小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「食糧安保論」がかえってリスクを高める理論的根拠&立憲・維新の国会共闘について

2022-09-26 01:24:48 | Weblog

17日のNHK Eテレで食料安保についてのシンポジウム番組を見た。大学教授など食糧問題の専門家たちの討論番組だったが、濃淡は多少あれども、食糧自給率を上げるべきという意見の持ち主ばかりで、食料自給率の向上がものすごいリスクを抱え込むことになるという認識を持った人が誰もいなかったのは、討論番組としての在り方にかなりの疑問を持った。

なお、私事だが、前回ブログで書いた「リハビリ入院」は病院側の都合でしばらく先になった。で、週に1回くらいのペースでブログを書くことにした。

ただ、以前のように長文の記事を一気に書く体力はないので、何日かかけて書こうと思っている。

 

  • 日本が直面している「安全保障」問題は食糧自給率だけではない

農水省によれば、2021年度の食料自給率はカロリーベースで38%、生産額ベースで63%である。その自給率を2030年度にはカロリーベースで45%、生産額ベースで75%にアップさせることが目標らしい(農水省ホームページより)。

もちろん食糧自給率のベースとして計算されるのは国内産の農畜水産物が対象で輸入原材料の国内加工食品は含まれない。

読者の方の誤解を防ぐためにあらかじめお断りしておくが、私は食糧自給率の向上に反対しているわけではない。国内産品の生産性向上によって国際競争力が向上して、その結果として自給率が向上すれば、それに越したことはないと思っている。が、政策的に国内産品の競争力を向上させて輸入増を防ぐといった「愚」は、巨大なリスクを伴う。そのことを論理的に検証するのが本稿の目的である。

そうした前提の上で、いま日本が直面している安全保障上のリスクについて考えてみよう。

一つは本稿のメイン・テーマである食糧問題。中高年の方はご記憶だろうが、日本はかつて大飢饉に襲われ外米の緊急輸入で何とか凌いだ年がある。1088年だが、この年は確か「梅雨明け宣言」が出せなかった冷夏で稲作をはじめ穀類や野菜類は壊滅的な不作だった。

スーパーの店頭からお米がなくなるということはなかったが、今だったら「転売ヤー」が暗躍していたかもしれない。この年の飢饉がきっかけになって「食糧安保」族が続出することになった。

 

が、政策的に食糧安保を向上させることがベストの選択なのか。国民の大半は「食料は国産できるから自給率を向上させることは可能」と短絡的に考えているようだが、そんな単純な話ではない。仮に日本が鎖国政策をとって国内自給を目指したとしても、1億2000万の日本人が食べていけるだけの食料を確保することは不可能なのだ。

総務省の推計によれば、江戸時代の人口は約1200万人(平均値。江戸時代末期はかなり増えている)。今の10分の1だ。それでも飢饉の年には村長(むらおさ)が死刑を覚悟で「百姓一揆」を主導したくらいだ。

国民は、いかなる政治体制下であっても、食えなくなったら必ず暴動を起こす。「兵士すら食糧難」と喧伝されている北朝鮮で暴動が生じていないのは、豊かな食生活ではなくても国民が何とか食べられる状態にあるからと、私は想像している。食糧安保の問題点は後で書く。

 

  • エネルギー安保は食糧安保より重要だ

言っておくが、今の農畜水産物の生産・飼育・漁獲は昔のようにマンパワーだけでは成り立たない。コストに占めるエネルギー費用は年々上がっており、もしマンパワーだけで1億2000万人の食料を確保しようとしたら、市場価格は現在の何倍になるだろうか。世界1物価が高いニューヨークのラーメン(日本円で2000円以上しているようだ)を上回ることは必至だ。

そして我が国のエネルギー自給率は食糧自給率の3分の1以下の11.8%でしかない(2018年度)。日本のエネルギー自給率は主要国中34位と最低クラスで、アメリカの92.6%、イギリス68.2%、フランス52.8%はおろか、ウクライナ戦争のあおりでロシアからの天然ガス輸入をストップしているドイツの36.9%の足元にも及ばない。お隣の韓国ですら日本を上回る16.9%だ。

日本が政策的に工業立国から脱皮して観光などの省エネ産業構造に転換するというなら話は別だが、アベノミクスの円安政策にもみられるように、エネルギー多消費型の先端工業製品を重点産業にしている政策の下では、「省エネ」は遅々として進まないだろう。

さらに日本のエネルギー事情を見ると、東日本大震災以降、原子力発電への依存度が低下し、地球温暖化の原因と言われている化石燃料に頼る火力発電への依存度が急増している。日本の発電量に占める火力発電の依存度は、1960年度は約5割だったのが、2015年には約8割に増えた。

経産省資源エネルギー庁の計画によれば、太陽光・風力・地熱などの再生可能エネルギーの割合を2030年度には22~24%に増やす計画だが、再エネのコストを飛躍的に下げる技術や大容量蓄電池の開発が前提で、現在の技術水準で原子力や化石燃料への依存度を引き下げることは不可能。また、仮に技術開発が急速に進んだとしても、日本の地政学的自然環境条件から国際競争力を持てるほどの再エネ国内調達は困難を極める。結局、安価な再エネ生産国から大容量蓄電池を使って輸入するしかないというのが日本の再エネ事情だ。

実は、ある意味、資源がないということはかえって有利な状況だと言えなくもないのだ。

というのは、なまじ国内に資源があると、その資源保護の政策をとらざるを得なくなるからだ。現にアメリカは、埋蔵エネルギー資源で国内需要をすべて賄おうとすれば、十分可能だ。国際原油相場が高騰している現在、おそらくアメリカのエネルギー自給率は2018年の92.6%からかなり上昇していると思われる。国内の産油コストが相対的に割安になったからだ。

そういう意味では、私が1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇 日米経済摩擦を解決するカギ』で書いた「石油ショックを“神風”に変えることができた日本の事情」が日本を世界のエレクトロニクス最先端国にしたことでも明らかだ。

原油のほとんどを中東からの輸入に頼っていた日本は先進国の中で最も打撃を受けた。その結果、日本の産業界は「省エネ省力」「軽薄短小」「メカトロニクス」を合言葉に技術革新の総力を注ぎ込んだ。一方、当時の技術最先端国だったアメリカは、産油国でもあったため、日本のような対策を講じなかった。そのうえアメリカは「産業空洞化」と言われる工場の海外進出を進めており、エレクトロニクス技術で後発の日本に逆転されてしまう。

一方、自動車や家電製品で世界市場を席巻した日本はその後、安価な労働力を求めて韓国や中国に工場移転を進め、アメリカと同様「産業空洞化」を生じてエレクトロニクス技術トップの座から滑り落ちてしまった(自慢するわけではないが、当時私は雑誌記事や単行本で何度も警鐘を鳴らし続けたが…)。

いかにエネルギー安保が重要かがお分かりいただけただろうか。「ない」ことはチャンスでもあるが、問題がとりあえず解決すれば「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」国民性の象徴ともいえる日本の産業政策の結果である。

 

  • 政府の「抑止力強化」政策は逆効果だ

最近、中国の海洋進出、とりわけ「台湾有事」問題や、北朝鮮の核ミサイル開発を巡って「抑止力強化」の世論形成が政府やメディアで盛んにおこなわれている。

この問題については前回のブログで浅堀したが、すでに読まれた方はこの項は読み飛ばして結構。未読の方のために、その個所を張り付ける(一部加筆)。

 

中国が、台湾周辺で軍事的挑発行動を繰り返していることに関連して、日本国内で「台湾有事」を懸念する声が高まりつつある。「台湾有事は尖閣諸島有事を意味する」といった非論理的短絡論が大手を振ってまかり通りつつある。が、突発的なアクシデントが起きない限り「台湾有事」はあり得ない。

もちろん、中国政府が台湾を中国政府の統治下に収めたいというのは習近平以前から中国政府の宿願である。が、そんな兆候は少なくとも今のところない。

その理由は台湾(中華民国)の蔡英文政権下での政状が安定しているからだ。国の政権の安定度は経済の安定度に比例する。台湾は人口2300万人余と小規模ながら、電子産業分野で世界有数の先進的地位を確立している。台湾の経済力やエレクトロニクス技術力は、中国(中華人民共和国)にとっても喉から手が出るほどに魅力的だが、肝心の蔡政権がびくともしない。経済が安定しているうえ、人口比で96.7%を占める漢民族は第2次世界大戦後、毛沢東軍に追われて台湾に移り住んだ蒋介石軍やその支持層が中心。中国との貿易で稼いでいる親中国派もいるが少数。日米韓を始め、台湾の電子製品は世界中に散らばっている。中国政府としても、おいそれとは手を出せない構造になっている。

ここで、「返還後、50年間は一国二制度を維持する」との国際公約を破って、中国が香港を「中国化」に踏み切れた条件を見てみよう。

香港の住民も大多数は漢民族である。かつてはイギリスの統治下にあったが、中国に返還されたのち、中国政府によって傀儡政権が誕生し、民主派勢力との対立が激化するようになった。中国政府は、親中国派が政権を維持している間に永続的な親中国政権を確立すべく「国安法」を制定、民主派を根こそぎにすることにした。香港は中国政府の管轄下という国際社会の承認があったからできたことだ。なお、「国家」の重要な成立条件の一つに法定通貨の統一性があるが、香港の法定通貨は中国の「人民元」ではなく「香港ドル」である。「一国二制度」は今もなお継続中だ。

台湾はどうか。「(ニュー)台湾ドル」と「台湾元」(人民元とは違う)が通貨として併用されている(法定通貨は「ニュー台湾ドル」)。また台湾は「国家」を標榜しているし(日米は中国との国交回復の際、台湾の国家承認を取り消したが)、国際社会では台湾を国家承認している国は多い。プーチンがウクライナ侵攻を始める際の口実にした「ロシア系住民の保護」といった類の口実も、習近平中国は台湾に対しては使えない。

よく知られているように、対台湾政策は、アメリカはダブル・スタンダードだ。ニクソンが日本の頭越しに中国との国交回復を実現し、「一つの中国」を承認した後も米議会は台湾との同盟関係の継続を決議した。日本政府はアメリカのダブル・スタンダードが理解できなかったのかもしれないが、中国政府に丸められてオンリー・スタンダードにしてしまった。そういう意味で国際社会から、日本は節操のない国とみなされている。

日本の無節操さは置いておくとしても、中国はアメリカや国際社会と事を構えても台湾を手中に収めようとするリスクはとらない。得るものより失うもののほうが大きいからだ。もし台湾で親中国派が多数を占めるような事態になった時は、親中国派の保護を口実に台湾の軍事制圧に乗り出す可能性はあるが、今のところ、その可能性はほとんどない。だから中国の挑発行為は単なる嫌がらせと無視していればいい、少なくとも日本は…。ただし、中国が台湾周辺海域で挑発行為を繰り返しているのは、台湾が挑発に乗っていたずらに軍事的アクシデントを起こすことを期待してかもしれない。台湾は絶対に中国の挑発に乗ってはならない。侵攻の口実を与えるだけだからだ。

なのに「台湾有事」を日本政府が声高に叫ぶ目的は何か。今更アメリカのようにダブル・スタンダードに切り替えることもできないため、「台湾有事は尖閣有事を意味する」などと意味不明な主張を繰り返してアメリカの台湾防衛政策に乗っかり日本の安全保障を危うくしているのだ。多くのメディアも、政府のマインド・コントロールあるいは印象操作に加担して「抑止力強化」思想をばらまいているのが現実。

南沙諸島の軍事基地化など、中国の海洋進出の巧みさは、反発する国との軍事的衝突を回避しつつ行われていることを見ても歴然。せこいやり方でアメリカに追随しつつ軍事力強化を図ろうというのが日本政府の伝統的手段だ。

「自国の防衛は他国任せにしない」という毅然たるスタンスを確立したうえで、敵を作らない外交努力を続ける――それが国際社会から信頼を得る最善の安全保障策ではないだろうか。 

 

安倍元総理が、モリカケ疑惑で窮地に陥った時、北朝鮮が襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射したのを千載一遇のチャンスとばかりに衆議院を解散し、「国難突破」選挙と位置づけ、まんまと衆院選で大勝利を収め「1強体制」を揺ぎ無いものにした「教訓」を私たちは忘れてはならない。

 

  • 閑話休題――日中国交正常化50周年、日本の外交は?

今月29日の日中国交正常化(国交回復)調印50周年を控えて、18日のNHK『日曜討論』は中国とどう向き合うべきかというテーマで学者たちによる討論番組を放送した。それはいいのだが、キャスターの星氏が番組の冒頭や討論中に、繰り返し「覇権主義的行動を強めている中国」と発言したことが気になった。さらに、世論調査の結果として対中関係について「強化すべき」11%、「慎重であるべき」55%という結果まで何回もテロップで流した。この報道が中国に伝われば、中国国民の対日悪感情を増幅しかねない。

 

確かに習近平中国が南沙諸島の軍事基地化や尖閣諸島や台湾周辺での示威活動など、東南アジアにおける力を誇示しようとしているのは事実で、そうした中国との向き合い方について日本がどうあるべきかを考える必要性を、私は否定するつもりは毛頭ない。

が、覇権国家を目指しているのは中国だけではない。アメリカが中国の台頭やロシアのウクライナ侵攻に神経を尖らせているのは、国際社会におけるアメリカの覇権が相対的に弱体化し、そのことに焦りを感じているからに他ならない(私は反米主義者ではない。むしろ海外では一番親しみを感じている国だ)。

が、NHKが局外の評論家や学者が言うのならまだしも、NHK職員のキャスターが、あたかも中国だけが「覇権主義的行動を強めている」といった認識を持っていることは極めて危険と言わざるを得ない。

前回のブログでも書いたが、日本人はメディアによって作られた「空気」に流されやすい。多くの人たちと同じように考え、同じように行動することが楽だし、また安心感を持つ。それはそれで日本人の国民性のいい面もあるので一概に否定はしないが、欧米人のような個人主義ではないから主体性を喪失しかねない。

 

旧統一教会問題もそうだが、前回ブログで書いたように、教会のトップは別として幹部信者(企業で言えば「中間管理職」に相当するといってもいいかもしれない)は、一般信者に対しては「霊感商法」の加害者として機能しているが、実は彼ら自身がマインド・コントロール下にあり、一般信者に多額の献金をさせることが一般信者を悪魔の手から救うことを意味し、ひいては自分自身が信徒としてより高みにあがれると思い込んでいるようだ。

だから彼らはオウム真理教のようなテロ行為を行っているわけではないし、また詐欺を働いているという自意識もない。もし、教団トップが文書による通達(メールも含む)で、幹部信者に「いかなる手段を使っても献金を集めろ」といった証拠でもあれば、組織ぐるみの詐欺行為として摘発し、教団を解散させることができるかもしれないが、そういった法的根拠もなく「解散させるべきだ」という過激な世論が形成されているのは、世論がメディアのマインド・コントロール下に置かれていることを何よりも雄弁に物語っている。

 

同様に、中国だけでなく、アメリカも含めて常に一定の警戒心を持ってウォッチするのはいいが、いたずらに特定の国を敵視するかのようなふるまいは絶対避けるべきだ。前回のブログでも書いたが、最善の軍事的「安全保障」策は「敵を作らないこと」である。

日米安保条約は堅持すべきと思うが、日本の地政学的状況にあって最善の外交は、偶発的衝突の回避も含めて、米中の東南アジアにおける覇権争いをやめさせるための橋渡しをすることだ。覇権争いで、どっちが勝っても失うもののほうが両国とも大きい。台湾問題も、両国が理性的に解決方法を見つけるよう、日本が橋渡しをすべきだ。

それを、中国の海洋進出だけを危険視してアメリカの覇権擁護のために「軍事的抑止力」を強化すれば、中国からすれば日本は敵対国になる。

世論はメディアの誘導によって(メディア自身は国民をマインド・コントロールしようとは考えていないと思うが)、しばしば極端に走る。私は旧統一教会の「霊感商法」や中国の「覇権主義」を擁護するつもりは毛頭ないが、私のブログを短絡的に読むと「やはり擁護しているのではないか」と受け取る方が少なくないと危惧している。メディアも、意図はなくても報道の在り方で世論をマインド・コントロールしかねないという自覚を持ってほしい。

 

  • 結び――食糧自給率の向上はかえってリスクを拡大する

いま世界の潮流は超大国による「ブロック経済圏」囲い込みの競争激化状態にある。ドイツ、フランスが中心になって構築したEU、中国の一帯一路、日本が中心のTPP,アメリカが主導したEPAやFTAなどが「経済圏拡大」を巡って激しい競争を繰り広げている。

自由貿易の拡大を目指したTPPは一時アメリカが主導した時期もあったが、「アメリカ・ファースト」を掲げたトランプが大統領に就任した直後、アメリカは離脱した。TPP自由貿易では、アメリカは輸出増より輸入超過になるとトランプは考えたからだ。トランプは米産業界の国際競争力を回復させるため、鉄鋼・アルミ製品や自動車(部品も含む)に高率関税をかける一方、貿易政策では2国間協定(EPA)などで自国産業を活性化しようと考えた。

が、第2次世界大戦勃発の経済的要因になった「ブロック経済圏」対立時代と違って、今日の経済圏に加盟しようとする各国はそれぞれの思惑があっての加盟だ。つまり経済圏加盟国の関税引き下げによる自国生産品の輸出増を狙っての参加だから、輸出より輸入超過になったら離脱することが目に見えている。現にトランプの保護貿易政策がそのことを明白に物語っている。

アメリカが離脱したのち、日本がTPPのリーダー的立場になったが、日本政府の目的はTPP加盟国への工業製品の輸出拡大だ。が、アメリカが抜けた後、日本製の高性能、高機能の工業製品の輸出がどれほど増えるだろうか。日本の工業製品の購買層と見込まれる高所得層は、アジア諸国でも少子高齢化が急速に進んでおり、国民の所得格差も広がっている。

一方、TPP加盟のアジア各国からは日本は「おいしい国」と思われている。もし日本製品の輸入が拡大することになれば、その見返りとしておそらく農畜産物などの輸入枠拡大や関税引き下げを日本に要求する。

「コロナ感染対策と社会経済活動の両立」という不可能な政策を打ち出した日本政府のことだから、「工業製品の輸出拡大と農畜産業者の保護」という不可能な両立政策を打ち出して国民を煙に巻くつもりかもしれないが、国民は言葉に騙されても、日本への輸出拡大を要求する国の政府は騙せない。

もちろん、日本の農畜産物の生産性が向上して海外との競争に勝てるのであれば、関税を引き下げても大丈夫だが、海外との競争に勝つための保護的政策をとれば海外からの反発は必至だ。日本政府自身がTPPから離脱するか、農畜産業者を見捨てるかの二者択一を迫られる。

さらに大きな問題もある。何らかの政策で日本の食料自給率を高めすぎると、もし日本が飢饉に襲われたとき、海外からのしっぺ返しが生じないとは限らない。実は、こちらのほうが重大なリスク要因になりかねないのだ。

すでに述べたが、1988年の冷夏で日本は外米(主にタイ米)の緊急輸入に踏み切った。その年は日本だけの特異な自然現象による飢饉だったが、昨今のような世界的規模での自然災害が日本の飢饉と同時に生じたらどうする?

世界の歴史は、国民が植えたときは必ず暴動が起き、権力が崩壊することを証明している。「兵士でさえ、食うや食わず」と喧伝されている北朝鮮で暴動が生じていないのは、おそらく北朝鮮国民が飢餓状態にはまだ陥っていないからだと思う。

世界的な異常気象によって、世界中が飢饉に襲われたときは、交通事故に遭遇したとあきらめるしかないが、そういうケース以外の「食糧安保」の最善策は、日本が万一、飢饉に襲われたときの対策つまり海外からの調達先を可能な限り多く確保しておくことだ。エネルギー安保と同じ方法だ。

ただでさえ、零細農畜産家は後継者難で「自分の代限り」と考えている人たちが多い。後継者を育成するには、生産性向上で儲かる事業にできるか、さもなければ手厚い保護政策で儲かる仕組みを作るしか方法はない。しかも日本の場合、山地が陸地の大半を占めており、アメリカやフランスのようにヘリコプターで種まきをするといったことは不可能だ。日本のような農畜産業立地に恵まれていない国で飛躍的に生産性を向上できれば、農畜産業適地が多い国はさらに生産性を向上できることになる。

これまで日本は選挙の時の票田のために零細農畜産業者を優遇してきたが、経済のグローバル化が進むにつれて、そうした保護政策は発展途上国から厳しい目で見られるようになり、食管法の廃止など保護政策の見直しを迫られてきた。いまさら歯車を逆回転することは、世界が許さない。

 

【追記】メディアの世論調査についての疑問

17,18日の二日にわたって毎日新聞とフジ産経グループがRDD方式による全国世論調査を行った。RDD方式というのは、コンピュータでランダムに調査対象の電話番号を選び、主に自動音声と選択ボタン方式でアンケートを取る方法だ。以前は固定電話だけでアンケート調査をしていたが、携帯しか持たない世帯が増えたこともあって、数年前から携帯にも調査対象を広げている。

携帯に電話する場合、地域偏差が生じないように、最初に「お住まいの地域」を尋ねることにしている。問題は、メディアによって調査結果に大差が生じることだ。メディアによっては誘導的な質問をすることがあるようだが、内閣支持率のように「支持するか、しないか」の二択しかない場合、質問方法で回答を誘導することは不可能だ。

なのに、毎日の場合は内閣支持率が危険水域とされる30%を切る29%になり、フジ産経の場合も支持率は前回(8月)に比べ大幅に減少したものの42.3%と、まだ安定水準だ。同じ曜日の調査なのに、なぜ13ポイントもの大差が生じるのか、疑問を持たざるを得ない。

こうしたギャップの存在はあらゆるメディアも認めているし、また世論調査結果にかなりの関心を寄せている一般国民もわかっていることだが、どちらかというと政府寄りの読売・フジ産経グループの調査結果と、批判的な記事が多い朝日・毎日の調査結果にかなりの確率で大きな乖離が生じている。

「メディアが調査結果を操作しているのではないか」と、うがった見方をする人もいるようだが、さすがにそれはないと思う。もし、そういう操作をして、外部に漏れでもしたらメディアにとって命取りになるからだ。官公庁と同様、代替手段がない公共放送のNHKを除いて民間メディアの場合、トップの引責辞任くらいでは収めることができない。

 

なおフジ産経グループの場合、自民議員と旧統一教会の関係や安倍国葬問題についてもアンケート調査をしているが、その結果は内閣支持率と真逆の結果だ。「自民議員は旧統一教会との関係を断てるか」との質問に対して「断てると思う」が11.3%、「断てないと思う」が83.3%を占めた。また安倍国葬問題については「賛成」が31.5%、「反対」が62.3%だ。国葬についての岸田総理の説明についても「納得できる」が18.9%で「納得できない」が72.6%を占めている。政府に対する不信感が如実に表れているのに、なぜか内閣支持率は不支持率に逆転されたものの、まだ42.3%と安定水域にある。もし、フジ産経グループのトップが「内閣支持率の操作」だけを指示したとしたら(そういう事実があったら、必ず外部に漏れる)、バカ丸出し(頭隠して尻隠さず)だ。

「世論調査の七不思議」とでも言うしかないか~

 

ついでにNHKの世論調査によくある「賛成」「反対」以外の「どちらとも言えない」という選択肢について一言。いかなる政策も、回答者の状況によってメリットを受ける人とデメリットのほうが大きい人がいるし、また立ち位置の違いを超えても、メリットとデメリットがある。それは薬の効果と副作用の関係と同じだ。

メリットとデメリットを論理的に比較したうえで「いまの段階では判断しかねる」という意味での「どちらとも言えない」ならいいのだが、おそらくこの選択肢を選んだ人の大半は「あまり関心がなく、よくわからない」という人たちだと思う。だから深く考えたうえで「どちらとも今は判断がつきかねる」という意味の「どちらとも言えない」と、「あまり関心がないので判断できない」という意味での「分からない」の選択肢は別にすべきだと思う。

実際、私自身小泉内閣の「郵政民営化」政策に関して言えば、当時は「賛成派」だったが、今は「失敗だった」と考えている。郵便局の基幹事業である郵便物の集配業務がメール(LINEを含む)にとって代わられ収益性が悪化しており、郵貯も低金利と優良融資先減少のダブルパンチで、かんぽ生保で利益を上げるしかなくなったのが「かんぽ詐欺」の原因になったと思うからだ。

 

なお次回ブログは「なぜ円安に歯止めがかけられないのか」をテーマに書く予定。今日(22日)の『羽鳥モーニングショー』では大半の時間をこの問題に割いたが、メイン・コメンテータの玉川氏も頓珍漢な主張をしていたし、いま売れっ子経済評論家の加谷氏も半分くらいしか理解していない。

この問題を解くキーワードは、明治維新以降の殖産興業政策(輸出産業偏重主義)と、日本独特の雇用形態(正規社員に対する超保護主義=終身雇用制度。年功序列はほぼ崩壊しつつある)だ。

またキーポイントは、1985年の「プラザ合意」で円は2年間に240円台から一気に120円台に高騰したのに、なぜ日本経済は失速せず成長し続けることができたのか。さらに1989年9月~90年6月まで延々とロングラン交渉を続けた「日米構造協議」の意味を理解しないと、アベノミクス=日銀・黒田総裁の超金融緩和政策を岸田政府もやめられない理由がわからない。

なお、米FRBのパウエル議長がいくら高金利政策を実施しても、現在の物価高を食い止めることは不可能。

そうしたマクロ経済の根幹にかかわる問題について書く予定。乞うご期待。

 

【追記2】立憲・維新の政策合意について

報道によれば、立憲と維新が21日、6項目の政策で合意し、国会で「共闘する」ことになったようだ。合意内容については多少不満だが、とりあえず野党がバラバラでは岸田内閣はほとんど「死に体」になっていても、「自公強権体制」はびくともしないので、この「合意」をたたき台にして全野党が共闘体制を作ってもらいたいと願っている。

合意内容の要旨は次の6点(23日付朝日新聞より)。

 1 20日以内に国会召集を義務付ける国会法改正案を作成し、臨時国会の冒頭で提出

 2 10増10減を盛り込んだ公職選挙法改正案ならびに関連法案は必ず今国会で処理

 3 保育園・幼稚園などの通園バス置き去り事故をなくすための法案を早期に臨時国会に提出

 4 いわゆる文書通信交通滞在費について、使途の公表などを定めた法案成立を目指す

 5 教団問題で関心が高い霊感商法や高額献金をめぐり、法整備も含め対策を講じる協議の実施

 6 厳しい状況にある若者や子育て世代への経済対策を提案し、政府に実現を求めていく

ただ両党には合意の実施について温度差があるようで、立憲は国政選挙での共闘も視野に入れているようだが、維新は否定的だ。

6項目中、私が「多少不満」としたのは第2項。そもそも現行の「小選挙区比例代表並立制」を前提にした現行「公職選挙法」の改正を目指していることだ。

そもそも現行の衆院選挙制度は、「政権交代可能な2大政党政治」の実現だったはず。確かに一度はこの選挙制度の下で民主党政権が実現したが、政権維持に失敗して以降、政権交代は一度も実現していない。

はっきり言えば、現行選挙制度が続く限り、自公政権は革命でも起きない限り永続する。そういう致命的な欠陥を、現行選挙制度は持っているからだ。

現行選挙制度に移行する際、選挙制度の変更目的は「政権交代可能な2大政党政治」の実現だったはず。モデルにしたのはイギリスやアメリカ。だが、イギリスもアメリカも政党は二つだけ(イギリスは保守党と労働党、アメリカは共和党と民主党)ではない。2大政党以外にイギリスには20、アメリカには51もの弱小政党がある(地域政党を含む)。この2大国以外の大半の民主国家は多党政治である。

実は日本も55年体制下では事実上「2大政党」時代が続いた。自民党と社会党である。が、が、社会党の政治理念がマルクス主義を基本理念にしていたため、日本では「非現実的」と考える人たちが多数を占め、政権をとる機会がほとんどなかった。もし、社会党がリベラル政党として立ち位置を築いていたら、自民内リベラル派も同調して「政権交代可能な2大政党政治」がとっくの昔に日本でも実現していただろう。

私は1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇 日米経済摩擦を解決するカギ』で、戦後の民主化によって産業界だけでなくあらゆる分野で「弱者救済横並び」のシステムが構築されてきたことを解明している。金融業界での「護送船団方式」もその典型だし、零細農家を保護するための「食管法」(今は廃止されているが)も、「日米構造協議」でアメリカの圧力によって廃止された(中小零細商店を保護するための)大店法、また低学力の生徒の底上げによる学力の平均化を目指した(つまり能力のある生徒の能力をさらに伸ばそうとしない)教育方針もそうだ。

その「弱者救済横並び」方式が政治の世界にも導入されたのが、選挙制度改悪での「比例代表制」の導入である。その結果、無数とまでは極論しないが、「政権交代可能な2大政党制」ではなく、弱小多党体制が生まれてしまった。当たり前の話だ。別に彼らの政治活動を否定するつもりは毛頭ないが、比例がなければ維新をはじめ、れいわ新撰組、NHK党、参政党などが誕生する余地は全くなかった(維新だけは地域政党として存続できた可能性がある)。つまり改悪以前から存在していた公明党や共産党への「弱者救済」配慮が裏目に出た結果、今の「自公1強体制」が盤石になってしまった。

実は、中選挙区制下でも政権は一度交代している。日本新党、社会党、新生党、公明党、民主党による「野合政権」の細川内閣である。細川内閣は1993年8月に成立し、翌94年4月に崩壊した短期政権だったが、この細川政権が導入したのが「小選挙区比例代表並立制」だった。その時、自民党幹部たちが「シメタ」と思ったかどうかは私の知ったことではないが、もともと弱小政権だった細川内閣だから弱小政党救済のために「比例代表制」を導入したのだろうが、だったら「政権交代可能な2大政党政治」などというお題目を立てるべきではなく、民意を限りなく正確に反映する選挙制度にするのであれば、多党政治を前提にした「比例代表」オンリーにすべきだった。実際、イタリアなどがそういう選挙制度だし、ドイツも比例代表選出に重きを置いている。

ただし、比例代表オンリーの場合、個々の議員の自由度が100%制限され、ロボット議員を選ぶことを意味する。日本では事実上、議員の投票行動を所属政党が拘束するケースが多く、党の方針に背くことが困難である(党議拘束)。日本では共産党だけが「比例代表オンリー制」を主張しているが、それは共産党が宗教団体的組織で、党のトップ(宗教団体の教祖に相当)が絶対的権限を持ち、逆らえない状況に所属議員が置かれているせいでもある。そうした状況を維持するため、国家から支給される議員報酬も、いったん共産党本部がすべて集め、党内の地位や年功に応じて給与を支払うという処遇にしている。

現行選挙制度に代わってからも、一度政権交代があったが、自公にとって代わった民主党政権が「野合政党政権」だったため、細川「野合政権」と同様、政党内での足の引っ張り合いが生じて自滅した。

なお、「1強体制」は安倍政権の代名詞のように思われているが、実は現行選挙制度を利用して「1強体制」を構築したのは小泉政権が嚆矢である。周知のように、小泉元総理は郵政相時代から郵政民営化が最大の目標だった。安倍氏にとっての憲法改正のようなものだったと言っていい。

郵政民営化法案は僅差で衆院を通過したが、参院では成立が危ぶまれていた。もし参院で否決された場合、衆院に差し戻されて再決議できれば「衆院優位」の原則で民営化が実現できただろうが、ただでさえ衆院でも反逆議員が続出した事情もあって再可決が危ぶまれた。で、小泉氏は反逆議員を除名処分にしたうえで衆院を解散し、信を国民に問うことにした。

この作戦が大成功。総裁選で「自民党をぶっ壊す」と国民受けするアジテージで支持を集めた経験と、郵政民営化に賛成したメディアのマインド・コントロールによって大多数の有権者も小泉チルドレンを支持した。こうして小泉氏は党内での絶対的権力を確立、郵政民営化だけでなく小泉内閣の方針に逆らう議員はすべて「抵抗勢力」視され、「1強体制」を構築したというわけだ。

これを小泉氏の側近としてみてきた安倍氏が、モリカケ疑惑で窮地に追い込まれたとき、偶然にも北朝鮮が襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射、これを奇貨として「国難突破解散」に打って出て大勝利。小泉政権と同様の「1強体制」の構築に成功したというわけだ。

こうした経緯を見ると、現行選挙制度が「1強体制」の構築にどれほどの大きな役割を果たしたかがお分かりいただけたと思う。岸田政権は、小泉「1強」、安倍「1強」がどのようにして構築できたのかのノウハウを学んでいないため、総理総裁になれば自動的に強権を持てると思い込んでいる節が垣間見える。そのため、本音は弔問外交の展開で不動の地位を固めようとして「安倍国葬」をぶち上げたものの、弔問外交を成功させるためにはバイデンの参列が不可欠なはず。が、岸田氏はバイデンが来てくれるものと独りよがりで思い込んだのか、打診も根回しもせずに国葬期日を発表してしまった。

日本なんか属国としかみなしていないアメリカが、何の相談もなく国葬を公表してしまった岸田氏に不快感を持ったのは当たり前。世界で一番スケジュールがタイトな米大統領が、安倍国葬よりもっと時間のやりくりが困難だったはずの英エリザベス女王の国葬にはすぐに参列を表明したことが、日米関係の実態を見事な程に物語っている。

過去の話を「たられば」で語るのは無意味かもしれないが、もし岸田氏が十分に根回ししてバイデンのスケジュールを最優先したうえで国葬日時を決め、さらにプーチンや習近平も招待していれば、ウクライナ戦争や台湾問題を解決できる糸口を「岸田弔問外交」で見つけることができたかもしれない。政治というのはそういうものだ。

実際、現にイギリスとは間接的に戦争状態にあるロシア・プーチンが女王の訃報に接し最大限の弔意を示したのも、できれば女王の葬儀でのバイデンとの会談で、苦境に陥っているウクライナ問題解決の糸口を探りたかったからに他ならない。英政府は、そうした事態を避けるためプーチンを招待せず、かつ女王の国葬での弔問外交を禁止した。それが国家の矜持というものだ。

あまつさえ、岸田氏は女王国葬への参列の意向まで表明していたのに、岸田氏には招待状も送らなかった。日本という国が、いま海外からどう見られているか、情けない限りだ。

野党もだらしがない。自民党と旧統一教会のずぶずぶの関係を、メディアがこれでもか、これでもかというほど叩いてくれているのに、一致団結して自民を追求し、自公を分裂させるため公明にも揺さぶりをかけるといったことすらできない状況。

岸田政権にとっては、この問題は安倍氏のモリカケ疑惑以上に深刻だ。モリカケ疑惑は安倍氏個人の問題で、北朝鮮の意図しないバックアップがなかったら、「1強体制」どころではなかったはず。が、この問題は、自民がトップの座を入れ替えれば済んだケースで、旧統一教会問題とは雲泥の差がある。野党の追及次第では、自民党分裂の危機が生じていた可能性すらある。

 

この「追記」の結論を書く。まず現行選挙制度の欠陥を国民に周知し、米英型の単純小選挙区制で政権交代可能な2大政党政治を目指すか、さもなければヨーロッパの大半の国やお隣の韓国のように多様な政権交代を可能にする新たな選挙制度への改正を目指すか。それこそ国民に信を問うに足る問題だ。

とりあえず現行選挙制度の下では、小選挙区で自公候補に勝てる見込みがある野党候補に1本化することを、共産党を除く全野党で合意すること。私自身は共産党を毛嫌いしているわけではないが、共産党も含めるとなると野党の足並みが揃わなくなるし、だいいち国民の共産党アレルギーが大きすぎる。共産党が「マルクス教」から脱皮して、革新系リベラル政党に転換すればいざ知らず、信仰的「マルクス教」の信徒集団である間は野党の政権構想には入れない。

