ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

板宿八幡神社・長田神社

2015年02月05日 13時27分22秒 | 訪問地周辺散策

舞子浜の宿からから新長田に向かいました。長田では阪神淡路大震災の被害が大きかったところで、その復興が注目されており、前2回はそこを中心に散策しましたが、今回は周辺を散策してみました。一つは「飛松」伝説の板宿八幡神社です。新長田から市営地下鉄で一駅の板宿の近くにあるということで出かけてみました。地図も持たない散策なので、タクシーに乗って向かいました。タクシーの運転手さんに学校の脇のところですねと言われました。学校は高校の女子駅伝で有名な須磨学園でした。いずれもちょっとした山の中腹にありました。

太宰府天神で飛梅を見てから「飛松」について興味を持つようになり、調べていくうちにこの神社にたどり着きました。神社内は庭や階段など綺麗に手入れをされており、当日も宮司さんにつかえている折田要蔵様から飛松について聞いたところ親切に由緒書きとお菓子の「やくさるせんべい」をいただきました。会社に翌週会社に出勤したところお手紙もでいただきました。ご返事は出せませんでしたので、ここでお礼を言わせていただきます。どうもありがとうございました。

ということで、

★ランドマーク板宿八幡神社:由緒書きによると「当神社は菅原道真公が九州左遷の際宿泊されたゆかり地に、永延元年(九八七年) 一月、菅公と武神八幡大神を鎮守神として創祀され、更に明治四十一年に池之宮明神(別名鳴滝明神)が合祀されました。 九〇一年(昌泰四年)菅公が太宰府への赴任の途上立ち寄られ、板で囲った簡単な宿泊所を設けたことからこの地を「板宿」と呼ばれる由縁となり、更に菅公が京で大切にされていた桜は枯れ、梅は、旅の途上香りをとどけ続けてくれた。

しかし松は情け知らずだと、 「 梅は飛び桜は枯るる世の中に  何とて松の つれなかるらむ  」と、詩を詠まれると一夜にしてこの地に松が飛来してきました。 

当神社周辺の「飛松町」「飛松中学校」等の名はこの伝説にちなんだものです。

 「飛松」は、高さ三十メートルもあったとされ、紀淡海峡を渡る船人はこの「飛松」を目標にして針路を定めていたそうです(「西摂大観より」)。書物では「摂陽群談」(一七〇一年)等に紹介されており、大変立派な松であったことが伺われます。大正時代には、大きな樹木ゆえに数回の落雷にあい、枯死し、現在は切株が天神社に奉斎されており「太宰府の飛梅」と並んで「板宿の飛松」と慕われています。

 

 池の宮明神(別名鳴滝明神)の御祭神は大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト) で大照大御神の別名と言われています。現在の明神町一丁目に鎮座され、社格は村社(村を代表するお社)で、境内敷地は一ヘクタール余りもあったそうです。お社の東側にはたびたび氾濫していた妙法寺川(鳴滝川)が流れており、水田が多かったこの地域では、産業や治水の神様としてお祀りされていたと思われます。明治三十七年に、神職不在のお社や基本財産不足のお社の合祀をうながす法令が出され、明治四十一年に当神社に合祀されました。

 当神社は板宿の氏神様として崇敬されておりますが、主祭神八幡大神様は、厄除けの他、武神・武運の神としても崇敬されており、長い石段や山道で足腰を鍛え、スポーツ・人生等の勝利を願う参拝者の方もいらっしゃいます。また、池の宮明神様は産業の神・飛松天神様は学問の神・末社のお稲荷様は商売繁盛の神として崇敬されております。」とありました。

一方、これらのものは後世の創作であり本来は、板井戸村がなまって板宿になったと考えられています。板宿の豪農である平清盛の息子、宗盛の子孫とされている秋顕氏がいるが本来は古代豪族の石上氏より分れた秋顕氏が正しいものであるが、平氏ではなく源氏の源頼朝に関わりの深い寺社となっています。本来は、長田から板宿にかけて鎮守神は長田神社だったということです。

こちらは末社の稲荷大明神です。帰りは長い階段を歩いて下りて板宿駅に向かいました。途中の住宅の門にネコさんが座っていました。

地下鉄で新長田を通り過ぎて長田(長田神社前)まで行って長田神社に向かいました。

★ランドマーク長田神社長田神社(ながたじんじゃ)は、兵庫県神戸市長田区長田町に位置する神社。旧社格は官幣中社。廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる。生田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の一つ。宝物庫はひょうごっ子ココロンカードの無料対象になっている。

横断幕に出ている長田神社の追儺式は県の無形民俗文化財に指定されています。前日に行われたようです。この祭事は室町期より執行されており、追儺式神事神の使いを務める7匹の鬼が松明の炎で種々の災いを焼き尽くし、太刀で寄り来る不吉を切り捨て、1年間の無病息災、家内安全を願って踊るそうです。鬼は、前日より厳重な精進潔斎し、また当日早朝には須磨の海岸で身を清めた上奉仕されるということです。本殿の前では前日の片づけが行われていました。境内には大きなクスノキが数本ありました。

