5月10日 「トルコで収監されているジャーナリストの人数に関して、アメリカのNGOの最近の報告は不正確だ」と、トルコのダウトオール外相は言いました。アメリカ・ベースのNGO「フリーダム・ハウス」は最近の報告書で、トルコの報道の自由は“著しく後退した”と主張しましたが、ダウトオール外相は、金曜、これは客観的な報告ではないと言いました。
Sabah
トルコのEU加盟プロセスを監視する「改革監視グループ」の第29回会合後の記者会見で、ダウトオール外相は、フリーダム・ハウスの数字とトルコ法務相の数字には“重大な誤差”があると言いました。
「記者証所持者で収監されているジャーナリストは5人だけで、彼らはジャーナリストであるためではなく、別件で収監されているのです」
ダウトオール外相は、トルコの報道の自由を北朝鮮並みとランクづけたレポートを非難しました。「トルコを北朝鮮並みと言うなら、このレポートは客観的とは言えない・・・これはわが政府に対する侮辱だけでなく、トルコが維持している基準まで侮辱するものだ」
トルコのメヴルト・ジャヴスオールEU相も、“司法権と基本的権利”と“司法・自由・治安”に関する23章と24章を開くよう、くり返し求めました。この2章は加盟条件に適合するために改革を要する部分に焦点があてられています。
EU相はまた、トルコのEU交渉に関する政治的障害を取り除くようEUを促しました。
「正直に言って、わが国が1年以内のEU加盟を望むなら、これは現実的アプローチではありません。しかし、わが国は1年内に非常に重要な一歩を踏み出すことができます」
2003年に結成された「改革監視グループ」には、外務省、EU省、法務・内務省の大臣と官僚が入っています。
「記者証所持者で収監されているジャーナリストは5人だけで、彼らはジャーナリストであるためではなく、別件で収監されているのです」
ダウトオール外相は、トルコの報道の自由を北朝鮮並みとランクづけたレポートを非難しました。「トルコを北朝鮮並みと言うなら、このレポートは客観的とは言えない・・・これはわが政府に対する侮辱だけでなく、トルコが維持している基準まで侮辱するものだ」
トルコのメヴルト・ジャヴスオールEU相も、“司法権と基本的権利”と“司法・自由・治安”に関する23章と24章を開くよう、くり返し求めました。この2章は加盟条件に適合するために改革を要する部分に焦点があてられています。
EU相はまた、トルコのEU交渉に関する政治的障害を取り除くようEUを促しました。
「正直に言って、わが国が1年以内のEU加盟を望むなら、これは現実的アプローチではありません。しかし、わが国は1年内に非常に重要な一歩を踏み出すことができます」
2003年に結成された「改革監視グループ」には、外務省、EU省、法務・内務省の大臣と官僚が入っています。
“注目すべき女性たち”に賞が贈られた
トップを走る女性たちが、それぞれの分野でのパイオニアとしての成功に対して、“注目すべき女性”として賞が贈られました。Hurriyet 紙のヴスラト・ドーアン・サバンジュ社長は、“社会的責任のリーダー”賞を授与されました。
Hurriyet
こういう女性の中には“ほおかぶり”さんは1人もいませんね。
「広告時代」と「メディアキャット」共催の“注目すべき女性”賞授賞式は5月8日夜、イスタンブールのスイスホテルで開催され、広告、マーケティング、メディア、文化、あーと分野でトップの女性たちが集まりました。
仕事のために式に出席できなかったドーアン・サバンジュさんは、“社会的責任のリーダー”に指名されました。Hurriyet 紙のマーケティング・ディレクターで経営者メンバーのビリム・ギョニュルシェンさんがドーアン・サバンジュさんの代理で賞を受けました。
作家のエリフ・シャフクさんは“文化と芸術のリーダー”賞に輝き、スーパースター歌手アジャ・ペッカンさんは“生涯業績”賞を受けました。