野党の方々の奮闘に期待したいのだが…。(24日記)

 

【追記3】 22日、こともあろうに、プーチンが核兵器使用を辞さずとの強硬姿勢を打ち出した。単なる「脅し」アドバルーンではないと、「これははったりではない」とまで付け加えてだ。

この「脅し」(私はあえて「脅し」とみなしている。理由は後で詳述)に対して25日、米大統領の安全保障担当補佐官がテレビ番組で「(もし核兵器を使用したら)ロシアは破滅的な結果を招くことになる」とプーチンの挑発をけん制した。

ロシアの憲法には、核兵器使用可能なケースとして、「ロシア領土が侵犯されたとき」と明記されているようだ。

そこで問題になるのは、「ロシア領土」の解釈である。西側諸国はロシアが不当に占拠した領土(クリミアや東部の一部)を「ロシア領」とは認めていないが、ロシア・プーチンは「ロシア領土」と主張している。北方領土を、日本は「わが国固有の領土」と主張しているのに対して、ロシアは(旧ソ連時代から)「戦争で獲得したロシア領土」と主張している状態と酷似している。

領土問題は、ウクライナや北方領土だけではなく、今でも世界中に数多く存在し、紛争の火種が絶えることがない。こういう場合、国連憲章は国際司法機関(オランダ・ハーグ)での平和的解決を義務付けているが、当事国が裁判での決着に同意しなければ、裁判そのものが開かれない。北方領土に関して言えば日本が訴えてもロシアが応じないし、現に尖閣諸島については日本が「領有権問題は存在しない」と司法の場での解決を拒否している。結局、実効支配している側の勝手な言い分がまかり通っているのが現実だ。

そういう現実を前提に考えると、クリミアなどロシアが実効支配している地域を「自国の領土」と位置づけて、憲法にのっとった核兵器使用を含む実力行使は、プーチンにとっては「正当な防衛手段」ということになる。

すでに述べたが、エリザベス女王の崩御に際し、間接的な戦争相手のプーチンが最大限の弔意を表明したのも、葬儀の場で米バイデンと会談して「ウクライナ問題解決の落としどころ」を探りたいことが目的だった。が、イギリスがその意図を察したのかどうかは不明だが、バイデンには招待状を出したが、プーチンには「知らん顔」。そのうえ、「安倍国葬」を利用して弔問外交を繰り広げようとしてG7各国首脳から総スカンを食らい、岸田総理の面目丸潰れになった日本に比して、イギリスは「国葬での弔問外交禁止」という方針を打ち出した。「国家の矜持」とはどうあるべきか、が問われたケースでもある。

それはともかく、日本では報道されていないが、私はクリミアや東部2州に多いロシア系住民に対するゼレンスキー政権による何らかの差別政策がウクライナ紛争の背景としてあったのではないかと推測している。ウクライナは旧ソ連時代、ソ連邦を形成する有力国の一つだった。が、親ロシア政権のシュワルナゼ大統領の不正事件発覚が発端になって西側政権が誕生、「反ロシア親EU」政策を打ち出した。おそらくシュワルナゼ政権下で不正やり放題だったのかもしれないクリミア半島や東部2州(ドネツク、ルハンスク)のロシア系住民に対する報復だったのかもしれないが、そうした地域紛争が背景にあったのではないかと私は推測している。

西側とくにアメリカは、中国など体制が異なる国の人権問題は重要視するが、「敵国視」しているロシアや中国、北朝鮮、イランなどとは敵対関係にある国の人権問題には大変寛容である。「敵の敵は味方」というわけだ。

私自身の政治的立ち位置は全くの白紙で、あえて言えば「ど真ん中のリベラル志向」であり、人類永遠のテーマである「青い鳥」の民主主義を追い求めている人間だから、特定の価値観や既成概念に一切とらわれないように心掛けている。その結果、右寄りの人からは「左翼」とみなされたり、左寄りの人からは「右翼」とみなされたりといったことがしばしばある。

私はそういう立ち位置で「論理的整合性」だけを基準に考えたり書いたりしているので、色眼鏡をかけて私の主張を見ると、「小林は親ロシア派か」とか「親中国派か」などという誤解を招くようだ。

それはさておき、論理的に考えると、政権が「親ロシア」から「親EU」に変わったというだけで、国家分裂に至るような騒動になることは通常あり得ない。おそらく何らかの民族差別問題が根っこにあったと考えるのが自然であろう(私にとっての「自然」は山際氏の「自然」とは違う)。

 

ただ、いくらプーチンにとっては「正当な行為」であったとしても、地上戦は攻める側が守る側の数倍の兵力を擁していないと勝てないことは歴史が証明している。第2次世界大戦でドイツがソ連に負けたのも、ベトナム戦争でアメリカがベトコンに負けたのも、地上戦での苦戦が敗因になった。ウクライナ戦争も、ロシア空軍の攻撃がことごとく西側が提供した兵器によって無力化され、地上戦では圧倒的に不利な戦いになった結果、プーチンは国内政治基盤も危うい窮地に追い込まれているのではないか、と私は「核兵器使用も辞さず」という強硬姿勢の背景にあるのではないかと推測している。

つまり本来なら圧倒的に優位なはずのロシア軍が「窮鼠」の状況に追い込まれ。「猫を噛むぞ」という姿勢をちらつかせることで、何とか西側とくにアメリカとの和解の落としどころを探ろうというのが、「核兵器使用も辞さず」という「負け犬の遠吠え」だと私は推測している。この「追記」の冒頭で書いた「脅し」と解釈した根拠はこの1点にある。

 

さて、読者諸氏から軽蔑されるかもしれないが、「夢に見た話」を書かせていただく。

私が入院先の病院でコロナに院内感染して、いまも後遺症で苦しんでいることは前回のブログの冒頭で書いた。後遺症の具体的内容までは書かなかったが、一般的に知られている「気だるさ」や「味覚嗅覚」などの症状だけでなく、「せん妄」という精神的錯乱状態に私は陥った。高齢者の後遺症として発症するケースがあるようで、入院先の医師からも説明を受け、「場合によっては手足を拘束することもあります」とまで警告を受け、厚労省のコロナ・コールセンターでもこの症状は確認した。さらにもともと私は記憶力に乏しいことは承知していたが(私が「論理」を重視するのは「記憶力」による知識に乏しいせいでもある)、突然認知症になった。

認知症になって初めて分かったことだが、昔の、とっくに忘れていたことをなぜか思い出したりして記憶がよみがえったりするのだが、直近の5分か10分前の記憶が失われるのだ。また「夢」というのは、目が覚めたら夢を見たことは覚えているのだが、見た夢の中身は記憶にないという経験は皆さんお持ちだと思う。ところが、錯乱状態の中で見た夢は、なぜか鮮明に覚えているのだ(すべての認知症の方に共通する症状かどうかはわからない)。そういう前提で私が見た夢の中身を書く。実は、この夢見の話はNHKふれあいセンターのスーパーバイザーと、介護のケア・マネージャーの方にはお話ししてある。

なぜ私がその場にいたのかは不明だが、プーチンが軍の最高幹部に核攻撃を命じ、私の目の前でその幹部によってプーチンが暗殺されるのだ。

プーチン政権は崩壊し、暫定軍事政権が誕生。新政権はウクライナ攻撃の停止を発表、さらにクリミアや東部2州のロシア系住民に「あなたたちは祖国ロシアに帰ってきてください。祖国はあなたたちの帰国を歓迎するし、あなたたちを必要としています」と呼びかけ、ロシアの占領地域のウクライナへの返還を表明しただけでなく、さらに核禁条約への参加も表明、保有する核兵器の全廃、アメリカへの引き渡しまで表明し、世界が一気に核廃絶に向かって進みだす。その年のノーベル平和賞の選考委員会は、ロシア暫定軍事政権の大統領に「ノーベル平和賞」を授与するか否かで大もめになる。平和への貢献の大きさは全員が認めたものの、殺人者にノーベル平和賞を授与するのはいかがなものかで議論が沸騰したのだ。

私が見た夢はそこまで。この夢が「正夢」になる可能性がゼロではなくなった。夢の話を書くことに、実はためらいがあったのだが…。(26日記)

 


「食糧安保論」がかえってリスクを高める理論的根拠&立憲・維新の国会共闘について

2022-09-26 00:49:42 | Weblog

17日のNHK Eテレで食料安保についてのシンポジウム番組を見た。大学教授など食糧問題の専門家たちの討論番組だったが、濃淡は多少あれども、食糧自給率を上げるべきという意見の持ち主ばかりで、食料自給率の向上がものすごいリスクを抱え込むことになるという認識を持った人が誰もいなかったのは、討論番組としての在り方にかなりの疑問を持った。

なお、私事だが、前回ブログで書いた「リハビリ入院」は病院側の都合でしばらく先になった。で、週に1回くらいのペースでブログを書くことにした。

ただ、以前のように長文の記事を一気に書く体力はないので、何日かかけて書こうと思っている。

 

  • 日本が直面している「安全保障」問題は食糧自給率だけではない

農水省によれば、2021年度の食料自給率はカロリーベースで38%、生産額ベースで63%である。その自給率を2030年度にはカロリーベースで45%、生産額ベースで75%にアップさせることが目標らしい(農水省ホームページより)。

もちろん食糧自給率のベースとして計算されるのは国内産の農畜水産物が対象で輸入原材料の国内加工食品は含まれない。

読者の方の誤解を防ぐためにあらかじめお断りしておくが、私は食糧自給率の向上に反対しているわけではない。国内産品の生産性向上によって国際競争力が向上して、その結果として自給率が向上すれば、それに越したことはないと思っている。が、政策的に国内産品の競争力を向上させて輸入増を防ぐといった「愚」は、巨大なリスクを伴う。そのことを論理的に検証するのが本稿の目的である。

そうした前提の上で、いま日本が直面している安全保障上のリスクについて考えてみよう。

一つは本稿のメイン・テーマである食糧問題。中高年の方はご記憶だろうが、日本はかつて大飢饉に襲われ外米の緊急輸入で何とか凌いだ年がある。1088年だが、この年は確か「梅雨明け宣言」が出せなかった冷夏で稲作をはじめ穀類や野菜類は壊滅的な不作だった。

スーパーの店頭からお米がなくなるということはなかったが、今だったら「転売ヤー」が暗躍していたかもしれない。この年の飢饉がきっかけになって「食糧安保」族が続出することになった。

 

が、政策的に食糧安保を向上させることがベストの選択なのか。国民の大半は「食料は国産できるから自給率を向上させることは可能」と短絡的に考えているようだが、そんな単純な話ではない。仮に日本が鎖国政策をとって国内自給を目指したとしても、1億2000万の日本人が食べていけるだけの食料を確保することは不可能なのだ。

総務省の推計によれば、江戸時代の人口は約1200万人(平均値。江戸時代末期はかなり増えている)。今の10分の1だ。それでも飢饉の年には村長(むらおさ)が死刑を覚悟で「百姓一揆」を主導したくらいだ。

国民は、いかなる政治体制下であっても、食えなくなったら必ず暴動を起こす。「兵士すら食糧難」と喧伝されている北朝鮮で暴動が生じていないのは、豊かな食生活ではなくても国民が何とか食べられる状態にあるからと、私は想像している。食糧安保の問題点は後で書く。

 

  • エネルギー安保は食糧安保より重要だ

言っておくが、今の農畜水産物の生産・飼育・漁獲は昔のようにマンパワーだけでは成り立たない。コストに占めるエネルギー費用は年々上がっており、もしマンパワーだけで1億2000万人の食料を確保しようとしたら、市場価格は現在の何倍になるだろうか。世界1物価が高いニューヨークのラーメン(日本円で2000円以上しているようだ)を上回ることは必至だ。

そして我が国のエネルギー自給率は食糧自給率の3分の1以下の11.8%でしかない(2018年度)。日本のエネルギー自給率は主要国中34位と最低クラスで、アメリカの92.6%、イギリス68.2%、フランス52.8%はおろか、ウクライナ戦争のあおりでロシアからの天然ガス輸入をストップしているドイツの36.9%の足元にも及ばない。お隣の韓国ですら日本を上回る16.9%だ。

日本が政策的に工業立国から脱皮して観光などの省エネ産業構造に転換するというなら話は別だが、アベノミクスの円安政策にもみられるように、エネルギー多消費型の先端工業製品を重点産業にしている政策の下では、「省エネ」は遅々として進まないだろう。

さらに日本のエネルギー事情を見ると、東日本大震災以降、原子力発電への依存度が低下し、地球温暖化の原因と言われている化石燃料に頼る火力発電への依存度が急増している。日本の発電量に占める火力発電の依存度は、1960年度は約5割だったのが、2015年には約8割に増えた。

経産省資源エネルギー庁の計画によれば、太陽光・風力・地熱などの再生可能エネルギーの割合を2030年度には22~24%に増やす計画だが、再エネのコストを飛躍的に下げる技術や大容量蓄電池の開発が前提で、現在の技術水準で原子力や化石燃料への依存度を引き下げることは不可能。また、仮に技術開発が急速に進んだとしても、日本の地政学的自然環境条件から国際競争力を持てるほどの再エネ国内調達は困難を極める。結局、安価な再エネ生産国から大容量蓄電池を使って輸入するしかないというのが日本の再エネ事情だ。

実は、ある意味、資源がないということはかえって有利な状況だと言えなくもないのだ。

というのは、なまじ国内に資源があると、その資源保護の政策をとらざるを得なくなるからだ。現にアメリカは、埋蔵エネルギー資源で国内需要をすべて賄おうとすれば、十分可能だ。国際原油相場が高騰している現在、おそらくアメリカのエネルギー自給率は2018年の92.6%からかなり上昇していると思われる。国内の産油コストが相対的に割安になったからだ。

そういう意味では、私が1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇 日米経済摩擦を解決するカギ』で書いた「石油ショックを“神風”に変えることができた日本の事情」が日本を世界のエレクトロニクス最先端国にしたことでも明らかだ。

原油のほとんどを中東からの輸入に頼っていた日本は先進国の中で最も打撃を受けた。その結果、日本の産業界は「省エネ省力」「軽薄短小」「メカトロニクス」を合言葉に技術革新の総力を注ぎ込んだ。一方、当時の技術最先端国だったアメリカは、産油国でもあったため、日本のような対策を講じなかった。そのうえアメリカは「産業空洞化」と言われる工場の海外進出を進めており、エレクトロニクス技術で後発の日本に逆転されてしまう。

一方、自動車や家電製品で世界市場を席巻した日本はその後、安価な労働力を求めて韓国や中国に工場移転を進め、アメリカと同様「産業空洞化」を生じてエレクトロニクス技術トップの座から滑り落ちてしまった(自慢するわけではないが、当時私は雑誌記事や単行本で何度も警鐘を鳴らし続けたが…)。

いかにエネルギー安保が重要かがお分かりいただけただろうか。「ない」ことはチャンスでもあるが、問題がとりあえず解決すれば「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」国民性の象徴ともいえる日本の産業政策の結果である。

 

  • 政府の「抑止力強化」政策は逆効果だ

最近、中国の海洋進出、とりわけ「台湾有事」問題や、北朝鮮の核ミサイル開発を巡って「抑止力強化」の世論形成が政府やメディアで盛んにおこなわれている。

この問題については前回のブログで浅堀したが、すでに読まれた方はこの項は読み飛ばして結構。未読の方のために、その個所を張り付ける(一部加筆)。

 

中国が、台湾周辺で軍事的挑発行動を繰り返していることに関連して、日本国内で「台湾有事」を懸念する声が高まりつつある。「台湾有事は尖閣諸島有事を意味する」といった非論理的短絡論が大手を振ってまかり通りつつある。が、突発的なアクシデントが起きない限り「台湾有事」はあり得ない。

もちろん、中国政府が台湾を中国政府の統治下に収めたいというのは習近平以前から中国政府の宿願である。が、そんな兆候は少なくとも今のところない。

その理由は台湾(中華民国)の蔡英文政権下での政状が安定しているからだ。国の政権の安定度は経済の安定度に比例する。台湾は人口2300万人余と小規模ながら、電子産業分野で世界有数の先進的地位を確立している。台湾の経済力やエレクトロニクス技術力は、中国(中華人民共和国)にとっても喉から手が出るほどに魅力的だが、肝心の蔡政権がびくともしない。経済が安定しているうえ、人口比で96.7%を占める漢民族は第2次世界大戦後、毛沢東軍に追われて台湾に移り住んだ蒋介石軍やその支持層が中心。中国との貿易で稼いでいる親中国派もいるが少数。日米韓を始め、台湾の電子製品は世界中に散らばっている。中国政府としても、おいそれとは手を出せない構造になっている。

ここで、「返還後、50年間は一国二制度を維持する」との国際公約を破って、中国が香港を「中国化」に踏み切れた条件を見てみよう。

香港の住民も大多数は漢民族である。かつてはイギリスの統治下にあったが、中国に返還されたのち、中国政府によって傀儡政権が誕生し、民主派勢力との対立が激化するようになった。中国政府は、親中国派が政権を維持している間に永続的な親中国政権を確立すべく「国安法」を制定、民主派を根こそぎにすることにした。香港は中国政府の管轄下という国際社会の承認があったからできたことだ。なお、「国家」の重要な成立条件の一つに法定通貨の統一性があるが、香港の法定通貨は中国の「人民元」ではなく「香港ドル」である。「一国二制度」は今もなお継続中だ。

台湾はどうか。「(ニュー)台湾ドル」と「台湾元」(人民元とは違う)が通貨として併用されている(法定通貨は「ニュー台湾ドル」)。また台湾は「国家」を標榜しているし(日米は中国との国交回復の際、台湾の国家承認を取り消したが)、国際社会では台湾を国家承認している国は多い。プーチンがウクライナ侵攻を始める際の口実にした「ロシア系住民の保護」といった類の口実も、習近平中国は台湾に対しては使えない。

よく知られているように、対台湾政策は、アメリカはダブル・スタンダードだ。ニクソンが日本の頭越しに中国との国交回復を実現し、「一つの中国」を承認した後も米議会は台湾との同盟関係の継続を決議した。日本政府はアメリカのダブル・スタンダードが理解できなかったのかもしれないが、中国政府に丸められてオンリー・スタンダードにしてしまった。そういう意味で国際社会から、日本は節操のない国とみなされている。

日本の無節操さは置いておくとしても、中国はアメリカや国際社会と事を構えても台湾を手中に収めようとするリスクはとらない。得るものより失うもののほうが大きいからだ。もし台湾で親中国派が多数を占めるような事態になった時は、親中国派の保護を口実に台湾の軍事制圧に乗り出す可能性はあるが、今のところ、その可能性はほとんどない。だから中国の挑発行為は単なる嫌がらせと無視していればいい、少なくとも日本は…。ただし、中国が台湾周辺海域で挑発行為を繰り返しているのは、台湾が挑発に乗っていたずらに軍事的アクシデントを起こすことを期待してかもしれない。台湾は絶対に中国の挑発に乗ってはならない。侵攻の口実を与えるだけだからだ。

なのに「台湾有事」を日本政府が声高に叫ぶ目的は何か。今更アメリカのようにダブル・スタンダードに切り替えることもできないため、「台湾有事は尖閣有事を意味する」などと意味不明な主張を繰り返してアメリカの台湾防衛政策に乗っかり日本の安全保障を危うくしているのだ。多くのメディアも、政府のマインド・コントロールあるいは印象操作に加担して「抑止力強化」思想をばらまいているのが現実。

南沙諸島の軍事基地化など、中国の海洋進出の巧みさは、反発する国との軍事的衝突を回避しつつ行われていることを見ても歴然。せこいやり方でアメリカに追随しつつ軍事力強化を図ろうというのが日本政府の伝統的手段だ。

「自国の防衛は他国任せにしない」という毅然たるスタンスを確立したうえで、敵を作らない外交努力を続ける――それが国際社会から信頼を得る最善の安全保障策ではないだろうか。 

 

安倍元総理が、モリカケ疑惑で窮地に陥った時、北朝鮮が襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射したのを千載一遇のチャンスとばかりに衆議院を解散し、「国難突破」選挙と位置づけ、まんまと衆院選で大勝利を収め「1強体制」を揺ぎ無いものにした「教訓」を私たちは忘れてはならない。

 

  • 閑話休題――日中国交正常化50周年、日本の外交は?

今月29日の日中国交正常化(国交回復)調印50周年を控えて、18日のNHK『日曜討論』は中国とどう向き合うべきかというテーマで学者たちによる討論番組を放送した。それはいいのだが、キャスターの星氏が番組の冒頭や討論中に、繰り返し「覇権主義的行動を強めている中国」と発言したことが気になった。さらに、世論調査の結果として対中関係について「強化すべき」11%、「慎重であるべき」55%という結果まで何回もテロップで流した。この報道が中国に伝われば、中国国民の対日悪感情を増幅しかねない。

 

確かに習近平中国が南沙諸島の軍事基地化や尖閣諸島や台湾周辺での示威活動など、東南アジアにおける力を誇示しようとしているのは事実で、そうした中国との向き合い方について日本がどうあるべきかを考える必要性を、私は否定するつもりは毛頭ない。

が、覇権国家を目指しているのは中国だけではない。アメリカが中国の台頭やロシアのウクライナ侵攻に神経を尖らせているのは、国際社会におけるアメリカの覇権が相対的に弱体化し、そのことに焦りを感じているからに他ならない(私は反米主義者ではない。むしろ海外では一番親しみを感じている国だ)。

が、NHKが局外の評論家や学者が言うのならまだしも、NHK職員のキャスターが、あたかも中国だけが「覇権主義的行動を強めている」といった認識を持っていることは極めて危険と言わざるを得ない。

前回のブログでも書いたが、日本人はメディアによって作られた「空気」に流されやすい。多くの人たちと同じように考え、同じように行動することが楽だし、また安心感を持つ。それはそれで日本人の国民性のいい面もあるので一概に否定はしないが、欧米人のような個人主義ではないから主体性を喪失しかねない。

 

旧統一教会問題もそうだが、前回ブログで書いたように、教会のトップは別として幹部信者(企業で言えば「中間管理職」に相当するといってもいいかもしれない)は、一般信者に対しては「霊感商法」の加害者として機能しているが、実は彼ら自身がマインド・コントロール下にあり、一般信者に多額の献金をさせることが一般信者を悪魔の手から救うことを意味し、ひいては自分自身が信徒としてより高みにあがれると思い込んでいるようだ。

だから彼らはオウム真理教のようなテロ行為を行っているわけではないし、また詐欺を働いているという自意識もない。もし、教団トップが文書による通達(メールも含む)で、幹部信者に「いかなる手段を使っても献金を集めろ」といった証拠でもあれば、組織ぐるみの詐欺行為として摘発し、教団を解散させることができるかもしれないが、そういった法的根拠もなく「解散させるべきだ」という過激な世論が形成されているのは、世論がメディアのマインド・コントロール下に置かれていることを何よりも雄弁に物語っている。

 

同様に、中国だけでなく、アメリカも含めて常に一定の警戒心を持ってウォッチするのはいいが、いたずらに特定の国を敵視するかのようなふるまいは絶対避けるべきだ。前回のブログでも書いたが、最善の軍事的「安全保障」策は「敵を作らないこと」である。

日米安保条約は堅持すべきと思うが、日本の地政学的状況にあって最善の外交は、偶発的衝突の回避も含めて、米中の東南アジアにおける覇権争いをやめさせるための橋渡しをすることだ。覇権争いで、どっちが勝っても失うもののほうが両国とも大きい。台湾問題も、両国が理性的に解決方法を見つけるよう、日本が橋渡しをすべきだ。

それを、中国の海洋進出だけを危険視してアメリカの覇権擁護のために「軍事的抑止力」を強化すれば、中国からすれば日本は敵対国になる。

世論はメディアの誘導によって(メディア自身は国民をマインド・コントロールしようとは考えていないと思うが)、しばしば極端に走る。私は旧統一教会の「霊感商法」や中国の「覇権主義」を擁護するつもりは毛頭ないが、私のブログを短絡的に読むと「やはり擁護しているのではないか」と受け取る方が少なくないと危惧している。メディアも、意図はなくても報道の在り方で世論をマインド・コントロールしかねないという自覚を持ってほしい。

 

  • 結び――食糧自給率の向上はかえってリスクを拡大する

いま世界の潮流は超大国による「ブロック経済圏」囲い込みの競争激化状態にある。ドイツ、フランスが中心になって構築したEU、中国の一帯一路、日本が中心のTPP,アメリカが主導したEPAやFTAなどが「経済圏拡大」を巡って激しい競争を繰り広げている。

自由貿易の拡大を目指したTPPは一時アメリカが主導した時期もあったが、「アメリカ・ファースト」を掲げたトランプが大統領に就任した直後、アメリカは離脱した。TPP自由貿易では、アメリカは輸出増より輸入超過になるとトランプは考えたからだ。トランプは米産業界の国際競争力を回復させるため、鉄鋼・アルミ製品や自動車(部品も含む)に高率関税をかける一方、貿易政策では2国間協定(EPA)などで自国産業を活性化しようと考えた。

が、第2次世界大戦勃発の経済的要因になった「ブロック経済圏」対立時代と違って、今日の経済圏に加盟しようとする各国はそれぞれの思惑があっての加盟だ。つまり経済圏加盟国の関税引き下げによる自国生産品の輸出増を狙っての参加だから、輸出より輸入超過になったら離脱することが目に見えている。現にトランプの保護貿易政策がそのことを明白に物語っている。

アメリカが離脱したのち、日本がTPPのリーダー的立場になったが、日本政府の目的はTPP加盟国への工業製品の輸出拡大だ。が、アメリカが抜けた後、日本製の高性能、高機能の工業製品の輸出がどれほど増えるだろうか。日本の工業製品の購買層と見込まれる高所得層は、アジア諸国でも少子高齢化が急速に進んでおり、国民の所得格差も広がっている。

一方、TPP加盟のアジア各国からは日本は「おいしい国」と思われている。もし日本製品の輸入が拡大することになれば、その見返りとしておそらく農畜産物などの輸入枠拡大や関税引き下げを日本に要求する。

「コロナ感染対策と社会経済活動の両立」という不可能な政策を打ち出した日本政府のことだから、「工業製品の輸出拡大と農畜産業者の保護」という不可能な両立政策を打ち出して国民を煙に巻くつもりかもしれないが、国民は言葉に騙されても、日本への輸出拡大を要求する国の政府は騙せない。

もちろん、日本の農畜産物の生産性が向上して海外との競争に勝てるのであれば、関税を引き下げても大丈夫だが、海外との競争に勝つための保護的政策をとれば海外からの反発は必至だ。日本政府自身がTPPから離脱するか、農畜産業者を見捨てるかの二者択一を迫られる。

さらに大きな問題もある。何らかの政策で日本の食料自給率を高めすぎると、もし日本が飢饉に襲われたとき、海外からのしっぺ返しが生じないとは限らない。実は、こちらのほうが重大なリスク要因になりかねないのだ。

すでに述べたが、1988年の冷夏で日本は外米(主にタイ米)の緊急輸入に踏み切った。その年は日本だけの特異な自然現象による飢饉だったが、昨今のような世界的規模での自然災害が日本の飢饉と同時に生じたらどうする?

世界の歴史は、国民が植えたときは必ず暴動が起き、権力が崩壊することを証明している。「兵士でさえ、食うや食わず」と喧伝されている北朝鮮で暴動が生じていないのは、おそらく北朝鮮国民が飢餓状態にはまだ陥っていないからだと思う。

世界的な異常気象によって、世界中が飢饉に襲われたときは、交通事故に遭遇したとあきらめるしかないが、そういうケース以外の「食糧安保」の最善策は、日本が万一、飢饉に襲われたときの対策つまり海外からの調達先を可能な限り多く確保しておくことだ。エネルギー安保と同じ方法だ。

ただでさえ、零細農畜産家は後継者難で「自分の代限り」と考えている人たちが多い。後継者を育成するには、生産性向上で儲かる事業にできるか、さもなければ手厚い保護政策で儲かる仕組みを作るしか方法はない。しかも日本の場合、山地が陸地の大半を占めており、アメリカやフランスのようにヘリコプターで種まきをするといったことは不可能だ。日本のような農畜産業立地に恵まれていない国で飛躍的に生産性を向上できれば、農畜産業適地が多い国はさらに生産性を向上できることになる。

これまで日本は選挙の時の票田のために零細農畜産業者を優遇してきたが、経済のグローバル化が進むにつれて、そうした保護政策は発展途上国から厳しい目で見られるようになり、食管法の廃止など保護政策の見直しを迫られてきた。いまさら歯車を逆回転することは、世界が許さない。

 

【追記】メディアの世論調査についての疑問

17,18日の二日にわたって毎日新聞とフジ産経グループがRDD方式による全国世論調査を行った。RDD方式というのは、コンピュータでランダムに調査対象の電話番号を選び、主に自動音声と選択ボタン方式でアンケートを取る方法だ。以前は固定電話だけでアンケート調査をしていたが、携帯しか持たない世帯が増えたこともあって、数年前から携帯にも調査対象を広げている。

携帯に電話する場合、地域偏差が生じないように、最初に「お住まいの地域」を尋ねることにしている。問題は、メディアによって調査結果に大差が生じることだ。メディアによっては誘導的な質問をすることがあるようだが、内閣支持率のように「支持するか、しないか」の二択しかない場合、質問方法で回答を誘導することは不可能だ。

なのに、毎日の場合は内閣支持率が危険水域とされる30%を切る29%になり、フジ産経の場合も支持率は前回(8月)に比べ大幅に減少したものの42.3%と、まだ安定水準だ。同じ曜日の調査なのに、なぜ13ポイントもの大差が生じるのか、疑問を持たざるを得ない。

こうしたギャップの存在はあらゆるメディアも認めているし、また世論調査結果にかなりの関心を寄せている一般国民もわかっていることだが、どちらかというと政府寄りの読売・フジ産経グループの調査結果と、批判的な記事が多い朝日・毎日の調査結果にかなりの確率で大きな乖離が生じている。

「メディアが調査結果を操作しているのではないか」と、うがった見方をする人もいるようだが、さすがにそれはないと思う。もし、そういう操作をして、外部に漏れでもしたらメディアにとって命取りになるからだ。官公庁と同様、代替手段がない公共放送のNHKを除いて民間メディアの場合、トップの引責辞任くらいでは収めることができない。

 

なおフジ産経グループの場合、自民議員と旧統一教会の関係や安倍国葬問題についてもアンケート調査をしているが、その結果は内閣支持率と真逆の結果だ。「自民議員は旧統一教会との関係を断てるか」との質問に対して「断てると思う」が11.3%、「断てないと思う」が83.3%を占めた。また安倍国葬問題については「賛成」が31.5%、「反対」が62.3%だ。国葬についての岸田総理の説明についても「納得できる」が18.9%で「納得できない」が72.6%を占めている。政府に対する不信感が如実に表れているのに、なぜか内閣支持率は不支持率に逆転されたものの、まだ42.3%と安定水域にある。もし、フジ産経グループのトップが「内閣支持率の操作」だけを指示したとしたら(そういう事実があったら、必ず外部に漏れる)、バカ丸出し(頭隠して尻隠さず)だ。

「世論調査の七不思議」とでも言うしかないか~

 

ついでにNHKの世論調査によくある「賛成」「反対」以外の「どちらとも言えない」という選択肢について一言。いかなる政策も、回答者の状況によってメリットを受ける人とデメリットのほうが大きい人がいるし、また立ち位置の違いを超えても、メリットとデメリットがある。それは薬の効果と副作用の関係と同じだ。

メリットとデメリットを論理的に比較したうえで「いまの段階では判断しかねる」という意味での「どちらとも言えない」ならいいのだが、おそらくこの選択肢を選んだ人の大半は「あまり関心がなく、よくわからない」という人たちだと思う。だから深く考えたうえで「どちらとも今は判断がつきかねる」という意味の「どちらとも言えない」と、「あまり関心がないので判断できない」という意味での「分からない」の選択肢は別にすべきだと思う。

実際、私自身小泉内閣の「郵政民営化」政策に関して言えば、当時は「賛成派」だったが、今は「失敗だった」と考えている。郵便局の基幹事業である郵便物の集配業務がメール(LINEを含む)にとって代わられ収益性が悪化しており、郵貯も低金利と優良融資先減少のダブルパンチで、かんぽ生保で利益を上げるしかなくなったのが「かんぽ詐欺」の原因になったと思うからだ。

 

なお次回ブログは「なぜ円安に歯止めがかけられないのか」をテーマに書く予定。今日(22日)の『羽鳥モーニングショー』では大半の時間をこの問題に割いたが、メイン・コメンテータの玉川氏も頓珍漢な主張をしていたし、いま売れっ子経済評論家の加谷氏も半分くらいしか理解していない。

この問題を解くキーワードは、明治維新以降の殖産興業政策(輸出産業偏重主義)と、日本独特の雇用形態(正規社員に対する超保護主義=終身雇用制度。年功序列はほぼ崩壊しつつある)だ。

またキーポイントは、1985年の「プラザ合意」で円は2年間に240円台から一気に120円台に高騰したのに、なぜ日本経済は失速せず成長し続けることができたのか。さらに1989年9月~90年6月まで延々とロングラン交渉を続けた「日米構造協議」の意味を理解しないと、アベノミクス=日銀・黒田総裁の超金融緩和政策を岸田政府もやめられない理由がわからない。

なお、米FRBのパウエル議長がいくら高金利政策を実施しても、現在の物価高を食い止めることは不可能。

そうしたマクロ経済の根幹にかかわる問題について書く予定。乞うご期待。

 

【追記2】立憲・維新の政策合意について

報道によれば、立憲と維新が21日、6項目の政策で合意し、国会で「共闘する」ことになったようだ。合意内容については多少不満だが、とりあえず野党がバラバラでは岸田内閣はほとんど「死に体」になっていても、「自公強権体制」はびくともしないので、この「合意」をたたき台にして全野党が共闘体制を作ってもらいたいと願っている。

合意内容の要旨は次の6点(23日付朝日新聞より)。

 1 20日以内に国会召集を義務付ける国会法改正案を作成し、臨時国会の冒頭で提出

 2 10増10減を盛り込んだ公職選挙法改正案ならびに関連法案は必ず今国会で処理

 3 保育園・幼稚園などの通園バス置き去り事故をなくすための法案を早期に臨時国会に提出

 4 いわゆる文書通信交通滞在費について、使途の公表などを定めた法案成立を目指す

 5 教団問題で関心が高い霊感商法や高額献金をめぐり、法整備も含め対策を講じる協議の実施

 6 厳しい状況にある若者や子育て世代への経済対策を提案し、政府に実現を求めていく

ただ両党には合意の実施について温度差があるようで、立憲は国政選挙での共闘も視野に入れているようだが、維新は否定的だ。

6項目中、私が「多少不満」としたのは第2項。そもそも現行の「小選挙区比例代表並立制」を前提にした現行「公職選挙法」の改正を目指していることだ。

そもそも現行の衆院選挙制度は、「政権交代可能な2大政党政治」の実現だったはず。確かに一度はこの選挙制度の下で民主党政権が実現したが、政権維持に失敗して以降、政権交代は一度も実現していない。

はっきり言えば、現行選挙制度が続く限り、自公政権は革命でも起きない限り永続する。そういう致命的な欠陥を、現行選挙制度は持っているからだ。

現行選挙制度に移行する際、選挙制度の変更目的は「政権交代可能な2大政党政治」の実現だったはず。モデルにしたのはイギリスやアメリカ。だが、イギリスもアメリカも政党は二つだけ(イギリスは保守党と労働党、アメリカは共和党と民主党)ではない。2大政党以外にイギリスには20、アメリカには51もの弱小政党がある(地域政党を含む)。この2大国以外の大半の民主国家は多党政治である。

