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【小倉百人一首】14:河原左大臣

2014年06月07日 14時38分31秒 | 小倉百人一首
河原左大臣

陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに

本名は源融(みなもとのとおる)。
前回少し書いたが、嵯峨天皇の皇子で、臣籍降下した。ちなみに嵯峨天皇は23人の皇子がいたといわれているがそのうち17人が臣籍降下している。
臣籍降下した源氏を賜姓源氏という。その第一弾が源融らで、源氏ではない親王も、その子の世代には源氏となる。ちなみに天皇の代ごとで臣籍降下した源氏たちを〇〇御後というくくりで呼ぶ。嵯峨源氏は弘仁御後。

なぜ河原左大臣と呼ばれたかというと、六条河原院という屋敷を建て、官位は左大臣であったから。
『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる。もっとも光源氏自体、臣籍降下した源氏なので、同じ経歴の人は全部モデルともいえる。ちなみに河原院は、光源氏が建てて多くの妻たちを住まわせた六条院のモデルともいわれ、後に融の息子・昇(河原大納言と呼ばれた)が宇多上皇に寄進されたあと、数度の火災で焼失した。

この嵯峨源氏のうち、左大臣にまで昇ったのはこの融と、「丞相の器」とまでいわれた常、そして応天門の変により失脚した信の3人がいる。
源という姓の由来は、中国の北魏王朝に亡命した禿髪破羌という武将が太武帝から「禿髪と拓跋(太武帝の姓)は元をたどると同じ先祖だね」ということで源賀という名前をもらった、というなかなかマニアックなエピソード。嵯峨源氏たちの名前が漢字一文字なのも源賀に倣ってのこと。

さて、左大臣というのは臨時の官職である太政大臣を除けば、(関白が生まれる前は)太政官における最高位なのだが、清和天皇が陽成天皇に譲位した際、格下の右大臣であった藤原基経が臨時の官職である摂政となり、政治の実権を握った(摂政は天皇の代理人の資格を持つため実質的に天皇と同じ権限)。それに頭にきた融は職務を放棄し、なんと次の光孝天皇が即位するまで約8年も出仕しなかった。
なので、前回書いた、陽成天皇の次の天皇を決めるときに「自分にも資格がある」といったエピソードは本当かどうか疑わしい。

この融らの子孫をはじめとする嵯峨源氏一門は、彼らが出仕し始めたときにはまだ嵯峨上皇が健在だったので栄えたが藤原氏におされてやがて衰える。さらに、嵯峨源氏に限らず、ほぼすべての賜姓源氏にあてはまることなのだが、彼らは世代が下るにつれて天皇との等身も離れていき、どんどん身分は低くなるという宿命を抱えていた。なので、それを見越して別の生業を見つける人も当然でてくる。昇の息子・仕は関東で土地を開墾し、土着化。武士の走りとなり渡辺姓を名乗るようになり、さらにその子こそが酒呑童子や鬼退治で有名な渡辺綱。ちなみにその渡辺綱は源頼光に仕え、頼光四天王の一員としても知られているが、頼光の方は清和源氏の出自で、摂津を本拠としたことから摂津源氏といわれる。

ちなみに「しのぶもぢずり」とは陸奥の信夫郡で生産される文知摺という乱れ模様のこと。
この歌は忍ぶ恋の代表格といわれ、『伊勢物語』にも引用されている。

【小倉百人一首】13:陽成院

2014年06月07日 03時55分16秒 | 小倉百人一首
陽成院

筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

57代天皇。
少しさかのぼって解説すると、陽成天皇の祖父・文徳天皇は、彼を皇位につけた功労者であり、当時の最高権力者だった藤原良房の圧力により、皇太子の地位を寵愛していた女御(紀氏)との間にできた皇子(惟喬親王)ではなく、藤原氏の女御との間に生まれた惟仁親王にさせられた。惟仁親王はまだ生まれたばかりなのに、である。
この時点で良房は外戚として権力の絶頂にあり、天皇といえどもその顔色をうかがわなければならないほどだった。

