ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

小石川後楽園

2014年09月19日 22時52分42秒 | 近郊地散策

今年も彼岸花の季節でどこかに行きたいと思っていました。ネットで、近場の名所と検索したら小石川後楽園が載っていたので、曙橋の鍼灸治療途中で寄ってみました。

 都の案内によると、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の上屋敷の庭園として造ったもので、二代藩主の光圀(みつくに)の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、民の儒者である朱舜水(しゅしゅんすい)の意見をとり入れ、中国の教え岳陽楼記(がくようろうき)の「(士はまさに)天下の憂(うれい)に先だって憂い、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」から【後楽園】と名づけられました。
 庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園(かいゆうしきつきやませんすいていえん)」になっており、随所に中国の名所を名づけた景勝を配し、中国趣味豊かなものとなっています。そして、これらによって湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
 この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引き入れ築邸されました。また光圀の儒学思想の下に作庭されています。
 なお、後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立公園では浜離宮とここの二つだけです。全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院。奈良県の平城京左京三条二坊宮跡、広島県の厳島を合わせ7ヵ所だけです。とありました。

案内版。

入り口を入ったところで、東京ドームと東京ドームホテルが見えます。彼岸花はなかなか見つかりません。京都再現した庭園のようです。流れの向こうに見えるのは渡月橋だそうです。

これは得仁堂。この建物は、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した堂です。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。。小廬山:一面オカメザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたものだそうです。そのザサのなかに咲いていました。こちらは大泉水です。桜の木の下に咲いていました。大泉水は、この庭園の中心的景観。蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたといわれています。

左手奥に入って行くと円月橋です。光圀があつくもてなした明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋。水面に映る様子と合わせると満月のように見えるので、この名がつけられました。

少し群れた彼岸花がありました。傍にはカラスがこちらは神田川跡です。

田んぼにでました。。庭園の中に稲田があるのは、後楽園だけでしょう。これは農民の苦労 を、水戸光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようと作った田圃で、現在は毎年、文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りをしています。光圀公のかかしが立っていました。

こちらは内庭です。水戸藩の書院の庭としてあった所で、昔は唐門をへだてて、大泉水のある「後園」と分かれていました。江戸時代は「うちの御庭」と呼ばれた、池を中心にした純日本式の庭園。昔の姿をそのままとどめているといわれます。

ということで、彼岸花にはあまり会えませんでしたが、初めての小石川後楽園えお見ることができて幸いでした。前に、岡山の後楽園も見ています。

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洗足池

2014年09月17日 23時52分55秒 | 訪問地周辺散策

大岡山の施設に出張でした。いつも施設に直行・直帰だったのですが、少し周辺を散策してみました。近くに洗足池があるとわかったのですが、大岡山から洗足池までは1km近くあるので往復大変だということで、東急の池上線と大井線をうまく乗り継ぐことを考えてみました。まず、五反田から池上線で洗足池へ行き、帰りは旗の台で大井線に乗り換えて大岡山に行きました。帰りは目黒線と三田線で内幸町に着くことができました。ということで、洗足池です。

公園について、 池のほとりにある大田区の案内には、次ぎのとおり書かれています。
区指定名勝 洗足池
洗足池は、 武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、 昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水としても利用されました
 池畔の風景は優れ、 江戸時代には、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていました。  昭和3年(1928)に池上線が開通すると、公園として整備され、 同5年には風致地区として指定されました。
面積は、 周辺を含めると約67,000㎡、 水面の広さは約40,000㎡です。 日蓮が足を洗ったので洗足池というとか、袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの松のある御松庵など、日蓮にまつわる伝承も残されています。  また池畔には この地を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛(南州)の留魂祠・詩碑などがあります。
池の西北部一帯は桜山と称し、桜の名所で、 区内有数の景観に富むところとして貴重です。
        昭和50年3月19日指定     大田区教育委員会

ほとりに咲いていた芙蓉です。また大田区の紹介では「北千束の清水窪湧水などを主な水源とする都内屈指の広さを有する淡水池のある公園です。江戸時代、歌川広重の名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』にも描かれた水辺の景観の面影を今も残しています。春はサクラでにぎわい、秋には紅葉を満喫することができます。生物に目を向ければ、冬は渡り鳥の楽園となり、夏には水辺を飛び交うトンボなどの姿も見られます。散策スポットとしては、池月橋、水生植物園のほか、歴史を伝えるものとして勝海舟夫妻の墓、西郷隆盛留魂碑、徳富蘇峰詩碑、名馬池月像などがあります。また、ボート(有料)もあります。」とありました。