実は日本も55年体制下では事実上「2大政党」時代が続いた。自民党と社会党である。が、が、社会党の政治理念がマルクス主義を基本理念にしていたため、日本では「非現実的」と考える人たちが多数を占め、政権をとる機会がほとんどなかった。もし、社会党がリベラル政党として立ち位置を築いていたら、自民内リベラル派も同調して「政権交代可能な2大政党政治」がとっくの昔に日本でも実現していただろう。

私は1992年に上梓した『忠臣蔵と西部劇 日米経済摩擦を解決するカギ』で、戦後の民主化によって産業界だけでなくあらゆる分野で「弱者救済横並び」のシステムが構築されてきたことを解明している。金融業界での「護送船団方式」もその典型だし、零細農家を保護するための「食管法」(今は廃止されているが)も、また低学力の生徒の底上げによる学力の平均化を目指した(つまり能力のある生徒の能力をさらに伸ばそうとしない)教育方針もそうだ。

その「弱者救済横並び」方式が政治の世界にも導入されたのが、選挙制度改悪での「比例代表制」の導入である。その結果、無数とまでは極論しないが、「政権交代可能な2大政党制」ではなく、弱小多党体制が生まれてしまった。当たり前の話だ。別に彼らの政治活動を否定するつもりは毛頭ないが、比例がなければ維新をはじめ、れいわ新撰組、NHK党、参政党などが誕生する余地は全くなかった(維新だけは地域政党として存続できた可能性がある)。つまり改悪以前から存在していた公明党や共産党への「弱者救済」配慮が裏目に出た結果、今の「自公1強体制」が盤石になってしまった。

実は、中選挙区制下でも政権は一度交代している。日本新党、社会党、新生党、公明党、民主党による「野合政権」の細川内閣である。細川内閣は1993年8月に成立し、翌94年4月に崩壊した短期政権だったが、この細川政権が導入したのが「小選挙区比例代表並立制」だった。その時、自民党幹部たちが「シメタ」と思ったかどうかは私の知ったことではないが、もともと弱小政権だった細川内閣だから弱小政党救済のために「比例代表制」を導入したのだろうが、だったら「政権交代可能な2大政党政治」などというお題目を立てるべきではなく、民意を限りなく正確に反映する選挙制度にするのであれば、多党政治を前提にした「比例代表」オンリーにすべきだった。実際、イタリアなどがそういう選挙制度だし、ドイツも比例代表選出に重きを置いている。

ただし、比例代表オンリーの場合、個々の議員の自由度が100%制限され、ロボット議員を選ぶことを意味する。日本では事実上、議員の投票行動を所属政党が拘束するケースが多く、党の方針に背くことが困難である(党議拘束)。日本では共産党だけが「比例代表オンリー制」を主張しているが、それは共産党が宗教団体的組織で、党のトップ(宗教団体の教祖に相当)が絶対的権限を持ち、逆らえない状況に所属議員が置かれているせいでもある。そうした状況を維持するため、国家から支給される議員報酬も、いったん共産党本部がすべて集め、党内の地位や年功に応じて給与を支払うという処遇にしている。

現行選挙制度に代わってからも、一度政権交代があったが、自公にとって代わった民主党政権が「野合政党政権」だったため、細川「野合政権」と同様、政党内での足の引っ張り合いが生じて自滅した。

なお、「1強体制」は安倍政権の代名詞のように思われているが、実は現行選挙制度を利用して「1強体制」を構築したのは小泉政権が嚆矢である。周知のように、小泉元総理は郵政相時代から郵政民営化が最大の目標だった。安倍氏にとっての憲法改正のようなものだったと言っていい。

郵政民営化法案は僅差で衆院を通過したが、参院では成立が危ぶまれていた。もし参院で否決された場合、衆院に差し戻されて再決議できれば「衆院優位」の原則で民営化が実現できただろうが、ただでさえ衆院でも反逆議員が続出した事情もあって再可決が危ぶまれた。で、小泉氏は反逆議員を除名処分にしたうえで衆院を解散し、信を国民に問うことにした。

この作戦が大成功。総裁選で「自民党をぶっ壊す」と国民受けするアジテージで支持を集めた経験と、郵政民営化に賛成したメディアのマインド・コントロールによって大多数の有権者も小泉チルドレンを支持した。こうして小泉氏は党内での絶対的権力を確立、郵政民営化だけでなく小泉内閣の方針に逆らう議員はすべて「抵抗勢力」視され、「1強体制」を構築したというわけだ。

これを小泉氏の側近としてみてきた安倍氏が、モリカケ疑惑で窮地に追い込まれたとき、偶然にも北朝鮮が襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射、これを奇貨として「国難突破解散」に打って出て大勝利。小泉政権と同様の「1強体制」の構築に成功したというわけだ。

こうした経緯を見ると、現行選挙制度が「1強体制」の構築にどれほどの大きな役割を果たしたかがお分かりいただけたと思う。岸田政権は、小泉「1強」、安倍「1強」がどのようにして構築できたのかのノウハウを学んでいないため、総理総裁になれば自動的に強権を持てると思い込んでいる節が垣間見える。そのため、本音は弔問外交の展開で不動の地位を固めようとして「安倍国葬」をぶち上げたものの、弔問外交を成功させるためにはバイデンの参列が不可欠なはず。が、岸田氏はバイデンが来てくれるものと独りよがりで思い込んだのか、打診も根回しもせずに国葬期日を発表してしまった。

日本なんか属国としかみなしていないアメリカが、何の相談もなく国葬を公表してしまった岸田氏に不快感を持ったのは当たり前。世界で一番スケジュールがタイトな米大統領が、安倍国葬よりもっと時間のやりくりが困難だったはずの英エリザベス女王の国葬にはすぐに参列を表明したことが、日米関係の実態を見事な程に物語っている。

過去の話を「たられば」で語るのは無意味かもしれないが、もし岸田氏が十分に根回ししてバイデンのスケジュールを最優先したうえで国葬日時を決め、さらにプーチンや習近平も招待していれば、ウクライナ戦争や台湾問題を解決できる糸口を「岸田弔問外交」で見つけることができたかもしれない。政治というのはそういうものだ。

実際、現にイギリスとは間接的に戦争状態にあるロシア・プーチンが女王の訃報に接し最大限の弔意を示したのも、できれば女王の葬儀でのバイデンとの会談で、苦境に陥っているウクライナ問題解決の糸口を探りたかったからに他ならない。英政府は、そうした事態を避けるためプーチンを招待せず、かつ女王の国葬での弔問外交を禁止した。それが国家の矜持というものだ。

あまつさえ、岸田氏は女王国葬への参列の意向まで表明していたのに、岸田氏には招待状も送らなかった。日本という国が、いま海外からどう見られているか、情けない限りだ。

野党もだらしがない。自民党と旧統一教会のずぶずぶの関係を、メディアがこれでもか、これでもかというほど叩いてくれているのに、一致団結して自民を追求し、自公を分裂させるため公明にも揺さぶりをかけるといったことすらできない状況。

岸田政権にとっては、この問題は安倍氏のモリカケ疑惑以上に深刻だ。モリカケ疑惑は安倍氏個人の問題で、北朝鮮の意図しないバックアップがなかったら、「1強体制」どころではなかったはず。が、この問題は、自民がトップの座を入れ替えれば済んだケースで、旧統一教会問題とは雲泥の差がある。野党の追及次第では、自民党分裂の危機が生じていた可能性すらある。

 

この「追記」の結論を書く。まず現行選挙制度の欠陥を国民に周知し、米英型の単純小選挙区制で政権交代可能な2大政党政治を目指すか、さもなければヨーロッパの大半の国やお隣の韓国のように多様な政権交代を可能にする新たな選挙制度への改正を目指すか。それこそ国民に信を問うに足る問題だ。

とりあえず現行選挙制度の下では、小選挙区で自公候補に勝てる見込みがある野党候補に1本化することを、共産党を除く全野党で合意すること。私自身は共産党を毛嫌いしているわけではないが、共産党も含めるとなると野党の足並みが揃わなくなるし、だいいち国民の共産党アレルギーが大きすぎる。共産党が「マルクス教」から脱皮して、革新系リベラル政党に転換すればいざ知らず、信仰的「マルクス教」の信徒集団である間は野党の政権構想には入れない。

野党の方々の奮闘に期待したいのだが…。(24日記)


近況&旬な話題への「私見」…安倍国葬・沖縄知事選・旧統一教会・台湾有事&21世紀の民主主義

2022-09-13 00:05:18 | Weblog
 久しぶりのブログです。中断中も、毎日数十人の閲覧者が訪問していただき、私のブログ再開をお待ちいただいたことにまず感謝。
 この間、私自身も社会も大きな事件がありました。まず私のことに関しては、4月5日に自転車事故で大腿骨を骨折、手術と術後のリハビリで2か月余入院しました。
退院後、体調不良で別の病院に入院しましたが、その病室でコロナに院内感染し、今もコロナの後遺症で苦しんでいます。
政府は「ウィズ・コロナ」とか「感染対策と社会経済活動の両立」などと言っていますが、後遺症に悩まされている私の実感からは不可能です。また、コロナ感染症を今の2類からインフルエンザなどの5類に引き下げるという議論もされていますが、インフルエンザなどの季節性感染症と違って、まだコロナというウイルスの解明は不十分ですし、何よりも治療薬(タミフルのような特効薬)がありませんし、後遺症問題の対策も不十分です。
コロナ対策より、経済を回したいという政府の思惑が透けて見える「両立」方針だと思います。
また今日明日にはリハビリ入院することになると思いますので、今回のブログは近況報告と、いま旬の問題について浅堀りだけしておきます。
 
●安倍国葬問題についての「私見」
今月27日に「安倍国葬」が武道館で行われる。メディアは「岸田総理の内閣支持率浮上作戦だ」とか「麻生副総理の『理屈じゃねぇんだ』という恫喝に屈した」とかピーチクパーチク憶測しているが、メディアの誤誘導のために議論の方向がおかしなほうに向かってしまった。
直近になって、「法的根拠がない」という議論も出てきたが、そもそも岸田総理が挙げた「国葬にすべき」理由が正当な理由になっていないことが最大の問題である。
岸田氏は、「憲政史上最長の宰相」「経済や外交での功績」「民主主義の根幹である国政選挙での殺害」「外国首脳の弔意」「多くの国民の弔意」といった理由を挙げているが、いずれも論理的ではない。
唯一もっともらしい口実は「総理在任期間」だが、それを基準にするなら法律で在任期間の基準を明確に「見える化」すべきだろう。例えば在任期間5年以上という基準を設けるなら、法的根拠問題も生じない。
その他の口実は極めて恣意的であり、合理的とは言えない。
たとえば各国首脳の弔意は国際慣例として当たり前の話で、現にウクライナ戦争で敵対関係にあるロシア・プーチン大統領ですらエリザベス女王の崩御に際して弔意を表明している。が、安倍氏の死去に際してプーチンや金正恩が弔意を示してくれているか。
また安倍氏の経済政策や外交に対する評価に関して言えば、かなり恣意的であると言わざるを得ない。単に毀誉褒貶が多いというだけでなく、安倍政策は私に言わせれば「愚の骨頂だらけ」だ。まず経済政策に関しては、消費者物価指数の2%上昇は成長の結果であって目標ではありえない。消費者物価指数がプラスになる場合の条件については前回のブログで詳述したので繰り返さないが、一つ書き忘れたことがあるので追記しておく。
少子高齢化で消費活動が伸び悩む中で国民や企業の消費マインドを上昇させるためには「給料を上げてくれ」と「笛を吹く」だけではダメだ。日本は世界でも稀な「終身雇用」を雇用契約の基本としており(年功序列は崩壊しつつある)、企業が正規社員をレイオフするためには外国大資本に会社を身売りするか(シャープが好例)、外人のプロ経営者を雇うか(日産が好例)の、どちらかしかない。そうしたリスクを抱えているため、アベノミクスで為替差益が膨らんだ企業は内部留保を増やしてきた。その内部留保を吐き出して従業員の給与を上げたり設備投資を活性化させるためには、「官制春闘」では不可能。税制を大胆に改正して、内部留保に「資産税」的要素の課税を課すしかない。アベノミクスが中途半端になったのは、いつまでも国策として輸出産業重視の姿勢を維持してきたからだ。
また外交の要諦は経済と安全保障の二つだが、確かに安倍氏は輸出を増やすためになりふり構わず海外を訪問し、頭を下げ続けた。そのことはいい。いいが、肝心の輸出先の先進国も少子高齢化で消費が伸び悩んでいる。長い目で見るならアフリカ諸国を自動車や家電製品のマーケットに育てる方策を考えるべきだが、原始的生活をおくっている人たち(都会化している地域は少子高齢化している)の生活を変えられるか? 容易ではない。また大規模公共事業の場合は相手国の支払いが長期にわたる。そのため、為替変動リスクを避ける目的で円借款になることが多い。せっかくの超円安水準による輸出メリットも受けられない。が、工事に伴う原材料や部品の海外からの調達はドル建て決済だから円安は不利。海外の規模公共事業を落札しても、日本企業(グループを含む)にとってメリットがあったのか、疑問だ。
実は大きなマーケットがすぐ近くにある。ロシアだ。ロシアの技術力は偏っている。宇宙開発や軍需産業はアメリカと肩を並べるほどだが、民生技術は中国にもかなり劣る。安倍氏がプーチンとの良好な関係を利用して「日本が手を貸すから、中国のように民生産業と国民消費生活の向上を目指しなさい」とアドバイスすべきだった。「経済と安全保障の両立」は、こういう対ロ政策なら可能だ。領土問題の解決は、日ロの友好関係が整ってからの話だ。相手のメンツも考えなきゃあね~
日本の安全保障策については、すでにブログで書いた。再読を乞う。
善意に考えて、岸田氏は弔問外交で失地回復を狙ったのかもしれない。コロナ禍で思うような外交ができず、安倍氏の死を利用して外交得点を稼ごうと思ったのかもしれない。が、そうだとしたら、まず米バイデン大統領の参列確約を取り付けてから「国葬儀」を決定すべきだった。バイデンが参列するとなれば、ウクライナ戦争で引くに引けない状況に陥っているプーチンも、おそらく西側との妥協点を探るために「渡りに船」で参列する。また、台湾問題でアメリカとの摩擦を生じている習近平も、バイデンの「本気度」を探るために参列するだろう。米ロ中の3か国首脳が参列するとなれば、どでかい弔問外交の場ができていたかもしれない。
が、どこまでも岸田氏はついていないようだ。英エリザベス女王の崩御で弔問外交の場がイギリスに移ってしまいそうだ。このブログ原稿を書いている時点ではアメリカの対応が明らかではないが、もし女王の葬儀にバイデンが参列するとなれば、プーチンも習近平も間違いなく参列する。プーチンの弔意表明はそのための布石と考えるのが論理的。岸田氏にとっては「泣きっ面にはち」の結果になりかねない。
【追記】本稿を投稿直前、バイデンがエリザベス女王の葬儀に参列するというニュースがネットに出た。11日のNHK『ニュースウォッチ9』では報道がなかったので真偽は不明だが、事実だったら岸田氏の決断は完全に裏目に出ることになる。あ~あ。
 
●沖縄県知事選についての「私見」
11日、沖縄知事選が行われた。現職の玉城氏が圧勝した。沖縄県民の辺野古基地移設問題への民意が再度示された。
自民・公明など対抗勢力は「基地問題か、経済活性化か」と二者択一を争点にした選挙だったが、そもそも、そういう二者択一は成立しない。自民などが主張する経済対策は「基地を受け入れたら経済支援をする」というだけで、米軍基地が沖縄振興の足かせになっている現実に目を背けているからだ。
フィリピンや韓国がアメリカのご都合主義的覇権維持の片棒担ぎを拒否したのと反して(最近、中国の海洋進出や北朝鮮の核ミサイル開発で米軍の受け入れを容認しだしてはいるが)、憲法で「不戦」を誓っている日本の政府は、安全保障政策の柱を米軍に頼らざるを得ないと思い込んでいる。
が、安全保障の最大の要諦は「敵を作らない」ことだ。「抑止力」と言えばなんとなく、その気になってしまう空気が日本にはある。が、実は日本は世界でも稀な「抑止力」を自然に持っている。稀な要素の最大は、資源がないということだ。
強国が戦争する目的は、資源の獲得か自国の経済圏拡大だ(その両方を求めるケースが多い)。
日本は資源がないだけでなく、下手に欧米列強が日本を自国の経済圏に組み込んだら、かえって自国のマーケットが日本製品に席巻されてしまう。膨張主義国家の蒙古が日本を来襲したケース(元寇)があったが、日本が強国からの侵害を受けたのはそれだけ。アメリカに占領された時期は、日本がバカな戦争を始めた結果だ。
だから、日本にとって最大の安全保障策は「敵を作らず、日本侵攻の口実を仮想敵に与えないこと」に尽きるのだ。が、いきなりアメリカとの同盟関係を断つなどと日本が言い出したら、アメリカという世界最強国を敵に回しかねなくなる。
では、どうしたらいいか~
ヒントはトランプが与えてくれた。トランプは「日本が攻撃されたらアメリカは自国兵士の血を流して日本を守る義務を負っているが、アメリカが攻撃されても日本人はソニーのテレビを見ているだけだ」と、日米安保条約を双務的なものに改定するための絶好の口実を提供してくれた。
安倍元総理が強行採決した安保法制(集団的自衛権の行使容認)の狙いは、おそらく日米安保条約改定への入り口だったと思われる。「自衛隊を明記するだけ」という無味不明な改憲論も、やはり憲法の本格的改正への入り口と位置付けていたのだと思う。
で私はそんなせこいやり方ではなく、日本もアメリカ防衛のために自衛隊員の血を流す用意があることを示すためにも、アメリカに自衛隊基地を作るべきとブログで主張した。
ま、アメリカに自衛隊基地を作るには憲法を改正する必要があるだろうが、日本が「本気度」を示せば、アメリカも日本防衛の義務を守らざるを得なくなる。が、誇り高きアメリカが自国本土に他国の軍事基地設置を容認するわけがない。で、その時初めて日本はアメリカと対等に東南アジアでの戦争回避と平和維持のための措置を講じることができるようになるのだ。
そうした日米関係を構築したうえで、沖縄問題の解決を考えるべきだ、というのが私の基本的スタンス。
沖縄の人々は本土の、いわゆる「大和民族」とは違って、南方系の民族(琉球民族)である。ヨーロッパから移住したアングロサクソン系のアメリカ人が土着のインディアンを殺しまくったり、ハワイを占拠したりしたケースとは違って、日本は徳川時代に幕府の許可を得た島津藩が琉球王国を支配したのち「琉球民族との同化」政策に見事成功した。
朝鮮併合も、朝鮮での施政はそれほど抑圧的ではなかったが(朝鮮の近代工業化政策や教育方針はそれなりに成果を上げた)、軍部の独走が朝鮮人の恨みを大きく買った。東京大震災での流言飛語による朝鮮人虐殺や慰安婦問題、徴用工問題、今に至るも撲滅できないヘイト問題など、いずれも併合時代に朝鮮人の意に染まずに日本に連れてこられた人たちが対象だ。豊臣秀吉の朝鮮征伐で渡来した朝鮮人は日本に同化しており、ヘイト被害は受けていないと思う。
朝鮮問題に話がそれたので沖縄問題に戻すが、沖縄振興は基地受け入れのご褒美としての「施し」ではなく、沖縄の地政学的条件を生かした地域振興策を行うべきと私は考えている。
ハワイ・オアフ島に米軍基地が点在しているように、基地との共存は不可能ではないが、経済活動を基地に頼るのではなく、観光と貿易を振興の重点に置くべきと思う。簡単に言ってしまえば、沖縄の「シンガポール化」である。台風の目抜き通りになっていることが厄介だが、沖縄を特別免税地域に指定して貿易の拠点にする。さらに観光資源を開発し、沖縄の「ハワイ化」も進める。
いま沖縄には米軍基地に対する「思いやり負担」も含めて日本政府の財政負担がかなり大きい。それなのに、沖縄県民の所得水準は国内最低レベル。国民の税金をベースにした財政支援が、沖縄県民の所得底上げにつながらず、ざるに水をためようとするようなものだからだ。
沖縄の「シンガポール化」と「ハワイ化」を沖縄振興の経済政策の柱に据えれば、沖縄は日本有数の豊かな県になるし、県民生活が豊かになるだけでなく、アジア経済のセンターになる可能性も高い。結果として、沖縄がアジア平和のシンボルになるかもしれない。私はそうなることを期待している。
 
●旧統一教会問題についての「私見」
ここまで書いてきて、かなり疲れた。ほかにもいろいろ書きたいことはあるが、最後の稿にする(投稿直前に「台湾有事」について追記した)。
旧統一教会が資金集めのために行ってきた(今でも続いているようだが…)、いわゆる「霊感商法」。宗教活動としては断じて許容できることではないが、「魔女狩り」的なメディアの批判には同意できない。司法が出るか否かはわからないが、オウム真理教のような弾圧はいかがなものかと思う。
オウム真理教のケースは「破防法」を適用しての「解散命令」と地下鉄サリン事件関与信者に対する法的制裁の二つに分けて考える必要がある。私は浅原彰晃やサリン事件の首謀的役割を果たした犯人に対する厳罰は認めるが、浅原のマインド・コントロール下に置かれて無自覚に犯罪に副次的に関与した信者に対してまで厳罰(死刑)に処したのは、司法の「世論への屈服」と思っている。とくにサリンが猛毒だと知りながら自動車で犯行現場まで運んだというだけで死刑というのは、いくら世論がオウムに対して厳しかったとしても司法が自ら矜持を捨てたと言われても仕方あるまいと思う。
私がこの問題に関して考えさせられたのは、マインド・コントロールの恐ろしさである。マインド・コントロールは、安倍元総理が野党批判でしばしば用いた「印象操作」という決めつけと同類なのだ。実は、安倍氏は分かっていてやったのかどうかは不明だが、「印象操作だ」と決めつける行為自体が「印象操作」そのものなのだ。そう反論できなかった野党もだらしなかったけどね~
旧統一教会の「霊感商法」は、オウム真理教のようなテロ行為ではないから「破防法」の適用で解散させることは不可能だが、メディアによる「解散世論つくり」は、まさに地下鉄サリン事件で司法を死に追い詰めた経緯とそっくりである。
問題は、メディアにその自覚がなく、「旧統一教会解散世論を盛り上げる」ことをメディアが「正義」と思い込んでいることなのだ。
「思い込み」というのは恐ろしいもので、その世界の中に身をゆだねてしまうと、その世界から抜け出せなくなってしまう。その世界を支配している空気に染まることは主体的に考える必要がないから楽なのだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というわけだ。むしろ、そういう空気に逆らうことのほうが、日本ではリスクが大きい。
かつてマルクスは「宗教はアヘンのようなものだ」と喝破した。そのことはその通りだと私も思うのだが、いったんマルクス主義の世界に身を置いてしまうと、マルクスが絶対的な存在になり、宗教を弾圧することが「正義」だという「思い込み」の世界から抜け出せなくなってしまう。だから習近平・中国共産党によるウイグル族やチベット族弾圧も、加害者である地方政府の権力者たちは彼らのために「正義」を行っているという「思い込み」で目が見えなくなっている。
旧統一教会の幹部たちも、信者から献金を収奪することが、本当に理想社会を実現する唯一の道であり、信者を救済することになると思い込んでいるようだ。この問題の難しさは、加害者自身が加害行為の正当性を信じていることだ。つまり被害者をマインド・コントロールするだけでなく、彼ら自身がマインド・コントロールされており、加害行為を加速することで自分が高みに行けると信じていることなのだ。
私は社会心理学の専門家ではないし、ここまで書いてきて心身ともに疲労の限界に達したので、問題提起だけにとどめておくが、政治家や専門家、メディアが作り出す「空気」に対して自ら謙虚にならないと世論を大きく誤った方向に導きかねないので~
 
●「台湾有事」はあり得ない。
追記として、もう一つ書いておきたいことがある。台湾問題だ。
中国が、台湾周辺で軍事的挑発行動を繰り返していることに関連して、日本国内で「台湾有事」を懸念する声が高まりつつある。が、アクシデントが起きない限り「台湾有事」はあり得ないことを論理的に検証する。
もちろん、中国政府が台湾を中国政府の統治下に収めたいというのは習近平以前から中国政府の宿願である。が、そんな兆候は少なくとも今のところない。
その理由は台湾(中華民国)の蔡英文政権の政権が安定しているからだ。国の政権の安定度は経済の安定度に比例する。台湾は人口2300万人余と小規模ながら、電子立国で世界有数の先進工業国(地域)になっている。台湾の経済力やエレクトロニクス技術力は、中国(中華人民共和国)にとっても喉から手が出るほどに魅力的だが、肝心の蔡政権がびくともしない。経済が安定しているうえ、人口比で96.7%を占める漢民族は第2次世界大戦後、毛沢東軍に追われて台湾に移り住んだ蒋介石軍が中心。中国との貿易で稼いでいる親中国派もいるが少数。日米間を始め、台湾の電子製品は世界中に散らばっている。中国政府としても、おいそれとは手を出せない構造になっている。
ここで、「返還後、50年間は一国二制度を維持する」との国際公約を破って、中国が香港を「中国化」に踏み切れた条件を見てみよう。
香港の住民も大多数は漢民族である。かつてはイギリスの統治下にあったが、中国に返還されたのち、中国政府によって傀儡政権が誕生し、民主派勢力との対立が激化するようになった。中国政府は、親中国派が政権を掌握している間に永続的な親中国政権を確立すべく「国安法」を制定、民主派を根こそぎにすることにした。香港は中国政府の管轄下という国際社会の承認があったからできたことだ。
が、台湾は違う。「国家」を標榜しているし(日米は中国との国交回復の際、台湾の国家承認を取り消したが)、国際社会では台湾を国家承認している国は多い。プーチンがウクライナ侵攻を始める際の口実にした「ロシア系住民の保護」といった類の口実も台湾では使えない。
よく知られているように、対台湾政策は、アメリカはダブル・スタンダードだ。ニクソンが日本の頭越しに中国との国交回復を実現し、「一つの中国」を承認した後も米議会は台湾との同盟関係の継続を決議した。日本政府はアメリカのダブル・スタンダードが理解できなかったのかもしれないが、中国政府に丸められてオンリー・スタンダードにしてしまった。そういう意味で国際社会から、日本は節操のない国とみられている。
日本の無節操は置いておくとしても、中国はアメリカや国際社会と事を構えても台湾を手中に収めようとするリスクはとらない。得るものより失うもののほうが大きいからだ。もし台湾で親中国派が多数を占めるような事態になった時は、親中国派の保護を口実に台湾の軍事制圧に乗り出す可能性はあるが、今のところ、その可能性は極めて薄い。だから中国の挑発行為は単なる嫌がらせと無視していればいい、少なくとも日本は…。
なのに「台湾有事」を日本政府が声高に叫ぶ目的は何か。今更アメリカのようにダブル・スタンダードに切り替えることもできないため、「台湾有事は尖閣有事を意味する」などと意味不明な主張を繰り返してアメリカの台湾防衛政策に乗っかり日本の安全保障を危うくしているのだ。多くのメディアも、政府のマインド・コントロールあるいは印象操作に加担して「抑止力強化」思想をばらまいているのが現実。
南沙諸島の軍事基地化など、中国の海洋進出の巧みさは、反発する国との軍事的衝突を回避しつつ行われていることを見ても歴然。せこいやり方でアメリカに追随しつつ軍事力強化を図ろうというのが日本政府の伝統的手段だ。
「自国の防衛は他人任せにしない」という毅然たるスタンスを確立したうえで、敵を作らない外交努力を続ける――それが国際社会から信頼を得る最善の安全保障策ではないだろうか。 
 
リハビリのため、またしばらくブログを中断します。
コロナの後遺症は怖いですよ。皆さんもコロナに感染しないように気を付けてください。気を付けようがありませんけどね。感染したら、交通事故に見舞われたと思うしかありません。
なお、本当に最後の最後。
私は政治的には右でも左でもなければ、保守でも革新でもない。あえて言うなら「ど真ん中のリベラル」かもしれない。
ただひたすら「民主主義とは何か」を問い続けている。
イエール大学の成田悠輔助教授が著した『21世紀の民主主義』が話題になっている。「民主主義の根幹である選挙制度は民意を反映していない。民意を反映させるには年代ごとに有権者数に応じた議員数を割り振るべきだが、それは無理。専門知識に乏しい政治家が官僚に丸投げして政策を立案しているのが現実。なら、いっそのこと政策立案、決定をAIに任せたほうがいい」という主張だ。
民主主義の根幹が選挙制度にある、というのは私もそう主張しているから問題ない。が、民意を反映するのが民主主義という理解には疑問がある。なぜなら、民意は政治家やメディアによるマインド・コントロール(あるいは印象操作)によって形成されてしまうからだ。若かろうと、歳を重ねていようと、政治家やメディアの印象操作にたぶらかされない思考力を有権者が持てる社会の形成が先行しなければ、ただ政治が「民意を反映する」と、例えば旧統一教会を潰せばいい、といった衆愚政治になってしまうからだ。
民主主義の嚆矢は古代ローマにさかのぼるが、いまだ「青い鳥」だ。が、人々が「青い鳥」を追いかけなくなることが怖い。諦めが政治の腐敗をもたらす。なお、今のAIにどんな能力を期待できるか、私にはわからない。

曲がりかとの日本経済――政治家や経済学者は未来図を描けるか?

2022-02-21 10:29:41 | Weblog
北京オリンピックが、欧米を中心とした「外交的ボイコット」やドーピング疑惑など、いろいろな問題を抱えながらも、2月20日、無事閉会式を終えた。日本勢は冬季オリンピックでは最大のメダル数を獲得して、ご同慶の至りだが、オリンピックは夏季も冬季も毎回、競技数が増えているから、日本選手が獲得するメダル数が減ることはまずあり得ない。それに競技大国のロシアがドーピング問題で、かなりの競技に参加できず、日本の獲得メダル数が増えたのは当然と言えなくもない。もちろん私を含め、多くの日本人が日本選手の活躍に感動したし、メダルを取った、取れなかったにかかわらず喜びや悲しみを選手たちと共にした。後味の悪ささえなければ、素晴らしい大会だった。

内閣府が15日、21年10~12月の実質GDP(物価変動要素を除いた国内総生産)が、前四半期(7~9月)に比し、年率換算で5.4%増加したことを発表した。が、前四半期は緊急事態宣言で消費が大きく落ち込んだし、年末はクリスマス商戦や正月のおせち需要、忘年会などで、例年消費が活性化する傾向があり、日本経済が持ち直したと楽観視することはできない。
欧米など他の先進国は原油などエネルギー資源の高騰もあって昨年後半から過度のインフレが進んでおり、各国中央銀行は軒並み政策金利を引き締めようとしつつある。が、日本は依然として消費者物価が低迷しており、日銀・黒田総裁が目標にしている2%上昇にはほど遠い状況が続いている。なぜか。

●インフレの3要因  ①需要が増えることが前提
総務省が公表している消費者物価の上昇率を見てみよう。
21年12月の前年同月比上昇率は、景気過熱が問題視されているアメリカが7.0%、イギリスが5.4%、ユーロ圏が5.0%(ドイツ5.3%、フランス2.8%)と高水準に達しているが、日本は0.8%と停滞したままだ。
が、エネルギー資源の大半を輸入に頼っている日本でも、円安とエネルギー資源高騰のダブル・パンチを受けて輸入物価指数(円ベース)は41.9%も上昇し、そのため企業物価指数は8.5%上昇している(12月の対前年同月比)。その結果、21年度の年間企業間売買価格も対前年比で4.8%増加し、輸入物価指数も22.7%上昇し、過去30年間で最も高い水準を記録した。
なのに、足元の消費者物価指数は一向に上昇しない。安倍元総理と日銀・黒田総裁がタッグを組んでの景気浮揚策「アベノミクス」は依然として空回りを続けているとしか見えない。
実は消費者物価を左右する要因は三つある。一つは需給関係、二つ目はコスト要因、最後に為替市場による通貨価値の変動だ。
コロナ禍が日本を襲った2年前、スーパーやドラックストアの店頭からマスクが一斉に姿を消した。いわゆる「転売ヤー」が買い占め、ヤフオクなどでオークション出品し、需給関係がひっ迫して価格が高騰したことがある。
通常なら1枚7~8円の不織布マスクがオークション市場では10倍、20倍の高値を付けた。消費者からのクレームが殺到したが、「転売ヤー」は「モノの値段は、資本主義社会では需要と供給の関係で決まる。こっちは高値を付けて売っているわけではなく、1円スタートで出品しており、欲しい人が買いあがった結果だ」とうそぶいていた。
必ずしも絶対的必需品でなければ、消費者が買い控えに走り、需給関係がひっ迫しても価格が極端に高騰することはないのだが、コロナ禍で医療機関だけでなく一般庶民も外出時のマスク着用が強く求められ(個人主義的傾向が強い欧米ではマスク着用を義務化したり、それに反発する騒ぎが生じて社会問題化したケースもあった)、日常生活にマスクは欠くことのできない必需品になったため、需給関係のひっ迫がもろに価格に反映した極端なケースでもあった。

1973年10月、第4次中東戦争を機にアラブ産油国が原油価格を一気に70%も引き上げ(第1次石油ショック)、日本ではスーパーの店頭からトイレットペーパーや洗剤が姿を消し、いわゆる「狂乱物価」状態を生じた。商社や卸問屋などが「買い占め・売り惜しみ」に走り、ゼネラル石油(現エネオス)が社内報に「石油危機は千載一遇のチャンス」と書いて社会的に問題化し、当時の社長が引責辞任したこともある。
石油ショックのときは企業のモラルが問われたが、コロナ禍での「転売ヤー」はネット・オークション市場が生まれたことで、だれでも「千載一遇のチャンス」にありつけることができるようになったことが原因だ。
逆に、面白いもので需給バランスが崩れることで品薄状態になり、結果として価格が暴落することもある。
たとえばサンマ漁。近年、サンマの不漁が続き、需給関係から卸値はいったん高騰するが、スーパーなどでの店頭価格が庶民の手に届かないほど高騰した結果、原価割れの販売を余儀なくされて価格が暴落するといったケースも生じた。サンマは生活必需品ではないからだ。
日本には昔から「豊作貧乏」という言葉があり、供給量が需要を上回ると市場価格が下落する。そのため豊作になるとあえて収穫物を廃棄して市場に出回る量を調整し、市中価格を維持する知恵を生産者は身に付けてしまった。
一方、不作不漁によって供給量が激減した場合、市場原理によって価格は高騰するはずだが、生活必需品でない場合、消費者が代替品を求めることで需要が激減し、かえって価格が下落する現象(不作貧乏)も生じるようになった。
「魚はサンマだけではないよ」というわけだ。
実は今の消費者物価が上昇しない理由の一つとして需要が減少しているという背景がある。そうした日本の状況についてはあとで詳述する。

●インフレの3要因  ②コストアップを製品価格に転嫁できるか
つぎにコストが物価に反映する要素だ。コストにはいろいろな要素があるが、人件費と製造原価(特に輸入原材料や部品の購入費)が2大コスト要因である。
たとえば、物流コスト。数年前から物流状況が大きく変化した。その背景には消費者の店頭離れもあげられる。とくに若い人たちのクルマ離れとネット社会の拡大によってアマゾンやヤフー、楽天などでのネット購入が増え、ヤマトや佐川など宅配業者の配送コストが急上昇した。
その背景にあるのが運転手不足による人件費高騰であり、運転手の需給関係が「売り手市場」になった。そのためスーパーや量販店などが、従来は3000円以上とか5000円以上の買い物客には無料配達のサービスをしていたのが、そのサービスを一斉にやめてしまった。私は70歳になったときに免許を返上していたので、ビールなど重いものの買い物は無料配達のサービスを利用していたが、それが不可能になりケース買いができなくなった。販売店に「宅配業者が値上げした分だけ有料化すればいいじゃないか」と文句を言ったことがある。「無理が通れば道理引っ込む」というが、宅配コストアップに乗じた便乗値上げの一種だ。ビールの恨みは大きい。
次に製造コストの上昇。原材料の高騰(原油価格や金属製品の高騰など)によるコスト増だ。これは需給ひっ迫によるケースと供給カルテルによる価格操作といった要因がある。
一方、製造プロセスのIT化によるコスト削減効果もあるが、このケースがコスト減として価格に反映されることはあまりない。企業の収益増に回ることが多く、市場での競争原理が機能しない。ただし、市場での競争が激しい製品については値下げ圧力が強く、製造原価の下落以上に価格が下がるケースもある。電気製品などがその典型。