858年、文徳天皇が崩御すると惟仁親王が9歳で即位して清和天皇となる。そしてその8年後には人臣として始めて藤原良房が摂政となり、天皇に代わって政務をつかさどる立場を不動のものとした。ちなみに摂政とは幼年の天皇に代わって政務をとる役職なので、すでに清和天皇が成人だったにも関わらず摂政となったことからも良房の影響力の巨大さがわかる。
その清和天皇は27歳で譲位して9歳の陽成天皇が誕生する。この時には良房はすでに亡く、養子でその権力を継いだ藤原基経が後見する。

藤原摂関政治の一番の特徴は、天皇に自身の娘を入内させ、男子が生まれれば天皇を退位に追い込み幼帝を即位させて意のままに操るというところにある。そのため娘三人を三代の天皇(後一条、後朱雀、後冷泉)にそれぞれ入内させることに成功した藤原道長は文字通り摂関政治の絶頂にあったが(道長自身は関白になってないが)、そのあとを継いだ藤原頼通は一人娘を後朱雀天皇に入内させたものの男子が生まれなかったため、影響力の薄い後三条天皇の即位以後、権勢が衰えていく。

さて、陽成天皇の母(つまり清和天皇の皇后)も藤原氏出身の高子という女性で基経の実妹にあたる。
ただし藤原基経は多くの女御を清和天皇に入内させているので、もしかしたら高子とは仲が悪く、なんとしても別の男子を次の天皇にしたかったのかもしれない。

その傍証となるかわからないが、基経と陽成天皇とはよっぽど相性が悪かったらしく、しばしば出勤拒否を起こして政治を混乱させたりしてるし(陽成天皇の即位と同時に基経は摂政になっている)、陽成天皇の女御の中に藤原氏の女御は一人しかいない。もっとも、正式な皇后がいないという奇妙な事実もある。
ちなみに摂関政治とさらっと書いたが、関白という役職は元々存在せず、この基経が史上初の関白就任者である。なので厳密にいうと摂関政治を確立したのは基経ということになる。以後、関白が公卿の最高位に位置する。

即位した陽成天皇だがなんと基経に退位させられた。
原因は内裏内で起きた前代未聞の殺人事件である。被害者は源益という官人で、この人は陽成天皇の乳母の子である。死因は殴殺と伝わっている。ただし事件の真相は闇の中で、犯人が誰かはわからないのだが陽成天皇が犯人ではないか、という噂は当時からあった。というのも陽成天皇は人・動物とわず残忍な仕打ちをしていたからだ。

かくして陽成天皇は在位7年半、わずか17歳で上皇となった。
皇太子はいなかったため、基経が他の公卿たちに次期天皇を誰にするか諮ったとき、嵯峨天皇の皇子で臣籍降下していた源融が「おれにも資格がある」と主張したが臣籍降下した人の即位は前例がない、として退けられた(ちなみに臣籍降下した人を皇族に戻して即位する例は後にある)。
藤原氏全盛の時代に見えるが、実は嵯峨天皇は皇室の藩屏として多くの息子たちに源姓を与えて臣籍降下させている(これが嵯峨源氏となる)。臣籍になれば皇室で養う必要もないし、普通の貴族として藤原氏と同列に政治に参加させやすいからだろう。つまりこの頃はまだ藤原氏と公家源氏が火花を散らしていた時代である。

同様に陽成天皇の息子にも臣籍降下した人がおり、その中では百人一首に入選している元良親王や源清蔭が歌人として有名になった。
源氏といえば後に源頼朝など有名武門を輩出した清和源氏は、清和天皇の皇子(親王)の子の代が臣籍降下して始まったというのが通説だが、この陽成天皇の子孫からはじまったという説もある。根拠としては清和源氏出身で河内源氏の祖となる源頼信が岩清水八幡宮に納めた願文の中に、先祖を

 清和天皇━陽政天皇━元平親王━経基王━源満仲━源頼信

と記載しているから。ちなみに清和源氏が出自であるのを主張しているのは源頼朝。
なぜ陽成源氏と名乗らないかといえば、上述のとおり不名誉な退位の仕方をしたからだ。この論争はいまだ決着が着いていない。

