≪7月11日のお経の会での法話より(後編)≫
さて、ここからが本題ですが、今回の自民党のキャッチフレーズは「いちばん」だそうです。
選挙戦で、谷垣総裁が人差し指を立てて演説している姿が印象的なんですが、この「いちばん」という言葉を聞いて、思い出した話があります。
それは数年前の僧侶研修会で、経済学を専門とした講師が話された言葉。
自分がどれだけ優秀な能力を持っているか、自分がいかに優れた人材か。
そういうことを、他人を蹴落としてでもアピールするのが今の社会だ。
そんな社会にあっても、仏教は誰もが凡夫だと説く。
仏の前では、自分は本当に小さな凡夫だと説く。
自分が凡夫であることの自覚を促す。
それはとても凄いことだ。
凡夫とは「仏教の道理を理解していない、世俗の愚か者」という意味があります。
そして、死ぬまで煩悩に満ちた生き方しかできないものも凡夫と言います。
今回の自民党のキャッチフレーズは、民主党の蓮舫議員が事業仕分けの際に発した言葉に掛けていることは想像できます。
【一番じゃなきゃいけないんですか? 二番じゃダメなんですか?】
一番を尊び、二番に対しては一番を目指して頑張れと発破をかける。
それが当たり前のように思ってきた中で、蓮舫議員の言葉は足を止めさせるだけの力がありました。
けれど、それも一瞬のこと。
やっぱり一番がいいし、誰よりも優遇されたい気持ちが芽生えてきます。
(もっとも、蓮舫議員も3番目、ましてやビリだったら同じ言葉は言えないはず)
しかし、人を優劣で判断することは、とても怖いことです。
優劣をつけることで、人は優越感に浸り、劣等感に潰される。
優越感は時に人を傷つけ、劣等感は時に人を投げやりにさせる。
聖徳太子の『十七条憲法』第十条には、このような記述があります。
我かならずしも聖にあらず 彼かならずしも愚にあらず
共にこれ凡夫なり
心の中で恨みに思うな。
目に角を立てて怒るな。
他人が自分に逆らったからといって、憤怒するな。(中略)
他人が正しいと考えることが、自分は間違っていると考え、
自分が正しいと考えることを、他人は間違っていると考える。
けれど、自分が聖者というわけでも、他人が愚者というわけでもないんだ。
みんな、誤りに満ちて、不完全で、人間以上でも人間以下でもない。
ただの凡夫に過ぎないんだから…(超意訳)
凡夫をここでは「ただびと」と読みます。
仏の前には、世俗の価値観は持ち込めません。
みんな等しく「ただのひと」。
だからこそ、聖徳太子は互いを許しあう生き方を説いているのです。
自分が一番だと胸を張り、それを目指して頑張ることが賞賛される世の中で、
「ただのひと」「世俗の愚か者」「それは煩悩に縛られた生き方だ」
そう言うことは、確かに凄い。
けれど、そう言うことで、自らを省みて、他者を顧みることができるのかもしれません。
そして、頑張りすぎて、緊張しすぎて、強張ってしまった心と体が、ほんの少し穏やかになったり、軽くなったりすることもあるのかもしれません。
仏の前では、誰もが等しく小さな凡夫です。
けれど、これは仏さまに対した時に、自分自身がそう思うことに意味があります。
どこまでもどこまでも、己を省みるのが仏教です。
政治家に対して「あなたは、ただのひとだ」「あなたは世俗の愚か者だ」と言うのは筋違いなのでご注意を。
明日は我が子への願いをこめた一票の重さを、分かってもらえる候補者に投票しようと思います。