
これかな?
道が整備されもう昔の面影はないけど、ところどころに赤土の盛られた所があるなぁ~。


キャンプ場付近到着。市道が整備されている。左側は旧藤沢会館、右側は旧高津池。
そういえば子供のころ、この当りに旧伯太藩陣屋の赤土の土塀が残っていたなぁ~

古い自衛隊官舎がまだあるな~。
この坂を登りきると野外活動センター(キャンプ場付近)にたどりつく。

信太山自衛隊正門

信太山自衛隊正門前まで来た。ここから先は二手に分かれている。
奥右側が小栗街道で府中町へ向かう道、左側は黒鳥町へ向かう新しい道。
街道この先は、府中町の井上神社を通過し、その先に井ノ口王子(井ノ口川付近)
がある。
今日はここまで。ここから自衛隊正門を横ぎり官舎沿いを登ることにした。

街道、伯太町を上る

元大手門付近 街道を上る

陣屋館跡の碑
伯太藩陣屋は江戸時代、小栗街道より山手で信太山丘陵の西斜面に位置し、
南北約四百米、東西約六百米、約五万坪を占めていたらしい。
周囲には赤土の土塀がめぐらされ、中央には藩士の屋敷を縦断して急勾配の道で、
現在の信太山野外活動センターまでつづいていたという。
当地の高台に立って見れば眺望は南は岸和田~泉州地域、北は大阪平野はじめ
大阪湾を一望出来る。
往時は小栗街道はじめ紀州街道の人馬の動きまで望めた事だろう。
この地に陣屋を構えた徳川幕府の地理的な大名政策を見るようでおもしろい。


藩士屋敷跡 大手坂の上から大阪湾方面


大手坂
旧長野街道、この辺りはもと陣屋屋敷がならんでいたらしい。
今ではその面影はほとんどないが旧家と思われる土塀や生垣の下には
クリ石が敷かれたものが残っており往時をしのばれる。

元陣屋大手門付近
小栗街道沿いに伯太藩陣屋の大手門があったらしい。
街道より山側へのぼる大手坂がある。

伯太神社
街道を右へそれるとこの地の氏神、伯太神社がある。

街道、伯太町を上る
献燈石燈籠
現在放光池公園に立つ石燈籠、昔は放光池の堤防、街道の西側に立っていた。
高さ約三メートル大きな石燈籠だ。
その昔はこの大きな石燈籠に毎夜油で燈明が献ぜられていたという。
方向ははるか遠方の住吉神社に向かってだそうだ。
住吉神社は、古くから大阪湾を航行する人々の信仰をあつめ、その境内にある
高さ十メートルにもおよぶ「住吉の高燈籠」にともされる明かりは、大阪湾
安全航行の目印となっていたらしい。
小栗街道の献燈石燈籠の明かりも見通しのよかった昔は大阪湾からよく見えた
わけで「住吉の高燈籠」とともに、大阪湾を航行する船にその現在地を知らせる
灯台の役目を果たしていたといわれているそうだ
現在放光池公園に立つ石燈籠、昔は放光池の堤防、街道の西側に立っていた。
高さ約三メートル大きな石燈籠だ。
その昔はこの大きな石燈籠に毎夜油で燈明が献ぜられていたという。
方向ははるか遠方の住吉神社に向かってだそうだ。
住吉神社は、古くから大阪湾を航行する人々の信仰をあつめ、その境内にある
高さ十メートルにもおよぶ「住吉の高燈籠」にともされる明かりは、大阪湾
安全航行の目印となっていたらしい。
小栗街道の献燈石燈籠の明かりも見通しのよかった昔は大阪湾からよく見えた
わけで「住吉の高燈籠」とともに、大阪湾を航行する船にその現在地を知らせる
灯台の役目を果たしていたといわれているそうだ

放光池公園
ここは子供のころよく遊んだ公園だ。昔は「カラ池公園」と呼んでいたなぁ~
そういえばこの場所で初めて自転車(2輪)が乗れた(皆より遅れて)場所だ(笑!)
また、ここで行われる信太山盆踊りも盛大だったなぁ~・・・