こういうケースもあった。アメリカの前大統領、トランプが自国産業を防衛するため自動車や鉄鋼・アルミ製品の輸入に25%の高率関税をかけたことがある。が、アメリカ最大の自動車メーカーのGMが5工場を閉鎖してしまった。トランプは「輸入自動車に高率関税をかけて国内自動車メーカーの競争力を回復してやったのに、工場を閉鎖して従業員を解雇するとは何事か」と激怒したが、1工員からたたき上げでGM初の女性会長兼CEOになったメアリー・バーらは涼しい顔でこう反論した。
「確かに輸入自動車に対する競争力は回復したが、原材料など輸入部品の価格が高騰し、その分を販売価格に転嫁するとアメリカ国民の購買力を超えてしまう。売れる・売れないは単純に競争力の問題だけではない」と。
実際、私は1985年のプラザ合意でドル・円相場が2年間で240円台から120円台に高騰したとき、キヤノンのトップに取材したことがある。
「自動車や電気製品など、国際競争が激しい分野は為替相場を輸出価格にもろに反映できないが、カメラは日本製品がほぼ独占状態で、為替相場をダイレクトに反映しても競争力は落ちないと思うが、なぜ20~30%程度の値上げにとどめているのか」
キヤノンのトップはこう答えた。
「確かに、おっしゃる通りだが、もしカメラの輸出価格を2倍にあげたらアメリカ人の購買力を超えてしまう。彼らが買えるぎりぎりの値上げしかできない」
絶対的な生活必需品でない場合、製造コストの上昇を製品価格に反映できるとは限らない現実があるのだ。ただし、いま直面している原油や天然ガスの高等は電気やガスは生活必需品だから、コストアップ分をもろに末端価格に反映できるはずだが、政府の政策によって値上げは最小限に抑えられている。一方、ガソリン代などはもともと市中での競争が激しく、政府が備蓄原油を放出しても、ガソリンスタンドの経営がぎりぎりのため、価格に反映できずにいる。
コスト増が必ずしも末端価格の上昇につながるとは限らない理由が、こうした事情にある。

●インフレの3要因  ③「円安」政策は両刃の刀
最後に為替市場における通貨価値の変動が物価に反映するケースだ。為替市場を左右する要因もいくつかあるが、最大の要素は各国政府や中央銀行の金融政策とされている。が、実際に為替の動向を左右しているのは「為替市場」で資産運用しているヘッジ・ファンドの思惑による。たとえば毎月第1金曜日に発表されるアメリカの雇用統計(非農業分野の就業者数や失業率)の発表で為替が大きく変動すると言われているが、それが為替相場に大きく影響する合理的理由とは考えにくいので、おそらくヘッジ・ファンドが予想統計数字を根拠に大量にドルを売ったり買ったりしているからではないかと思われる。ま、丁半バクチみたいなことをヘッジ・ファンドが行っていると考えられ、必ずしも為替相場が各国経済の実態を反映しているわけではない。
為替市場ではビットコインなどの仮想通貨と違って各国法定通貨が売買の対象ではあるが、実際に現物の法定通貨を売買しているのではない。株式市場の信用売買を巨大化したイメージで考えていただければわかりやすいが、各国の法定通貨発行量の何十倍という単位で取引されている。つまり、金やプラチナなどの貴金属や大豆、小麦などの穀類を現物ではなく現物の数十倍の単位で売買している商品市場と同様、いわゆる「先物取引」である。
そういう意味では各国の法定通貨は、自国内での取引決済手段としての価値はそれほど極端に変動することはないが、為替市場では各国法定通貨が取引対象の「商品」として機能しており、その為替市場で決まるレートが実貿易の決済の基準になる。事実上、各国法定通貨の価値(外貨との交換価値)はバクチ打ち任せなのだ。
アベノミクスによる金融緩和政策は、政府が国債を大量に発行し、それを中央銀行(日銀)が買い入れるために法定通貨を大量に発行し、市中に「カネ余り」状況を作り出すことで通貨デフレを生じさせ、為替市場で「円安」状況を作り出すための政策である。円安になれば、円という日本の法定通貨の価値が下落するから輸出産業にとっては有利に働くが、輸入品は高騰する(トランプの高率関税政策と同じ効果による)。もし、日本の国内消費量に増減がなければ輸入品価格の上昇分は消費者物価が上昇する理屈になるが、消費マインドが冷え込んで消費量が減少すれば市場原理によって消費者物価は上がらないという結果になる。「笛吹けど踊らず」がアベノミクスの結果である。
黒田・日銀総裁が、何とか消費者物価を2%上昇させようと、「マイナス金利」(民間の金融機関が余剰資金を日銀に預けた場合、金利を付けるのではなく、逆に金利を取る)という「禁じ手」まで動員しての「黒田バズーカ砲」も、今やまったく効果がない。世界から黒田バズーカ砲は「オオカミ少年」と思われてしまっているからだ。
実は、先に述べたプラザ合意後の円高局面で、輸出産業の輸出価格が為替相場を必ずしも反映しなかったことは書いたが(その理由は日本の雇用形態によるが、それについては後述する)、実は高級輸入ブランド品(高級外車やバッグなど)もあまり値下がりしなかった。
私がその理由を輸入業者に取材したところ、「日本では価格が高くないと商品価値が下がる。だから輸入価格は下がっても販売価格は維持している」との、何とも人を食った答えが返ってきた。
私も取材などでアメリカに行ったときは、必ず現地でゴルフ用品などを買って帰った(土産ではなく自分用)。また現地で買い付けて日本で安値販売する並行輸入業者も現れ、ヨドバシカメラなどが日本製品を逆輸入して安値販売して話題になったこともある。
いま岸田総理はアベノミクスが「成長と分配の好循環」による景気浮揚策がうまくいかなかったことへの反省から、企業に対して賃金上昇による消費マインドの底上げを図ろうとしているが、企業は「どこ吹く風だ」を決め込んでいる。企業側は先行き不安を理由に挙げているが、理由はそれだけではない。安倍内閣時代の「同一労働同一賃金」規制にどう対応するかの方が重要課題としてのしかかっており、正規雇用の従業員の給与だけを底上げするわけにはいかないからだ。

●過去30年間、日本の従業員の平均賃金は本当に上昇しなかったか
最近、メディアが盛んに日本の平均賃金が過去30年間、ほとんど上昇していないことを報道することが多くなった。しかし、その根拠としているOECDによる平均賃金の国際比較はドル換算なので、円安の今は購買力平価を基準にした賃金ベースを必ずしも反映はしていない。
眞子さんが小室圭氏と結婚してニューヨークで新生活を送られているが、そうしたこともあってニューヨークの物価の高さをメディアが話題にしたことがある。日本のサラリーマンのランチ平均は500~700円くらいらしいが、ニューヨークでは円換算で1000円以上はしているという。ラーメンひとつとっても日本では700円前後のラーメンがニューヨークでは1300円くらいするようだ。もっと高いフランスでは1800円もするという。だから【賃金=購買力】と考えると、日本の平均賃金が他の先進国より低いとは、必ずしも言えないのだが…。
アベノミクスによる円安誘導で、円相場はどう変動したか。また、その結果、日本の平均賃金はドル換算でどういう数値になったか。
民主党政権末期の2012年秋には1ドル=80円台という歴史的な円高を記録した為替相場は、第2次安倍政権発足後の15年に一時1ドル=125円台まで下落、円安が定着したかに見えた。安倍晋三首相が就任直後に打ち出した大規模な金融緩和が要因で、産業界はその手腕を高く評価した。しかし、16年の春先から状況が一変。再び1ドル=100円をうかがうレベルに逆戻りした。その後、100~110円台でアップダウンを繰り返してきたが、コロナ禍に対する日本政府の対応が後手後手に回ったこともあり、現在は116円を挟んだ攻防になっている。「攻防」と書いたのは、為替市場でのヘッジ・ファンドの売り方・買い方のせめぎあいが為替相場を左右しているからだ。
OECDが公表した先進国の平均賃金推移の統計はあくまでドルベースでの統計だから、その数値だけを基準に日本の平均賃金は過去30年間、まったく上昇していないと主張するのは中学生レベルの思考力でしかない。ドル換算の日本人従業員の賃金が見かけ上、韓国人より低く見えても日本人の購買力が韓国人より低いというわけでもない。あまり見かけ上の数字に踊らされるのは頭がいいとは言えない。メディアや経済評論家の質だけは間違いなく低下していると言えるかもしれないが…。

●日本のサラリーマンの平均賃金は、やはり増えていなかった
OECDによるドルベースでの平均賃金比較は置いておいて、円ベースで日本のサラリーマン(フルタイムの従業員)の平均賃金推移を見てみる。
日本が高度経済成長の真っただ中にあった1971年、サラリーマンの平均年収は初めて100万円の大台を突破した(課税前所得)。2000年に500万円台の大台に乗ったが、翌01年の505万円をピークに以降、多少のアップダウンを繰り返しながらサラリーマンの平均年収は下降線をたどっている(厚労省賃金構造基本統計調査に基く)。実はサラリーマンの平均給与に大きな影響力がある大卒初任給が過去10年、ほとんど上がっていないのだ。
大卒初任給は景気のバロメータともいわれ、労働力の需給関係をもろに反映する。バブル景気がはじけた直後の初任給平均は18万6900円(現在の購買力価値に換算すると15万6200円)だったのが、20年後の2012年には20万1800円(現在の購買力価値と同じ)と購買力価値は4万5600円増えているが、その後は20万円前後で推移している(厚労省調査)。安倍第2次政権発足後、労働力の需給関係が全く改善されていないからだ。コロナ禍に入る前、サービス業などで人手不足が生じ、サービス業関連の人件費が事実上、最低賃金をかなり上回った時期があったが、その要因は主に外国人観光客の来日ブームや爆買いによる波及効果が大きく作用し、日本の消費を支えてきた。だから産業界は円安による景気回復がかなり進んだが、普通のサラリーマンには景気回復の実感に乏しいという世論調査結果が続いた。日本のサラリーマン所得が増えなかったからだ。
男女雇用機会均等法が施行されたのは1972年だが、14~64歳の女性の就業率は1970年代後半には50%だったのが、2000年代後半以降は65%台で推移している。その最大の理由は高度経済成長期を経て家庭生活にゆとりが生じ、女性の進学率がアップしたこと、また女性の価値観が「男が働き女は家庭を守る」といった古い考え方から大きく転換したことによる。また、それが少子化の原因でもあり、「子育て支援」の名のもとに保育園を増設すればするほど女性の社会活動の機会が増えて少子化が進行するのは当たり前である。
私自身は女性の社会活動の機会が増えることには賛成で、また先進国に共通した社会現象でもあり、だから前にもブログで何度も書いたが、先進国の合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む子供の数)は低下の一途をたどって、今後、回復することはありえない。出生率が下がり続けるということは労働力=購買力の減少を意味し、需要の減少によって市場規模は縮小せざるを得なくなり、先進国が経済政策として「経済成長」を掲げることは将来、縮小する市場を武力によって争奪し合う状態を生じかねないと危惧している。ゆいつ人口拡大が見込まれるアフリカや南米の諸国・地域が先進国にとって有望な市場に育つにしても、おそらく100年くらいはかかるであろう。
ちょっと話が横道にそれたが、女性の労働人口の増加が平均賃金の低下を招いた要素は否定できない。男女雇用均等法が施行されて以降、大企業の多くは女性の採用に際し「専門職」と「総合職」に分けた。「専門職」とは仕事の中身が専門的(例えば研究者とか営業職とか)という意味ではなく、転勤の範囲を地域的に限定する意味。「総合職」は海外も含め男性社員と区別せず転勤を受け入れる意味。そのため総合職として採用した女性は男性と同じ待遇だが、専門職女性の賃金は低くした。その結果、女性がいったん総合職で入社しても、結婚すると専門職に変更して夫の転勤先についていくケースが多くなった。
また結婚・出産・子育てを終えた女性が職場復帰するケースも多くなった。当然、非正規社員という身分になるため正社員に比し、仕事内容は同じでも賃金は大幅に下がる。
そうした事情は高齢者の定年後の再雇用でも生じている。再雇用は勤務の連続性はあるのだが、60歳でいったん定年退職し(したがって退職金も支払われる)、65歳で年金が支給されるようになるまでの間の生活維持のために非正規で勤務を継続するケースだ。給与は退職前の半分貰えればいい方のようだ。そうした非正規社員の増加が平均賃金を押し下げているとも言える。

●「同一労働同一賃金」制度は日本に定着するか
いったい、非正規社員はどのくらい増えたのか。
バブルがはじける前は、フルタイムの従業員の場合、正規・非正規という差別はほとんどなかった。もちろんパートやアルバイト、季節労働者、日雇いなどの非正規職はあったが、正規社員と同じフルタイムの仕事をしながら身分や待遇に差をつけるという企業はほとんどなかったと言える。
ところがバブルがはじけて企業は新卒採用を激減させ、戦後初めてと言える「就職氷河期」が日本を襲った。派遣会社が雨後の筍のように生まれ、企業に正規採用されなかった場合、新社会人はやむを得ず雇用関係も身分も不安定な派遣会社に登録して、その会社から人材を必要とする企業に期限を限って派遣されるようになった。そういう労働者を「フリーター」という。
フリーターを含む非正規社員が全雇用者に占める割合は、バブル期までの約20%から徐々に増え、現在は40%強に達している。彼らの給与は、正規社員と同等の仕事をしても正規社員の半分以下に抑えられ(派遣会社によるピンハネもあって)、とくに男性の場合は結婚の機会も大きく奪われることになった。男性側の事情による少子化問題の背景でもある。
それはともかく、企業の全雇用者の4割以上を非正規社員が占め、正規社員との所得格差が社会問題になり始めた2014年4月22日、安倍内閣の経済財政諮問会議と産業競争力会議の合同会議で、「賃金を労働時間ベースではなく、成果ベースを基本にする」(成果主義賃金制度)への大転換の方針が打ち出された。この新しい賃金制度に対し、メディアの多くは「残業代ゼロ政策」と批判したが、私は同年5月21日から3回連続で『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』と題するブログを書いて、年功序列型賃金制から「同一労働同一賃金」の賃金形態に転換しない限り、成果主義賃金制は空洞化すると批判した。
安倍内閣は2年後の16年、改めて「1億総活躍」「働き方改革」というキャッチフレーズを打ち出し、その実現のために初めて「同一労働同一賃金」を雇用原則にすることを表明した。
私自身が提唱したこともあって、「同一労働同一賃金」制への移行は賛成せざるをえないのだが、賃金形態の大転換は従来の年功序列型賃金制度を破壊しない限り不可能である。その場合、正規・非正規の差別をなくすだけでなく、年功だけで高い給与をもらっている中高年層の正規社員を悲劇が襲う。そういうことへの社会的コンセンサスを得るためには、相当の時間をかけて徐々に欧米型雇用形態に移行していく必要がある。
バブル退治で日本経済が「失われた30年」という閉塞状況に陥ったのは、瞬時にしてバブルを崩壊しようとしたためだ。それまで景気刺激のために金融緩和策をとり続けた日銀・澄田総裁からバトンを受け継いだ三重野総裁が一気に金融引き締めにかじを切り替え、かつ大蔵省(当時)が総量規制(金融機関の融資残高に占める不動産関連融資比率の上限を定めて融資先から資金の回収を始めさせたこと)というダブル・パンチを放ったためである。
同様に、同じ失敗を繰り返さないためにも「同一労働同一賃金」を雇用形態として定着させるには、それなりに時間をかけて軟着陸を図る必要がある。
まず最優先すべきことは正規・非正規の格差を3年くらいかけて解消すること。企業が非正規の賃金だけを正規並みに引き上げることは、全雇用者の4割以上を非正規が占めている今日、一気にとはいかない。企業が「カネのなる木」を持っているのなら別だが、人件費の総枠を増やさないとすると正規の賃金アップをできるだけ抑えつつ非正規の賃金を徐々に引き上げるという方法を取らざるを得ない。
そこで大問題が生じる。
企業への収益貢献度が高い若い有能な正規社員の賃金を抑制することは企業成長の足かせにもなるから、若い正規社員の待遇は改善する必要がある。そうなると必然的にしわ寄せが、年功序列で労働価値以上の給与をもらっている中高年に向かわざるを得ない。かといって、いきなり中高年の給与をダウンするという強硬手段もとるべきではない。だいいち、そんな荒業を使ったら労働組合が黙っていない。課長クラス以上は非組合員だが、いずれ年功序列で管理職になるつもりでいる組合員にとっては「いずれ我が身に降る火の粉」になるからだ。
そうなると、解決策はひとつしかない。もちろん有能な管理職は労働価値に見合った給与アップをすべきだが、労働価値以上の給与を支給されている中高年の給与アップは最低限に抑えることだ。もちろん年功型賃金の温床である定期昇給やベースアップは廃止する。そういう意味では雇用形態を「働き方改革」の原点である「成果主義賃金」制度に近づけていくことを意味する。
もう一つの日本型雇用形態の特徴である「終身雇用」。別に法律によって制度化されているわけではないが、成長産業は余裕で終身雇用制度を維持してきた。1970年代末、世界的なコンサルティング会社マッキンゼーのトム・ピーターズとロバート・ウォークマンが『エクセレント・カンパニー』という本を出版し、日本でも大ヒットしたことがある(日本語訳は大前研一氏)。同書はIBMやヒューレット・パッカード、マクドナルド、ジョンソン&ジョンソンなど好業績を上げている大企業を取り上げ、日本の大企業との共通点を指摘したが、著者が指摘した共通点の一つに「企業が社員を大切に扱うこと」を挙げた。
当時、日本の大企業の社員の会社へのロイヤリティの高さは世界でも有名で、それが日本人の資質によると考えられていた。そのロイヤリティの高さは実は日本人の資質によるものでは必ずしもなく、日本の終身雇用制度にあると分析、アメリカの業績好調な企業も社員を大切に扱うという点で共通していると指摘したのである。
実際、会社のために身を粉にして働けば、会社は一生面倒を見てくれるという暗黙の「契約」が、当時の日本では企業と従業員のあいだの相互信頼のベースとしてあった。だから、時にはいびつなロイヤリティが根付いた時期もある。
そのころ、私は住友銀行の磯田一郎頭取にインタビューしたことがある。住銀の「天皇」と呼ばれたほどの絶対的権力者で、関西の名門銀行だった住銀を収益力トップの銀行に育て、1982年には米金融誌から「バンク・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたほどの人物だ。社員に対しては「向こう傷を恐れるな」と叱咤激励した利益至上主義者でもあり、自身、イトマン事件に深くかかわって引責辞任に追い込まれた。
私は「夕刊フジ」で、83年7月から84回に及ぶ『ザ・ライバル』と題するコラム記事を書いたが、その第1回目のライバル物語が「住友銀行VS野村證券」(3回連続)だった。住銀と野村の社員の活力の源泉を知るために住銀の磯田氏と野村の田淵節也社長にインタビューしたのだが、そのとき磯田氏に「『向こう傷は問わない』と言われるが、儲かりさえすれば何をしてもいいというわけではないでしょう。許される向こう傷の限度を教えてほしい」とずけずけ聞いたことがある。インタビューに立ち会った広報室長はびっくりしたようだったが、当たり障りのない答えだったので、記事にはしなかった。
野村も暴力団とつるんで東急電鉄の株価操作したり、利益さえ上げればかなり際どいことをしても、会社が一生面倒を見てくれるという暗黙の「信頼関係」が企業と従業員の間に培われていた時代でもあった。
日米貿易摩擦が激化するようになって以降、自動車メーカーを筆頭に有力な対米輸出メーカーの多くはアメリカなど海外に工場進出するようになった。私も何度か、海外での「日本型経営」の実態を取材してきたが、日本人経営者が一番頭を悩ますことは人事権問題である。日本企業は人事部が一括して採用や配属を決めるが、アメリカなどでは直属の上司が人事権を掌握しており、自分の地位を脅かしかねない有能な部下を難癖をつけて勝手に解雇してしまうというのだ。だからアメリカでは直属の上司のことを「ボス」と呼ぶ。
プロ野球の日ハムの新監督・新庄が就任会見で「監督ではなく、ビッグ・ボスと呼んでくれ」と挨拶して話題になったが、選手との信頼関係は「ボス中のボス」である自分にある、と言いたかったのだと思う。だから、日本企業の従業員のロイヤリティの対象は会社という共同体にあるが、アメリカ人のロイヤリティの対象は自分に対する生殺与奪の権を有している直属の上司なのだ。
そこで日本企業が大きな問題に直面したのは、「終身雇用」形態を維持することが困難になったことである。バブルがはじける以前のフルタイム従業員の採用はよほどのことがない限り【正規・非正規】などの差別はなかった。もちろんパートやアルバイト、季節労働者、日雇いなどの非正規雇用は昔からあったが、全雇用者に占める割合はすでに述べたようにせいぜい20%だった。
が、アメリカと違って日本は従業員採用が「終身雇用」を暗黙の前提としているため、会社の都合で工場を簡単に閉鎖したり、従業員を簡単にレイオフしたりできない。その問題を解決する手段として日本企業が生み出した方法が二つあった。
その一つが覇権会社から人材を調達するという「非正規雇用」であり、もう一つが中高年社員を対象とした「希望退職制度」(日本企業では退職金制度も自己都合と会社都合・定年退職の2本立てになっており、自己都合退職の支給基準は会社都合や定年退職の約半分になっている。希望退職を募った場合、自己都合扱いではなく、かなりの退職金を上乗せする優遇制度)である。
もともと終身雇用を前提としていないアメリカなどでは【正規・非正規】の差別はない。上司や会社の都合で、長期勤続者でも簡単にレイオフできるからだ。当然、「希望退職制度」など考えもしない。考える必要がないからだ。
いま日本では全雇用者の40%超が非正規だという。その非正規従業員のすべてが正規雇用と同様のフルタイム従業員というわけではないが、バブル崩壊前と同様、パートやアルバイトなどが20%を占めているとしても、正規社員と同じ仕事をしているフルタイムの非正規社員が20%超もいる計算になる。この非正規社員の存在が、ある意味終身雇用を維持するためのクッションの役割を果たしており、それでも間に合わない場合は「希望退職者の募集」という最終手段に出ざるを得ないのが紛れもない現実である。

●民主党政権時代の方が安倍政権時代より経済成長していた
本稿における私のテーマは「アベノミクス」や岸田総理の「新しい資本主義」が日本では「青い鳥」を追いかけるようなものであることを論理的に検証することと、日本経済の未来図をどう描くかである。
まず二人の経済政策に共通した要素は「経済成長至上主義」という認識である。そこで民主党政権時代に比して安倍内閣時代に実質GDPがどのくらい増えたのか、明確に検証してみた。実質GDPは物価変動の影響を除いた実質経済の実力を示す数字だ。この検証に文句は誰も付けられない。
民主党政権が誕生したのは2009年8月末。この年の実質GDP(以下GDPと記す)はは490兆円で08年より19兆円増加した。民主党政権はこの年の4か月だから、その3分の1として単純計算で6兆円超が民主党政権時代に増えたことになる。民主党政権が崩壊したのは2012年12月だが、この年のGDPは517兆円。民主党政権の3年4か月の間に増えたGDPは6+27=33兆円。
 安倍政権時代の、コロナ禍に襲われるまでのGDPの伸びはどうか?
2019年のGDPは554兆円だから、丸7年かけて37兆円の増。コロナ禍に襲われた20,21年のGDP減少をアベノミクスのせいにするのはいくらなんでも気の毒だから、実質的にアベノミクスが機能した7年間に絞って検証したが、なんと3年4か月の民主党政権時代よりわずか4兆円しかGDPは増えていない。いったい、これはどういうことか~
円安で自動車をはじめ輸出産業は増収増益を記録し続けたが、実はGDPの約6割は個人消費が占めているとされる。その個人消費を円安による輸入品の高騰が直撃した結果という検証結果になった。
なお、私は厚労省や国交省のバカ役人と違って、おかしな数字の操作は一切していない。
このことは何を意味するか。
経済成長至上主義が破綻したことを意味する。
当然である。先進国は人類の歴史上初めて人口自然減少時代に突入している。アダム・スミスもマルクスもケインズも、経済学者のだれもが予想もしなかった時代に私たちは直面しているのだ。日本を含め先進国は軒並み高齢化社会に突入しているから、まだ人口減少は表面的には衝撃的な数字になっていないが、おそらく20~30年後には人口減少問題に直面していることがだれの目にも明らかになる。
私はしばしばブログで、この問題を提起してきた。改めて検証すると、1人の女性が一生に産む子供の数を「合計特殊出生率」というが、ある国が人口を維持するために必要な出生率は2.1とされている。出産年齢に達する前に死亡することがあるので2.0ではない。主要国10か国の出生率を見てみよう。
1.フランス  1.9
2.アメリカ  1.7
3.中国    1.7
4.オーストラリア  1.7
5.イギリス  1.6
6.ドイツ   1.5
7.ロシア   1.5
8.カナダ   1.5
9.日本    1.4
10.韓国    0.9
人口が増え続けているのはアフリカや南米の未開発国・地域だけで、これらの国・地域が先進国の生産する高度工業製品を生活必需品とする市場に育つには、おそらく50~100年はかかるだろう。
最近、先進国が自由貿易圏結成を急いでいることは、読者の皆さん、ご承知だと思うが、例えば日本がいま主導的役割を担っているTPPにしても、参加国は輸入を増やしたいためではない。国内需要が頭打ちになってきたため、輸出によって経済成長を果たしたいという勝手な妄想に捕らわれているだけだ。だから実際にTPPがスタートして自由貿易圏ができたとしても、加盟国・地域はすべて輸入関税をセーフガードは設定できても、基本的に関税引き下げが求められているから、輸入が輸出を上回る国・地域は必ず出る。そのとき、自由貿易圏が崩壊するだけで終わるのか、あるいは市場争奪戦が激化して、「獲得した市場を防衛する」という口実を振り回して軍事的手段で既得権を守ろうとするか、予測は不可能だ。
かつての戦争は、そういう「防衛」を口実に行われてきたことは紛れもない歴史的事実であり、「歴史は繰り返す」のか。
それとも、もはや経済成長時代の夢は終了したと、人類が新しい価値観と生き方を追及するようになるのかは、経済学と哲学が目指すべき新しい世界の実現にかかっている。

●「パーパス経営」は会社と社員の新しい「在り方」をつくれるか
最近、「パーパス経営」に取り組もうとする大企業が現れ、新しい人材育成の効果的方法として注目を集めている。
戦後の1950年代に、ドラッガーが経営者の在り方を問うたのが経営学のはしりだが、その後、「従業員のやる気」を引き出す心理学的手法を説いた心理学者がアメリカで2人登場し、日本の企業経営手法にも大きな影響を与えた。
60年代以降、日本は高度経済成長時代を迎えたが、企業にとっては「従業員のやる気」をどう引き出し、企業収益の増大に結び付けるかといった課題に取り組もうとしていた時代でもあった。
一人目はアブラハム・マズローで、「自己実現」論を唱えた。マズローは、人間の欲求には5段階あり、①生理的欲求(生存・種族保存の本能を満たすための欲求――具体的には食・衣住・性欲など) ②安全の欲求 ③社会的欲求(金銭・地位など) ④承認(尊重)の欲求(名誉欲など) そして最後の⑤が「自己実現の欲求」という5段階で、「自己実現の欲求」が他のすべての欲求を超越した素晴らしい欲求で、人々はその欲求段階への到達を目指すべきだと説いた。経営者にとっては極めて都合がいい理論で、経営者自身は企業の収益拡大やシェア拡大といった低次の欲求段階に居座りながら、従業員には「待遇や地位を求めるのではなく、自分の能力開発に集中しろ」と要求することに利用された理論でもあった。
このマズローの欲求段階説をベースにしながら「X理論Y理論」を唱えたのがダグラス・マクレガーだった。マクレガーは、社員には2つのタイプがあり、「自主性がなく、強制されたり命令されなければ仕事をしない」Xタイプと、「自主性を持ち、強制されたり命令されなくても自ら課題を見つけて解決しようと努力する」Yタイプに分けられるという説だ。Xタイプの従業員に対しては「アメとムチ」で高い目標を設定し、がむしゃらに目標達成に向けて頑張らせる管理が必要で、Yタイプの従業員には「自己実現を目指した自主的努力」を要求すべきという、これまた経営者にとっては都合がいい理論だった。
経済成長時代においては、こうした従業員管理法が有効だったことは否定できない。が、企業にとってはいま、経営環境が劇的に変わりつつある。高度経済成長時代においては、「終身雇用・年功序列」といういわゆる日本型雇用関係は容易に維持できたが、いま日本の経営者にとってはいかに日本型雇用形態の終焉を軟着陸させるかが最大の課題となっている。
しかも世界的潮流としてSDGsへの取り組みを無視した企業経営は社会から駆逐されかねないという危機意識を持つ経営者も増えだした。そうした中で昨年5月ごろから一部の大企業経営者の間で注目を集め出したのが「パーパス経営」という新しい従業員管理手法なのだ。
日本では、一橋ビジネススクールの経営学者の名和高司氏が昨年5月に提唱し、SOMPOホールディングやソニーグループ、花王、味の素などの大企業が導入し始め、多くの企業の注目を集めている。
パーパスとは「存在意義」と一般には訳されているが、要するに「企業が存在する理由、存在できる理由、存在しなければならない理由」を根底から問い直し、社会から「存在が必要とされる企業」になっていくためには会社と社員の関係も根底から見直す必要があるという画期的な考えだ。
具体的手法としては、上司と部下が基本的に月1のペースで1対1の面談を行う。それも「上意下達」の指示指導ではなく、上司は部下が自主的に課題を見つけるよう面談をリードし、どうやって課題を解決していくかを一緒に考えるという取り組みである。面談でのポイントは「仕事の目標や進捗」についての話は絶対にしないこと。上司・部下という上下関係ではなく、先輩・後輩のような関係を構築し、信頼関係を深めることも狙いの一つという。だから、上司には高度なウンセリング能力が要求されるようになる。
従来の管理職像とは全く異なる資質・能力が管理職(主に課長クラス)には求められるようになり、パーパス経営を導入した企業には管理職に対するカウンセリング研修が必要となる。
このパーパス経営が成長至上主義経営からの脱却をスムーズに実現できるか、まだ大企業も手探りで始めたばかりなので不透明感はぬぐえないが、企業が生き残るためには従来の価値観の延長では不可能ということに気が付く企業が出現しだしたことの意味は大きい。
パーパス経営だけがベストというわけではないと思われるので、これからの社会が必要とする企業の在り方、経営者の在り方、社員の在り方について模索する時代がしばらく続くであろう。(了)









アメリカが新疆ウイグル人権侵害問題で北京オリンピックの外交的ボイコットを呼びかけた本当の理由

2022-01-25 01:21:34 | Weblog
【特別追記】ウクライナ情勢でバイデンはなぜへっぴり腰に変わったのか~
ウクライナ情勢をめぐって緊迫状況が続いている。ウクライナはもともとは旧ソ連邦の構成国であり、ワルシャワ条約機構の最前線国だった。そのためウクライナにはロシア人も多く住んでいる。
旧ソ連が崩壊後、ウクライナは独立したが、親ロ派政権が続いていた。が、親ロ派政権の汚職問題もあって政権が親ロ派から親EU派に変わった。その後、2014年に、ロシア人が圧倒的多数を占めているクリミア自治共和国が、住民投票を経てウクライナから分離独立、ロシアへの編入を決めた。さらにロシア人住民が多い東部の2州(ドネツク州・ルハーシンク州)もウクライナから分離独立の動きを始めた。そうしたロシア人住民の多い地域でのウクライナからの分離独立の動きの背景にロシアの関与がなかったとは、多分言えないと思う。
いまウクライナで危機が生じているのは、親EU政権のポロシェンコ大統領がNATOに参加する方針を打ち出したためだ。
NATOとEUとは違う。そのことを明確に認識しておいてほしい。EUはヨーロッパの経済圏を意味し、NATOは旧ソ連圏に対する軍事同盟連合である。NATOは旧ソ連圏の軍事的圧力に対抗するために結成された、当時の西側軍事同盟であり1954年に結成された。旧ソ連が主導して結成されたワルシャワ条約機構はNATO結成の翌年の1955年である。この両軍事同盟の成立の時間差から考えても、NATOは共産主義勢力の西側ヨーロッパへの浸透を防ぐために結成されたと考えるのが文理的である。一方、旧ソ連圏にとってはNATOが軍事的脅威に相当し、対抗するための軍事同盟のワルシャワ条約機構を結成したと考えるべきだろう。
言っておくが、私は本稿でも書いているように、どちらを支持しているわけでもない。体制についていえば、私は共産主義体制には反対である。が、民主主義の名のもとにおかしな政治を行っている状況に対しては厳しく断罪している。本稿では、日本の安全保障をアメリカに頼ることがいかにリスキーかということを、本稿の前のブログの「憲法改正論」とともに書いている。
そのうえで、いかなる体制の国でも、他国からの軍事的脅威に対する対抗手段は否定すべきではないと主張した。本稿では、北京オリンピックの外交的ボイコットに関していえば、欧州議会が中国の新疆ウイグルでの人権侵害を口実にしたアメリカに対して香港での人権侵害を決議したことを評価したが、日本はさらに踏み込んで国会でチベットやモンゴルに対する人権侵害も非難する決議をした。私は寡聞にしてチベットやモンゴルに対する人権侵害の実態を知らないので何とも言えないが、日本が矜持をもって人権侵害を問題視するならアメリカでの黒人迫害の様々な事件に対しても「遺憾の意」くらいは表してもらいたいと思っている。
それはともかく、ウクライナ危機に関していえば、私は「キューバ危機」を思い出した。当時、アメリカはCIAがキューバのカストロ政権を転覆させるため、様々な工作を行っており、キューバがアメリカの軍事的圧力に対抗するためミサイル基地の建設の乗り出し、旧ソ連がキューバを支援するためミサイル基地建設のための資材(ミサイルそのものも含んでいた可能性も高い)を搬入しようとしたとき、時の米大統領のケネディが「ソ連との戦争をも辞さず」とソ連・フルシチョフと強談判してソ連からの搬入を阻止したことが頭によぎった。冷静に考えれば、キューバがアメリカと戦争して勝てるわけがなく、北朝鮮もアメリカと戦争して勝てるわけがないことは12歳以上の子供なら常識でわかる話だ。
日本は「12歳以下の子供」(マッカーサー発言)だったから、勝てる見込みのないアメリカとの全面戦争を始めたが、世界の国々は日本のバカげた戦争から学んでいる。北朝鮮の核ミサイル開発はアメリカと戦争するためではなく、アメリカの敵視政策・軍事的脅威に対する、あくまで対抗手段でしかすぎず、だから日本が北朝鮮の暴発をやめさせるにはアメリカに対して「北朝鮮に対する敵視政策・挑発行為をやめてくれ」と主張すべきだと本稿で書いた。
同様に、ウクライナがNATOに加盟するということになれば、ロシアに対する軍事的敵視政策をとることを決めたということを意味し、ロシアにとっては黙視できるわけがない。キューバ危機と同様、ロシアと隣接した地域にミサイル基地が建設されることを意味するからだ。
ウクライナ政権にとっても、これ以上ロシア勢力の浸透を許すわけにはいかないという思いもあるだろう。が、いきなりNATOに加盟するということは、あからさまなロシアに対する敵視政策であり、核禁条約については日本政府が「核保有国と非保有国の橋渡し」に徹するというなら、ウクライナ政府に対して「EU(経済圏)への加盟にとどめ、軍事同盟であるNATOへの加盟は考え直してほしい」と要請すべきだろう。
それにしてもアメリカ・バイデンの豹変にはあきれた。当初は「軍事介入辞さず」と強硬姿勢を示していたが、一気に「経済制裁」に後ずさりしてしまった。やはりアメリカには「モンロー主義」(自国に直接の利害関係がない国債紛争には関与せず)が根強く染みついているようだ。アフガニスタンからの撤退騒ぎもそうだが、日本有事でもアメリカにとって直接の利害関係が薄ければ、おそらく在日米軍は総撤退するだろう。
私は別に反米主義者ではないが、アメリカという国はそういう国だということを、私たちは胸に刻み込んでおいた方がいい。(1月28日)



