週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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打ち寄せる波

2010-09-20 00:00:08 | 法話のようなもの

今日からお彼岸です。

お彼岸とは「彼(か)の岸」と書くように、向こう側の悟りの世界を意味します。
対してこちら側は「此岸(しがん)」と言い、こだわり、とらわれ、迷う私たちのいる世界を指しています。

そんな迷いの岸から悟りの岸へと到るために修行をする期間。
それが本来のお彼岸でした。

お彼岸がなぜ春と秋の2回あるのかについては諸説あります。
その一つに、阿弥陀さまの世界を「西方浄土」と言うように、お浄土は西の方角にあるとされ、春分と秋分は太陽が真西に沈む日であることから、その方向に思いを掛けるのに適していたという説があります。

方位磁石もない時代、正確な西を知る術は限られていたはずです。
その日は、誰もが沈む夕日にお浄土を思い、手を合わすことができたのでしょう。

けれど、そのお浄土を観想することが、転じて先祖供養となり、現在の形態を辿ります。
それは自分のお浄土ではなく、ご先祖のいるお浄土。
同じ次元にあるのではなく、西の遠くにある死んだ後に生まれる場所。

そう思うがゆえに、お浄土を私たちの価値観で構築し、私にとっての良いところというような都合のいい場所を作り出して、嫌いな人とは死んだ後まで一緒にいたくないと排除を平気でしてしまう。
それでは此岸と、まったく変わりがありません。

彼岸とは悟りの世界です。

相手の苦しみは自分の苦しみとなり、相手の喜びは自分の喜びとなる。
自も他も超えた、こだわりも、とらわれも、迷いも超えた世界。
その世界から、常に私たちはこだわり、とらわれ、迷っているという自分の本当の姿に気付きなさいと、はたらきかけられているということを知るご縁が、お彼岸という期間にはあるのだと思います。

10代遡れば、最低でも1024人のご先祖がいます。
その縁が整って、初めて私が産まれることができました。
その縁は縦の関係だけでなく、横の関係へと無限に伸びてゆき、つながらないものなどないほど大きな関係性の中にいる私を教えてくれます。

私の命を顧みる、それがお彼岸のあり方の一つでもあります。

岸辺に打ち寄せる波。
その波は彼の岸から届く、私への気付きの促しなのかもしれません。