(11月13日のお経の会の法話より)
しかし、全てを受け止め、乗り越えるということは言葉で言うほど簡単なことではありません。
生きていれば、受け止めきれず、乗り越えられない現実が訪れることもあるでしょう。
受け止め乗り越えるために、どうしようもないほどの時間がかかることもあるでしょう。
人の生死が関われば、「よかった」などと思えるほど、生易しいことではないんだと、うずく心の傷もあるのだと思います。
物事の道理を分かったようなお話をしましたが、正直に言えば私自身も、
「何で私が!?」
「なんでこんな目に遭わなければならないの?」
そう血反吐を吐くような思いを、何度も何度も繰り返しながら生きていきました。
生きているからこその痛み。
生きているからこその悲しみ。
そう思うことで、生きている喜びを感じ、命をいただいたことへの感謝と共に、この痛みや悲しみもまた、嬉しい、楽しいという感情と同じように、全てがいただきものであると転じてゆくご縁に触れたら、変わる人生もきっとある。
けれど、受け止めることも、乗り越えることもできず、止まった心がただ痛む、そういう人生もあるのだと思うのです。
人の心は弱いものです。
それでも、その弱さを阿弥陀さまはお叱りになりません。
「そんな心じゃダメなんだ」と、否定もされませんし、お見捨てにもなりません。
その弱さをも救いとってくださるのが、阿弥陀さまの大悲大慈です。
そして、弱いくせに都合よくその弱さに甘えて逃げている、そういう自分の姿をイヤというほど分かっている人こそが、阿弥陀さまの救いの目当てなのです。
確かに、浄土真宗のみ教えは、どんな災厄に見舞われようとも、それを乗り越える大いなる力を恵まれる教えです。
厄年や大厄などに惑わされず、真実を明らかに見る智慧の中に身を置いて見れば、災厄を恐れることのない安心と共に、受け止めることもできるでしょう。
けれど、怖いものは怖いし、辛いものは辛い。
痛いものは痛いし、嫌なものは嫌。
分かっていても、消えない思いは確かにある。
だからこそ、自分はその心の弱さを持っているという自覚が、何よりも大事なのだと思うのです。
その自覚があれば、少なくとも厄年というものに惑わされそうになっても、自分が惑わされているという「気づき」をいただく因となるとも思っています。
そして、み教えに触れるということが、気づきの因となり、転じてゆく果へと繋がってゆく。
皆さまには、怖くとも、辛くとも、痛くとも、嫌であろうとも、消えない思いを捨て去れなくとも、ご聴聞の機会を大事にしていただきたいと願っています。
では最後に、この拙い法話を喜びに転じてみましょう。
私は「ツイてない」のではなく、私には「阿弥陀さまがついていてくださっている」
どうでしょう、一つ喜びに転じることができたのではないでしょうか?
では、悪を転じて徳と成す正智のお名号を、皆さまと一緒にお称えいたしましょう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。
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