我・愛・ 泉州 信太の森 【信太山丘陵】

~恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉~
★★森羅万象・自然・人生 ★ 凡人の散歩絵日記★★

平松王子跡(幸)

2009-06-09 17:10:16 | 熊野街道(小栗街道)

放光池公園
ここは子供のころよく遊んだ公園だ。昔は「カラ池公園」と呼んでいたなぁ~
そういえばこの場所で初めて自転車(2輪)が乗れた(皆より遅れて)場所だ(笑!)
また、ここで行われる信太山盆踊りも盛大だったなぁ~・・・





平松王子跡
平松王子は九十九王子の10番目神社。石碑が大阪府和泉市幸町の放光池1号公園前に立っている。
和泉市伯太町の伯太神社に合祀されているらしい。
後鳥羽上皇が詠んだ「平松はまた雲深くたちにけりあけ行く鐘はなにはわたりか」は有名だ。
この地に平松御所を設け宿泊したという。


熊野街道を紹介するときに、説明板の多くには藤原定家の記した日記が紹介されている。
藤原定家が後鳥羽上皇に随行した御幸の際の様子を詳細に記したもので、
当時の御幸の様子や、随員の気持ちまでもがよく記録されているという。

・・建仁元年(1201)10月5日に京を発ち、熊野本宮へは17日に到着した。
京から本宮まで12日間の旅程である。淀川からは陸路となるが、熊野御幸は
九十九王子社へ参拝、奉幣するだけでなく、途中、水垢離、塩垢離をしたりと行事も多い。
天王寺で一泊目を過ごした後、大鳥居(鳳)王子(堺市)の2つ先の平松王子で二泊目を迎える。
「板も敷いていない小屋に寝るなんて」とぼやくが、貴族とはいえ宮仕えの厳しさが垣間見える。
三日目は信田王子(和泉市)で、歌会があり、「上皇様の歌はすばらしい」と持ち上げる・・・

随行員にとって、熊野御幸は物見遊山ではなく、
仕事であり、歌詠みの専門職として随行した定家の日記は、ある意味業務日誌であり、
現代の勤め人の身と重ねると、800年前の熊野御幸がぐっと身近なものに感じられてくる。



明けの坂
小栗判官が夜通しの道中、この坂にさしかかったとき夜が明け始めたと言われている。



西教寺

西教寺は、街道沿いの住宅団地に囲まれた中にある。
お寺は江戸時代前期の延宝元年(1673年)の創建と伝えられ、
寺の正面の庭に、でんと構えたいぶきは、その創建以前から
あったようで府指定天然記念物として手厚く保護されている。



小栗街道の道しるべが立っていた。
大阪府と和泉市産業・観光振興会が協同で設置を進めているらしい。
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