氏で、出羽国の俘囚の長の清原氏はこの深養父の子孫を自称している。
平安時代の東北地方は、この出羽清原氏と、陸奥の安部氏を長とし、特に陸奥国は陸奥の金山を狙う朝廷との間に奈良時代から抗戦と従属を続け、平安時代中ごろには反独立国を築いていた。
少し時代が先になるが、1051年に始まった、源頼義と安部氏との戦争、いわゆる前九年の役で当初清原氏(当主は光頼)は傍観の態度をとっていたが、安部氏の軍に何度も苦戦を続けた頼義がおそらくかなりの低姿勢で清原氏に援軍を依頼した結果源氏に味方したため(実際に出陣したのは光頼の弟の武則)一気に形勢逆転し、勝負がつく。
そして安部氏の支配域を清原氏が手に入れることになり、清原氏が最終的なこの戦役の勝者となる。そしてもと頼義の配下で途中から安部氏側へ寝返った(というか安部氏と姻戚関係だった)藤原経清の遺児・清衡は母と一緒に清原氏に組み込まれて武則の妻子として清原氏を名乗らされる。
それから21年後、清原氏の当主は清衡の兄であり武則の嫡男であった清原真衡の代に移っているが、この真衡が叔父の吉彦秀武と争いを起こしたときに、清衡とその弟の家衡は秀武に味方する。結局真衡が勝利したものの、その真衡が急死したため、当時の陸奥守で、頼義の嫡男でもある伝説的武将・源義家の裁定で奥州は清衡と家衡に二分される。
これに不満を持った家衡は清衡を急襲し、妻子を皆殺しにするものの、生き残った清衡は義家の後援もあって最終的に家衡を倒して奥州を手に入れることになる。これが後三年の役である。
この清衡がいうまでもなく奥州藤原氏初代の藤原清衡。清衡を助けた源義家は朝廷に恩賞を求めるも、私戦であったことを理由に恩賞はもらえなかったため、自腹で家来に恩賞をだした。そして、それによって後の源氏の基盤を関東に築くことになる。この源氏と奥州藤原氏の因縁は四代目泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで続くことになる。