(7月9日 お経の会の法話より・①の続き)
さて、では宗教でいうところの「信心」とはどういうものなのでしょうか?
一般的に考えれば、神様や仏様を「信じる心」を意味すると思います。
そして、「信じてくれたらあなたを救いますよ」という宗教の教義を、「信じたから」私は救われるとも受け止められていると思います。
それは言い換えれば「信仰心」であり、「信仰心が篤く」「信心深い」人ほど救われやすいと思われいるのではないでしょうか。
しかし、この信心で、浄土真宗の信心を考えてしまうと、いろんなことを間違えてしまうのです。
ではここで、また質問です。
「信心」の反対語はなんでしょうか?
答えは「疑心」、疑いの心、疑う心です。
では、「疑う心」の反対を、「信心」以外の言葉で言うと何になるでしょう?
答えは「疑いのない心」です。
これは「疑いの余地さえない心」です。
親鸞聖人は『唯信鈔文意』という著書の中で、「信」の注釈に「うたがひなき こころなり」と記され、「これ真実の信心なり」と続けられました。
つまり、浄土真宗でいうところの「信心」は、「疑いのない心」ということになります。
どうでしょうか?
実生活と照らし合わせてみても、この心のままに生きることはかなり難しいことです。
果たして、この心を私たちは生まれながらにして持っているでしょうか?
「私にはある」と答えられる人は、なかなかいないと思います。
ならば、この「信心」は誰のものなのでしょう。
それは、何をも信じきることができない私を、何があろうと信じきってくださっている阿弥陀さまのお心の中にあるものなのです。
(法話・「信心」③に続く)
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