北京冬季オリンピック開催が目前に迫ってきた。米バイデン大統領が、習近平政権による新疆ウイグル自治区での人権問題を重視して北京オリンピックの外交的ボイコットを表明、EU、カナダ、オーストラリアなどが次々に同調、中国との関係悪化を懸念してなかなか態度を鮮明にしなかった日本も、昨年12月24日になって滑り込みで同調、政府代表団を派遣しないことにした。ただし、日本は政府代表団の代わりに橋本聖子・東京オリンピック組織委会長、山下泰祐・日本オリンピック委員会会長、森和之・日本パラリンピック委員会会長を派遣することにした。
が、アメリカが新疆ウイグルでの人権問題を「口実」にした外交的ボイコットには、私は疑問を抱かざるを得ない。新疆ウイグルでの強制労働や虐殺は少なくとも2019年には明らかになっており(ただし外国の報道陣が入れないため、実態は不明)、さらに翌20年5月には習近平政権が「国安法」(香港国家安全維持法)を成立させ、それまで「一国二制度」のもとで政治結社や思想・言論の自由が曲がりなりにも保障されていた香港での人権弾圧の状況は私たちもテレビの映像で目に焼き付いている。実際、欧州議会は昨年7月アメリカに同調して新疆ウイグルの人権問題で外交的ボイコットを議決したが、今年1月20日に香港の人権問題も外交的ボイコットの要件として再決議した。EUの方が筋が通っている。
なぜアメリカは今頃になって新疆ウイグルの人権弾圧を理由に北京オリンピックを外交的ボイコットすることにしたのか。それしか口実にできない事情があったからではないか。そう確信できる問題が実はある。

●新疆ウイグル自治区とは~
まず「新疆」とは地域の名称であり、「ウイグル」は新疆地域で多数を占める民族の名称である。日本なら「沖縄琉球」とでも言えばいいか。つまり沖縄は沖縄県と言う地域を意味する名称であり、その地域に住む住民の多数は日本人ではあるが琉球民族という関係と理解してもらえればいい。
新疆は少なくとも2500年以上の歴史を持つと言われており、モンゴル・ロシア・カザフスタン・アフガニスタン・パキスタン・インドなど多くの国と国境を接しており、国境の大部分は標高数千メートルの山脈である。また新疆のアクサイチン地域はインドとの間に領有権問題を生じている。
18世紀に中国の清王朝に征服され、清後は蒋介石の中華民国の支配下になり、その後、毛沢東の中華人民共和国(中国)に組み込まれた。日本による朝鮮併合のような感じだ。なお、かつては日本のメディアは中国を「中共」と称していた。中華人民共和国を略せば「中共」が正しい。
新疆は綿産業が盛んで、日本のユニクロも含め世界のアパレルメーカーの多くが新疆産の綿製品を購入していると言われるが、ここ数十年、新疆では豊富な石油・鉱物資源が発見されており、中国最大の天然ガス産出地でもある。
新疆は当初、中国の「省」だったが、民族融和のため1955年「自治区」に指定し漢民族が多数流入し始めた。中国政府も新疆の近代化を促進する政策をとってきた。いまでは新疆の住民2500万人のうち4割を漢民族が占めるに至っているようだ。が、新疆の多数民族であるウイグル族は大多数がイスラム教徒であり、とくに文化大革命のときには宗教を否定しモスクを大量破壊した紅衛兵との間に大きな衝突が何度も生じている。そういう過程を経て胡錦涛が2003年、高等教育において少数民族固有の言語使用を禁止し、公用語も漢語に統一した。当然、ウイグル族が反発して独立運動もしばしば発生するようになった。
そうした状況下で誕生したのが習近平政権である。習近平はまず「汚職の撲滅」を口実に政敵を次々に粛清、「毛沢東二世」を目指すほどの独裁権力を手に入れた。時期は不明だが、新疆に「強制収容所」を設置し、ウイグル族の思想改造に乗り出したのである。一説には強制収容所に収容されたウイグル人は延べ100万人に達しているという(「強制労働」については実態が不明)。
こうして習近平が、日本が朝鮮併合時代に行った「朝鮮人の日本人化」政策と同様の「ウイグル民族の中国人化」を目指しだしたのが、そもそも新疆ウイグル人権問題の発端である。
もちろん私は習近平政権の人権侵害政策については新疆ウイグル問題だけでなく、香港問題も含めて一切支持するつもりはない。が、なぜ新疆ウイグルの人権問題が突如、北京オリンピックの外交的ボイコットに結びつくのか、それが大きな問題なのだ。
もし本当に人権問題で習近平・中国を国際的に孤立化させるというなら、いっそのこと北朝鮮と同様の経済制裁を中国に対して発動する方がよほど効果は大きい。が、北朝鮮を孤立化しても世界経済はほとんど影響を受けなかったが、中国を孤立させれば、アメリカも日本もEUも経済的に大打撃をこうむる。いまや先進国のあらゆる産業は、中国を抜きにしては生き延びることができないからだ。

●アメリカはなぜ中国の共産化を防げなかったのか?
習近平政権の目標はアメリカを凌駕する中国の覇権をアジアで確立することのようだ。南沙諸島の軍事基地化などの海洋進出や香港の「一国二制度」の破壊による「中国化」もその一環。新疆ウイグルの「中国化」も同じ。そして最後の総仕上げが「台湾の中国化」である。そういう習近平の狙いはアメリカも分かっている。分かっていないのは日本だけだ。

日本の敗戦後、中国の内戦で蒋介石率いる国民党軍(中華民国政府軍)と毛沢東率いる共産勢力(人民解放軍)の戦いで、アメリカがなぜ国民党軍を軍事支援しなかったのか。
近現代歴史家と称する学者や小説家のほとんどが、実はこうした疑問を抱いたことがないようだ。
私はこう考えている。
日本がいたずらに太平洋戦争を長引かせ、とくに沖縄戦では米軍にも多くの犠牲者を出したことで、日本が無条件降伏したときには米軍自体が疲弊しきっていて、中国の内戦に軍事介入できる余力がなかったことが最大の理由。
日中戦争が始まって以来、中国で敵対関係にあった、孫文が創設した国民党と共産党が協力して関東軍と戦った(国共合作)。当時は共産党勢力より中華民国政府軍の方が圧倒的に戦力に勝っており、連合国も中華民国を中国の正当な国家とみなしていた。実際日本に無条件降伏要求を突き付けたポツダム宣言はルーズベルト・チャーチル・蒋介石3人の連名で発されている。また戦後の45年10月に発足した国際連合の常任理事国には国民党政権による中華民国が名を連ねていた。
が、46年6月には政府軍(中華民国軍)と共産党勢力(人民解放軍)が激突し、中国内戦が始まった。対日戦争では政府軍が前線で関東軍と戦い、人民解放軍はもっぱら後方支援に回っていた。そのため日本が降伏したとき、政府軍と人民解放軍の戦力は逆転していた。政府軍は関東軍との戦いでかなり疲弊していたのに対して人民解放軍は後方支援に徹し、戦力を維持していたからだ。
米ソもそれぞれ武器支援など双方の勢力を後方支援してはいたが、直接的軍事介入をするには米軍もソ連軍も疲弊しきっていた。もし、日本がミッドウェー海戦の敗北(42年6月)かサイパン島守備隊3万人全滅(44年6月)の時点でアメリカに降伏していれば、米軍は沖縄上陸作戦で大きな犠牲を払わずに済み、人民解放軍による中国支配を軍事的に防げていたかもしれない。
実際、第2次世界大戦が終結したのち生じた朝鮮半島での共産勢力の攻勢やベトナムでの共産勢力の拡大に対してアメリカは直接軍事介入している。ある意味では日本があのバカげた戦争を原爆を落とされるまで続けた結果、共産勢力の拡大を招いたと言えなくもない。
ちなみに戦争とは国と国の戦いを指す名称である。本来なら内戦である朝鮮戦争やベトナム戦争に「戦争」という名称が冠せられることになったのは、両方ともアメリカが戦争当事国として軍事介入したからである。だから中国での政府軍と人民解放軍との間に行われた内戦には「中国戦争」という名称がついていない。なぜ、そんな単純なことに誰も疑問を呈さないのか。
その単純な疑問を抱くだけで、アメリカが北京オリンピックを外交的ボイコットに踏み切った理由が分かるはずなのだが……。

●アメリカが北京オリンピックを外交的ボイコットした本当の理由
さて中国の内戦は先に書いたような事情で毛沢東率いる人民解放軍が蒋介石の中華民国政府軍を圧倒的に破り、49年1月には北京を制圧、10月1日には中華人民共和国の成立を宣言した。一方、中華民国政府軍は12月7日、台湾に逃れ、台湾で中華民国政府を樹立した。
実は台湾の歴史は極めて複雑である。古代中国の属国的立場だった時代もあれば、1624年からオランダの東インド会社が支配していた時期もあり、中国本土で明朝滅亡後、清朝(満州族の王朝)が中国を支配した時期には台湾は「化外(けがい)の地」(皇帝が支配する領地ではないという意味)という扱いだった時期もあり、台湾が歴史的に見て中国の一部と言えるかどうか疑問は残る。
日本も日清戦争の勝利によって台湾を清から割譲され統治していた時期もあり、台湾と中国の関係は琉球(沖縄)と日本の関係に近いかもしれない。いずれにせよ、台湾を独立国とみなすか、中国の領土とみなすかはそれぞれの国の台湾との関係、中国との関係によって異なっている。
実は戦後、アメリカも日本も基本的に台湾を独立国として扱ってきた時代があった。が、1970年代初頭に世界にアメリカ発の激震が走った。いわゆる「ニクソン・ショック」である。ニクソン・ショックには二つあり、一つ目は71年8月15日、アメリカが金とドルの交換を停止して固定相場制が崩壊、一時的な固定相場制を経て現在の変動相場制に移行したこと。もう一つは翌72年2月21日、ニクソンが電撃訪中を行い、中国との国交正常化を実現したことである。
この米中国交正常化は、ハーバード大教授であり、大統領補佐官だったキッシンジャーが極秘に中国を訪問(71年7月)、周恩来首相と会談して米中国交正常化への道を切り開いたとされている。そのとき、キッシンジャーが周恩来の要求に応じて、台湾は中国の一部であるとする「一つの中国」を受け入れたとされている。もちろんキッシンジャーが独断でそんな重要な外交案件を決められるわけはなく、水面下で双方の受け入れ条件に付いての合意があったはずだ。
この米中国交正常化は日本の頭越しに行われ、日本は蚊帳の外だった。慌てて日本は田中角栄総理が72年9月29日に訪中して周恩来と会談、「一つの中国」を受け入れて日中国交正常化を実現した。今年は日中国交正常化50年に当たる。
問題は「一つの中国」が何を意味するかである。この問題はややこしすぎるので、この稿では深入りしないが、アメリカも日本もそれまであった台湾の外交機関(大使館・領事館など)を廃止し、正式な外交機関の代わりにアメリカは「米国在台協会(ATT)」を、日本は「日本台湾交流協会」を設置した。
問題は米中国交正常化の後、アメリカは中華民国との間での「米華相互防衛条約」の後継法と言える「台湾関係法」を議会で成立させ、台湾との軍事同盟関係を維持してきていることだ。つまりアメリカは中国に対しては「一つの中国」を容認し、台湾に対しては同盟関係を維持するというダブル・スタンダードを中台政策の基本にしたのである。
すでに述べたように、習近平は「毛沢東二世」を目指してアジアでの覇権を確立しようと躍起になっており、新疆ウイグル族の「中国人化」や香港の「中国化」、さらに南沙諸島の軍事拠点化などの海洋進出を含む一連の強大化路線を進めており、台湾の「中国化」を最後の総仕上げ目標にしている。
一方、アメリカにとっては東シナ海・南シナ海における覇権だけは守り抜かなければならないという立場を維持しており、そのためにも「台湾の中国化」だけは絶対に阻止したいというわけだ。そのため、いま台湾を巡って米中のにらみ合いが続いており、中国が台湾に対して挑発的な軍事演習を行う一方、アメリカは台湾の防衛力強化に必死だ。
が、国交正常化に際してアメリカも日本も「一つの中国」を容認しており、そのため習近平政権はアメリカに対して「内政干渉だ」と強く非難している。そのため台湾問題をめぐって北京オリンピックを外交的ボイコットするのは、アメリカとしても国際的理解が得られにくいと考え、いまさらと言えなくもない新疆ウイグルの人権問題を外交的ボイコットの口実にせざるを得なかったというわけだ。人権問題を口実にすれば、北京オリンピックの外交的ボイコットも国際的理解が得られやすいと考えたのだろう。

●「台湾有事は日本有事」か?
以上述べたことでアメリカの北京オリンピック外交的ボイコットの目的が習近平政権の「一つの中国」作戦を未然に防ぎ、東シナ海・南シナ海におけるアメリカの覇権を維持するための手段であることが明確になったと思う。いわゆる「民主主義サミット」も、アメリカに同調する国と中国に同調する国を二分するための「踏み絵」なのだ。
だから必ずしも民主的な国家だけが招待されたわけではなく、アメリカに同調する国は独裁政治を行っている国も招待されている。北京オリンピックの外交的ボイコットの呼びかけも、いざ有事になったとき、政治的にも軍事的にもアメリカが主導する多国籍軍に参加しろとの「踏み絵」だ。
中国でも今、さすがに習近平の強硬路線に対する批判勢力が生まれつつあるという情報もちらほら出てきた。中国では言論の自由がないのは自明だが、習近平批判の論調を書く政府系新聞も出てきている。それどころか、習近平暗殺計画があったことも政府系新聞が明らかにした。習近平の権力も絶対ではない。
習近平もバカではないから、国際的非難が殺到する「一つの中国」作戦を強行するようなことはないと思うが、それはあくまで習近平が理性的であることを前提にした楽観的見方に過ぎないかもしれない。習近平があくまで権力の維持に固執した場合、「台湾有事」はありえないことではない。
そして最悪のケース、つまり習近平がアメリカとの軍事衝突も辞さずと「一つの中国」作戦に踏み切ったケースも一応想定しておく必要がある。そして実際に「台湾有事」が生じたとき、「日本有事」の可能性も。
安倍元総理は昨年12月1日、台湾の民間シンクタンクが主催したシンポジウムに日本からオンラインで参加し「新時代の日台関係」と題する基調報告を行った。その中で安倍氏は「日本と台湾がこれから直面する環境は緊張をはらんだものとなる」「尖閣諸島や与那国島は台湾から離れていない。台湾への(中国の)武力侵攻は日本に対する重大な危険を引き起こす。台湾有事は日本有事であり、日米同盟への有事でもある。このことの認識を習近平主席は断じて見誤るべきではない」と語った。
私も実は安倍氏とは違う理由で間違いなく「台湾有事は日本有事になる」と考えている。
もし、習近平・中国が力で「一つの中国」を実現しようとした場合、ダブル・スタンダードの中台政策をとってきたアメリカがかなりの確率で台湾防衛のために軍事介入するからだ。その場合、軍事介入する米軍の主力は沖縄の米軍基地に属する兵力になる。
これまでも私は沖縄の米軍基地が、日本にとって最大の安全保障上のリスクになると主張してきた。普天間基地の辺野古移設について、日本政府は「日本の安全保障上、辺野古移設以外の選択肢はない」と繰り返し主張してきた。
本当にそうか。
沖縄県の総面積は日本全体のわずか0.6%を占めるに過ぎないが、その沖縄県に在日米軍基地の70.6%(総面積比)が集中し、基地数も31を数える。日本防衛のために沖縄にそこまで米軍基地を集中させる必要性があるか否かは、中学生でもわかる話だ。
今年5月に沖縄返還50年を迎えるが、アメリカが日本に沖縄を返還する際、本土の米軍基地のかなりを沖縄に移設している。そもそもアメリカは朝鮮戦争時、在日米軍を朝鮮戦争に総動員して日本を丸裸にしたことが、日本独立を速めたといういきさつもある。そうした経緯から見ても、米軍基地を沖縄に集中させることにアメリカがこだわる理由は、日本防衛のためではなく、東シナ海・南シナ海での覇権を維持するための戦力重点配備が目的であることは明らかだ。
だから台湾有事にアメリカが軍事介入する場合、その戦力は沖縄の在日米軍になる。当然、中国は沖縄の米軍基地へ総攻撃をかける。まさに「日本有事」である。安倍氏の論理ではなく、沖縄の米軍が中国と軍事衝突した場合、間違いなく「日本有事」になる。だから私は、沖縄の在日米軍が日本にとって安全保障上の最大のリスクだと主張してきた。
改めて明確にする。沖縄の在日米軍の目的は日本を守ることではない。

【追記】NHKの偏向報道がひどくなる一方だ
1月22日のNHK『ニュース7』が核禁条約について報道した。事実についての報道は別に問題があるわけではないが、NHKはこのニュースの最後を一橋大学教授のコメントで締めた。
そのコメントは「日本は中国の核の脅威にさらされている」という核禁条約反対のコメントだった。NHKによる印象操作が明確になった瞬間である。
日本が中国の核の脅威にさらされている事実があってのことならいいが、そんな事実はまったくない。実際、中国が日本に対して敵視政策を行使したこともないし、核で脅した事実もない。ウルトラ右翼政治家の安倍元総理や高市氏でも、中国の核を脅威に思ったりはしてはいないと思う。現に、安倍氏は習近平を国賓として招待する予定だったくらいだ(コロナ禍で延期にはなっているが)。一橋大教授がどういう思想を持とうが、それは自由だが、あまりにも偏見に満ちたコメントを、なぜNHKが意図的に報道したのか。
同盟国であり友好国でもある中国やロシアの核の傘に守られていない(と思っている)北朝鮮が、アメリカの敵視政策に対して「やるならやってみろ。ただでは済まないぞ。もしアメリカが我々を攻撃するなら、日本が真っ先に火の海になる」と脅したのは事実だが、中国はそんな脅しもしていない。だいいち、NHKは「日本などアメリカの同盟国・友好国はアメリカの核の傘で守られている(と思っているだけだが)」と報道するが、それは大多数の日本人の共通認識だからやむを得ないとしても、実際に日本を敵視している国がどこにある?
日本が領土問題を抱えている国は韓国(竹島)、中国(尖閣諸島)、ロシア(北方領土)だが、自国領土と主張していながら竹島は韓国に実効支配されており、北方領土はロシアに占領されたままだ。オバマ以降歴代アメリカ大統領が「安保条約5条の範疇だ」とリップサービスしてくれている尖閣諸島ですら、日本は実効支配すらできない
(アメリカが反対しているから)。そんな国を、どういう口実で核攻撃する国があるというのか…。
日本政府は「核保有国と非保有国の橋渡しをする」と口先では言うが、具体策は何もない。せめて、日本自身は核を保有しなくても、非核保有国が核保有国の脅威にさらされた場合、その非保有国に対して核開発のための技術的・物質的(プルトニュームの無償提供など)援助をして核保有国からの脅威を軽減するというなら、「橋渡し」の意味も分からないわけではない。
しかし日本政府は核保有国のアメリカの敵視政策に悪乗りして、アメリカの核の脅威に屈しろと主張しているに過ぎない。しいて言えば、アメリカの核政策の「露払い」役に徹しているようにしか見えない。
日本が、本当に北朝鮮の核の脅威を排除したいのなら、アメリカに対して「北朝鮮への経済制裁などの敵視政策をやめてくれ。アメリカのおかげで日本は北朝鮮の核・ミサイルの脅威にさらされている。アメリカが北朝鮮に対する敵視政策をやめてくれたら、日本が責任をもって北朝鮮を平和国家として発展できるよう努力する」と主張すべきではないか。
実際問題として、アメリカが核の傘で守ってくれているというのは、独りよがりの思い込みに過ぎない。実際、そんな約束は、アメリカは日本に対しても、また他の同盟国・友好国に対しても、してくれていない。だいいち、沖縄返還のとき、日本政府はアメリカに対して核の持ち込みをさせないと約束したではないか。在日米軍基地から核攻撃できるならいざ知らず、米本国から報復核ミサイルを発射しても、多分敵国に撃墜されるだけだ。
それに、アメリカは北朝鮮の核保有には制裁を加えるが、イスラエルやインド、パキスタンの核保有は事実上容認している。アメリカが敵視している国ではないからだ。むしろイスラエルの核はイスラム過激派にとって脅威になり、インドの核は中国に対するけん制になるからだ。そんなご都合主義のアメリカ核政策に本気で頼っているお人好し国家が日本であり、公共放送と称しているNHKなのだ。



私が「憲法改正」すべきと考えた、これだけの理由。

2022-01-03 01:43:05 | Weblog
●ブログを書き始めて5000日目を迎えて
今日2022年1月3日が、私がブログを書き始めてちょうど5000日になる。最初のブログのタイトルは『私がなぜブログを始めることにしたのか』で、2008年4月27日の投稿だ、私が67歳のときで、私の32冊目になる最後の著書『西和彦の閃き 孫正義のバネ』を上梓したのが1998年3月だから10年たっていた。もちろん10年間、何もせずぶらぶらしていたわけではなく、雑誌や週刊誌には時々記事を書いてはいた。が、雑誌や週刊誌は単行本と異なり、あらかじめ雑誌や週刊誌の編集会議で決めた「結論」があり、私が取材した結果として書いた内容が編集部の「結論」と異なっていた場合、肝心の筆者に何の断りもなく勝手に改ざんされることがしばしばあり、ある雑誌の編集長とトラブルになり、私の意志に反した記事が私の名前で掲載されることに耐え切れず、著作活動をやめていた。当然、うつ病を発症し、電車に飛び込み自殺を図ったこともあった。幸か不幸か、身体のすべてが2本のレールの間にすっぽり嵌り、大事にはいたらなったが、その後も躁(そう)と鬱(うつ)を繰り返しながら今日に至っている。ある日、本屋でブログというSNSがあることを知り、これならカネにはならないが、だれにも束縛されず自由に書きたいことが書けると、ブログを書き始めたのが動機である。その後、フェイスブックやツィッター、ユーチューブなどSNSがいろいろ出現したが、私はブログ一筋で14年間続けてきた。

その節目の日を記念して、今月17日に召集される通常国会で本格的に議論がスタートする憲法審査会での議論について、なにをどう議論すべきかを書くことにした。これまで立憲や共産が開催に反対してきたため審査会は中断状況にあったが、開催に前向きな維新や国民が先の総選挙で議席数を大幅に増やしたこともあり、立憲も枝野体制から泉体制に代わったこともあって審査会への対応を変えたためだ。共産党がどう対応するかはまだ不明だが、改憲に反対だからといって参加を拒否したら、それは国民への裏切りである。
あらかじめ私のスタンスを明確にしておくが、現行憲法は「アメリカから押し付けられた」云々といった不毛な神学論争には一切与するつもりはないが、敗戦の翌年(1946年11月3日)に拙速に制定されたこともあり(発効は47年5月3日)、国際社会における日本の地位も当時とは比較にならないほど変化しており、現実に即し、かつ日本が国際社会にいかに貢献すべきかの羅針盤を示す内容に改正することには基本的に賛成である。が、審査会での議論が自衛隊を9条に書き込むことだけに終始するようだと、自民党というより、安倍元総理の土俵にまんまと引きずり込まれる結果になる。ゆえに、これまで自民党とくに安倍・菅政権がいかに憲法を無視してきたかを追及する議論を怠ってはならないと考えているからだ。

●憲法と皇室典範の矛盾
前回のブログ『「次の天皇は愛子さま」が国民の総意だ』で書いたように、皇室典範は皇位継承について「男系男子」と定めている。この規定は明らかに男女の性差別を禁止している憲法14条に違反している。
いま皇室問題についての政府の諮問会議である有識者会議が議論しているが、有識者6名の中に憲法学者は一人も含まれていない。安倍元総理は「憲法学者の6割以上が自衛隊を違憲と考えており、日本と国民を守るために命を懸けてくれている自衛隊員がかわいそうだ。だから自衛隊を憲法に書き込む」と改憲の目的を主張しているが、それなら憲法によって「天皇の地位は国民の総意に基づく」と明記されているのに、皇位継承権を「男系男子」に限定している皇室典範は合憲か違憲かを憲法学者に諮問しろ。おそらく憲法学者の100%が「違憲だ」と主張するだろう。そのうえ、メディアの世論調査によれば、国民の83%が「次の天皇は愛子さま」を望んでいる。
そういう現実を無視して、現在皇位継承権第2順位の悠仁さまが次期天皇になられて、悠仁天皇に男子のお子様ができなかった場合、数百年さかのぼって「男系男子」の元皇族を探し出して天皇の地位を継承させることになる。いったい今の天皇の何等親に当たるか。おそらく20等親、30等親あるいは100等親を超えるかもしれない。そうなったとき、国民のだれがそんな人に対して天皇として敬愛の念を抱くことができるだろうか。
おそらく「天皇なんかいらない」「皇室なんか不必要だ」という声が巻き起こり、共産党を喜ばせるだけの結果になる。それに憲法より皇室典範の規定を優先するなら、憲法14条を改正して女子には遺産相続権がないことを書きこむべきだ。そうしないと憲法と法律の整合性が失われる。

●学術会議会員の任命権は総理にはない
この問題も何回もブログで書いてきたし、前回のブログでも改めて書いたが、現行憲法の用語は戦前戦中の用語をそのまま踏襲しており、菅前総理が憲法15条の規定の一部を切り取って「学術会議会員は特別職の国家公務員であり、従って国民の代表である総理に任命権がある」などと馬鹿げた主張をして、いまだに6名の会員有資格者が宙ぶらりん状態だ。
が、憲法15条で定められている「公務員」とは私たちがイメージしている公務員ではない。「普通選挙」で選ばれた国会議員や地方議員、自治体の首長の地位を示しており、私たちがイメージする公務員は現行憲法では「官吏」という名称で記載されている。戦前戦中の用語をそのまま踏襲していることをいいことにして無理筋の解釈をしたのが菅氏であり、もしそんな解釈が罷り通るなら、同じ特別職の国家公務員である国会議員や裁判官の任命権も総理にあることになる。そうなると不祥事を起こした議員の出所進退は「自ら決めること」と処分を回避せず、総理権限を行使して除名することが可能になる。
学術会議会員の選出方法に従って選出された会員資格者を、自分が気に入らないからといって任命を拒否したのだから(ただし、任命拒否したのは事実上は安倍氏)、モリカケサクラなど職権乱用の極みを行使した安倍氏も今はタダの「特別職の国家公務員」だから、岸田総理は「国民の代表」として国会議員資格をはく奪すればいい。目の上のたん瘤を排除して自分の思い通りの政治を実行できるようになる。

なお、公文書改ざんという違法行為を上から命じられて違法な行為をさせられて自死した故・赤木俊夫氏の妻・雅子さんが起こした損害賠償訴訟について国は「全責任が国にある」ことを認めて民事上の決着はついたが、国が財務省近畿財務局の職員だった故・赤木氏に違法行為を強制したことを事実上、認めたことになるから、これは「国家犯罪」ということになる。つまり当時の国の代表者である安倍氏はその刑事責任を問われなければならないのではないだろうか。私は法曹家ではないので、この「国家犯罪」の刑事責任をだれが負うべきかの法的判断をする資格はないが、カネを払って刑事責任が免れることができるのなら日本は法治国家とは言えないと思う。

●安保法制なんか日本は必要なかった
安倍元総理が数の力にものを言わせて「集団的自衛権の行使」を容認した安保法制だが、そんな必要など全くなかった。いちおう、この稿では自衛隊の合憲・違憲問題は置いておくが、日本は集団的自衛権はいつでも行使できるのだ。
外務省のホームページによれば、日米安全保障条約第5条についてこう解説している。

第5条は、米国の対日防衛義務を定めており、安保条約の中核的な規定である。
 この条文は、日米両国が、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対し、「共通の危険に対処するよう行動する」としており、我が国の施政の下にある領域内にある米軍に対する攻撃を含め、我が国の施政の下にある領域に対する武力攻撃が発生した場合には、両国が共同して日本防衛に当たる旨規定している。
 第5条後段の国連安全保障理事会との関係を定めた規定は、国連憲章上、加盟国による自衛権の行使は、同理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの暫定的な性格のものであり、自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに同理事会に報告しなければならないこと(憲章第51条)を念頭に置いたものである。

分かりやすく説明すると、日本の領土(ただし、日本が自国の領土と主張するだけではなく、アメリカが「日本の領土」と認めた領域のこと。そのため日本政府はアメリカの大統領が代わるたびに尖閣諸島が日本の領土であることの言質を米大統領から取らなければならない。
文書化できれば、そんな必要はなくなるが、アメリカが応じない。言質を与えるたびに日本からの謝礼をもらいたいからだ)が他国から武力攻撃を受けたり、侵略された場合、アメリカは日本防衛の義務(権利ではなく義務)を負うというのが第5条の趣旨。
日本政府は尖閣諸島については第5条の範疇に入ることを米大統領に懇願し、言質の代償として米製兵器をアメリカの言い値で買わされているが、なぜ竹島や北方領土については米大統領の言質をとろうとしないのか。言質がとれっこないのなら「日本の領土」といくら主張しても「絵に描いた餅」に過ぎない。
また安保条約はアメリカが認めた「日本の領土」にしか適用されないから、日本が竹島や北方領土を取り返すことは事実上不可能だ。そのうえ尖閣諸島にしても中国が軍事支配しようとした場合にしか適用できず、日本が実効支配しようとして中国と軍事衝突に至った場合、米軍が自衛隊と共同して軍事行動に踏み切るかは疑問が残る。おそらく日本政府は何度もアメリカに尖閣諸島の実効支配に踏み切っていいかとアプローチしているはずだが、アメリカから「やめとけ」と命令されているから、手も足も出せない。
アメリカにとっては日本防衛は「義務」だが(しつこいようだが、アメリカの「権利」ではない)、日本にとっては自国防衛のためにアメリカに軍事的支援を要求できる権利があるということ。実はこの日本の権利が国連憲章51条で認められている「集団的自衛権」なのだ。つまり安保法制など作らなくても、いつでも日本は日米安保条約第5条の取り決めによって集団的自衛権を行使できるのだ。ではなぜ、こんなトンチンカンな安保法制が必要だったのか?