退位した陽成上皇はその後なんと65年も上皇として余生を送る。この記録は歴代ぶっちぎりの1位で、崩御したときは自分より5代あとの村上天皇の治世だった。

【小倉百人一首】12:僧正遍昭

2014年06月07日 03時19分28秒 | 小倉百人一首
僧正遍昭

天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

桓武天皇の孫にあたる。出家前の俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。父の代で臣籍降下している。
その父・良岑安世は武人としても活躍し、嵯峨天皇期に中納言となっている。
ちなみに嵯峨から仁明までの時代は唐風文化の全盛期で、特に嵯峨は漢詩に優れた人物を多く登用している。百人一首の歌人の中でこの時代(平安初期)に活躍した人物が極端に少ない理由はあるのである。
また、安世は嵯峨から勅撰詩集の選進も命じられている。それが三番目の勅撰詩集である『経国集』。

30代の半ばで、仁明天皇の崩御に伴い出家(天台宗)、それまでも優れた歌を残しているが、出家後は作風が変わる。

六歌仙の一人に数えられてるので紀貫之の評を見ると

 歌のさまは得たれどもまことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたずらに心を動かすがごとし。
(歌の”さま”はよいが真実味にとぼしい。たとえれば絵に描かれた女を見て心を騒がすようなものである)

と相変わらずの酷評。ただし百人一首に入選したこの歌は出家前に詠んだもので、真情がとぼしくはない。

それとこの遍昭は三十六歌仙の一人の数えられている。
実は以前にとりあげた柿本人麻呂山部赤人猿丸大夫大伴家持小野小町も三十六歌仙で、これ以降に紹介する人も何人か入っている。三十六歌仙とは平安時代中期に藤原公任が『三十六人撰』で選んだ36人の平安時代の歌人のこと。
ここから後に三十六歌仙が時代別・カテゴリ別に選ばれたりと派生が生まれるのだが、一番面白いのは戦国大名・細川忠興がトータル36人の家臣を手打ちにした刀の銘を、その人数にちなんで歌仙と名づけたところだろう。父・藤孝が古今伝授という、『古今集』の秘伝を受けるほどの優れた文化人であったことを思うと皮肉としかいいようがない。

【小倉百人一首】11:参議篁

2014年06月07日 01時26分21秒 | 小倉百人一首
参議篁

わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね

本名は小野篁。
平安時代前期を代表する人文の巨人で、小野小町の祖父という説もある。
父・岑守も公卿であり名門の家であるが若い頃は学問をしなかったため父や嵯峨天皇を嘆かせている。
その後一念発起したのか、漢詩においては並ぶものがないほどの腕前を磨き、書でも当代一流の書家として名をはせた。
また、『令義解』という法律解説書の制定にも携わっており、法学者としても非常に優秀だったことがわかる。

さて、この時代(嵯峨天皇期)は藤原氏が摂関政治を完成させる前夜で嵯峨の先代の平城上皇が薬子の変という騒動を起こしたりしたものの、まだ天皇の権力が強い時代であったが、やがて貴族間の血で血を洗う抗争というか暗闘が繰り広げられる。もっというと藤原氏が他氏の排斥を行いだすのだが、これが篁も無関係ではない。

その前に当時の皇統を説明すると、兄である平城天皇から天皇位を次いだ嵯峨天皇(52代)はさらに弟(淳和天皇)に天皇位を譲り、その淳和天皇(この天皇が『令義解』を作らせた)は今度は嵯峨天皇の息子である仁明天皇に天皇位を継がせた。ちなみにこのときまだ嵯峨上皇は健在で最も権威があり、篁は遣唐使を非難する歌を作ったために嵯峨の怒りを買い、隠岐に流罪にあったりしてる。
この歌は隠岐に行くときに詠んだ歌といわれ、語る相手が名もなき釣り船の人しかいない寂しさをかもし出している。