本殿の後ろには楠宮稲荷がありその後ろに大きなクスノキが茂っていました。

境内をネコさんが一匹闊歩していました。

帰りは八雲橋から駅に向かいました。

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柿本神社・月照寺

2015年02月05日 09時18分54秒 | 訪問地周辺散策

明石市と新長田の施設には3回目の訪問です。いつもの新幹線からの富士山です。快晴ですっきり見えました。最初の明石では、いつも明石城跡がメインで散策しましたが、今回は山陽電車で一駅人丸前駅に向かいました。ホームにこんな表示がありました。南側にまかって書かれているのを見つけました。

振り返って北側を見ると巨大な時計塔が建っています・・・これは明石市立天文科学館で、ちょうど時計塔を子午線が通るように建てられています。時計塔に書かれている「J.S.T.M」と言うのは Japan Standard Time Meridian の略で、日本の標準時子午線という意味です。

今回の目的は柿本人麻呂を祀った神社でしたが、思わぬ収穫でした。神社に向かうと

墓越しに天文科学館が見えました。すぐ裏が柿本神社でした。階段を昇ったところにあった梅の木はまだつぼみでした。水仙が咲いています。山門です。

神社のHPによると「当社御祭神柿本人麿公は、飛鳥時代宮廷に仕えた歌人で、万葉集、古今集など合わせて400首以上の歌が載せられております。

「天離る 夷の長通ゆ 恋ひ来れば
            明石の門より 大和島見ゆ」

など明石で詠まれた歌もあり、元和六年(1620年)当時、明石城主であった小笠原忠政公が人麿公を歌聖として大変崇敬され、縁深いこの地にお祀り致しました。
 主なご神徳は、学問・安産・火災除、更には妻に捧げた歌も多くあり、非常に愛妻家であったことがうかがえる為、夫婦和合の神としてもお祀り致しております。御命日とされる旧暦3月18日(現在では4月の第2日曜日)には、本神輿に子供会の神輿も加わり、計5基のお神輿が練り歩き、境内は多いに賑わいます。」と書かれています。

ウイキペディアによると:「人麿(ひとまる)」を「人生まる(ひとうまる)」と解し安産の神としてや「火止まる(ひとまる)」と解し火防の神としての信仰もあるそうで、嘉暦2年(1327年)に著された『人丸縁起』によると本地仏は十一面観音で、その像は旧別当寺として隣接する月照寺に祀られているとのことです。

ただし創祀の事情に関しては、人麻呂が水死させられたという説があるので本来は非業の死を遂げた人麻呂の怨霊を慰めるために祀られた可能性、あるいは『古今和歌集』に詠み人知らずの歌として「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という歌が載せられ、左註に「ある人」の言として作者は人麻呂であるとされ、神社ではこの歌を縁起として重視していることと、人麻呂が文武天皇から下賜された船乗十一面観世音の仏像が大和国の柿本寺という寺にあったのを覚証が迎えて楊柳寺の奥の院に祀ったところ仏像の胎内から『和歌秘弁抄』なる書物1巻が出たとの伝承があることから、和歌を含めた秘事口伝が重んじられるようになった時代に「ほのぼのと」の歌が人麻呂作と信じられ、そのことが直接の契機となって神社が創祀された可能性が考えられる。」とありました。本殿です。御神木は筆柿の木です。

狛犬蠟梅が咲いています。

八房の梅はまだつぼみでしたが、こんな風になるようです。隣の照月寺に向かうので表に出ると、子午線標示柱がありました。

こちらが月照寺です。お寺のHPによると「今を去る1200年ほどの昔、弘仁2年(西暦812年)弘法大師 空海が明石の岡、赤松山(現在の明石城祉)に湖南山 餘鵜楊柳寺を創建した。仁和3年(西暦887年)楊柳寺覚証和尚は、大和の柿本山 広安寺より人麿念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して奥の院に奉祀し、寺号を月照寺と改めた。天正2年(西暦1574年)真言宗から曹洞宗に改宗。元和7年(西暦1621年)明石築城によって境内が城地となり、翌8年(西暦1622年)人丸社、月照寺の新殿が現在地に竣工した。延享元年(西暦1744年)山号を人麿山と改め、明治4年(西暦1871年)神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となった。
 その間、江戸時代には太平が続き、歌道が栄え、人麿信仰が高まり、享保8年(西暦1723年)人麿1000年祭には人丸社に、「正一位 柿本大明神」の神位神号が宣下せられ、当寺は永代勅願寺となり、霊元上皇から三十六歌仙式紙(明石市指定文化財) 桜町天皇から一座短籍(旧国宝・重要文化財)後桜町天皇から短籍等が奉納され、その後も文人墨客の来訪絶えることなく、書画の寄進も多い。それらの大部分は、明石市立文化博物館にて保存されています。 昭和47年(西暦1972年)には、人麿1250年祭が盛大に行なわれ、全国より和歌、俳句が夥しく献詠せられ、尚、月照寺々伝、万葉人の自然観、 芭蕉俳論等大部の出版がなされた。」と書かれています。こちらにも八房の梅がありました。五葉松です。山門と奥が鐘楼です。階段を裏道に出ました。近くに亀の水がありました。柿ノ本神社・月照寺の西参道の入り口にある明石・亀の水は、人丸山から涌き出る霊泉が亀の口から流れ出ています。
1699年に、柿本神社への西の参道が造られた時、人丸山上に水がないため、手水鉢として設けられたのが始まりだそうです。

ここから歩いて明石に戻りました。城跡に入る余裕がなかったので、濠で白鳥とゆりかもめを撮って(再会して)仕事に向かいました。

 

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