●内閣法制局のデタラメ解釈が混乱の原因
内閣法制局は集団的自衛権については以下のように解釈してきた(解釈はまだ変更されていない)。
「同盟国や有効な関係にある国が他国から武力攻撃を受けた場合、その国を防衛する集団的自衛権はすべての国連加盟国の固有の権利として認められているが、日本は憲法の制約によって行使できない」
まったくデタラメな解釈である。が、こうした解釈が必要になったのには、それなりの理由がある。東西冷戦時、ソ連もアメリカも各陣営国内の内紛(あるいは内乱)が生じた際、陣営に属する国の政府の要請に応じて軍事介入してきた。たとえばソ連はハンガリー動乱やチェコスロバキア動乱(プラハの春)の際に共産党権力防衛のために軍事介入した。アメリカも朝鮮やベトナムの内紛に軍事介入して西側権力を防衛しようとした。
これらの軍事介入は友好国や同盟国の他国からの攻撃に対する防衛のためではないのに、そうした行為の正当性について米ソともに「集団的自衛権の行使だ」と居直った。アメリカの事実上の属国として日本はアメリカの主張に同調せざるを得ず、集団的自衛権の解釈も「友好国への軍事協力の権利」と解釈せざるを得なくなった経緯がある。しかし国連憲章が認めている集団的自衛権とは似て非なるデタラメ解釈なのだ。
国連憲章は1945年6月26日、国連軍各国が第2次世界大戦後の世界秩序についてサンフランシスコで署名して成立した憲章である。すでに枢軸国側はイタリアもドイツも降伏しており、まだ抵抗を続けていたのは日本だけであった。この国連憲章を「憲法」として国連が発足したのは戦後の45年10月24日だ。
その国連憲章は前文で「国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則」とする、という平和主義の高い理想を掲げた。
さらに憲章の第2条(原則)では「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と明記している。
が、このような高い平和主義の理想を掲げても国際紛争が生じないという保証はない。そこで憲章は実際に紛争が生じた場合の対策として第7章『平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動』を設け、国連安保理に紛争解決のためのあらゆる権能と、紛争当事国に自衛のためにとっていいとする手段を明記した。まず安保理が行使できる権能については第41条と第42条を設けた。

第41条〔非軍事的措置〕
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。
第42条〔軍事的措置〕
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

この規定にもかかわらず、侵略や軍事攻撃を受けた国連加盟国については第51条で自衛のために行ってもよい軍事的手段を明記した。ここで初めて集団滝自衛権の行使が認められた。それまでは国際条約として集団的自衛権の行使が認められたことは一度もない。

第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が(とった)措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

これで国連憲章が容認した集団的自衛権がいかなる性質の権利かが明確になった。ただ疑問が残るのは、憲章が固有の権利として認めたのが「個別的及び(and)集団的」ではなく、なぜ「個別的又は(or)集団的」としたかである。andであれば個別的自衛権(自国の軍事力の行使)だけでなく同盟国や友好国の軍事力を自国防衛のために協力を要請できる集団的自衛権の行使ができる権利を意味するが、orの場合は個別的か集団的かのどちらかしか自衛手段として行使できないことになる。いかなる政治的意図がこの表記に込められたのかは不明である。が、いずれにせよ、内閣法制局の解釈がでたらめであることは憲章の文面から明らかである。

●湾岸戦争のとき、主権能力を喪失した海部内閣
1980年8月2日、フセイン・イラクが突如、隣国クウェートに侵攻した。フセインの口実は「クウェートは歴史的に見て我が国の領土である」というものだった。クウェートは直ちに集団的自衛権の行使に踏み切り国際社会に支援を要請、米欧など多国籍軍がイラクを攻撃した。湾岸戦争である。
フセインの主張に正当性があるのかどうかは不明である。ヨーロッパ列強はその検証をいまだにしていない。
日本は四海に囲まれた島国であり、他国との間に国境線問題は生じたことがない。竹島や尖閣諸島、北方諸島については領有権を巡って韓国、中国、ロシアとの間に紛争を抱えているが、他国と隣接はしていないから国境線問題は生じようがない(領海域については別)。
が、ユーラシア大陸や南アメリカ大陸などでは国々が隣接しており、しばしば国境をめぐって紛争が生じている。大河を国境にしている場合は漁業権紛争を生じることはあるが、国境線が地続きで設定されている場合は国境をめぐっての紛争が時には武力衝突に至ることもある。いずれにせよ、ユーラシア大陸や南米諸国の国境線は直線的ではない。大河や山脈などの自然環境は直線ではないからだ。
が、アフリカ大陸の中東諸国やアフリカ諸国は事情が違う。地図を見れば一目瞭然だが、国境線の多くが定規で引いたように直線なのだ。直線の自然環境などはありえないのにだ。
もともと中東やアフリカでは諸民族が国家を形成して領土を確定してきた歴史がない。ヨーロッパ各地に点在し、自分たちの国を持っていなかったユダヤ人が19世紀後半に生じたユダヤ国家建設を目指して聖地エルサレムがあるパレスチナ地域に集結してアラブ人と対立を深め、パレスチナ紛争が生じ、第1次世界大戦以降パレスチナ地域を委任統治していたイギリスが委任期間の終了により国連に解決を一任した。国連は1947年の総会でアメリカの強硬な主張によってユダヤ人が48年5月14日、イスラエルを建国することになった。が、アラブ側がこの一方的なイスラエル建国を承認せず、翌日にはアラブ諸国による「多国籍軍」がイスラエル領域に侵攻、ユダヤ人の猛反撃でかえってイスラエルが領土を拡大する結果となった(第1次中東戦争)。
イスラエル建国のケースにもみられるように、中東のアラブ諸国やアフリカ諸国はヨーロッパ列強が話し合いで植民地支配地域を決めた結果、国境線が直線的になったというわけだ(アフリカ諸国の場合は川や山脈などの自然環境を国境線にしている地域もある)。そんなことがなぜ可能だったのかというと、中東やアフリカではそれぞれ部族同士がほぼ争いなく各部族の支配地域をなんとなく承認し合ってきた経緯があった。彼らにはそもそも国家意識がなかったのではないかと考えられる。
そのためフセインが主張したように、クウェートが歴史的にイラクの領土だったというより、イラク人とクウェート人はヨーロッパ列強によって分断されるまでは同一アラブ民族として支配地域を共有していたのではないか。フセインにはフセインなりの理由があったにせよ、国家合併するならクウェート政府と話し合い協議すべきであった。いきなり問答無用で武力侵攻したことに対する国際社会の反応が厳しかったのは当然である。
実は、フセイン・イラクはクウェート侵攻に際してイラク在住の他国の人たち(民間人も含めて)を人質にした。日本人も141人がイラク政府によって拘束された。
このケースは、ペルーの日本大使館がゲリラ勢力によって武力制圧されたケースとは全く異なる。ペルー事件はペルー国内においても犯罪行為であり、現にペルー政府はゲリラ勢力を制圧して大使館職員らの救出に成功した。が、イラクの人質事件は国家行為であり、日本政府はいかなる手段を講じても日本人人質を救出する責任があった。憲法9条を守ることと、他国の国家権力によって生命の危険にさらされた日本国民の救出のどちらを優先すべきかは、だれが考えても明らかなはずだ。が、海部内閣が行ったことは、巨額の軍資金をアメリカに供与しただけだった。
この事件をきっかけに私は日本国憲法制定の経緯や日米安保問題、在日米軍基地問題、地位協定問題、そして自衛隊問題などを調べ始めた。そのうえで1992年に『日本が危ない――NI(ナショナル・アイデンティティ)のすすめ』と題した本を上梓した。同書のまえがきでこう書いた。

私は、自衛体を直ちに中東に派遣すべきだった、などと言いたいのではない。現行憲法や自衛隊法の制約のもとでは、海外派兵が難しいことは百も承知だ。
「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万が一のことが生じたときは、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」
海部首相が内外にそう宣言していれば、日本の誇りと尊厳はかすかに保つことができたし、人質にされた同胞とその家族の日本政府への信頼も揺るがなかったに違いない。
もちろん、そのような宣言をすれば、国会で「自衛隊の派遣を意味するものだ」と追及されたであろう。そのときは、直ちに国会を解散して国民に信を問うべきであった。その結果、国民の総意が「人質にされた同胞を見殺しにしても日本は戦争に巻き込まれるべきではない」とするなら、もはや何をか言わんやである。私は日本人であることを恥じつつ、ひっそりと暮らすことにしよう。

※この稿を書いた翌日(昨年12月22日)、日本経済新聞電子版が湾岸戦争時、ブッシュ(父)米大統領が海部首相に対して「自衛隊による米軍の後方支援を求めていた」ことが当日公開された外交文書や元政府高官の証言で分かったと報道した。同記事によると、海部政権は代替策として130億ドルの財政支援に応じることにしたが、その額は米側が要求した額を無条件に受け入れたようで、複数の元政府高官は「米側の言い値で積算根拠はなかった。ほかに仕方がなかった」と証言したという。
もちろん日本が出した130億ドルは日本人救出のために、米軍兵士を傭兵として雇うためのカネではない。アメリカにぶったくられただけだ。

●憲法9条は自衛権まで否定しているのか?
私自身は国防と国民を外国の国家権力による迫害から守るための最低限の組織(軍事力あるいは戦力)は保持すべきだと考えている。
またその組織(名称を自衛隊とするか国防軍とするかは大した問題ではない)を、自国防衛のためだけでなく、体制のいかんにかかわらず自然災害に襲われた国や地域に派遣し、災害救助の任に当たるべきことも憲法に明記すべきだと考えている。
憲法9条がそうした行為の足かせになっているのであれば、その組織の目的を明確にした内容に改正すべきだとも考えている。現行憲法9条はこうだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

この規定を前提にする限り、政府が何と言い繕うと「実力組織」なる自衛隊が「違憲の組織」であることは疑いを入れない。実は現行憲法の制定についての国会で、吉田茂内閣と野党の間で自衛力をめぐって激しいやり取りがあった。そのやり取りの一部は『日本が危ない』でも書いたが、さらに要点だけ述べる。

日本進歩党(のちの民主党)・原夫次郎「自衛権まで放棄するのか」
吉田「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」(1946年6月26日)
共産党・野坂参三「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。従って戦争一般放棄という形ではなく、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」
吉田「国家正当防衛権による戦争は正当なりとのことですが、私はかくのごときを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」(6月28日)
(※このやり取りでは二人とも【自衛=防衛】と理解しているようだ。「自衛」は外国からの侵略に対する軍事的対抗手段であり、「防衛」は既得権益(不法に得た既得権益も含む)を守るための軍事行動を意味する、というのが私の「戦争論」。そういう意味で、日本が行った自衛戦争は「元寇」のときだけであり、日露戦争、太平洋戦争は「防衛戦争」という理解。それ以外の戦争、日清戦争をはじめ、日中戦争、「大東亜戦争」はすべて「侵略戦争」。なお、世界戦争史上最も醜悪な「防衛戦争」はイギリスのアヘン戦争である)
社会党・森三樹二「戦争放棄の条文は将来、国家の存立を危うくしないという保障の見通しがついて初めて設定されるべきだ」
吉田「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として相当の制裁が加えられることになっております」(7月9日)
※なお共産党のドン、不破哲三が井上ひさしとの対談本『新・日本共産党宣言』(光文社刊)で、不破はこの吉田発言と瓜二つの論理で「非武装中立論」を展開している。いったい、当時の吉田が共産主義者だったのか、それとも不破が改心して吉田「安全保障論」に宗旨替えしたのか~

実は後日談がある。憲法9条の第2項の原案には「前項の目的を達するため」という条文は入っていなかった。当時は自由党の反吉田派の中心人物だった芦田均(のち民主党)が「この原案のままだといかなる戦力も無条件に保持しないことになってしまう」とクレームをつけて2項の冒頭に挿入させたと言われている(「芦田修正」)。実際、芦田は新憲法が公布された46年11月3日に『新憲法解釈』(ダイヤモンド社刊)を上梓し、こう主張している。
「第9条の規定が、戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合だけであって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争ということになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。また侵略戦争に対して制裁を加える場合の戦争も(※芦田は湾岸戦争を想定していたのか?)この条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上から適法と認められているのであって、1928年の不戦条約や国際連合憲章においても明白にこのことを規定している」
が、その後自由党と民主党が合同して自民党が結党されて以降も、自民党は芦田修正を理論的根拠として自衛隊合憲を主張したことは一度もない。芦田が自由党に反旗を翻して日本進歩党と民主党をつくったことに対する旧自由党派の恨みが骨髄にまで達しているのか。「三つ子の魂、百までも」がいまでも自民党内の派閥争いに受け継がれているようだ。

●旧「日米安保条約」批准が憲法改正の最大のチャンスだった。
芦田修正を自衛隊合憲論の根拠にしなかった自民党は別の論理で自衛隊の合憲を主張してきた。自衛隊合憲についての政府公式見解はこうだ。

憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であります。

私自身は日本が独立国家である以上、他国からの侵略攻撃や他国の国家権力による日本国民に対する生命にかかわる不当な迫害行為を抑止・防止するための自衛権の発動は正当であると考えている。芦田修正はともかく、なぜ現行憲法に自衛権の記載がないのか。それは現行憲法が制定されたのは連合国(実際にはアメリカ=GHQ)の占領下において制定されたからであった。私は自著『日本が危ない』の「憲法改正へのたった1回のチャンス」という項でこう書いた。少し長いが、この稿を転記する(一部要約を含む)。改憲問題がこじれにこじれてきた経緯を「ど真ん中のリベラル」思想で検証したものだ。

旧安保条約(※サンフランシスコ講和条約締結と同時にアメリカと結んだ日米安全保障条約。1960年に岸内閣が改定した現在の安保条約ではない)は、前文および5つの条文から成り立っていたが、そのポイントは以下の通りである。
日本は武装解除されているため固有の自衛権を行使できる有効な手段を持っていない。しかし無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないため、日本は自国防衛のための暫定措置として、日本に対する武力攻撃を阻止するために米軍が日本国内およびその周辺に駐留することを希望する。アメリカは平和と安全のために、自国軍隊を日本国内およびその付近に維持する意思がある。
旧安保条約によれば、駐留米軍は「極東における国際平和と安全に寄与する」ため、また「外部の国による教唆または干渉(※共産勢力の日本への浸透を意味する表現)によって引き起こされた日本国における大規模の内乱および騒擾を鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するため使用することができる」となっていた。この条文は一見、米軍が日本の防衛のため駐留するかのごとき印象を与えるが、実はそうではない。条文の草案段階では「もっぱら日本の防衛を目的とする」という表現で日本がいったん合意していたのを、アメリカ政府が「日本の安全に寄与することを目的とする」に変更するよう強く主張し、日本政府がやむなくアメリカ側主張をのんだという経緯がある。(※実際朝鮮戦争時には日本駐留の米軍は朝鮮に総動員され、日本は丸裸になった)
その結果、日本側には駐兵受け入れの義務があるのに、アメリカは日本の防衛についての明確な義務を負わなくても済むことになった。在日米軍の義務はせいぜいのところ「日本の安全に寄与する」ことであった。つまり日本防衛の主体は日本側にあることが、この表現によって明確にされたのである。実際、旧安保の前文には「(日本が)直接および間接の侵略に対する自国の防衛のため、漸増的に自ら責任を負うことを(アメリカは)期待する」と明記されており、警察予備隊の枠を超えた軍事力の整備を図らなければならないという重い責任が日本政府にのしかかったのである。(※この、徳川幕府が末期に欧米列強との間に結ばされた屈辱的な通商条約をすら上回るほど一方的な日米安保条約締結は当然、国会でも大揉めに揉め、評価をめぐって社会党は左派と右派に分裂した。ただ、吉田はこの時期、日本の経済復興を最優先しており、鉄鋼と石炭の2大産業の生産力復活にすべてを集中する「傾斜生産方式」を経済戦略の柱にしており、その政策によって日本経済は朝鮮戦争特需にありつけ戦後経済復興の足掛かりをつくったことも事実である。実際、吉田はのちに「回顧録」で「先進国の仲間入りを果たした今日でも他国に日本の安全保障をゆだね続けるのはいかがなものか」と安全保障政策の転換を主張している)【中略】
この旧安保を批准した国会では、憲法論議はほとんど行われなかった。旧安保には日本自身による防衛責任がうたわれたのに、それと憲法第9条との整合性を問題にする政党はなかった。せめて芦田氏が自分の憲法解釈へのこだわりを捨て、自衛権をも否定した吉田答弁との矛盾をあくまで追求していたら、この時点で憲法を改正することは可能だったと思われる(※以下カッコ内は要約=安保条約は衆院で289対71の大差で可決、参院でも147対76で可決しており、この時期での保革の力関係から憲法を改正し、9条に「ただし日本国と日本国民の安全を守り、自衛のための戦力の保持と、そのやむを得ざる行使については否定するものではない」という1項を付け加えることができたであろう)。そうしていれば、際限のない憲法の拡大解釈によって、その場しのぎの帳尻合わせをしていくという歴代自民党内閣の無様さは回避できたであろう。まさに旧安保を批准したときが憲法改正の千載一遇のチャンスであり、そしてこのようなチャンスは二度と訪れることがなかった。

●天皇の政治権力を認めた読売「憲法改正試案」
私が『日本が危ない』を上梓したのは1992年。来年でちょうど丸30年になる。
同書のまえがきの書き出しで、私が同書執筆に取り組んだ動機を書いている。その個所を転記する。
「正直なところ、私は湾岸戦争と旧ソ連邦の解体に直面するまで、日本の安全や防衛問題について深い関心を抱いていたわけではなかった。
戦後40数年の間、日本は自ら軍事行動に出たこともなく、見せかけの平和が続く中で経済的繁栄を遂げてきた。私はそういう状態が今後も長く続くに違いない、と無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。日本とアメリカの結びつきは政治的にも経済的にも強固であり、日米関係に突拍子もない異変が生じない限り、日本の安全は世界のどの国よりも保障されている、と信じて疑わなかった。
だが、湾岸戦争と旧ソ連邦の解体は、そんな勝手な思い込みをアッという間に打ち砕いてしまった」
同書の執筆に取り掛かった時点では、まだインターネットはそれほど普及しておらず、何冊もの関連本を買い集めたり、図書館通いをして調べた。いまはインターネットのおかげでどれだけ情報収集が楽になったか。が、メディアはバカみたいに「記事は足で書け」という旧世代の記者像をかたくなに守っているようだ。「夜討ち朝駆け」したところで、政治家などがホンネを喋ってくれるわけではない。例えば読売新聞がスクープした文科省の元事務次官の前川氏の「出会い系バー」通いも、政府の文科行政に反発してきた彼を社会的に葬るため、安倍CIAの「内閣情報調査室」がひそかに調査したことを保守系メディアの読売に情報提供したと言われている。だとすれば、読売は安倍に恩を売り、その見返りに取材の便宜を図ってもらった可能性は否定できない。
なお読売は1994年、200年、2004年と3回にわたって憲法改正試案を紙面に掲載した。政党や政治団体の試案を掲載するのは自由だろうが、メディアが自ら憲法改正試案をつくり紙面で公表するのはいかがなものかといった批判が殺到したが、そのことの可否は別としてとんでもない改正案が含まれている。
現行憲法の第1章の「天皇」の条項を2章に下げて1章に「国民主権」を新設している。それはいいのだが、2章の9条として「天皇の任命権」という条項を設け、その1項に「天皇は、衆議院の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」と「天皇の政治権力」を認めている。
「任命しなければならない」であれば権利ではなく「義務」になるが、読売は「権利」として国会で指名された内閣総理大臣を、天皇が「任命しない権利」を有することになる。明らかに憲法が天皇の政治権力を認めることを意味する。
では、日本学術会議会員の「任命権」を行使した菅総理の問題についてはどう主張したか。2020年10月6日と29日に同紙は社説でこう主張している。

「政府は1983年、会員の選出方法について、学者による選挙制から、学術団体の推薦を踏まえた首相の任命制に改めた。
その際、「政治的介入が予想される」という野党議員の指摘に対し、当時の中曽根首相が「政府が行うのは形式的任命にすぎない」と答弁した経緯がある。
今回の決定について、政府が十分に説明していないのは問題だ。過去の答弁との整合性をどう取るのか。菅首相は、判断の根拠や理由を丁寧に語らねばならない。
除外された学者には、安全保障関連法や改正組織犯罪処罰法に反対した人が含まれていた。野党推薦の公述人として、国会で安保法の廃案を求めた学者もいる。
安倍前内閣の施策を批判したことが、除外の理由ではないかと反発している。多様な意見表明の機会を閉ざしてはなるまい。
学術会議は、推薦通りに任命するよう政府に求めている。野党は「学問の自由を脅かす重大な事態だ」として追及する方針だ。
6人は自由な学問や研究の機会を奪われたわけではなく、野党の指摘は的外れだろう。
学術会議は、政府の研究開発予算の配分に大きな影響力を持っているとされる。政府はその運営に年間10億円の国費を投じており、会議の活動や人事に、一定程度関与するのは当然である。
学術会議のあり方も問われている。会員の選考過程や、会議の運営が不透明だという指摘は多い。改善を図ってもらいたい」(6日)
「日本学術会議が推薦した会員候補の任命を拒否した理由について、首相は「人事に関することで、答えは差し控える」と述べた。学術会議に関し、「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りがみられる」とも語った。
組織の問題点を指摘し、人事の妥当性を訴えたかったのだろうが、「政府が行うのは形式的任命」という過去の政府答弁と整合性が取れてはいまい。分かりやすく説明することが重要だ」(29日)

一見、政府の説明責任は問うているように見えるが、政府の意図的な憲法解釈の歪曲は問うていない。読売の論説委員が無能なのか、「しっかり説明しなさい」とあたかも政府批判をしているかのように見せかけてはいるが、事実上、政府の違憲行為を容認している社説だ。
社説だから、メディアによって論点が異なるのは自由だが、読売憲法試案によれば天皇が文字通り政治権力を持つことになる。とんでもない話だ。

●安倍改憲論のハチャメチャ振りを検証する。
いわゆる「安倍改憲論」は自民党の公式改憲案とは似ても似つかぬ内容だ。改憲論議は多岐にわたるべきだが、安倍元総理は「とにかく自衛隊を憲法に書き込む」ことだけが目的のようだ。ではまず、自民党の公式改憲案を見てみよう。ただ、自民党の公式改正案は憲法全体について一部修正ではなく、すべて見直すようだから、今年6月11日に成立した国民投票法では「改正条項」の一つ一つについて個々に国民(有権者)はYESかNOかを判断しなければならず、国民への負担の重さをどうするか。まさか一括で賛否を問うわけにもいくまい。安倍元総理としては、とりあえず9条に自衛隊を書き込むことだけを優先したいかもしれないが、果たして自民党がそんな見え透いた改正案で一致するか。だいいち安倍氏が主張しているのは「9条の1項、2項を残して3項をつくって自衛隊を書き込む」というのだが、そうすると9条の整合性が失われる。そのうえ、安倍氏は1項、2項との整合性を確保したうえで新たに設ける3項をどう表記するつもりなのかさえ示していない。自民党の公式改正案のうち、とりあえず9条改正案はこうだ。

第2章 安全保障(※現行憲法では「戦争の放棄」)
(平和主義)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は自衛権を妨げるものではない。
 (国防軍)
第9条の2 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、または国民の生命もしくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に裁判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
 (領土等の保全等)
第9条の3 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

この自民党の公式改正案と安倍改正案はあまりにも乖離が大きすぎる。自民党総裁として、また総理大臣として安倍氏が提案している改正案は「現行憲法9条の1項、2項は残し、3項を設けて自衛隊を書き込む」というものだ。自衛隊をどう書き込むかは不明だが、自民党公式案は2項を完全に書き換え、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除して「自衛権の発動」を明文化している。
総理総裁たるものが、党に諮らず勝手に私案をベースに憲法を改正しようというのに、党はお咎めなしなのか。私が自民党員だったら、安倍除名を総会で提起する。安倍氏は離党して「安倍新党」を立ち上げるべきではないか。
安倍氏に対する嫌味は置いておくとしても、氏の改憲論はめちゃくちゃだ。たとえば「お父さんは憲法違反なの?」と自衛官の子供が涙を見せたというエピソードを持ち出して、「憲法論争に終止符を打ちたい」と改憲の正当性を訴えたことがある。ただし「涙を見せた」というのは安倍氏の創作だったようで、総理時代にモリカケ問題などで野党から追及されるたびにしばしば「印象操作だ」と反論したが、まさに安部氏ほど印象操作を得意としてきた政治家はかつていない。印象操作の殿堂入り間違いない。
安保法制を成立させたときも米艦に救済された日本人女性と子供の漫画を描いたプラカードを手にして、「有事の際、日本人を救出してくれる米艦が攻撃を受けても自衛隊は指をくわえて見ているだけでいいのか」と、日米安保条約の私的な拡大解釈さえして法案成立のために印象操作を行った。安保条約にはそんな条項の記載は一切ないし、アメリカもさすがに「そんなことはしない」と突っぱねえた。安倍印象操作の最たるものは森友学園問題で追及されたとき、国会で「私や私の妻がかかわっていたら、私は総理も議員も辞める」と大見得を切り、安倍総理(当時)を守るために佐川らが公文書改ざんを現場の部下に命じ、自死者さえ出したことに対する反省の「は」の字さえ示さない図々しさを国民は知っている。
なおアメリカが世界貿易センタービルに対する自爆テロへの報復としてアフガニスタンのタリバンを攻撃し、事実上アフガニスタンを占領下において民主化政策を進め、そのアメリカの政策に協力するため日本人を含む多くの外国人がアフガニスタンに入国したが、アメリカが「費用がかかりすぎる」とさっさと撤退を決めたとき、アメリカに協力してアフガニスタンで様々な活動をしてきた他国人は放りだして自分たちだけさっさとわずか3日で撤退してしまった。
もちろん自衛隊はすぐ日本人救出のため自衛隊機を飛ばしたが、すでに空港はタリバン勢力によって封鎖され、自衛隊機は一人だけ救出して帰国した。通常なら日本人より優先的に救出すべきイスラエル人すらアメリカは見捨てた。
この事例からも「いざ有事の際、アメリカは頼りにならないから自衛力を強化するために憲法の制約を外すべきだ」というなら、憲法改正のための最も有力な理由になる。その場合、アメリカがどうしても日本に基地を置きたいというなら、日本は大きなリスクを抱え込むことになるのだから、「思いやり予算」の廃止どころか、リスクに見合う相当高額な借地料をとるべきだ。

●日本の安全保障上の最大のリスクは在日米軍基地だ。
最近、安倍氏はあちこちで「台湾有事は日本の有事だ」と中国と一戦交えかねないような発言をして得意になっている。
本当にそうか。
実は、本当に日本有事になりかねないのだ。これは安倍氏得意の印象操作ではなく、まぎれもなく日本有事になる可能性が極めて高い。
なぜか。
もし習近平政権が台湾の中国化を目指して軍事行動に出た場合、アメリカが黙殺すれば問題はないが、もしアメリカが力で中国の台湾支配を封じ込もうとした場合、当然台湾有事に軍事介入するのは日本基地の米軍だ。となれば、中国は間違いなく日本の米軍基地を攻撃する。その場合は、安保条約によって自衛隊も米軍基地を防衛する義務を負っている。
日本がアメリカに守られているのではなく、米軍基地のアメリカ人は自衛隊によって守られているのだ、実際は~
安倍氏は総理時代から、北朝鮮の核・ミサイルや中国の海洋進出を「我が国にとっての最大の安全保障リスク」として日米軍事同盟の強化と自衛隊の軍事力強化にまい進してきた。
だが、ちょい待ち。北朝鮮や中国が日本を敵視する理由があるのか。
まず北朝鮮――核・ミサイルを除けば通常兵器だけなら北朝鮮は自衛隊に到底勝てない。日本と戦争するなら核・ミサイルの使用を前提にしない限り、勝てるわけがない。が、日本との戦争で核・ミサイルを使用したら北朝鮮はその瞬間、消滅する。そのくらいのことが分からない金正恩ではないだろう。そういう意味では北朝鮮の核・ミサイルは日本にとって安全保障上のリスクではありえない。
が、北朝鮮が日本に対して核・ミサイルで攻撃しかねないケースがたった一つだけある。そのケースとは、アメリカと北朝鮮が軍事的衝突した場合だ。台湾有事の際と同様、北朝鮮を攻撃するのは在日米軍だ。当然、北朝鮮は日本の米軍基地を狙って攻撃してくる。この場合も台湾有事の際と同様、安保条約に基いて自衛隊は在日米軍を守る義務を有している。
北朝鮮はむしろ日本との関係の良化を願っている。アメリカの核の脅威の前に、国民生活を犠牲にしてまで核・ミサイル開発に狂奔しているが、ホンネはできればアメリカとの敵対関係に終止符を打ち、近代産業の育成と国民生活の安定を望んでいるはずだ。
私は昨年12月7日にアップしたブログ『真珠湾攻撃から80年――日本はあの戦争から何を学んだか』で、アメリカが仕掛けた罠にまんまと引っかかった奇襲作戦を検証した。日本政府は、いわゆる「ハル・ノート」をアメリカの最後通告と解釈して対米開戦に踏み切った。実はそれがアメリカの仕掛けた罠だった。当時アメリカ国内は厭戦気分が横溢していて、ヨーロッパ戦線や日中戦争に軍事介入できる状態ではなかった。そのためアメリカ国内の厭戦気分を一掃し、対日・独・伊戦争に踏み切る状況を何が何でも作りたかったのがルーズベルトだ。一方、日本はアメリカとだけは戦争を避けたかった。冷静に分析して勝てる相手ではないことを軍部も政府も分かっていた。だからアメリカが中国や東南アジアに有する利権には一切手を付けないよう細心の注意を払っていた。そこでアメリカは日本に対米開戦に踏み切らせるため徹底的に挑発を繰り返してきた。その挑発の最後の切り札にしたのが「ハル・ノート」だったというわけだ。
そういう意味では北朝鮮を徹底的に挑発し、経済制裁を強め、金正恩がやけっぱちになって軍事行動に出るのを待っている。「悪の枢軸」とか「テロ支援国家」などと罵詈雑言を繰り返し、さらにはイスラエルやインド、パキスタンの核には何の制裁も加えないのに、北朝鮮にだけは経済制裁で兵糧攻めにして、金正恩が「窮鼠、猫を噛む」行動に出るのを待っている。
日本政府は核禁止条約に参加しない理由として、「核保有国と核非保有国の橋渡しをすることで核のない世界をつくる」という神頼みのような核廃絶方法を考えているようだが、橋渡しをすべきなのは核保有国と非保有国の間ではなく、核保有国同士間の橋渡しの方が実は重要なのだ。現実問題として、核非保有国に対して核保有国が核攻撃したら、その国はたとえアメリカであっても国際的に孤立する。が、北朝鮮がやけっぱちになって在日米軍基地を核攻撃したら、アメリカにとっては「待ってました」とばかりに北朝鮮に対する核攻撃を正当化できる理由が作れる。
だから日本は「北朝鮮の核・ミサイルの脅威」を煽り立てるのではなく、アメリカに対して「小さな子供をいい年をした大人がまじになって挑発するようなバカなことはやめてくれ。アメリカが北朝鮮への敵視政策をやめてくれたら、北朝鮮も核やミサイル開発への狂奔をやめて国民生活の安定に政治のかじを切り替える。そういう状態になれば、日本は安心して北朝鮮の経済近代化や国民生活向上のために北朝鮮に力を貸してやれる。それが東アジアの平和と安定への一番の近道だ」と説得すべきだ。
米中の覇権争いに関しても同様だ。すでに書いたように、中台有事(習近平政権が台湾を中国の支配下に力で置こうとした事態)にアメリカが軍事介入した場合、日本は「在日米軍の出動はやめてくれ」とは言えない。その場合、在日米軍が出動すれば。中国は当然、日本の在日米軍基地を攻撃するし、安保条約に従って自衛隊は米軍基地を防衛する義務がある。
そうした自衛隊の義務があることを、どの程度、日本国民は知っているのか。はっきり言えば、日本に米軍基地がなければ、日本は世界で最も安全な地政学的環境にある。言い換えれば、日本の安全保障に関して、在日米軍基地の存在が最大のリスクだということ。とくに沖縄の米軍基地が最も安全保障上のリスクだ。なぜ沖縄にアメリカが米軍基地を集中してきたかの理由がそこにある。
憲法を改正して憲法に自衛権の保持を明記することには私は賛成だが、憲法の改正と同時に日米安保条約も改定して、現在の形式的片務条項を双務的なものにしたうえで、アメリカを防衛するためにアメリカの日本にとって都合がいい場所に自衛隊基地を設置し、地位協定も結ばせる。そういう交渉をアメリカとすれば、アメリカが自衛隊基地を国内に設置することを認めるわけがなく、日本の米軍基地の在り方も完全に日本主導で変えることができる。
それが、憲法改正で日本が誇りを取り戻す唯一のチャンスだ。

【追記】2日のNHK「ニュース7」で、拉致被害者の問題をかなりの時間を割いて報道した。私はすぐNHKに電話をしたが、小泉総理(当時)が北朝鮮を電撃訪問したとき、北朝鮮は日本が把握していなかった拉致被害者も日本に返しt。北朝鮮は何とか日本との友好関係を再構築したかったのだと思う。
本稿で書いたように、北朝鮮も中国もロシアも日本を敵視する理由がない。むしろ日本との友好関係を築くことで安全保障と経済的関係を強くしたいと思っている。私は中国や北緒戦の独裁体制を擁護するつもりは毛頭ないし、かといって日本が中国や北朝鮮の政治体制を覆す権利もないとも考えている。中国や北朝鮮が民主的国家になるかどうかはそれぞれの国の国民の選択肢だ。
ただ言えることは、北朝鮮が小泉氏の訪朝の結果として拉致被害者として認定していなかった人(田口八重子)を返して横田めぐみをなぜ返さなかったのか、という疑問だ。
これは私の想像でしかないが、めぐみを返せない何らかの北朝鮮側の事情があったのではないか。たとえばめぐみが北朝鮮の政府高官と結婚していて国家機密を知りうる立場にあったとしたら、やはり日本への帰国は難しい。
問題は、なぜ北朝鮮が国民生活を犠牲にしてまで核ミサイル開発に狂奔するかだ。韓国との同盟関係の問題もあるとは思うが、アメリカは北朝鮮に対して一貫して敵視政策を続けてきた。北朝鮮はアメリカの核の脅威に常に脅えてきた。日本が同じ立場だったら、例えば中国やロシアの核の脅威に対抗せざるを得なくなっていたはずだ。
もし北朝鮮が、中国やロシアの核の傘で守られていたなら、国民生活を犠牲にしてまで核ミサイルの開発に狂奔していただろうか。
逆に日本がアメリカの核の傘に守られていなくて、中国やロシアから露骨な敵視政策をとられたら、果たして「非核三原則」などとノー天気なことを言っていられただろうか。
私がNHKに電話したのは、拉致被害問題を直ちに解決できるかはわからないが、日本の立場としては「アメリカに北朝鮮に対する敵視政策をやめてくれ。アメリカの対北朝鮮敵視政策が、日本の安全保障上の最大のリスクになっている」と、なぜ言えないのかだ。













「次の天皇は愛子さま」が国民の総意だ。

2021-12-13 08:41:35 | Weblog
【緊急追記】皇位継承問題の有識者会議(政府の諮問)は憲法を無視した。
本文でも書いたように、皇位継承問題を審議していた有識者会議6人(実態はアホ会議)が22日、「最終報告」を出した。なぜアホ会議と決めつけたかはメンバー6人の中に憲法学者が一人も入っていなかったからだ。一人でも憲法学者が入っていれば、こんな「最終報告」はありえなかったはずだ。
まず女性皇族が「結婚後も皇族の身分を保持することとする」という結論である。皇族も妻妾制が認められない現在では、男性皇族が減少することは当たり前だ。その場合の対策は皇室の伝統に従えば結婚した女性皇族は一般国民になるのだから、その伝統を維持することを最優先するならば「皇室公務」を減らすしかない。「皇室公務」は絶対に保持しなければならないこともあるが、除去してもいいこともある。無意味な「皇室公務」を維持するために「結婚後の女性皇族は民間人になる」という皇室の伝統を破るのであれば、ほかにも破っていい「伝統」もあるのではないか。
私自身は本文でも書いたように、結婚後の皇族女性は、自身の家庭生活を最優先したうえで、時間が許す範囲で「アルバイト皇族」として皇室公務をお願いすることはいいと考えている。が、一代皇族として皇室公務を家庭生活を犠牲にしてまでお願いするのは人権無視もいい話だ。そんなことをやるなら、女性皇族には結婚を禁止したほうがまだいい。
この「最終報告」には、女性皇族については「現行制度下で人生を過ごされてきたことに十分留意する必要がある」という「但し書き」が加えられたが、「留意」するのは誰か。「留意」すべき条件も明らかでない。そうなると、女性皇族は結婚をためらわざるを得なくなる。国民の多くが懸念していた眞子さんの結婚が、こうした条件が付くことになると、事実上、国家権力によって「小室圭氏との結婚で皇室公務に支障が生じかねない」と阻止されることもありうる。
皇位継承については「男系男子」を絶対的条件にしている理由は「皇室の伝統」を最優先したからだろう。一方で「伝統」を絶対条件にして、他方では「伝統」を無視する――こんなご都合主義が罷り通っていいのだろうか。

さらに皇室典範では認められていない養子縁組を可能にして1947年に皇籍を離脱した旧宮家(11家)の男系男子に皇族復帰させるという「報告」だ。その一方「皇位継承資格を持たないこととすることが考えられる」という、これまた「但し書き」付きだ。現在、皇族の方たちは男女を問わず、ご自分の趣味の範囲で生物などに関する研究をされている。外交や安全保障、経済政策など政治に関係する研究はご法度だ。人権無視も極まれり、というしかない。政治権力を持ってはならないというのは天皇だけだ。天皇以外の皇族は、普天間基地の辺野古移設についての自由な発言や行動をすることは憲法でも禁じられていない。自然災害やコロナ感染拡大状態についての憂慮のお気持ちを公に発言することは禁じられていないが、政府の対策についての不信や不安の念を発言したり、文書化したりすることは許されていない。
そういうがんじがらめの生活を強いられている皇族に、いまでは完全な民間人になっている旧宮家の男系男子のだれが、いまさら政府の都合で皇族復帰するだろうか。しかも「皇位継承資格を持たないこととすることが考えられる」という微妙な表現、どう理解したらいいのか。
現在、皇室典範では皇位継承者は事実上、悠仁さまだけだ。憲法2条の「天皇の地位は国民の総意に基く」という規定は置いておくとしても、もし悠仁さまに男子の子供が授からなかった場合、どうするのか。その場合は旧宮家に属する男系男子を「皇位継承者」にしてしまうのか。そういう経緯で天皇になった人が「国民の総意に基づいた」と言えるのか。
「国民の総意」という憲法の規定は重い。かつて赤軍派のゲリラ行動によって日航機が乗っ取られたとき、時の福田総理は「人命は地球より重い」と、人質解放を条件にゲリラを北朝鮮に行かせた。欧米諸国からは「ゲリラに屈した」と非難されたが、人質救出を最優先した福田の判断を、私は高く評価している。「天皇の地位は国民の総意に基づく」という憲法の規定と、皇位継承権を男系男子に限定した皇室典範と、どちらが重いか、3歳の子供にもわかるはずだ。
 なお、この件について私はNHKと朝日新聞に伝えたが「私の意見は言えません」との対応だった。「報道部門に伝えます」という言葉もなかった。「メディアは死んだ」(23日)


皇位継承についての議論がおかしな方向に進んでいる。なぜか。
安倍元総理は、憲法9条について、「憲法学者の6割が自衛隊は違憲だと主張している。国民の安全と国土を守るために命を懸けてくれている自衛隊員に対して大変気の毒だ。だから憲法に自衛隊を書き込むべきだ」と主張している。
確かに中学生でも、憲法の条文に照らせば自衛隊は違憲と考えるだろう。が、だからと言って自衛隊の存在を否定している人は狂信的な共産主義者を除いていない。かく言う私自身も自衛隊の方たちには感謝しているし、憲法に違反しているから失くすべきだなどとは毛頭考えていない。が、法律が憲法に違反しているケースは自衛隊だけではない。
現行憲法は戦争直後に制定されたし、戦中戦前の用語や慣習をそのまま継承しているケースも少なくない。日本の憲法はアメリカの憲法と同様「硬性憲法」と指摘されているように、改正条件が非常に厳しい。時代に合わせて変えるべきだというなら、9条だけでなく、憲法全文を洗い直すべきだと思うし、憲法審査会も国会議員だけでなく憲法学者も交えて1字1句に至るまで検討し直すべきだと思う。たとえば~

