河原左大臣
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
本名は源融(みなもとのとおる)。
前回少し書いたが、嵯峨天皇の皇子で、臣籍降下した。ちなみに嵯峨天皇は23人の皇子がいたといわれているがそのうち17人が臣籍降下している。
臣籍降下した源氏を賜姓源氏という。その第一弾が源融らで、源氏ではない親王も、その子の世代には源氏となる。ちなみに天皇の代ごとで臣籍降下した源氏たちを〇〇御後というくくりで呼ぶ。嵯峨源氏は弘仁御後。
なぜ河原左大臣と呼ばれたかというと、六条河原院という屋敷を建て、官位は左大臣であったから。
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる。もっとも光源氏自体、臣籍降下した源氏なので、同じ経歴の人は全部モデルともいえる。ちなみに河原院は、光源氏が建てて多くの妻たちを住まわせた六条院のモデルともいわれ、後に融の息子・昇(河原大納言と呼ばれた)が宇多上皇に寄進されたあと、数度の火災で焼失した。
この嵯峨源氏のうち、左大臣にまで昇ったのはこの融と、「丞相の器」とまでいわれた常、そして応天門の変により失脚した信の3人がいる。
源という姓の由来は、中国の北魏王朝に亡命した禿髪破羌という武将が太武帝から「禿髪と拓跋(太武帝の姓)は元をたどると同じ先祖だね」ということで源賀という名前をもらった、というなかなかマニアックなエピソード。嵯峨源氏たちの名前が漢字一文字なのも源賀に倣ってのこと。
さて、左大臣というのは臨時の官職である太政大臣を除けば、(関白が生まれる前は)太政官における最高位なのだが、清和天皇が陽成天皇に譲位した際、格下の右大臣であった藤原基経が臨時の官職である摂政となり、政治の実権を握った(摂政は天皇の代理人の資格を持つため実質的に天皇と同じ権限)。それに頭にきた融は職務を放棄し、なんと次の光孝天皇が即位するまで約8年も出仕しなかった。
なので、前回書いた、陽成天皇の次の天皇を決めるときに「自分にも資格がある」といったエピソードは本当かどうか疑わしい。
この融らの子孫をはじめとする嵯峨源氏一門は、彼らが出仕し始めたときにはまだ嵯峨上皇が健在だったので栄えたが藤原氏におされてやがて衰える。さらに、嵯峨源氏に限らず、ほぼすべての賜姓源氏にあてはまることなのだが、彼らは世代が下るにつれて天皇との等身も離れていき、どんどん身分は低くなるという宿命を抱えていた。なので、それを見越して別の生業を見つける人も当然でてくる。昇の息子・仕は関東で土地を開墾し、土着化。武士の走りとなり渡辺姓を名乗るようになり、さらにその子こそが酒呑童子や鬼退治で有名な渡辺綱。ちなみにその渡辺綱は源頼光に仕え、頼光四天王の一員としても知られているが、頼光の方は清和源氏の出自で、摂津を本拠としたことから摂津源氏といわれる。
ちなみに「しのぶもぢずり」とは陸奥の信夫郡で生産される文知摺という乱れ模様のこと。
この歌は忍ぶ恋の代表格といわれ、『伊勢物語』にも引用されている。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
本名は源融(みなもとのとおる)。
前回少し書いたが、嵯峨天皇の皇子で、臣籍降下した。ちなみに嵯峨天皇は23人の皇子がいたといわれているがそのうち17人が臣籍降下している。
臣籍降下した源氏を賜姓源氏という。その第一弾が源融らで、源氏ではない親王も、その子の世代には源氏となる。ちなみに天皇の代ごとで臣籍降下した源氏たちを〇〇御後というくくりで呼ぶ。嵯峨源氏は弘仁御後。
なぜ河原左大臣と呼ばれたかというと、六条河原院という屋敷を建て、官位は左大臣であったから。
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる。もっとも光源氏自体、臣籍降下した源氏なので、同じ経歴の人は全部モデルともいえる。ちなみに河原院は、光源氏が建てて多くの妻たちを住まわせた六条院のモデルともいわれ、後に融の息子・昇(河原大納言と呼ばれた)が宇多上皇に寄進されたあと、数度の火災で焼失した。
この嵯峨源氏のうち、左大臣にまで昇ったのはこの融と、「丞相の器」とまでいわれた常、そして応天門の変により失脚した信の3人がいる。
源という姓の由来は、中国の北魏王朝に亡命した禿髪破羌という武将が太武帝から「禿髪と拓跋(太武帝の姓)は元をたどると同じ先祖だね」ということで源賀という名前をもらった、というなかなかマニアックなエピソード。嵯峨源氏たちの名前が漢字一文字なのも源賀に倣ってのこと。
さて、左大臣というのは臨時の官職である太政大臣を除けば、(関白が生まれる前は)太政官における最高位なのだが、清和天皇が陽成天皇に譲位した際、格下の右大臣であった藤原基経が臨時の官職である摂政となり、政治の実権を握った(摂政は天皇の代理人の資格を持つため実質的に天皇と同じ権限)。それに頭にきた融は職務を放棄し、なんと次の光孝天皇が即位するまで約8年も出仕しなかった。
なので、前回書いた、陽成天皇の次の天皇を決めるときに「自分にも資格がある」といったエピソードは本当かどうか疑わしい。
この融らの子孫をはじめとする嵯峨源氏一門は、彼らが出仕し始めたときにはまだ嵯峨上皇が健在だったので栄えたが藤原氏におされてやがて衰える。さらに、嵯峨源氏に限らず、ほぼすべての賜姓源氏にあてはまることなのだが、彼らは世代が下るにつれて天皇との等身も離れていき、どんどん身分は低くなるという宿命を抱えていた。なので、それを見越して別の生業を見つける人も当然でてくる。昇の息子・仕は関東で土地を開墾し、土着化。武士の走りとなり渡辺姓を名乗るようになり、さらにその子こそが酒呑童子や鬼退治で有名な渡辺綱。ちなみにその渡辺綱は源頼光に仕え、頼光四天王の一員としても知られているが、頼光の方は清和源氏の出自で、摂津を本拠としたことから摂津源氏といわれる。
ちなみに「しのぶもぢずり」とは陸奥の信夫郡で生産される文知摺という乱れ模様のこと。
この歌は忍ぶ恋の代表格といわれ、『伊勢物語』にも引用されている。