週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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究極の依り所

2011-02-14 01:51:25 | 法話のようなもの
土曜日のお経の会は、不安定な天気にも関わらず、ご参集をいただきました。

        

終了後は、暖かいお座敷でお茶タイム。

       

中心はやっぱり龍くん。
人見知りの龍くんも、毎月遊んでくれるお友達(笑)の顔は忘れません。


さて、今回のお経の会の法話は副住職でした。
御讃題は『正信偈』の五首目の御和讃です。


  清浄光明ならびなし 遇斯光のゆへなれば
       一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ   
(浄土和讃)


だれもが何かを拠り所にして生きている。
それは仕事だったり、お金だったり、家族であったり、健康であったり…。
そういう拠り所のために頑張ることができるし、生活にも張りが出たりもする。
しかし、どんなに大切な拠り所であっても、それらと別れ分かつときが必ず訪れる。

トルストイの民話『人にはどれほどの土地がいるか』には、土地を拠り所とした男が描かれている。

日の出から日没までの間、出発点から歩いた内側の面積の土地をもらえるというウマイ話に乗った男は、ただひたすら歩き続けた。
日没までに出発点に戻るという条件だったが、歩けば歩くほど良い土地になり、なかなか曲がることも、引き返すこともでなくなってしまう。
だが、戻らなければ元も子もないと、欲張って遠くに歩き過ぎた自分を責めつつ、ボロボロになりながら必死に出発点を目指す。
男はなんとか日没に間に合って、広大な土地を手に入れたのだが…そこで息絶えてしまった。
そして男は、全身が入るだけの土地に穴が掘られ、埋葬された。

不動の土地という確かと思われた拠り所であろうとも、死の前では手放すことしかできない。
そんな不確かな拠り所を頼りに生きる私たちに、真の確かな拠り所を示してくださるのが、御讃題の御和讃にある畢竟依。

畢竟依とは「究極の拠り所」ということ。

煩悩の汚れのない、他に比べるべきものがないほど清浄な阿弥陀さまの光明に遇えば、罪業深く、苦悩の淵に沈んでいようと、その束縛から離れることができる。
その光を放つ阿弥陀さまを、本当に依るべき究極の拠り所として生きなさい。

この御和讃の解釈の通り、私たちが依るべき究極の拠り所は、死を前にしても手放すことのない、阿弥陀さまただ一仏のみ。
そして阿弥陀さまを拠り所とさせていただくということは、私たちが決して手放されることのないという、この上ない安心をいただくことでもあるのである。

合掌