最も有名ないくつかの企業のマーケティングとコミュニケーションの女性ディレクターたちもその業績によって賞を贈られました。
受賞者の中には、マクドナルド、ヴォダフォン・トルコ。コカコーラ、テュルクジェル、コチ・ホールディングなどのマーケティングやコミュニケーションの女性ディレクターたちもいました。
仕事のために式に出席できなかったドーアン・サバンジュさんは、“社会的責任のリーダー”に指名されました。Hurriyet 紙のマーケティング・ディレクターで経営者メンバーのビリム・ギョニュルシェンさんがドーアン・サバンジュさんの代理で賞を受けました。
作家のエリフ・シャフクさんは“文化と芸術のリーダー”賞に輝き、スーパースター歌手アジャ・ペッカンさんは“生涯業績”賞を受けました。
最も有名ないくつかの企業のマーケティングとコミュニケーションの女性ディレクターたちもその業績によって賞を贈られました。
受賞者の中には、マクドナルド、ヴォダフォン・トルコ。コカコーラ、テュルクジェル、コチ・ホールディングなどのマーケティングやコミュニケーションの女性ディレクターたちもいました。
シュレイマン壮麗王の心臓の埋葬地に新説
最近発見された歴史的記録から、1566年、オスマンのスルタン・シュレイマン壮麗王の心臓と内臓が埋葬された場所はハンガリーのシゲトヴァルのモスクと思われると、トルコの科学者が発表しました。
Hurriyet
「私たちはソコルル・メフメット・パシャ基金の資料を調べていて、たまたまこの記録を発見したのです。この記録には、内臓はシゲトヴァルのシュレイマン・モスクの“ハニカー”(修行僧の宿泊所)近くの庭に埋められたと書かれています」と、ガジ大学のメフメト・ゼキ・イブラヒムギル歴史学教授がドーアンニュースに語りました。
「トルコ当局はハンガリー当局の許可を得て、すぐに現場の発掘を始めますが、その前に、公式発表でこの発見の詳細を明らかにします」とイブラヒムギル教授は言いました。
教授はまた、埋葬場所は、1600年に死んだオスマンの年代記作家ムスタファ・セラニキの著作によって確認されたと言っています。
スルタン・シュレイマンは1566年9月6日、シゲトヴァルの要塞の包囲中に死去し、その翌日、オスマン軍はハプスブルクに勝利しています。
大宰相ソコルル・メフメト・パシャは軍内部の反乱を防ぐために、シュレイマンの息子のセリム2世が王位を継ぐために戦場に来るまで、48日間、シュレイマンの死を秘密にしていました。
一時的なミイラ化
歴史的資料によると、シュレイマンの遺体は心臓と内臓を除去された後、一時的にミイラ化され、要塞に近いスルタンのテントのベッドの下に隠され、その後、遺体はイスタンブールに運ばれましたが、内臓はハンガリーに残されました。
伝承によると、心臓と内臓は“麝香と琥珀”で洗われ、“黄金の器”に入れて埋葬されたとされていますが、現代の歴史家たちはこれを否定し、そのような埋葬は明らかにイスラムの伝統に違反しているとしています。スルタン・セリム2世が1577年、父の一時的な墓だった場所に建てた霊廟は、1693年、侵攻したオーストリア人によって荒らされ、破壊され、その場所もわからなくなりました。
「トルコ当局はハンガリー当局の許可を得て、すぐに現場の発掘を始めますが、その前に、公式発表でこの発見の詳細を明らかにします」とイブラヒムギル教授は言いました。
教授はまた、埋葬場所は、1600年に死んだオスマンの年代記作家ムスタファ・セラニキの著作によって確認されたと言っています。
スルタン・シュレイマンは1566年9月6日、シゲトヴァルの要塞の包囲中に死去し、その翌日、オスマン軍はハプスブルクに勝利しています。
大宰相ソコルル・メフメト・パシャは軍内部の反乱を防ぐために、シュレイマンの息子のセリム2世が王位を継ぐために戦場に来るまで、48日間、シュレイマンの死を秘密にしていました。