鴨が結構いました。太鼓橋の手前にはカラスが止まっていました。この三連太鼓橋は池月橋というらしいです。

太鼓橋を渡ると千束八幡神社(八幡宮)です。神社の前にこんな由緒書きがありました。少し奥に入ったところに馬の像がありました。これが池月のようです。池月とは源頼朝が所有していた愛馬の名前。頼朝がこの地に宿営していた時、何処からともなく現われた逞しく美しい馬を気に入り、池月と名付けて自らの乗馬としたのでした。どうもこの

社は、 弁財天が祭られている小島弁天島らしいです。時間がないので訪問施設に向かいましたが、池と八幡宮の間にある赤い鳥居はどちらを祀ってあるのか迷いました。八幡宮側から撮ったものです。写真を撮っていたら、鳥居をくぐって八幡宮にお参りする女性が通りました。池側から神社に向かっていました。

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佐賀城・佐嘉神社・唐津城

2014年09月11日 21時24分08秒 | 訪問地周辺散策

佐賀を少し見たいと計画した今回の出張ですが、なかなか大変でした。熊本駅で出会った新幹線のツバメです。熊本を10時の新幹線で新鳥栖で特急に乗り換えて佐賀に付きました。佐賀市ではこれまでに行けなかった佐嘉神社に寄ってみました。幕末の名君、佐賀鍋島藩10代直正、11代直大藩主を祀る神社です。藩主直正は、国内初の反射炉、大砲カノン砲、アームストロング砲などを作り、近代日本の幕開けに貢献。その功績を称え別格官幣社として祀られています。初詣の時期には、多くの参拝客でにぎわいます。本殿です。神社内にいろいろと他の施設もありましたが、ここだけはと寄ってみました。荒神さんは台所の神様ということで、大竈がありました。ほとんどお参りしませんが、ろうそくを立てて安全を願いました。台所に関する仕事をさせてもらっているものとしては、しっかりとお参りしないとと思って参拝しました。後、松原神社は安永元年(1772)6月1日創建、鍋島家の始祖鍋島直茂命を奉祀し『日峯大明神』と号し、文化14年(1817)9月祖父鍋島清久命、直茂公室彦鶴姫命を合祀、さらに明治5年に第一代藩主鍋島勝茂命を合祀し、『松原神社』と改められました。
明治6年(1873)この御神殿の北側に新たに神殿を造営して龍造寺家をおまつりするようになり、一般に龍造寺家を松原神社北殿、鍋島家を松原神社中殿というようになりました。

佐賀には河童伝説があるようで、いろいろとありました。こちらは松原神社のようです。大クスノキ、白磁の鳥居です。鳥居には明治の賢劫が刻まれていますが、もともとは400年くらい前に作られたものらしいです。

ここから佐賀城跡までは900mということで、とぼとぼ歩いていきました。前にも見ましたが、昔から残っている建築物です。

佐賀城には天守閣もあったらしいですが、本丸を復元しています。

天守閣は左手の石垣の上にあったようです。訪問施設の近くの川です。来る度によりますが、カッパさんがいます。土手には彼岸花がさいていました。今年最初に見る彼岸花です。

仕事を終えてから唐津に向かいました。1時間ちょっとかかって着いたら5時近くでした。とりあえず唐津城と思ってタクシーでいきました。運転手さんにどこかほかにも見るところがありますかと聞きましたが、もうどこも閉まっているよと言われて城だけとなってしまいました。

唐津市のHPによると「唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602)から7年の歳月を費やして築城されました。東西に伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。唐津城築城当初は、天守閣はありませんでしたが、昭和41年に文化観光施設として天守閣を建てました。 天守閣内は郷土博物館になっており、唐津藩の資料や唐津焼などが展示され、唐津の歴史に触れることができます。また、展望所からは玄界灘と虹の松原の雄大な景観や、松浦川と城下町唐津の風景をご覧いただけます。」とかかれていました。

城に登るくエレベーターがあり5時までだったのですが、ちょうど5時についてエレベーターに乗ることができました。エレベーターに向かう途中にネコさんに出合いました。忙しそうに動きまわっていました。城のところに着きました。城は土台の石垣を工事していました。帰りは階段をよちよち降りてきました。330段ほどあるそうです。降りたところにまたネコさんが、こちらはのんびりと寝ていました。

呼びかけて目を開けてもらいました。帰りがけに振り返ってみた唐津城です。

唐津から福岡空港行きに乗りましたが、こちらは1時間30分以上かかってようやく着き、20時45分の羽田行で帰ってきました。乗り疲れた一日でした。

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熊本城、2014年9月訪問

2014年09月10日 23時00分31秒 | 訪問地周辺散策

熊本と佐賀へ5年間で3度目の訪問です。前2回は佐賀から熊本のコースで佐賀市には3時間ほどしか滞在していませんでしたので、今回は熊本から入って佐賀で少し時間を使うつもりでコースを変えてみました。熊本行の飛行機は富士山のほぼ真上を飛んでいました。雪がなく地肌が痛々しいほどです。熊本に降りるときに阿蘇山ではないかと撮ってみました。

