不安も感情の一種なのかなーー?
シングルマザーになって、私を不安にさせたことがあります。
もう一年近く前の話ですが。
賃貸の家を契約するとき、連帯保証人は持ち家の人と指定されたこと。
ローン(だったかな?)を組む時、臨時職員だからという理由で断られたこと。
この先、子供が一人暮らしするとき、私じゃ子供の保証人になってあげられない。
この先、子供の車などの購入でローンを組む時、私じゃダメなんだ。
・・・。
やっぱり女が一人で生きていくって大変・・・(ーー;)
そうすると、やっぱり支えてくれる人が欲しくなるのは、人情と言いますか・・・(^-^;
まあ、そんなつもりはなかったんですが、あの人いいなっていう人が現れて・・・。
で、ある日、ふと、その人を使って不安をぬぐい去ろうとしている自分に気が付いて・・・。
で、なぜか、そんなことで不安てぬぐいされないんだな、って妙に納得したんです。
私はあの人を使って不安をなくそうとしていたんだなー、と思ったら、不安がなくなった。
正確には、なくなっていないと思う。
ただ、何て言うか、
自分が勝手に想像して勝手にこうなるって思ってる未来があるんだなって気付いたっていうか・・・。
私がモテモテで素敵な人に次々とたくさん出会うって信じられない自分、それを信じたっていいのにと思う自分。
不安になるのは悪いことではないはずなんだけど、扱い方を誤ってる気がするんだ。
なんか、気付く時って、はっきり理屈が筋道立ててわかる時と、どこでどう回路がつながって電流が走ったのかよくわからない時がありますが、今回は後者でした。
それで、そういう方法で不安を解消するのを「もう、やーーめた」となったわけですが、
そもそも不安てなんだろう?
悲しいとか、さみしい、みたいに、感じてしみじみ痛みを感じるものでもないし、なんていうか実態のないモヤモヤした物っていうか・・・。
不安て、人間に備わった警報機の役割をしているという話も聞いたことがあるけど・・・。
得体のしれないままなのですが、ふと、
「そのまま、まるごと楽しんじゃえ」
って、聞こえた気がした。
・・・、まあ、それに関してはまだまだ考察が必要な気がするけど、たぶん、
「そのまま、まるごと楽しんじゃえ」
が、答えなんだと思う(笑)
さみしさを見つめることを、昨年末は徹底してやってみました。
まあ、泣ける泣ける(T_T)
もともとさみしがり屋さんのうえに、かまってちゃんの私なので、さみしいを直視できないでいたんです。
1年ほど前も、さみしさと一生懸命向き合おうとしていたけど、向き合いきれずにいた部分を見れたかなーーと思います。
ムリして向き合う必要はないんですよ。
ただ、もう、同じところをぐるぐる堂々巡りしていたくなくなったんです。
この、迷路でも何でもないのに、痛みを引き受けることができないばっかりに、ただ同じところをぐるぐる回っている感じがつらくてしょうがなくなったんです。
おかげで、
さみしいって泣けちゃう私が、いじらしくて可愛いと思える自分になりました。
(あはー、恥ずかしい(/ω\))
さみしいとか、かなしいとか、感じずに生きていけたらいいけど、
不必要なものってないはずだから、そういう気持ちと出会ってしまったら、
じっくり感じてみるのも、一つの手ですよ(だいぶ痛いけど(ーー;))
自分の世界が一つ深くなる気がします。
好きなもの
Meltykiss くちどけラム&レーズン
スタバのコーヒー
新鮮なお刺身
フルーツあんみつ
ぬるめの温泉
仲間との宴会
編み物
寝ること
・・・。
書き出すと色々あるけど、この好きなもののグループに入れることを拒否していたものがありましたーーー(>_<)
だって、変だし
人に言ったら絶対ドン引きされるし
うん、好きグループには入れないでおこう
と、思ったかどうかはわかりませんが、スルーしてたもの。
それは、
お経
それも、たくさんのお坊さんが合唱みたいに唱えてるやつで、般若心経みたいに呪文系のやつ。
聞いてて日本語として聞き取れてしまうと楽しくないのですが、たくさんのお坊さんが唱えてる時のあの重低音ていうか、多分あの振動がむっちゃ好きなんだと思う(^-^;
ね、変でしょ変でしょ
そこのあなた、今引いたでしょ
お経をコンサート風に演出してお寺の行事をされるところもある昨今ですが、これを好きって言っちゃうの、恥ずかしくて・・・。
でも、これを好きなものとして認めたら、この世の中に私の好きなものが増えるんだよね。
多分こんな風に、好きって認められていないものがまだまだあるのかも・・・。
新年あけましておめでとうございます。
さて、昨年末はあこちゃんにたくさん話を聞いてもらったのですが、その中で気づいたことの中に、
子供の現状と私自身の価値は全く別物。
というものがありました。
自分の価値と、身の回りでおこる不都合な現実を、自分に関連付けているから自分責めがおこり、それが不都合な現実をさらにややこしくしているのだと思います。
なぜそうなってしまうのかというと、もうこれ、単なる習慣だと思います。
自分の思考パーターンです。
以前あったことですが、
大勢参加している飲み会で、一人の人にお酌しに行って、話が盛り上がらなくて気まずい思いをしてすごすご自分の席に戻ったのですが、
この時思ったのは、
「私、口下手だし、こういうの苦手なのよねー。私も相手が乗れるような面白い話ができたらいいのに(ーー;)」
はい、そこ!自分を責めてる。
相手を責めろっていうわけじゃなく、まず自分を責めちゃう、そういう思考パターンなんですよ。
考えようによっては
「相手の人ももう少し盛り上げるのに協力してくれたっていいのにねー」
とか、
「あっちも話下手だったのね」
とか、
も言えるはずなのに、全部が自分のせいに思えてしまう思考パターン。
これと同じだと思ってください。
そしてこれは、たぶん、自分に対する自分の前提をひっくり返していく第一歩になるのではないかと思います。