土曜日は現役時代から参加している墨田区硬式テニス部の練習会が谷和原インター脇のコートでありました。腰痛で、練習とか試合はできませんが、ボール出しの要員で参加しました。天候に恵まれ真っ赤に日焼けをしてしまいました。野球場や陸上競技、体育館(奥の建物)などが整備されています。
隣の野球場では少年野球の練習会がありました。施設内を散策してみました。花は端境期であまり咲いていませんでしたが、
柵のところにユリが一輪清らかに咲いていました。後は百日紅に
花壇の花程度でした。
金曜日は曙橋の鍼灸治療院に通っています。治療院から見えるあけぼの橋商店街を散策してみました。あけぼの橋通り商店街
あけぼの橋通り商店街は、昭和32年4月住吉町商店会として発足し、同41年4月住吉町商工会に改名、現在に至っています。
都営新宿線の開通、フジテレビの開業により街は賑やかさを増しました。平成9年にフジテレビが移転し様子が少し変わりましたが、従来からの東京女子医大病院関係のお客様に加え、同12年12月都営大江戸線が開通、超高層マンション「河田町コンフォガーデン」(都市整備公団)等の建設、さらに放射6号線(道路)の整備により、住吉町商工会周辺は再び活気を取り戻しつつあります。こちらが河田町コンフォガーデンです。鍼灸治療を受けながらいつも眺めています。
途中に安養寺というお寺さんがありました。水子地蔵ということですがにこやかな顔をしていました。
さらに奥へ、女子医大の下に
こんな祠がありました。金弁財天です。
頑丈に金網で覆われていました。いろいろな御利益があるらしいです。写真を撮っていたらお参りの人が後ろで待っていたので早々に引き揚げました。
治療院は靖国通りに面しています。この春、歩道側が整備され植えられたムクゲが咲いていました。
上尾にある施設を訪問しました。近くに氷川鍬神社があるというので寄ってみました。鍬の字が入っているので、農業を想像して行ってみました。上尾のランドマークともいうべき施設です。
上尾は中山道の宿で発達した街らしいです。
こちらは今の中山道です。
神社の中にはいろいろなものがありました。
聖徳太子の碑です。
浅間大神。
上尾郷二賢堂碑。
由緒書きと
本堂です。
2日の午後は足利から1時間に1本のJRに乗って栃木に着きました。栃木は蔵の街と寺町でした。典型的な蔵には出合えませんでしたが、寺や神社は何軒か寄ってみました。
訪問施設の近くの、栃木のお伊勢さんの神明宮です。
神明宮・栃木のお伊勢様
応永10年(1403年)、栃木城内神明宿(現神田町)に創建されたと言われています。天正17年(1589年)正月16日、皆川広照により現在地へ移され、栃木町の総鎮守となりました。社殿は伊勢皇大神宮に倣い、神明造りです。明治5年(1872年)県社となりました。現在の拝殿はもと、中教院の講堂として明治8年(1875年)に造られたものを使用しています。栃木の地名は、この神明宮の屋根ぐしの千木(ちぎ)から出たとも言われており、同社に残る応永10年(1403年)、天正17年(1589年)、文禄2年(1593年)の神明宮棟札は市指定文化財(歴史資料)となりました。
少し離れたところに近龍寺がありました。
山本有三が眠る歴史あるお寺
応永28年(1421年)、良懐上人が、城内宿河原に創建したと言われる浄土宗の寺で、天正16年(1588年)現在地に移されました。中国の故事「鯉が三級の位になると龍になる」ということから
「三級山天光院近龍寺」と名付けられました。明治初期、栃木県最初の小学校(日惜舎)と師範学校が開設されました。境内には子育安産、学業成就の呑龍堂(毎月8日縁日)や文豪山本有三の墓があり、1月11日には有三の一・一・一忌として墓前祭が行われています。次は少し歩いて
満福寺ですこれは裏門で静かなたたずまいですが、
表は少し派手でした。
太子堂はまずまずですが本堂はあまり派手なので写真を撮る気にもなりませんでした。次は
定願寺は市の有形文化財に指定された天台宗の寺です。天正年間頃(1573~1592年)、川連村(現大平町川連)より、現在地に移された天台宗の寺で、本堂や鐘桜、山門、不動堂、弁天堂、安産地蔵堂などがあります。不動堂には、扁額と見事な彫刻がほどこされた扉があるが、扁額は亀田鵬斎の「不動尊」の書を木彫りしたもの、扉は北面の武士遠藤盛造が僧文覚となり、紀州熊野の那智滝で荒行する場面を彫った透彫りで、野州富田村(現大平町)の磯部儀兵衛の作と言われています。境内には、栃木市出身の第2代横綱綾川五郎次の墓があります。御成門の彫刻、不動堂の扉彫刻と扁額、平等庵の鐘は、昭和36年(1961年)に市指定有形文化財(彫刻、書跡、工芸品)となりました。と栃木市の観光案内には書いてありました。

隣に鐘楼がありました。これは平等庵の鐘です。帰る際に栃木の駅前にこんな碑が
ありました。これをお土産にした。たった一度というお菓子を買ってきました。
足利市と栃木市の施設を訪問しました。東武電車の特急で足利市に向かいました。
東武の足利市駅から渡良瀬川を渡って施設に向かいました。
途中に閻魔堂がありました。閻魔様は奥にいてあまり見えませんでした。施設の裏は山でイノシシが出るそうです。
イノシシが掘ったらしいところがありました。仕事を終えて次の栃木にある施設に向かいましたが、足利から栃木に行く電車は1時間に1本で、しばらく時間があるので、途中のうなぎ屋で昼食を食べて
JRの駅に向かいました。足利の施設は今回で3回目ですが、1回目にも寄った足利氏宅跡(鑁阿寺=ばんなじ)に行ってみました。西門から入ってみました。(方向感覚がなく東のつもりでした)
西の門と書いてあります。
最初に目立ったのはこれ
経堂でした。
次に目についたのは
不動堂でした。これは酉年の守り本尊ということで、酉年としては見ておかなければならないと思いました。いよいよ本堂です。
足利市の案内には「鑁阿寺は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりといわれています。 その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で、約40,000平方メートルあり、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。 境内には重要文化財の本堂など貴重な建物が多く、このことから大正11年に国の史跡に指定されています。」と書かかれていました。他にも「春は桜、秋はいちょうの黄葉が素晴らしく、市民には『大日様』と呼ばれ親しまれています。鑁阿寺本堂は、足利氏の居館跡に建てられた東日本を代表する中世の密教(みっきょう)本堂です。この本堂は室町幕府初代将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)の父・貞氏(さだうじ)が正安元年(1299)に再建したもので、鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝わった当時最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様(ぜんしゅうよう)をいち早く取り入れ、外来の新技術の受容のあり方をよく示していることなどが今回の評価につながりました。
鎌倉時代の禅宗様建築は全国的にも類例が少なく、まさに国宝にふさわしい貴重な文化財です。
なお、この本堂は、正安元年の建築後、応永14年(1407)から永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組を強化して本瓦葺に改められました。その後、室町時代末期までに背面向拝(こうはい)をつけ、江戸時代中期に正面向拝が改修されました。」こんな紹介がありました。
1回目は北門、今回は西門から入りましたが、正門(楼門)がありました。鎌倉時代からの施設は本堂に正門、それに鐘楼
と東門だそうです。
周りの堀には親子の
鴨が泳いでいました。鴨を見ていらたくーくーと鳴く声がしてみたらネコさんでした。
足利学校は時間がなく入れず裏から写真だけ撮りました。
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。
江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。ということだそうです。