●憲法15条に書かれている「公務員」は「官吏」ではない。
わずか1年で辞任に追い込まれた菅前総理は就任早々コロナ禍対策と日本学術会議会員問題に直面した。いずれも安倍氏が積み残した問題である。コロナ禍対策は、菅氏も安倍体制を支える官房長官として熟知していたから、むしろワクチン接種を急速に進め、諸外国に比べてよくやった方だと私は思っている。
が、学術会議会員問題は、菅氏にとって「寝耳に水」の話だったと思う。はっきり言って、これは安倍案件だったからだ。誰だって、総理に就任早々、事を荒立てるようなことはしたくない。だから、6名の学術会議推薦会員を任命しないなどということは菅氏としてはやりたくなかったはずだ。が、安倍氏がすでに決めていたことで、だから当初菅氏は「私は何も聞いていない」と困り果てていた。が「本命」視されていた岸田氏を外して菅氏を後継指名してくれた大恩人の安倍案件をひっくり返すわけにもいかない。
で、やむを得ず、とんでもない憲法解釈を持ち出して「学術会議会員は特別国家公務員だから憲法15条の規定に従って、国民の代表である総理に任命権がある」と、とんでもない憲法解釈を披露した。しかも、その憲法解釈は内閣法制局が裏付けたと主張した。
が、憲法学者でも何でもない私が、内閣法制局職員とやり合って、その解釈が間違いであることを認めさせた。大体、内閣法制局はバカ集団だ。物事を論理的に考えることができない連中の組織だ。集団的自衛権の解釈にしても、そもそもデタラメだった。
集団的自衛権は国連憲章51条で国際的に初めて認められた「自衛手段」である。国連憲章は、国際紛争を軍事力によって解決してはいけないということを大前提に作られている。しかし、憲章に違反して武力によって国際紛争を有利に解決しようという国を防ぐ絶対的手段を国連が有しているわけではない。
言っておくが、国連憲章はあくまで国際間の紛争しか前提にしていない。国内の権力闘争、支配権争いには効力を及ぼさない。例えば朝鮮戦争やベトナム戦争はなぜ「戦争」と言われるか。戦争とは国際紛争を武力によって解決しようという行為であり、国内の支配権をめぐっての武力衝突は「戦争」とは言わない。現にアメリカが軍事介入したから朝鮮戦争とかベトナム戦争と呼ばれるようになったが、別にアメリカは朝鮮やベトナムと戦争したわけではない。
日本の敗戦後、中国の支配権をめぐって毛沢東軍と蒋介石軍が争ったが、だれもその争いを「中国戦争」とは言わない。が、第2次世界大戦でアメリカがまだ余力を残していたら、間違いなく米軍は蒋介石軍と一緒に毛沢東軍と戦っていただろうし、そうなっていたら「中国戦争」と命名されていた。
第2次世界大戦後、国内紛争に軍事介入してきたのはアメリカと旧ソ連だけで、本当の意味の戦争は4次に及ぶ中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争だけである。
国連憲章は、国際間の紛争(国と国との紛争)が生じた場合、国連安保理にあらゆる「権能」(経済制裁などの平和的手段および武力制裁)の行使を認めている。が、安保理には拒否権を持つ5大国が常任理事国として巨大な権限を与えられており、安保理が国際紛争をすぐには解決できないケースも想定された。
そのため国連憲章51条で、「国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って」国連加盟国は自衛のための武力行使を容認することにしている。その武力行使の手段として自国の軍事力(個別的自衛権)だけでなく、同盟国や友好国、あるいは集団的自衛集団(NATOなど)に協力を求める権利(これが集団的自衛権)を認めている。日本の場合でいえば、日本が他国から不当な攻撃を受けた場合、自衛隊という日本の軍事力の行使だけでなく、同盟国であるアメリカに軍事的支援を要請できる権利を日米安全保障条約によって既に持っている。集団的自衛権とは、あくまで自国を防衛するために同盟国や友好国に「助けてよ」とお願いできる権利のことであり、他国を軍事的に支援する「他衛権」を意味してはいない。中学生以下の知能しか持っていないのが内閣法制局なのだ。

同様に、「総理に任命権がある」と解釈した内閣法制局の解釈もバカ丸出しである。その解釈の根拠にした憲法15条は戦前戦中の用語をそのまま引き継いでいるため、内閣法制局はとんでもない解釈をしてしまった。
憲法15条の全文を読んでみろ。こうある。

公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
② すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
③ 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
④ すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

確かに国会議員や地方自治体の首長や議員は特別職の国家公務員や地方公務員である。日本学術会議会員も特別職の国家公務員ではあるが、議員や首長ではないから「普通選挙」で選ばれているわけではない。だいいち、憲法15条で定めている「公務員の選定」方法は普通選挙であり、「罷免」方法はリコール権である。大統領制と違って日本の総理大臣が国民の代表と言えるかについての疑問もあるが、仮に国民の代表だとしても、では総理大臣に国会議員の罷免権があるのか。そんな権利があるなら、野党議員は全員罷免してしまえ。
言っておくが、内閣法制局は完全に私の論理に屈服した。当たり前の話だ。中学生だって、私の論理を全員認める。頭は生きているうちに使え。
なお、いま一般に私たちが理解している「公務員」は憲法では「官吏」と書かれている。つまり戦前戦中の用語をそのまま踏襲してしまったために、とんでもない解釈が生まれたということ。
頭は生きているうちに使うべきだが、「バカに付ける薬はない」ともいう。

●ウルトラ右翼は日本から消えろ!
本題に入る。いま皇位継承問題について政府の諮問機関である「有識者会議」が議論している。
ここで言う「有識者」とはバカ丸出しの代名詞である。なぜか。有識者会議のメンバーは6人だが、その中に憲法学者が一人も入っていない。天皇の地位や権限はすべて憲法によって定められているのに、憲法学者が皇位継承問題を論じる有識者会議に一人も入っていないのだ。とりあえず、現在のメンバーを列記する。(学者についてカッコ内は専門分野)

座長 清家篤・元慶大塾長(労働経済学)
大橋真由美・上智大教授(行政法)
冨田哲郎・JR東日本会長
細田雄一・慶大教授(安全保障)
宮崎緑・千葉商科大教授(国際政治)
中江有理・女優、作家

この6人が皇位継承に関する有識者会議のメンバーに選定されたのは今年3月16日。大学教授(元を含む)は4人いるが憲法学者は一人も入っていない。憲法学者を入れるとウルトラ右翼の政治家にとって不都合が生じるからだ。自衛隊については「違憲」と考える憲法学者は安倍氏によれば6割だそうだが、「男系男子」にしか皇位継承権を認めていない皇室典範についてはおそらくほぼ100%の憲法学者が違憲と考えているだろう。まず憲法が天皇についてどういう位置づけをしているか、見てみよう。

第一章 天皇
〔天皇の地位と主権在民〕
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
〔皇位の世襲〕
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
〔内閣の助言と承認及び責任〕
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
〔天皇の権能と権能行使の委任〕
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。(以下略)

第2条により「皇位は世襲」と定められている。あらゆる辞書を調べても「世襲」の対象は「子孫」である。皇位継承権を「男系男子」に限定している皇室典範(国会で定めた法律)によれば、現在の皇位継承順位は ①秋篠宮(上皇の子孫ではあるが天皇の子孫ではない) ②悠仁さま(上皇及び秋篠宮の子孫ではあるが天皇の子孫ではない) ③常陸宮(上皇の弟だが、天皇の子孫ではない。天皇にとっては叔父にあたる) つまり現在の皇位継承権者には天皇の子孫は一人もいないのだ。次にあらゆる差別を禁じた憲法14条1項を見てみよう。

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

憲法14条には「但し、皇位継承権については、この差別禁止の規定から除外する」とは一切書かれていない。14条だけではなく、いかなる憲法の条文にも書かれていない。
現在は天皇も「国民」である。皇室典範という法律を憲法に優先するのであれば、あらゆる国民に対して性差別を憲法に明記すべきだ。たとえば、女性には「遺産相続権を認めない」などだ。そんなことができるか。ど阿呆者ども!

●過去の「伝統」はどうやって継承されてきたか?
ウルトラ右翼のバカどもは、「男系男子継承」は皇室の伝統だという。が、そういう継承は皇室に限ったことではない。大小名をはじめ武家もそうだった(商家や農家については知らない)。
NHKの大河ドラマに『おんな城主 直虎』は、井伊家の一人娘のおとわは名を直虎と改め男装して井伊家の存続のため獅子奮迅の活躍をする物語だが、実際、少なくとも徳川時代には「男系男子」の後継ぎがいない大小名、武家は取り潰しになった。天皇家の場合も、正妻に男子が生まれなかった場合、公家が競って自分たちの娘を天皇に妾として差し出し男子の継承者を生ませた。男子の継承者が幼いうちに天皇が亡くなられた場合は、やむを得ず直系の女性がピンチヒッターとして天皇の座に就いた。
さあ、そこで大バカどものウルトラ右翼に聞くが、天皇の子孫以外で天皇になった男子がいたか。悠仁さまは現天皇にとっては甥にあたる。甥が皇位を継承してケースがあったのか。
まして悠仁さまに男子が授からなかった場合、もう血筋という面からするとほとんど赤の他人同然になっている百年以上も前の男系男子を探し出して天皇に据えるなどというケースが過去あったのか。だいいち、そんな人間を探し出して天皇にしても、国民がいまの皇族の方たちに抱いている敬愛の念を抱けるか。少なくとも私には無理だ。

皇族の方が少なくなりご公務に支障が出ていることは私にもわかる。だったら、皇族の方々の負担を軽減するためにご公務を減らせばいいだけの話だ。女性皇族が結婚されれば皇族から離れるというのも、皇室の伝統ではなかったか。
結婚して皇族から離れた元女性皇族の方に、ご自分の生活に負担にならない範囲でパート皇族としてご公務を手伝っていただくのはいいと思うが、一生皇族として縛り付けるのは「ご都合主義」もいいところだ。
まして旧宮家の男系男子をいまさら皇族に仕立て上げて、果たして皇族としての品位を持っていただけるのか。仮に私が旧宮家の血筋をひいていたとしても、「今日から立ち居振る舞い、皇族としての品位を汚さない生活をしてくれ」と言われても不可能だ。居酒屋にもカラオケにも行けない、ゴルフも自由にはやれない――そんな生活、まっぴらだ。
大バカどものウルトラ右翼よ。お前ら自身が、ある日突然、皇族になったとして、皇族にふさわしい生活ができるとでも思っているのか。
メディアの世論調査によれば、国民の多くは「次の天皇は愛子さまがいい」と考えている。憲法第1条にも「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と明記されている。「日本国民の総意」に基づかず、ウルトラ右翼が勝手にでっち上げた「皇位継承の伝統」を重視したら、いつか日本から天皇を含む皇族がいなくなる。「国民から敬愛されない皇室になんか、国民の税金を使うな」という声が必ず大きくなる。そういう事態を一番喜ぶのは日本共産党だけだ。





真珠湾攻撃から80年――日本はあの戦争から何を学んだか?

2021-12-07 11:38:22 | Weblog
今から80年前の1940年12月8日、日本海軍機動部隊は350機の戦闘機・爆撃機を搭載した6隻の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」で米・太平洋艦隊の本拠地、真珠湾(パールハーバー)を奇襲した。
この攻撃で、アメリカ側は、主力戦艦アリゾナを含む戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上に達した。
いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)ですんだ。
この「大戦果」の報道(当時は新聞が主流メディアでラジオは一部の富裕層しか持っていなかった)を受けて日本国民は狂喜乱舞した。が、実は真珠湾攻撃は大失敗だったのである。
この当時の日本軍部について陸軍は強硬姿勢、海軍は冷静な判断をしていたという説もあるが、連合艦隊司令長官・山本五十六も真珠湾攻撃については失敗を認めず、自己保身に終始した。
確かに真珠湾攻撃で米・太平洋艦隊が被った打撃は大きく、日本海軍は少ない犠牲で済んだことは事実である。が、強硬姿勢の陸軍もアメリカという超大国を相手に本格的な戦争で勝てるなどとは考えていなかった。米・太平洋艦隊を無力化させれば、強大な米軍事力は事実上「宝の持ち腐れ」と化し、日本の「対中戦争」へのアメリカの干渉をストップさせることができ、日本と中立条約を締結していたソ連に日米間の紛争の仲介を要請するつもりだったと思われる。実際、日本の敗色が濃厚になった時期、日本は和平交渉の仲介を何度もソ連に要請している。
では、真珠湾攻撃がなぜ「失敗だった」と言えるのか。
米・太平洋艦隊の機動力を失わせるためには空母を撃沈しなければならない。その空母を、日本海軍は1隻も撃沈できなかった。撃沈どころか、日本海軍の偵察機は空母そのものを見つけることさえできなかったのだ。
何故か。実は真珠湾は水深が浅く、戦艦や駆逐艦などは入港できたのだが、空母は入港できず、オアフ島近辺のほかの地域に集結していたのだ。日本海軍も偵察機が必至に空母を探したが、とうとう発見できず、やむを得ず「江戸の敵を長崎で討つ」というバカげた作戦に切り替えたというのが真珠湾攻撃の真実である。実際、日本の「だまし討ち」の証拠として戦艦アリゾナはアメリカはいまだに引き揚げていないが、その他の艦船はすぐに引き揚げ修理している。
アメリカは日米貿易摩擦のときも「リメンバー・パールハーバー」を日本バッシングに利用したが、いまでもアリゾナを引き上げないのは日本に対する恨みをいつまでも保持し続けるためである。一方、広島の原爆ドームは「リメンバー原爆」のためではなく、原爆という非人道的兵器を廃絶するためである。

●真珠湾攻撃は宣戦布告なき「だまし討ち」だったのか
日本は奇襲攻撃は戦争の手段として古くから容認されてきた。たとえば源義経の「ひよどり越えの逆落とし」や織田信長の「桶狭間の奇襲」、明智光秀の「本能寺の変」ですら奇襲攻撃自体が非難されたことはなく、主君の信長を裏切ったという意味で「逆臣」扱いされてきただけである。
私は1992年11月『忠臣蔵と西部劇』という本を上梓した。映画評論の本ではなく、副題を「日米貿易摩擦を解決するカギ」としたように、当時貿易摩擦が大激化していた日米間のパーセプション・ギャップの本質を分析するのが目的だった。が、書店ではこの本の扱いに困ったようで、ほとんどの書店では「話題本」のコーナーには置いてくれず、映画関係の書棚に置かれてしまった。出版社の祥伝社は私の顔写真付きで大々的な新聞広告を打ってくれたのだが、意外性を狙ったタイトルで失敗した。しかし、いまでも32冊上梓した私の著作の「代表作中の代表作」と思っているし、アベノミクスの円安誘導により自動車や電機など輸出メーカーの国際競争力を強化したのに、肝心のメーカーが「笛吹けども踊らず」で輸出を増やさず為替差益で史上空前の利益をため込んだ。そうした日本企業のビヘイビア原理も、この本ですでに解明している。
そんな自慢話めいたことはともかく、この本で明らかにした日米間のパーセプション・ギャップの最たるものは「目的」と「手段」についての考え方のどうしても埋まらないギャップである。
忠臣蔵というと、赤穂浪士たちの苦心惨憺が美談として語り継がれてきているが、実はアメリカ人にはまったく理解しがたい「美談」なのだ。何故か。敵の吉良家が宴席の夜で油断しきっていた深夜に、吉良家の家臣や用心棒の寝込みを襲った「だまし討ち」だったからだ。
一方、ゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」やアラン・ラッド主演の「シェーン」、バート・ランカスターとカーク・ダグラス共演の「OK牧場の決闘」にみられるように、西部劇には戦いの「目的」の正当性より、戦う手段の「フェアさ」が重視される。だから、西部劇には戦う方法として二つのルールが確立されている。「丸腰の相手を撃ってはならない」「うしろから撃ってはならない」というのがそれだ。だからアメリカでは「両手を上げる」「背中を向ける」という行為は、「あなたと戦うつもりはない」という意思表示であり、それが自己防衛の最善の手段なのだ。
つまり「目的さえ正しければ手段は問わない」という価値観が根付いてきた日本と、「目的の正邪もさることながら、目的を達成するための手段がフェアでなければいけない」というアメリカ人の価値観とのずれが貿易摩擦の根底にあったと私はこの本で書きたかったのである。
忠臣蔵の「美談」がアメリカ人には理解できないのと同様、ロッキード事件の立役者の一人、全日空の若狭徳治社長(当時)が逮捕・有罪になっても全日空社内での評価は「自分のためではなく会社のためにしたこと」とかえって人望が増したことや、バブル時代、日本一の銀行を目指し、「中興の祖」とまで社内で人望を集めていた住友銀行の磯田一郎頭取(当時)が社員に対して「向こう傷は問わない」と、収益を上げるためだったら何をやってもいいととらえかねない檄を飛ばしたことがある。私は磯田氏にインタビューしたとき、「本当に何をやっても銀行が儲かりさえすればいいんですか」と痛烈な質問をしたことを昨日のように覚えている。

真珠湾攻撃が失敗に終わったことは別として、日本は攻撃前に対米宣戦布告はする予定だった。実際、アメリカの日本大使館に外務省は「対米宣戦布告」の暗号電報を打っている。
実はアメリカとだけは事を構えたくなかった日本は(アメリカと本格的な戦争をして勝てるなどと考えていた政治家や軍人は絶対的少数派だった)、駐米大使として野村吉三郎氏と来栖三郎氏の2人大使制まで敷いていたことから考えても、日本がいかにアメリカとの戦争を回避したかったかが理解できる。
日本が開戦に踏み切るきっかけになったとされる米側最後通牒(米側は「最後通牒ではない、まだ交渉継続中だった」と主張している)の「ハル・ノート」についてはあとで触れるが、これで開戦やむなしと考えた日本政府は駐米日本大使館に暗電を打った。が、この暗電を解読、タイピングしてハル国務長官に手渡ししたのは、真珠湾攻撃の1時間後だった。米側にとっては「だまし討ち」に等しい攻撃だった。

●「宣戦布告」の国際ルールを日本は批准していた
宣戦布告についてのルールがバンコク平和会議で討議され、初めて国際ルールとして採択されたのは1907年10月である(ハーグ条約)。日本は日清・日露戦争に「勝利」し、欧米列強と肩を並べる地位に向上していた。日本も国会での議論を経て11年11月に批准し、翌12年2月に発効した。
ハーグ条約の要点は「条約締結国は、開戦に先立ち、相手国に対して理由を付した開戦宣言を通告すると同時に、中立国に対しても開戦に至った事情を通知すること」である。
私自身が、この条約に疑問を持つのは、攻撃を受けた国(太平洋戦争においてはアメリカ)は宣戦布告なしに開戦してもよいのかについての明確な規定がないことである。また日本は真珠湾攻撃の前にマレー半島に奇襲攻撃したのをはじめ、香港やフィリピンなど東南アジア一帯への侵略攻撃も開始しているが、これらの攻撃については日本は宣戦布告をしていない。なお、米ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃(アメリカ時間7日)を受けて、上下両院議会で対日宣戦に踏み切る演説を行った。その日本語訳を掲載する。

昨日、1941年12月7日、この日は醜行の日として生きつづけるでしょう。アメリカ合衆国は、突然かつ意図的に日本帝国の海軍空軍による攻撃を受けました。
合衆国はかの国と平和な関係にあり、日本からの懇願に沿って、太平洋における平和維持を期待して日本政府および天皇と交渉している途中でした。
更に言えば日本の空軍部隊がアメリカ領土のオアフ島に爆撃を開始した1時間後、日本の駐米大使がその同僚を伴ってアメリカの最近の提案に対する公式返答を我が国の国務長官に手渡したのです。
そして、その返答はこれ以上の外交交渉の継続を無意味なものと思わせるような内容が述べられてはいましたが、軍事攻撃による戦争への警告も示唆も含まれてはいませんでした。
日本からハワイまでの距離を考慮する時、今回の攻撃が何日も前から、あるいは何週間も前から意図的に計画されたものであることは明らかであることが記憶されるべきです。
その間、日本政府は意図的に、継続的な平和への希望へ向けた偽りの声明、表明によって合衆国を欺むこうと努めてきたのです。
昨日のハワイ諸島への攻撃で誠に多くのアメリカ人の命が奪われてしまったことを、深い悲しみをもって皆さんに報告しなければなりません。
加えて、サンフランシスコとホノルルの間の公海上でアメリカ国籍の艦船が魚雷攻撃を受けたとの報告が入っています。
昨日、日本政府はマレー半島にも上陸し攻撃を加えました。昨晩、日本軍は香港を攻撃しました。同じく昨晩、日本軍はグアムを攻撃しました。昨晩日本軍はフィリピン諸島を攻撃しました。昨晩日本はウェーク島を攻撃しました。そして今朝、日本はミッドウェイ島を攻撃しました。
つまり日本は太平洋の全域にわたって奇襲攻撃に打って出てきた訳です。昨日そして本日の出来事はそれら自体が雄弁に主張しています。
合衆国の国民は、既にその意見をまとめ、かつ自国民の安全と自国の安全性それ自体の重要性を十分に理解しています。
陸海軍の最高指揮官として、私は我が国の防衛のためのあらゆる手段を講じるよう命令を下しました。
しかしながら、我が国の国民の誰であれ、私たちに向けられた猛襲の性質を忘れることはないでしょう。
この計画的な侵略行為を克服するのにどんなに時間がかかろうとも、合衆国の国民はその正当性に基づいて、完全な勝利を勝ち取る所存です。
私は、議会および国民の総意を推察し、我が国が最高レベルで自国の防衛を図るべきのみならず、このような悪辣な行為によって再び我が国が危機に晒されるべきではないことを明らかにすべきときであると信じます。
敵は現在しています。
わが国民、わが国土、そしてわが国の権益が重大な危機に見舞われていることに疑いの余地はありません。
我が軍への信頼と、我が国民による自由な意思によって、私たちは必ずや最終的な勝利を獲得するでしょう。主よ、私たちにご加護を。
わたしは議会に対して、1941年12月7日に日本から蒙った謂れが無く卑劣な攻撃を以って、合衆国と日本帝国とが戦争状態に入った旨の布告を宣言するよう要請します。

アメリカの真珠湾攻撃に対する怒りが凝縮された演説と言えよう。が、この演説でルーズベルトは「合衆国はかの国と平和な関係にあり、日本からの懇願に沿って、太平洋における平和維持を期待して日本政府および天皇と交渉している途中でしたと述べている。ということは「ハル・ノート」は日本政府が解釈したような最後通告ではなく「日本からの懇願に沿って、太平洋における平和維持を期待して」の「交渉条件文書」ということになる。あるいは「交渉中」と見せかけることで、アメリカの卑劣さを目くらまししようとしたのか。そうなると、「ハル・ノート」が目指したものは何かということが改めて問われなければならない。

●中国・朝鮮半島をめぐるヨーロッパ列強、ロシア、日本の抗争
「ハル・ノート」を分析する前に、当時の中国と朝鮮半島をめぐる世界の動きを簡単に振り返っておく必要がある。
漢民族が支配していた中国(明)をツングース系の狩猟民族・女真(満州人)が打倒して清朝を樹立したのは1644年である。清王朝は孫文らが起こした辛亥革命で崩壊する1911年まで267年間、中国を支配した「征服王朝」である。日本の徳川幕府時代とほぼ同じくらいの長期政権だった。
清は政権時代、中国の版図を拡大し続けた。台湾、モンゴル、新疆(東トルキスタン)、チベットと版図を広げた。朝鮮や琉球は事実上、中国の属国的状態にあったが、中国の領土になったことは一度もない。
日本の徳川幕府と同様、長期政権は次第に弱体化する。日本で徳川家康が徳川幕府を築いたのは1603年で、1868年の大政奉還によって明治維新が実現するまでの265年間の長期政権だった。ほぼ清朝政権と同じ長期政権であり、かつほぼ同時期に政権を樹立し、同時期に政権崩壊した。ただの偶然ではない。
清朝も徳川幕府も政権崩壊の原因は欧米列強のアジア進出が原因だ。
1840年、世界戦争史上、最悪の戦争と言っても過言ではないイギリスがアヘンを中国に売り続けるために起こしたアヘン戦争が欧米列強の中国侵略の嚆矢である。続いてイギリスはフランスと手を組んで1856年、アロー戦争を起こし、さらに清・中国を侵略する。
一方、「尊王攘夷」を旗印に討幕を成功させた薩長を中心とする新政権(明治政府)は、何故か政権を獲得した途端、倒幕の最大のエネルギーだった「攘夷」をマジックのように消してしまった。そのことはすでにブログで書いたから繰り返さないが、攘夷どころか欧米列強に肩を並べるために「富国強兵殖産興業」を新政府の旗印に転換し、ひたすら軍国主義への道を歩みだす。
そして弱体化した清国から朝鮮を日本の支配下に置くため朝鮮・李王朝で生じた東学党の乱を契機に朝鮮に出兵し、さらに李朝を扇動して中国からの独立を画策、日清戦争を始める(1894年)。実際、あまり左翼系歴史家は書きたがらないが、日清戦争後、朝鮮は中国の支配下から脱し「大韓帝国」を樹立した。なお、征韓論を唱えて政府から排除された西郷隆盛は、なぜか賊軍の将なのに英雄扱いされ、明治天皇自身は対清戦争に反対だったようで、「この戦争は余の戦争にあらず」との記録を残している。
ただ、日清戦争に勝利した日本はいったん、戦果の一つとして遼東半島を清から割譲させたが、そのとき清朝の中国はすでに列強の「草刈り場」となっていて、ロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」によって日本は遼東半島を中国に返還する。南下政策を進めていたロシアは「待ってました」とばかりに旅順・大連を清から租借、事実上、日本の支配下に入った朝鮮(大韓帝国)へのにらみを利かせはじめる。慌てたイギリスはロシアの南下政策を防ぐため日本と同盟し(1902年「日英同盟」)、日本はロシアの脅威を防ぐため日露戦争を始める(1904年2月)。日本海軍は世界最強と言われたロシア・バルチック艦隊を撃破、難攻不落だったロシアの旅順要塞(203高地)を膨大な犠牲を払って陥落、アメリカの仲裁によって戦争は終結した(05年9月)。この戦争の結果、朝鮮支配をねらっていたロシアは日本の朝鮮支配を容認、清から得ていた旅順・大連の租借権も日本に引き渡し、南樺太も日本に割譲したが、「敗戦」は認めず賠償金の支払いにも応じなかった。そのため日本国内では「膨大な戦費や犠牲を払いながら~」という不満が広がり、東京・日比谷公園での抗議集会(9月5日)に集まった人たちが暴徒化し、内務大臣官邸や国民新聞社、交番などを焼き討ちするに至ったほどである(日比谷焼き打ち事件)。
一方、日本に敗れた清朝政権はさらに弱体化していく。徳川幕府の末期に列強と不平等条約を結ばされたことで攘夷運動が燎原の火のごとく広がったのと同様、列強に次々と侵食されていく状況下で「反キリスト教」「外人排斥」を主張する民衆の蜂起が中国各地で生じ、「義和団」として一大勢力になる(1900年)。当初はこの反乱を鎮圧しようとした清朝だが、北京を義和団に制圧されるに及んで義和団支持に方針を転換、英・米・独・仏・豪・伊・露・日の8か国に宣戦布告したが、8か国連合軍が清軍および義和団を制圧、北京を占領して列強による中国の分割支配がさらに進んだ。
さらに日本は完全に支配下に置いた朝鮮半島を10年8月に併合し、大韓帝国は消滅する。
一方、中国の分割支配競争に出遅れて「蚊帳の外」に置かれていたアメリカは、中国の分割支配競争に割って入るため「門戸開放」を主張して中国での利権獲得に急遽乗り出した。そして中国では孫文らが主導した辛亥革命が勃発し、1911年、清王朝は崩壊する。
翌12年1月、孫文は自ら臨時大統領となって「中華民国」を樹立し、「北洋軍閥」の総帥・袁世凱を初代総理大臣に任命した。が、袁世凱はNO。2では嫌ですとばかりに孫文を辞任させ、10月には自身が大統領の座に就き、首都も南京から北京に遷都した。以下、重要事件を歴史年標的に記載する。

1914年7月28日 第1次世界大戦勃発(日本は日英同盟を口実に中国のドイツ権益を奪取)。
1915年1月 日本が中国に21か条の要求を突き付け、袁世凱政権は受諾。
同年12月 独裁政権を目指して袁世凱は皇帝に就任して帝政を敷く。国内外の反発が激しく、日・英・露・仏も帝政に反対し、翌16年3月、袁世凱は帝政を廃止。その3か月後、袁世凱は失意のうちに死亡。
1917年11月 ロシア革命(ロシア歴では10月)。
1918年11月 第1次世界大戦終結。
1919年 朝鮮で独立運動(三・一運動が勃発) 中国でも愛国民族運動(五・四運動)が勃発、反日運動が広がった。
1920年1月 国際連盟発足。アメリカは上院で否決され連盟には不加入。
1921年5月 張作霖、中国東3省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)独立を宣言。
1922年10月 イタリアでファシスト政権(ムッソリーニ)誕生。
1928年6月 孫文の後継者・蒋介石が北伐を行い、中国を再統一して国民政府を樹立。翌29年、日本は国民政府を承認。
1929年10月24日 世界恐慌勃発(暗黒の木曜日)。
1931年9月 関東軍が満州事変を起こし満州全域を掌握。翌32年3月、満州国を建国し、国家元首に清朝最後の皇帝・愛真桂溥儀を就ける。33年2月、国際連盟総会は満州国を不承認し日本は国際連盟から脱退する。が、英・米・仏などは満州に経済進出する。
1933年1月 ヒトラー、独首相に就任。
1936年1月 日本、ロンドン軍縮会議から脱退、無制限建艦競争始まる。
同年2月26日 皇道派の陸軍青年将校らがクーデター未遂(2・26事件)
1937年7月 盧溝橋事件を契機に日中戦争勃発。
1938年1月 近衛文麿首相、「以後、蒋介石率いる国民政府は相手にせず」と声明、和平への道が閉ざされた。
1939年8月 独ソ不可侵条約締結。
同年9月1日 独、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦勃発。
1940年3月 親日派の汪兆銘が関東軍の後ろ盾を得て、南京を首都に新政権を樹立(中華民国国民政府)。
同年9月 日・独・伊がベルリンで3国同盟。
同年11月 ルーズベルトが「戦争には参加せず」を公約に米大統領に3選。
1941年4月 日ソ中立条約調印。
同年6月 ドイツ、独ソ不可侵条約を破棄せずソ連に侵攻。
同年8月 米、日本への石油全面禁輸。
同年11月26日 米、「ハル・ノート」を日本に提示。
同年12月1日 御前会議で米・英・ランへの開戦決定。
同年12月8日 日本海軍、ハワイ・オワフ島の真珠湾を奇襲。

日米開戦に至る過程について、これだけフェアに検証したメディアや歴史家はいないと自負している。正直、これだけの年表を作成するのにかなりの時間と労力を費やした。よっぽど、途中で「1940年7月17日 小林紀興氏生誕」と年表に入れようかと思ったくらいだ。

●アメリカが日本を対米開戦に踏み切らせたかった理由
1920年、国際連盟が発足したとき、アメリカは連盟に加盟しなかった。ルーズベルト大統領は加盟したかったようだが、当時のアメリカの国内は厭戦気分が充満しており、加盟決議は上院で否決された。
アメリカは伝統的に他国の紛争に関与しないという思想を持ち続けてきた。そもそもは1823年に米第5代大統領のジェームズ・モンローが議会で宣言したことが発端で、「アメリカは自国が攻撃されない限り、ヨーロッパ諸国の勢力争いには一切関与しない」という孤立主義の考えだった。当時のアメリカはまだ発展途上国で、イギリスとの独立戦争には勝利したものの、ヨーロッパ列強は依然として脅威の対象だった。だいいち、当時のアメリカは国内が二分しており、決着をつけた南北戦争は「モンロー宣言」の40年後である。
むしろ南北戦争で多くのアメリカ国民が血を流したこともあって、「二度と戦争はしたくない」という厭戦気分が国中に横溢したと考えられる。だから第1次世界大戦にもアメリカは参戦しなかったし、国際連盟にも加盟しなかったくらいだ。
そのアメリカを大きく変貌させたのがルーズベルト大統領だった。ルーズベルトはニューヨーク州知事だった1929年、世界恐慌に直面した。33年に米大統領に就任すると、恐慌によって疲弊したアメリカ経済を回復させるため大胆な財政出動を行い、公共工事による経済活性化と失業率の奇跡的な回復を成功させ、アメリカを世界の大国へと導いた。
第2次世界大戦の勃発でナチス・ドイツがヨーロッパを席巻し、イギリスのチャーチル首相がルーズベルトに何度も参戦協力を要請したが、米国人の90%がモンロー思想に染まっており、ルーズベルトとしてもいかんともしがたい状況にあった。もちろん、アメリカ自身が攻撃されれば状況は一変しただろうが、世界恐慌を克服して世界最強国になったアメリカを攻撃する国はありえなかった。そのルーズベルトにとって、これ以上はない餌が日本だった。
中国進出に出遅れたアメリカが目を付けたのは、まだヨーロッパ列強が手を付けていなかったフィリピンなどの海洋弱小国だった。ヨーロッパ列強にとって最大の利益の源泉は広大な中国本土であり、中国に対する権益を獲得するために中国の周辺国を次々に植民地化していった。アメリカの対中作戦はせいぜいのところ「門戸開放」を唱えて対中権益のおこぼれにあずかることくらいだった。
そういう時期に日本が対中戦争に踏み切ったというわけだ。しかもヨーロッパ列強はナチス・ドイツの勢力拡大によって中国の権益を守るどころではなかった。ルーズベルトにとって、こんな「タナボタ的チャンス」はなかった。で、ルーズベルトは蒋介石の国民政府に資金供与をはじめ様々な支援を行い始めた。