一時的なミイラ化
歴史的資料によると、シュレイマンの遺体は心臓と内臓を除去された後、一時的にミイラ化され、要塞に近いスルタンのテントのベッドの下に隠され、その後、遺体はイスタンブールに運ばれましたが、内臓はハンガリーに残されました。
伝承によると、心臓と内臓は“麝香と琥珀”で洗われ、“黄金の器”に入れて埋葬されたとされていますが、現代の歴史家たちはこれを否定し、そのような埋葬は明らかにイスラムの伝統に違反しているとしています。スルタン・セリム2世が1577年、父の一時的な墓だった場所に建てた霊廟は、1693年、侵攻したオーストリア人によって荒らされ、破壊され、その場所もわからなくなりました。
Hurriyet
シュレイマン・モスク跡に立つ教会。新説によれば、シュレイマンの心臓はここに埋葬されている。
1913年、シゲトヴァルの要塞から北西3キロのトゥルベクの丘のスジュズ・マリア教会の僧が、シュレイマンの霊廟はここにあったと主張しました。確かな証拠がないため、多くの専門家はいま、この主張は、オーストリア=ハンガリ帝国とオスマン帝国が同盟した、第1次世界大戦前夜の政治的プロパガンダだったろうと言っています。
2つの説:教会か、失われた村か
シュレイマンの霊廟を発見するための科学的研究と発掘はまだつづいています。ハンガリーの科学者たちは、2013年9月20日のシンポジウムで、トゥルベクの丘から2キロ北西のブドウ畑の中で、“失われたオスマンの村”を発見したと発表し、16世紀後期に霊廟の周囲にできた村かもしれないと論じました。
「私たちはいま、霊廟があったのは教会の中ではないと確信しています。私たちは許可を得て、ブドウ畑の近くを発掘します。シュレイマンの死の450周年になる2016年までに、霊廟を見つけることができると思っています」と、ハンガリーの考古学者Erika Hancz さんはHurriyet 紙に語りました。
これに対し、トルコの専門家たちはシンポジウムで懐疑論を述べ、“失われたオスマンの村”に関して証拠がじゅうぶんでないことを指摘し、教会とその周辺の地域は、1970年代以来なにも発見されていないが、さらに発掘をするべきだと論じました。
シュレイマン・モスクが埋葬地だという可能性は考えられていませんでしたから、イブラヒムギル教授の最近の発表は多くの専門家たちを驚かせました。
この説が正しければ、モスクは要塞の中にあり、スルタンは要塞の外で死んだのだから、内臓は征服後、移されたことになります。
2つの説:教会か、失われた村か
シュレイマンの霊廟を発見するための科学的研究と発掘はまだつづいています。ハンガリーの科学者たちは、2013年9月20日のシンポジウムで、トゥルベクの丘から2キロ北西のブドウ畑の中で、“失われたオスマンの村”を発見したと発表し、16世紀後期に霊廟の周囲にできた村かもしれないと論じました。
「私たちはいま、霊廟があったのは教会の中ではないと確信しています。私たちは許可を得て、ブドウ畑の近くを発掘します。シュレイマンの死の450周年になる2016年までに、霊廟を見つけることができると思っています」と、ハンガリーの考古学者Erika Hancz さんはHurriyet 紙に語りました。
これに対し、トルコの専門家たちはシンポジウムで懐疑論を述べ、“失われたオスマンの村”に関して証拠がじゅうぶんでないことを指摘し、教会とその周辺の地域は、1970年代以来なにも発見されていないが、さらに発掘をするべきだと論じました。
シュレイマン・モスクが埋葬地だという可能性は考えられていませんでしたから、イブラヒムギル教授の最近の発表は多くの専門家たちを驚かせました。
この説が正しければ、モスクは要塞の中にあり、スルタンは要塞の外で死んだのだから、内臓は征服後、移されたことになります。
「HPのトップ頁」へ