平松王子跡
平松王子は九十九王子の10番目神社。石碑が大阪府和泉市幸町の放光池1号公園前に立っている。
和泉市伯太町の伯太神社に合祀されているらしい。
後鳥羽上皇が詠んだ「平松はまた雲深くたちにけりあけ行く鐘はなにはわたりか」は有名だ。
この地に平松御所を設け宿泊したという。
※
熊野街道を紹介するときに、説明板の多くには藤原定家の記した日記が紹介されている。
藤原定家が後鳥羽上皇に随行した御幸の際の様子を詳細に記したもので、
当時の御幸の様子や、随員の気持ちまでもがよく記録されているという。
・・建仁元年(1201)10月5日に京を発ち、熊野本宮へは17日に到着した。
京から本宮まで12日間の旅程である。淀川からは陸路となるが、熊野御幸は
九十九王子社へ参拝、奉幣するだけでなく、途中、水垢離、塩垢離をしたりと行事も多い。
天王寺で一泊目を過ごした後、大鳥居(鳳)王子(堺市)の2つ先の平松王子で二泊目を迎える。
「板も敷いていない小屋に寝るなんて」とぼやくが、貴族とはいえ宮仕えの厳しさが垣間見える。
三日目は信田王子(和泉市)で、歌会があり、「上皇様の歌はすばらしい」と持ち上げる・・・
随行員にとって、熊野御幸は物見遊山ではなく、
仕事であり、歌詠みの専門職として随行した定家の日記は、ある意味業務日誌であり、
現代の勤め人の身と重ねると、800年前の熊野御幸がぐっと身近なものに感じられてくる。

明けの坂
小栗判官が夜通しの道中、この坂にさしかかったとき夜が明け始めたと言われている。

西教寺
西教寺は、街道沿いの住宅団地に囲まれた中にある。
お寺は江戸時代前期の延宝元年(1673年)の創建と伝えられ、
寺の正面の庭に、でんと構えたいぶきは、その創建以前から
あったようで府指定天然記念物として手厚く保護されている。

小栗街道の道しるべが立っていた。
大阪府と和泉市産業・観光振興会が協同で設置を進めているらしい。

街道沿いのお地蔵さん

鳥居のすぐ近くに碑があった。
篠田王子跡
篠田王子(しのだおうじ)は、九十九王子の9番目の神社。
大阪府和泉市王子町に鎮座する聖神社の鳥居が熊野街道沿いにあり、
その鳥居から少し南下した住宅に囲まれたところに跡地の石碑がたっていた。
篠田(信太)王子跡
平安時代の後半頃から流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十万浄土
の聖なる地・現世極楽の聖地であるという「熊野信仰」に発展し、現生極楽
の地にあこがれ、一切の罪業消滅を願う皇族や貴族たちがこぞって熊野の
地を目指すようになりました。
延喜7年(907)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣は、貴族の次に武士
層に、南北朝以降は畿内の庶民層へと広がっていき、「蟻の熊野詣」と
称されるほどに大勢の参詣人が熊野を目指して続いたと伝えられています。
この熊野への参詣の道が熊野街道です。
京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国
の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十余里、
往復およそ一ヶ月のみちのりでした。和泉市内では、信太山丘陵の裾を
現在のJR阪和線とほぼ平行して通っています。
熊野街道筋の要所要所に、遥拝所、休憩所として設けられたのが、熊野権現の末社である
”王子社”で、数が多いことから、熊野九十九王子とよばれています。
和泉市内では、篠田(信太)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。後鳥羽院の熊野詣
に随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信太)王子で禊ぎの後、信太明神に
参拝しています。
ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(1909)に葛葉稲荷に合祀
されました。王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。
なお、熊野街道は、説経節の一つとして名高い「小栗判官(おぐりはんがん)」で、熊野参詣の
ため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」とも
よばれています。
平成十六年十一月 和泉市教育委員会
※九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、
主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた
熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。
したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。

鳥居前を上る。このあたりは道幅が大きくなって整備されているな~。
今はこの地区のだんじり祭りのメインストリートにもなっているね。