秋の寺報の締切りが迫ってきました。
過去、どんなことを書いていたのかを見直していると、2年前の秋号に「生前」という言葉についての記事がありました。
というわけで、どうぞ。(笑)
「生前」という語が日常会話に出てくることは稀ですが、例えば「生前はお世話になりました」などは、故人に代わってのお礼を言うときによく使われているので、それほど珍しくはないでしょう。
皆さんもいろんな場面で「生前」という言葉を耳にしたことがあると思います。
辞書によると、「生前」とは亡くなられた方の「生きていた間」のことを指しています。
しかし、「生まれる前」と書くのに、なぜ「生きていた間」という意味になるのか、不思議に思われたことはありませんか?
字のままを普通に考えれば、「生前」とは「この世に産まれる前」のことになってしまいます。
その場合の逆は「生後」であり、生後何ヶ月というように、この語は産まれた後のことを意味しますが、「生前」をこのような対比で考えると、どうしても違和感が残ります。
似たような考え方でもう一つ、「死後」という言葉があります。
これはそのまま「死した後」、つまり「亡くなった後」を指しますが、対比となる「死前」という言葉は存在しません。
けれど、「生きていた間」という意味を表すならば、この「死前」もしくは「生間」という言葉があると、聞く人に違和感を与えることなく伝えることができるのにと、つい思ってしまいます。
しかし、「生前」という言葉には、普段の私たちでは量り知れないほど大いなる意味が込められているのです。
では、その意味を簡単にまとめてみましょう。
人が亡くなることを、「往生する」とも言うことはご存知だと思います。
「往生」とは「往きて生まれる」ということ。
どこに往って生まれるかというと、阿弥陀さまの世界「お浄土」に往生するのです。
私たちは死んだらお墓の下で眠るわけではありません。
どこで亡くなろうと、どこに遺骨が納められようと、私たちは阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ、自分や他人といった個を超えた差別(しゃべつ)のない世界で再び出遇うという、阿弥陀さまのみ教えの中に包まれているのです。
さあ、そろそろ見えてきたのではないでしょうか?
そうです、「生前」とは「お浄土に生まれる前」のこと、つまり今このときを指しているのです。
「生前」は「生後」や「死後」といった言葉との対比で考えるものではなく、この命の行く末が阿弥陀さまのみ教えに照らされ明らかになったところに「生前」という言葉があるのです。
往生するその前に、光輝くこの命が、何の光に照らされて尊く耀いているのかを知ろうとすることで、初めて「生前」の意味を受けとめることができるのではないでしょうか。
……ちゃんとしたことを書いていてビックリ。
あと1週間、頑張ります…。