今日も抜けるような青空に恵まれた一日でした。
午前中、お年賀のご挨拶にとお越しくださったご門徒さんが、こんなことをおっしゃいました。
「歳をとったから、お参りに来るの。 若いときは来なかったからね。」
同じお坊さんでも、聞く人によっては「それではダメだ」とお説教を始めてしまうような言葉です。
でも私は、とっても素直な言葉だと思いました。
お参りをすることは、確かに大事です。
我が身を振り返えったり、自分主義に走ることを諌められたり、無量のつながりの中での一つの点として支え支えられていることに気づかされたり。
ご先祖さまを縁として、阿弥陀さまのみ教えを聞かせていただくのに大切なのが、お寺にお参りすることだと思います。
ただ、「機縁」という言葉があります。
仏教語で「根機・因縁」の略で、「仏の教えを受けるものの素質能力(根機)と、仏の教えに触れる原因条件(因縁)の両者が熟して、初めて仏の衆生教化があるとされる」という意味です。
一人一人、機縁は異なります。
きっとこのご門徒さんは、「歳をとった」ということが機縁となったのでしょう。
どのような人生を歩まれたのか、その喜怒哀楽の日々はご本人の胸の内に大切にしまわれているのでしょうが、その日々の末にお寺へとお参りに来られるという今があるのですから、歳をとることも素敵なことだと思いました。
み仏の願いに触れる機縁は、いつ終わるともしれない命を生きている以上、早ければ早いほうが確かに良いことだと思います。
でも、遅いことを否定するものでは決してありません。
ただ私たち僧侶は、どなたにも、いつ熟すか分からない機を逃してしまわれないように、常にみ教えをお取り次ぎしていかなくてはならないのだと、改めて肝に銘じさせていただきました。