そして仁明天皇は今度は淳和天皇の息子である恒貞親王を皇太子に指名し、次代の天皇にしようとした。篁はこの恒貞親王の東宮学士(教育係)となっている。
が、840年に嵯峨上皇が崩御した直後のタイミングで恒貞親王につかえる橘逸勢(嵯峨天皇、空海と併せて三筆)や伴氏一族(元々大伴氏だったが淳和天皇の諱が”大伴”だったため忌諱して伴氏に改姓した)ら多くの官人がクーデターを企てた嫌疑をかけられて政界から葬られた。おまけに無実の恒貞親王も責任をとらされて廃嫡になり、仁明天皇の息子である道康親王が皇太子となった。この政変を当時の年号をとって承和の変という。
この変の首謀者は、皇位を恒貞親王ではなく道康親王に継がせたい嵯峨上皇の皇后(当時は皇太后)である橘嘉智子と、道康親王の義父である藤原良房という説がある(ちなみにクーデター計画を橘嘉智子に知らせたのは在原業平の父・阿保親王)。確たる証拠はないのだが、橘嘉智子が当時中納言に過ぎなかった権謀術数の天才・良房に謀反の鎮圧を相談したという不自然さ、そして良房がこれを機に摂関政治の礎を築いたことからこの説は有力である。実際、変の6年前(承和元年)の時点では良房は公卿の末席に過ぎず、朝臣のトップである左大臣が式家の緒継で、中堅には嵯峨源氏がずらりと並んでいたのだが、この後他の先輩公卿をごぼう抜きして良房は出世していくのだ。
ちなみにクーデターを企てたとされる一味の処罰は仁明天皇の命令による。

で、篁は今度は道康親王の東宮学士になったのだからおそらく政治的には中立で、その能力は相当高く評価されていたことがわかる。

そして846年に善訴訟事件という異色の政治事件が起きた。

事件の発端は法隆寺の僧・善が同寺の壇越である登美直名(少納言)を告訴したことに始まる。告訴の内容は登美直名が寺の財産で私腹を肥やしていた、というもの。この訴えは朝廷の総務ともいうべき弁官局に出され、5人の弁官が登美直名の有罪判決を下したのだが、この審理に加わっていない弁官であった伴善男は、そもそもこの審理の手続きから結審までの処理を法律違反であるとして告発したのだ。まさに裁判官が裁判官を訴えるような事件なのである。
この訴えの内容は当時の法界を知るうえで非常に興味深い内容。肝心の伴善男の主張は、厳密に法に照らせば確かに正しいが、弁官や善たちにしてみれば「そんなの慣例だろ」といいたくなるような、揚げ足取りに近いものだった。
しかも、彼らの罪は当初公罪(職務上のミスによる罪で罰は軽い)となったのだが、伴善男は私罪(こちらは非常に重い罰を受ける)であると主張し、法の権威ともいうべき篁が伴善男の主張を是としたため5人(ただし1人は当時死去していた)の弁官は職を解かれることになった。

この後に起こる応天門の変とあわせてこれを承和の変で失脚した伴氏の、藤原氏に対する挑戦とする見方もあるのだが、脱線が長くなるのでこれ以上は他の機会に書こうと思う。

最後にもうひとつ余談を書くと、上で書いたとおり淳和天皇の諱が大伴と書いた。諱とはすなわち名前であり、それに姓のような名をつけるのは奇妙に見えるが、この時代まで乳母の苗字を自分の諱にするのがわりと普通であり、嵯峨天皇の諱の神野や、称徳天皇の安倍、桓武天皇は山部などいくつかある。それだけ乳母の影響は大きかったということである。

【小倉百人一首】10:蝉丸

2014年06月07日 01時08分02秒 | 小倉百人一首
蝉丸

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関

平安時代の歌人……ということ以外は不詳な人物。
ただし『今昔物語』などには登場してるので実在の可能性は十分高い。
どういう経緯かわからないが百人一首の絵柄では特徴的なためか、何かしら特別なカード扱いになっている。

歌にあるあふ坂の関とは逢坂の関所のこと。この関所は山城国と近江国の間に存在した関所で京の東側の防衛線となっている。平安時代に三関のひとつとして数えられ(残りの2つは鈴鹿、不破)枕草子でも書かれているし、多くの文学・日記等に登場する。ちなみに逢坂が三関のひとつになったのは平安時代からで、それまでは越前の愛発が含まれていた。
飛鳥時代から室町時代まで設置されたり廃止されたりを繰り返されているのだが、現在は正確な場所は不明となっている。

ちなみに関は軍事基地の役割も担っており、政変が起きるたびに各関所で戦闘準備命令が下されている。また、天皇の代がかわる際には固関使が差し向けられて守りを固める。

この歌には

これ⇔この
行く⇔帰る
別れて⇔あふ
知る⇔知らぬ

と4つの対句が用いられたテクニカルな歌になっている。
この面白さが印象に残って選ばれたのだろうか。