熊本ではあまり時間があないので、施設訪問前に熊本城に寄ってみました。御幸橋の手前に熊本城を作った清正像があります。

前回は気が付きませんでしたが

本丸の下にある宇土櫓です。唯一残る多層櫓だそうです。

天守閣のあるところまで行ってみました。

前回中に入ったので今回は外から見学するだけでした。

背景の雲の動きがなかなか面白かったです。

熊本城は銀杏城と呼ばれるらしいですがその由来となっているイチョウの木です。清正公が築城の際に植えたと伝えられ、また、清正が亡くなるときに、「この銀杏の木が天守閣と同じ高さとなったときに、何か異変が起こるであろう」と予言し、それが奇しくも明治10年(1877年)の西南戦争のときであったとも言われています。
清正は銀杏の実を食料とするために、この木を植えたとよく言われますが、残念ながらこの木は雄の木で実はつけないそうです。現在の木は西南戦争で燃えたあとに、芽吹いた脇芽が成長したもので、130年でこれだけの大きさに成長したということです。

六地蔵憧(ろくじぞうどう
です。石の六角灯篭の傘の下の龕部(がんぶ)と云われる各面に地蔵尊像を彫刻したものです。人間は死後、六道をまわるとされており、その六道の辻に立って救済するために作られたそうです。こちらは不開門です。

西南戦争の戦禍でも残った櫓群は、国指定の重要文化財に指定。

熊本城本丸内東竹の丸には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されています。
南から田子櫓(たごやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)、源乃進櫓(げんのしんやぐら)、少し間を置いて東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)、北十八間櫓(きたじゅうはちけんやぐら)、五間櫓(ごけんやぐら)、不開門(あかずのもん)、平櫓(ひらやぐら)と続きます。

ここから見る本丸は、石垣に守られ攻めるのを難しく感じさせます。

熊本城を出て、坪井川を渡ったところに山崎菅原神社がありました。

山崎菅原神社は延久二年(1070)に創建され、古くより学問の神様として知られるなど、篤いご崇敬を集めているとのことでした。

こちらは旧代継宮跡の大クスノキです。

熊本城の南、中心市街地の一角にある花畑公園内に立っています。

花畑公園のある場所は、もともと加藤清正が熊本城を築いたときに城外に広大な御殿を設けた場所で、庭には種々の花木や草花が植えられていたため花畑御殿と呼ばれていたそうです。
この旧代継宮跡の大クスノキは推定樹齢600〜700年といわれています。

仕事で施設を訪問したときに、熊本城の夜景と満月がきれいだと教えてもらったので、夜にも出かけてみました。

ちょっと雲がでてしまい朧月になってしまいましたが、結構幻想的でした。

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上野毛・五島美術館・覚願寺

2014年09月08日 22時55分18秒 | 訪問地周辺散策

世田谷区上野毛にある施設を訪問しました。少し早めに着いて、近くにある五島美術館に行ってみました。残念ながら今日は定休日で入れませんでした。美術館は東急大井町線の脇に建っています。この橋からは富士山が見えるようです。

駅に戻る途中で坂のある道路の向こうで、こんなものを見つけました。興味本位で行ってみました。しかしそこは何もない公園でした。高台にあるので、奥にいってみたら下への階段が続いていました。さらに階段がこれ以上降りると上るのが大変なので引き返しました。運悪く桜の木の下で、手首のところを蚊に刺されてしまいました。隣にはお寺さんがあるようなので、向かってみました。覚願寺でした。中は幼稚園になっているらしく、門は閉ざされ、門の前にはスクールバスが置いてありました。

ほとんどのお寺さんを踏破していると思われる「猫の足跡」さんのHPによると世田谷区教育委員会掲示には

【自性山聖徳院覚願寺と称し、真言宗智山派に属する古刹である。「新編武蔵風土記稿」には、「此寺元は村の西の方台の下にありしが、いつの頃か此所に移せし」とのみあり、その創建の時期を明らかにしていない。しかし、文禄三年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」には覚願寺の名が見えており、この頃寺地が確定したと考えられる。本尊は大日如来で、脇仏として弘法大師と興教大師が祀られている。
なお、享保六年(1721)の「両大師造立帳」(当寺所蔵)には聖徳太子像(木像漆塗、江戸時代現存)が本尊であったことが記されている。当寺の院号が「聖徳院」と称されているのはこのためであろう。その後、大日如来像が本尊とされたようで、現在もこの大日如来像が当寺の本尊となっている。文政七年(1824)には、本堂が大破したため大修理を行った記録が残されている。
現存する本堂、観音堂は、天保年間(1830-1843)に再建されたものである。総門は、昭和六十三年に造営された。】と書かれているようです。

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