ここでちょっと私の「戦争論」を展開させていただく。戦後、日本は憲法改正を行った。当時の吉田茂首相のもとで憲法9条も制定されたのだが、この9条をめぐって共産党の野坂参三や社会党の森三樹二が猛烈に批判している。野坂は「戦争には侵略戦争と自衛戦争がある。自衛戦争まで否定するのはいかがなものか」と吉田に食らいついた。吉田は「近年の戦争の多くは自衛を口実に行われている。自衛のための戦争は正当とするのは有害な考えだ」と一蹴した。
私は戦争には第3のカテゴリーがあると考えている。「権益(正当な権益か否かは別として)の防衛戦争」というカテゴリーがそれだ。実は日本が行った自衛戦争は鎌倉時代の「元寇」だけである。それ以外に日本が不法な武力侵略を受けたことは一度もない。
一方、侵略戦争は豊臣秀吉の朝鮮征伐を皮切りに、徳川幕府の許可を得た琉球侵略、日清戦争、日中戦争、東南アジアへの侵攻(大東亜戦争)などがある。最後に「権益防衛戦争」は日露戦争と太平洋戦争だ。
そう考えると、太平洋戦争の性格が分かってくる。ルーズベルトは第2次世界大戦に参戦したかった。が、アメリカ国内にはモンロー主義の呪縛(孤立主義あるいは不干渉主義)が横溢していた。とにかく国際連盟への加盟すら拒否した国民性だ。そのアメリカ国民を戦争に駆り立てるには、アメリカに対して戦争を始める国をつくるしかなかった。その標的にされたのが日本だった。
実は「人種のるつぼ」と言われ、多民族国家の象徴のように言われているアメリカだが、南北戦争のきっかけとなった奴隷制度をはじめ、白人以外の黒人やアジア人は「アメリカ白人社会に奉仕する人種」という位置付けは南北戦争後も不変だった。
そもそも「奴隷解放の父」とあがめられ、つねに「理想の大統領」と位置付けられてきたリンカーンですら人道的立場からの奴隷解放者ではなかった。当時、近代工業が急速に発展していた北部の大都市では常に労働力不足の状態にあった。その労働力不足を解消するために、南部の黒人奴隷を近代工業の担い手労働者として必要とする資本家たちの要請にこたえたのがリンカーンだった。
が、アメリカ各州が必ずしも奴隷を主要な労働力としていた農業州と、労働力不足に悩んでいた近代工業州に分かれていたわけではない。とくに北部には奴隷制度を維持してきた州も少なからずあった。南北戦争は1860年の南軍による奇襲攻撃で始まったが、リンカーンは北軍から脱退する北部州を北軍につなぎ止めるため奴隷制度については現状維持を認めつつ「奴隷制度の拡大防止」という政策を打ち出さざるを得なかった。リンカーンが「奴隷解放宣言」を発したのは北軍の優位が明らかになった1862年9月である(本宣言は63年3月)。
なお、いまの立ち位置から考えると信じがたい思いもないではないが、リンカーンは共和党から出馬して60年11月の大統領選挙で勝利している。一方、民主党は奴隷制維持派と廃止派の分裂状態だった。いまの立ち位置から見ると、当時の共和党はリベラル派で、民主党は保守派だったと言える。ただ両党に共通していたのは、アメリカを建国した白人人種にとって、奴隷の黒人だけでなく、新天地を求めて移民したアジア系やヒスパニック系人種も、あくまで白人社会への奉仕者にすぎず、彼らが事業に成功して勢力を拡大することは喜ばしいことでは決してなかった。そのため、日本人移民など特にアジア系移民に対してはアメリカは何度も排斥運動など違法な迫害攻撃を繰り返していた。そうした国内事情も太平洋戦争の直前まで続いていたのである。ルーズベルトが日本を対米戦争に引きずり込もうとした背景もそこにあった。

●「ハル・ノート」の真の目的は何だったのか?
日本としては広大な中国戦線に持てる戦力のすべてを注ぎたかった。そのため日ソ中立条約を結んで北からの脅威を防ぐ一方、一番苦心したのがアメリカとの関係だった。アメリカはイギリスのチャーチルから何度頼まれてもヨーロッパ戦線に参加せず、中立を維持していた。ニューディール政策で世界恐慌を克服した「英雄」のルーズベルトでさえ、米国内に充満していたモンロー主義はどうにもできず、蒋介石から何度頼まれても日中戦争への軍事的介入はできなかった。
日本もアメリカとの友好関係は何が何でも維持しなければならなかった。そのため、駐米日本大使館には異例の2人大使(野村吉三郎と来栖三郎)を常駐させていたほどだった。そこで日米開戦の直接の引き金となった「ハル・ノート」についての論理的検証が重要になる。11月26日の「ハル・ノート」で、米政府が日本に「提案」した内容(「合衆国政府及び日本国政府の採るべき措置」)の全項目は以下の10項目である。(※ハルは米国務長官)

1. イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2. 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3. 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4. 日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5. 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6. 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7. アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9. 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
10. 本協定内容の両国による推進

米政府提案10項目には「最恵国待遇を基礎とする通常条約再締結のために交渉の開始」(石油禁輸の解除の意味?)や「日米による相手国資産凍結の解除」など、交渉継続の意思を思わせる項目も入ってはいるが、その前提として「中国からの全面撤兵」「三国同盟の破棄」など、日本としては受け入れがたい項目が含まれている。
実は6月21日にもハルは米政府の提案も行っている。そのときの提案には日中和平の条件として「共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵は今後の検討課題とする」「満州国に関する友誼的交渉を継続する」という、ある程度、日本の事情を汲んだ内容が含まれていた。
6月提案と11月提案には、日本側も度肝を抜かれるような内容変更がされており、11月提案に含まれている「譲歩的項目」は「最後通告ではない」とするためのカモフラージュと考えるのが文理的解釈であろう。
が、たとえ11月アメリカ提案が事実上の最後通告だったとしても、アメリカには日本に宣戦布告できる条件がなかった。すでに述べたようにアメリカは中国にはほとんど権益を有していなかったから「権益防衛」という口実すらなかった。日本もアメリカの同盟国・イギリスが有していた中国の権益には手を触れず、アメリカの逆鱗に触れることは避けてきた。
もちろん日中戦争が日本の侵略戦争であったことは事実だし、満州国建国も純粋に満州民族の民族自決権を後押ししたのであればともかく、明らかに愛真桂溥儀を担いでの傀儡国家つくりであったことも事実だ。が、日本だけが植民地拡大のための侵略戦争をしていたというならともかく、世界中が植民地獲得競争に明け暮れていた時代でもあった。

そこで考えてみた。もし日本政府が「ハル・ノート」を「お預かりします」と無視を決め込んでいたら、アメリカはどうしたか。アメリカには対日開戦できる大義名分がない。しかも国内にはモンロー思想が充満しており、たとえルーズベルトが対日宣戦決議を上下両院にかけても否決されたと思われる。日本政府にそういう知恵を働かせる人が一人もいなかったのだろうか。
「歴史に『たら・れば』はない」という。それでも私たちが歴史を重視するのは、歴史から未来のために活かすべき知恵を得るためであって、ノスタルジアに浸ったり、認知症対策のためではない。
が、学びに失敗すると、人間は同じ過ちをまた犯す。「歴史は繰り返す」ともいうではないか。
いま日本のウルトラ右翼国会議員たちの間で「自衛権行使の中に先制攻撃も含まれる」といった馬鹿げた主張が強まっている。私は「専守防衛」という自衛なんかありえないとは考えているが、相手国が宣戦布告もせず、ましてや軍事行動にも出ていない段階で「戦争を仕掛けてくるのではないか」と勝手な妄想で先制攻撃に踏み切ったりしたら、日本はあの真珠湾攻撃の失敗から何も学ばなかったことになる。
中台有事のリスクが高まっているときだけに、勇ましい話はゲーム機の中だけでやっていただきたい。














共産党が国民から嫌われる、これだけの理由。

2021-11-15 05:49:10 | Weblog
【緊急追記】共産党・穀田国対委員長が共産党の革命理念を否定した
12月1日、共産党の大幹部であり、テレビにもたびたび出演している穀田国対委員長が、記者会見で共産党の革命理念を否定する発言をしたようだ。
本文でも明らかにするが、日本共産党は【二段階革命論】を革命理念としている。第1段階の革命が『民主主義革命』で「日本共産党の綱領は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破を実現する民主主義革命」と『しんぶん赤旗』に明記している。つまり、日本共産党は、「現在の日本は民主主義の国ではない」と規定しているのだ。
が、穀田氏の記者会見を報じた2日の朝日新聞朝刊は『共産・穀田氏「同じ立命大」 泉氏と同窓アピール』という記事タイトルでこう報じた。

共産党の穀田恵二・国会対策委員長(74)は1日の記者会見で、立憲民主党の泉健太新代表(47)に対して「私と同じ立命館大学の先輩後輩。良き同窓としてつながりが持てればいい」などと述べ、祝意を示した。泉氏が共産との「野党共闘」のあり方について見直す方針を掲げるなか、「同窓」をアピールして秋波を送った。
穀田氏はさらに同大出身者として共産の市田忠義副委員長(78)を挙げ、同大出身者には教学理念の「平和と民主主義」が「共通する土台」としてあるなどと解説。そのうえで「これからも今の自公政治を変えるためにともに力を尽くしていきたい」と続けた。

つまり朝日の記事が誤報でなければ、穀田氏は日本共産党の革命理念に反して、日本は「民主主義の国」であることを認めてしまったことになる。朝日の記者に直接確認はできないため、共産党本部(中央委員会)に電話で確認した上で、「事実ならば除名まではすべきではないが、穀田氏の立場から自己批判は必要だと思う」と伝えたところ、「平和と民主主義の国を目指すと言ったことが、そんなに悪いことですか」と反論された。
もし共産党中央委員会の認識がそうであるならば、朝日新聞が誤報をしたことになり、朝日に対して抗議と記事訂正を要求すべきだし、朝日の記事が正確だったならば穀田氏は少なくとも『しんぶん赤旗』で自己批判し頭を丸めるくらいの必要がある。
なぜなら、共産党の志位委員長は立憲との「共闘」継続について「公党と公党の約束」を堅持することを何度も要求している。一方、共産党綱領は共産党のアイデンティティであり、公党間の約束以上に重要な国民との約束だ。その約束を党の大幹部が反故にしてしまった発言を容認するようであったら、もはや共産党は「公党」とは言えないだろう。(12月3日)



いまさら、と言われるかもしれないが、なぜ立憲・共産を中軸にした野党「共闘」が総選挙で敗れたのか(なお立憲は「共闘とは一度も言っていない」と主張しているが、共産は正式に「共闘」と位置付けている)。
私自身は4年前に立憲に吹いた風は「希望の党」から排除された枝野新党に対する「判官びいき」の風に過ぎなかったと思っているし、4年前に立党の精神として掲げた「永田町の数合わせの論理には与しない」という枝野スローガンを降ろすのであれば、責任政党としての説明責任があるはずだと、選挙期間中に何度も立憲本部に申し入れてきたが、最後の最後まで説明責任は果たされなかった。その結果、小選挙区では議席数を多少増やすことに成功したものの、政党に対する支持基準である比例で大幅に議席数を減らすことになった。
一方、立憲と「共闘」した共産は小選挙区では沖縄1区で議席を維持したが、比例では11議席から2議席減らして9議席になった。比例の得票率も前回の7.90%から7.25%へと0.65ポイント減少した。共産はなぜ国民から嫌われるのか、その原因を探ってみた。

●『民主主義革命』を標榜する共産党が、国政選挙をボイコットしない不思議
実はこの選挙期間中だけでなく、共産党支持者からも、というより共産党員からもしばしば聞くのだが「共産党の党名を変えた方がいい」という声がかなり大きいのだ。とくに高齢の党員や支持者から、そういう声を聞く。
むかしの「トラック部隊」や「暴力革命主義」のイメージが党名にべったりついているかもしれないが、党名だけ変えても中身が変わらなければ「赤ずきんちゃん」でしかない。
たとえば、今回総選挙で共産党はどういう公約で闘ったか。党中央委員会幹部会の総括声明(11月1日)にはこうある。
「選挙戦でわが党は、コロナから国民の命と暮らしを守る政策的提案、自公政治からの「4つのチェンジ」――①新自由主義を終わらせ、命・暮らし最優先の政治、②気候危機を打開する「2030戦略」、③ジェンダー平等の日本、④憲法9条を生かした平和外交――を訴えぬきました。どの訴えも、国民の利益にかない、声が届いたところでは、共感を広げました」
4番目の「憲法9条を生かした平和外交」を除けば、どれをとっても自民の公約と大きな差異を感じない。一般に国民が抱いている共産党のイメージからはかなりかけ離れていると言えよう。なぜか。
実は共産党が党名を変えないのは、もちろん最終的に目指しているのが「共産主義革命」だからではある。
ところが不思議なのは、その前段階として「民主主義革命」が必要と考えている(「二段階革命」論)ことである。だから、今回の総選挙でも、どの政党とも代わり映えのしない公約を掲げており、そうした公約は実現そのものが目的ではなく、「民主主義革命」のための手段でしかないということなのだ。
つまり共産党は「いまの日本は民主主義国家ではない」という認識に立っているようなのだ。
民主主義とは選挙によって民意を反映する制度を意味する。だから共産圏の国でも表面上は民主主義を否定していない。中国でもいちおう中国共産党以外の政党を認めているし(ただし、共産党以外の政党から選挙に出馬しようとすると様々な妨害があるようだが)、北朝鮮に至っては正式国名(朝鮮民主主義人民共和国)でも「民主主義」をうたっているくらいだ。
ただ、いわゆる「民主国家」においても民意を反映するための選挙制度はまちまちであり、日本の場合は衆院選挙は小選挙区比例代表並立制で、立候補者は小選挙区と比例代表の重複立候補が認められている。が、参院選挙のほうは選挙区と比例区の重複立候補は禁止されており、選挙制度そのものに矛盾がある。いずれにせよ、共産党が「日本は民意を反映する仕組みの選挙制度ではない」と主張するのであれば、国政選挙をボイコットするのが筋のはず、と私は思っている。

●共産党が目指す「民主主義革命」とは~
実は共産党員や支持者の多くも、「日本は民主主義の国ではないか。なぜ民主主義革命が必要なのか」という疑問を抱いている。そうした疑問に正面から答えたのが「しんぶん赤旗」である(2007年12月13日)。

日本共産党の綱領は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破とを実現する民主主義革命が、「労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって実現される」こと、「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる」ことを明らかにしています。

ふつう選挙によって政権が交代することは「革命」とは呼ばない。共産党が主張したい「革命」とは「権力構造の変革」と考えられるが、それが武力の行使や威嚇によらず選挙によって行われたら、その新しい権力はつねに選挙の洗礼を受けなければならない。ふつう「革命」とは永続的な政治権力構造の変革を意味し、もし共産党が現在の選挙制度の下で「日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占める」ことができたとしても「安定した」権力を維持するには選挙制度そのものを中国や北朝鮮の様に非民主的なものに変える必要が生じる。
たとえ共産党が主張する民主主義革命の目的が「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破」にあったとしても、そうした政権交代が実現し、しかも「共産党と統一戦線の勢力が国会で安定した勢力」を維持するために選挙制度を非民主化したりすれば、当然そうした権力に対する国民の怒りを背景に「反革命」の動きが生じる。彼ら「反革命」勢力は軍隊(自衛隊)や警察組織などの国家暴力組織を擁しており、なまじ中途半端な「平和的手段」による革命を実現したら、かえって壊滅的な打撃を受けることは必至だ。
単なる政権交代であれば、かつての野合政権・細川内閣や野合政党の民主党政権のような一時的なものだったら自民党も国家暴力組織である自衛隊や警察権力を発動して政権転覆をはかろうなどとはしないが、仮に共産党が目指すような政権交代が実現し、しかもその勢力の安定した維持を図ろうとしたら間違いなく自民党は国家暴力組織の発動をいとわない。
つまり共産党が第1段階として目指す「民主主義革命」とは「共産党と統一戦線が国会で安定した過半数を占める」ために民主的な選挙制度を破壊することにあるとしか、文理的には解釈できないのだ。
さらに問題なのは、共産党が「民主主義革命」の次に「共産主義革命」を目指していることだ。共産党が夢見る「民主連合政府」が「国会で安定した過半数」を占めることができたとして、では次に段階の「共産主義革命」では「民主連合政府」から共産党以外の「民主勢力」をすべて排除して共産党の独裁政権を構築することを意味する。それ以外に第2段階の「共産主義革命」の目的についての文理的解釈はありえない。つまり第1段階の革命目標である、共産党の勝手解釈による「民主主義」すら否定しようというのが、「共産主義革命」の目的ということになる。
そんなこと、自民党が国家暴力組織を動員するまでもなく、民主的な選挙で共産党は国民から排除される。少なくとも、日本は自由と民主主義が保証されている国であり、共産党も自由に活動できている。共産党だけが自由に活動できる社会を、国民が民主的と考えるわけがない。確かに私も「異常な対米従属」の状態に日本があるとは思っているが、私も含めて日本国民の大多数はアメリカとの友好関係を破壊したいとは思っていない。共産党は「異常な対米従属」から脱した日本の外交的立ち位置をどうしようと考えているのか、それが見えないから国民の多くは「親米」から「親中」に移行しようとしているのではないかという疑念を抱いている。共産党はしばしば「中立」を重視するが、日本の地政学的地位の中で、完全「中立」という選択肢はありえない。共産党は「中立」的外交の立ち位置について明確に共産党の考えを示すべきだ。

●マルクスが間違えた「土地は根源的生産手段」学説
共産主義思想の教祖・マルクスは『ゴータ綱領批判』で、社会主義・共産主義への過渡期においてはプロレタリアによる独裁が必要だと主張している。
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。 この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」
実はこの規定は「反革命勢力」の暴力組織に対抗するためには労働者階級が軍事力を含むあらゆる権力を奪取する必要があると考えての規定だったが、実質的には労働者階級の指導団体による独裁につながるという批判が当初からあった。とくにロシア革命を実現したレーニンがプロレタリア独裁を公式に革命政権の権力規定としたことに対してトロツキーは「代行主義だ」と批判した。
が、レーニン死後、スターリンらとの権力闘争に敗れてトロツキーは亡命、国外からスターリン批判を続けたが最後は暗殺される。
実はマルクスが【プロレタリア独裁=共産党独裁】と考えていたかどうかは不明である。マルクスは共産主義思想の教祖と位置付けられているが、私はアダム・スミスの資本主義市場経済に対する社会主義計画経済の提唱者としてみている。
もちろん政治思想家としても共産主義の教祖としての地位は揺るがないことは承知の上だが、そういう面での思想は欠陥だらけである。たとえば『剰余価値学説史』という大部の著書でマルクスは、「根源的生産手段である土地は私有を認めるべきではない」と主張し、この思想が共産圏ではバイブルとなり、中国も北朝鮮も土地は国有化している。
が、マルクスがこの定義で前提にした土地とは当時黎明期にあった資本主義社会で工業立地の土地のことであり、例えば住居の立地である土地は根源的消費手段であり(マルクスが杉田水脈のように子供を作ることが「生産活動」と考えていた場合は別だが~。ただ、その場合でも生殖活動が不可能な子供や高齢者にとっては土地は根源的消費手段でしかない)、また工業生産でも「消費を伴わない生産活動」はありえないし、人の手が入らない荒れ地や山岳地帯の土地は生産手段にも消費手段にもなりえない。
土地についての定義もさることながら、ひとが行う生産活動(ただし「生殖活動」は除く)は何らかの付加価値を生まなければ生産活動を行う意味そのものがないし、生産活動の発展もありえず、その「付加価値」を「剰余価値」と解釈して、だから資本家による「搾取」としたのも明らかに間違いである。
実際の経済は、いまは中国も市場経済を導入しており、資本主義国も社会主義的「計画経済」を取り入れている。日本でいえば需要の減少に伴い農家を保護しながら供給量を計画的に削減した「減反政策」など、典型的な社会主義政策そのものである。つまり「現代資本主義」も「現代社会主義」も事実上「混合経済」であり、市場経済のメリットと計画経済のメリットをうまく融合させた国が経済も成長するし国民生活も豊かになると、私は考えている。

●「プロレタリア独裁」論が共産党独裁政治の理論的基礎
マルクス自身は労働者や市民による権力奪取が資本家や貴族、大地主などの武力を伴った「反革命」によって圧殺された経緯(例えば「フランス革命」)から、革命勢力は政治権力を掌握するだけでなく軍事力も含めた絶対的権力を掌握する必要があると考えたようだが、絶対的権力を掌握した後、どう民主主義制度に移行していくべきかのプロセスについてはいっさい指針を出していない。むしろ新しい政治権力である共産党の独裁支配につながらざるを得ない「社会主義社会」「共産主義社会」についての定義を、やはり『ゴータ綱領批判』で行ってしまったのだ。マルクスとしては、取り返しのつかない大失敗であった。マルクスは「ゴート綱領批判」で社会主義社会、共産主義者下における「生産と分配」の関係を、こう定義している。
「社会主義社会においては、人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」
「共産主義社会においては、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」
話がちょっとずれるが、日米貿易摩擦の後、アメリカに進出した自動車メーカーやコンピュータメーカーの「アメリカにおける日本型経営」の実態を取材するため私が訪米したとき、現地の日本人経営者や幹部から日米の雇用関係の違いから生じる「人材育成のむずかしさ」をいやというほど聞かされた。アメリカでは人事権を直属の上司(ボス)が握っているため、自分より能力がある部下に絶対的忠誠を求める習性があるというのである。そのため能力のある部下が自分に逆らおうとしたら、たちまち有能な部下をクビにしてしまう。もちろん、その上司にも上司がいるわけだから、孫部下の能力を高く評価した場合は直属の部下をクビにして孫部下を出世させることもしばしばある。どこかの国の人事制度とそっくりではないか。
この訪米取材が先だったか、映画が先だったかは覚えていないが、マイケル・ダグラスの主演映画『ディスクロージャー』を彷彿させるケースがままあるというのだ。映画のストーリーをウィキペディアから引用する。

シアトルのハイテク企業の重役トム・サンダース(マイケル・ダグラス)は、今までの業績から昇進はほぼ確実と思われていた。だが、そのポストに就いたのは彼ではなく、本社から新たにやってきた女性メレディス・ジョンソン(デミ・ムーア)だった。実は彼女とトムは10年前に激しく愛し合った仲で、彼はこの事実に衝撃を受けるのだった。その夜、メレディスのオフィスに呼び出されたトムは、次第に彼女に誘惑されていくが、彼はこの誘いを拒否し、その場を去るのだった。しかし、次の朝、事態は急変してしまう。なんと彼がメレディスに対して、セクハラを行ったという訴えがあがっていたのだ。しかも、この訴えを起こしたのは、他でもないメレディス自身だった。会社での高いポストと、女性という立場を利用した彼女の攻撃によって、トムは仕事も家庭を失いそうになる。

ハリウッド映画らしく、その後ドンデン返しがあるのだが、実は資本主義の権化のようなアメリカでの上下関係は、共産圏の権力機構における上下関係とそっくりなのだ。直属の上司に逆らったら「おしまい」という封建時代を思わせるような人事権の「鉄のピラミッド」規律がアメリカでも共産圏でも構築されているのだ。日本共産党でも、「野坂→宮本→不破→志位」というピラミッドの頂点が絶対崩れない仕組みはマルクスがつくってしまったと言える。その理論的根拠はマルクスの「社会主義社会」「共産主義社会」における「生産と分配」の定義に集約されているからだ。
確かに「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」とか「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という「生産と分配」の制度そのものは、もし本当に公平に実現されるのであれば理想的であることは私も認めないわけではない。共産主義社会における「必要に応じて受け取る」は別とすれば、「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」制度は資本主義社会における企業経営者にとってもきわめて合理的であり理想的な制度といえる。
だいいち、アメリカ型「同一労働同一賃金」の「生産と分配」のルールは、多民族国家だったからこそ自然に構築されたものと言える。

●「成果主義賃金制度」には含まれていなかった「同一労働同一賃金」
2014年5月、安倍内閣(当時)はアベノミクスの「第3の矢」である「成長戦略」の柱として「成果主義賃金制度」の導入を打ち出した。
当時、OECDの中でも日本の労働生産性の低さが指摘されており、無意味な長時間労働が社会問題にもなっていた。で、政府の諮問機関「産業競争力会議」(議長・安倍総理)が「労働時間ではなく、労働の成果に応じた報酬制度の確立」を提案したのである。このときはまだ、「同一労働同一賃金」は諮問に含まれておらず、野党やメディアの多くは「残業代ゼロ政策」だと批判していた。私は同月21日から3日連続のブログ『残業代ゼロ政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』でこう書いた。
「私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか、それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…」(※当時はまだ3日連続でブログを書く体力があった。いまは見る影もないが~)
大企業で成果主義賃金制度を初めて導入したのは1983年の富士通である。その後、成果主義賃金制度を導入する企業が増え始めたが、バブル崩壊によって「能力の高い従業員に、能力に見合った仕事を与え、その成果に応じて報酬を払う」という意味合いが次第に薄れ、人件費の抑制手段として企業が導入するケースが増えだした。そのため厚労省は2008年の『労働経済白書』で「企業の対応は人件費抑制的な視点に傾きがちで、労働者の満足度は長期的に低下傾向にある」と指摘したほどだ。

実は私がサラリーマンだった時代、従業員300人ほどの中小企業だったが、労働組合の初代委員長をして体を壊し(休職期間中の賃金は無税で会社が支給してくれた)、復帰後、新設の社長室(室長は社長の義弟に当たる常務)に配属されたことがある。27,8歳のころだったと思う。
そこで新商品開発プロジェクトのチェックや広告宣伝、人事や労務など、やりたいことは何でもやらせてもらった。今から考えると自分でも無茶をやったなと思うが、消耗部品の価格改定を一人で勝手にやり、数10ページにわたる価格表を勝手に印刷作成までしたことがある。いま実はつくづく思うのだが、個人としてはプリンターの使用度が非常に多い方だと思うが、消耗部品はインクである。メーカーは同一品番のインクの価格は上げにくいためか、次々にたいして機能や性能がアップするわけでもないのにプリンターの新製品を発売する。目的は消耗部品であるインクをそのたびに実質値上げすることにある。で、私は「そういうことを続けると、長い目で消費者(顧客は一般消費者ではなく工場だったが)の信頼を失う」と考え、同じ性能・機能の消耗部品の値段を統一してしまったのだ。社長にも誰にも相談せず勝手にやってしまったが、結果的にはユーザーから「これから安心して新製品に乗り換えることができる」という声が殺到し、社長から褒められたことがある。
そんな無茶をやってきた私だが、労組との賃金交渉を私が今度は会社側で行うことになった。さすがに独断で賃金交渉をまとめるわけにはいかず、社長と相談しながら交渉をまとめたが、このとき私が社長を説得して「賃上げ額については労組にできるだけ歩み寄る代償として能力主義賃金体系への移行」を労組に呑ませた。事務職や営業職が大半の本社は問題なかったが、工場の従業員の反発が大きく、交渉は難航したが、「賃金を下げることはしないし、ベースアップは維持する」という約束をして何とか交渉をまとめた。
実は、そこから先が問題だった。私は完全能力主義賃金体系を目指していたので、年齢や学歴、性別、勤続年数で自動的に決まる基本給制度を廃止し、役職手当以外の諸手当(職務に伴う諸手当・扶養手当・住宅手当・通勤手当なども含む)を本給に一本化して廃止することにした。つまり属人的要素をすべて廃止してしまうことが目的だった。
が、ここで大きな壁にぶつかった。日本では通勤手当が非課税なのだ。その一方、住宅手当は課税対象の所得になっている。ちょっと考えればすぐわかることなのだが、会社(都心にあることを前提)への通勤時間と通勤費、住宅費は逆比例の関係にある。
簡単に言えば、会社への通勤時間が30分程度の近距離に住居を構えた場合、住居費(基本的に家賃)は高くなるが、通勤費は安い。住宅手当は一律であり、通勤手当は実額である。しかも片道通勤に1時間以上かけて出社する従業員と30分で出社できる従業員の労働効率は明らかに差が出る。企業側のコストとして考えたら、会社に近いところに住居を構えてくれた従業員に対する属人的コストは安くなるし労働生産性も上がる。そうした賃金制度を導入するための税制上の大きな壁が日本にはあるのだ。
我が国労働基準法では賃金は基準内賃金と基準外賃金に区別されている。基準内賃金とは労働の対価となる賃金で残業代計算の基礎となる賃金のこと。労基法によれば「家族手当、通勤手当、その他厚労省令に定める賃金(住宅手当など)が基準外賃金に当たり、残業代の対象にならない。
私はそこで考えた。いっそ、通勤手当を一律化してしまおうと思ったのだ。通勤手当が課税対象所得に含まれるのであれば問題ないのだが、そういう方法をとると従業員に不利益になる。で、とことこ所轄の税務署に出かけて行って、税務署長と直談判した。さすがに、20代の若造が簡単に署長に会えるわけがないので、社長にアポは取ってもらった。税務署長は私の考えに真剣に耳は傾けてくれ、その合理性は認めてくれたが、通勤手当の一律支給は認めるわけには絶対に行かないとの回答。ここで私の完全能力主義賃金体系移行へのチャレンジは終わりを告げた。
アメリカの賃金体系や所得税制がどうなのかまでは私も調べようがないが、自己責任が基本のアメリカではおそらく属人的要素の基本給や諸手当はないのではないかと思う。

●成果主義賃金制で安倍晋三はマルクス主義者に転向したのか~
ちょっと私事に及びすぎた。本論に戻す。
 マルクスの社会主義社会における「生産と分配」についての定義――「人は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」。アダム・スミスやケインズもNOと言わないだろう、この定義。
が、問題は例えば、このブログを読んでくださっている方の「能力」は自分で決められますか? また自分の労働の成果に対する報酬額(働きに応じて受け取る報酬)も、あなたが自分で決めることができますか?
こうしてマルクス主義「生産と分配」方式の矛盾が爆発したのが、旧ソ連のコルホーズ(集団農業)・ソホーズ(国営農業)であり、中国の人民公社(集団農業)だった。いずれも土地の個人所有は認められなかったから、「同一(時間)労働同一賃金」制を導入したため、汗水流して一生懸命働いても、ダラダラ働いているマネをしても同じ賃金だから、労働生産性が上がるわけがない。まだ旧ソ連や中国が職業や地位に関係なく、すべて「同一労働時間同一賃金」制だったら、理想と現実が乖離したとしても、徹底した思想教育によって「労働の価値は職業・職種・地位によらず同一時間同一賃金」を徹底すれば、ひょっとしたら労働意欲が報酬目的ではなく「自己実現」にあるという考えが国民に浸透し、マルクスが本当は目指したのかもしれない公平平等な社会が実現できた可能性がないとは言えない。
たとえば習近平自身が、貧農とまでは言わないが、せめて中農や都市の平均的サラリーマン給与水準の報酬しかとらなければ、中国は発展しえない途上国として、高度な文化的生活は無理としても白黒テレビくらいは全家庭に普及する程度の生活水準に全国民が等しく達していただろうと思う。結局、マルクスが目指した社会とはそういう社会にならざるを得ないということだ。
日本共産党は、党職員の給与をマルクスの定義に応じた「時間単位一律性」を採用しているか。たとえば志位委員長の時間当たり賃金と、党本部で働いている職員の時間当たり賃金を同一にしているか。
そうではなく、「働きに応じて」が労働の成果に応じてと解釈するなら、安倍の「成果主義賃金制」と基本的な考えは変わらないということになる。むしろ「安倍総理はマルクス主義的賃金体系への転換を始めた」と高く評価すべきだった。そうでなければ共産党内の給与格差の理由の説明がつかない。
だから共産党は、「いや安倍晋三がマルクス主義的賃金制度を採用したのだ」というのであれば、「残業代ゼロ政策」は支持しなければ矛盾が生じる。例えば同じ仕事でも100の労働成果を上げるのに、Aは8時間労働で終わらせ、Bは10時間かかったとする。「同一労働同一賃金」とはAとBが働いた時間ではなく、同じ成果を上げた結果に対する対価として同一賃金にする制度だと私は考えている。だから安倍が「成果主義賃金制」を国会に持ち出した時、私は賃金体系を「欧米型同一労働同一賃金」に改めるべきだと主張したのだ。
その後、安倍は2020年3月、成果主義賃金制を「高度プロフェッショナル制度」に改め、「働き方改革」と称して「同一労働同一賃金」をベースにした「年俸制」賃金制度を導入した。ただし適用職種は高度に専門的知識を必要とし、労働の成果を労働時間を基準にするのが困難な職種(金融関係の専門職、アナリスト、コンサルタント、研究開発など)に限定した。
が、もっと重要なのは、日本型雇用・賃金体系である年功序列型(ベースアップや定期昇給)や封建時代の家族雇用形態を色濃く残した基準外賃金(家族手当・住宅手当・通勤手当)などを基本的に廃止し、純粋に労働力の対価としての賃金制度に移行するべきだった。そのためには労働基準法の抜本的改正や所得税法の改定も必要になる。そういう部分に目をつぶった、中途半端な改定にとどまったと言わざるを得ない。

●共産党が国民から警戒される本当の理由
実は国政選挙においても地方選挙においても共産党が掲げる公約・政策はかなりリベラルで、正直、私も支持できる要素が多い。
最近、特に今年9月の自民党総裁選以降、誤った理解に基づく「リベラル攻撃」がネトウヨなどから執拗に行われ、国民の意識に【リベラル=革新=左翼】というイメージがかなり浸透してしまった。
実はアメリカでも過去、【共和党=保守】【民主党=リベラル】という図式化されたイメージが形成され、共和党陣営から「民主党はリベラルだ」とレッテル張りが行われて民主党が劣勢に立たされた時期がある。
が、本来の「リベラル」は「自由主義」の代名詞であり、人々の個性や自由な発想を重視する思想で、左翼思想ではない。だから人によって「自分は保守リベラルだ」とか「革新リベラルだ」と立ち位置を明確にしているケースもあるし、私自身に関していえば「ど真ん中のリベラル」を標榜している。が、私の考え方は右寄りの人から見れば「左」に、左寄りの人から見れば「右」に見えるようだ。とくに安全保障問題に関していえば、ひとによっては「極右よりさらに右寄り」と見えるような主張もしてきた。例えば20年8月14日の『終戦から75年、私たちはあの戦争から何を学んだのか?』と題する2万字を超えるブログでは「日米安保条約を片務的なものから双務的なものに変え、日本もアメリカ防衛の義務を果たすためにアメリカに自衛隊基地をつくり、基地協定も結ばせるべきだ」と極右団体も目を回しそうな主張すらしている。実際、日本政府がアメリカにそう主張したら、アメリカが国内に自衛隊基地の設置を認めるわけがないし、そうなれば在日米軍基地の目的が日本防衛のためではなく、実はアメリカの東南アジア覇権のための軍事拠点としての意味の方が大きいことも明々白々になる。
共産党も「基地反対」は主張するが、基地問題の真相を浮き彫りにしない限り、日本は対米従属から脱して真の独立国家としての矜持ある外交を行うことが不可能だということを証明できないから、主張が「スローガン止まり」に終わり、実効性を伴う運動体を形成することができない。
私は自衛隊を「国際災害救援隊」に改組することが、現代の国際社会状況下では最大の「安全保障策」になると考えているが、共産党の「非武装中立」論は空理空論でしかないとも考えている。現に、「永世中立国」のスイスは国民皆徴兵性・国民皆武装で国を守っており、ただ「永世中立」を宣言しただけで軍事的防衛力を保持しなかったヨーロッパの小国が過去、他国に蹂躙された歴史的事実も無視しているからだ。
国民の多くは、共産党のリベラルな主張の部分についてはおそらく支持できる要素を感じていると思うが、そうしたリベラルな主張が共産党の場合「赤ずきんちゃん」ではないかとかえって警戒されるのは、最終的には共産党の独裁権力をつくろうとしているのではないかという危惧を捨てきれないからだ。
 共産党が、独裁政権を意味する「共産主義革命」路線を放棄しない限り、共産党が多くの国民の支持を得ることは不可能と思われる。


財務省・矢野事務次官の「国家財政破綻」論を論理的に検証した。

2021-11-02 08:23:47 | Weblog
【緊急追記】 岸田政府はアベノミクス離れを始めたのか? 日銀・黒田は?(10日)
米FRB(アメリカの中央銀行、日本の日銀に相当)が景気過熱を懸念して金融引き締めを模索しているなかで、依然としてマイナス金利政策と続ける日銀・黒田総裁。本来、アメリカが金融引き締め(政策金利の上昇)すれば日米の金利差が大きくなるため一段と円安が加速するはずなのだが、逆に先週から急速な円高に向かいつつある。なお10月下旬、円は1ドル=114円台後半と3年11か月ぶりの安値に下落している。
日本経済新聞のネット配信(9日)によれば、日銀・黒田東彦総裁と岸田新内閣の鈴木俊一財務相のあいだに為替相場についての認識のずれが生じ始めたようだ。果たして岸田総理の「新しい資本主義」(新自由主義からの脱皮?)が、円安誘導を政府と日銀が二人三脚で進めてきたアベノミクス金融政策からの転換を始めたのだろうか~。
ただ、二人の記者会見の日時に若干のずれがある。そのことを前提に二人の認識を日経即は維新から引用する。

黒田(10月28日)「現時点で、若干の円安だが、悪い円安ということはない。むしろ、輸出への影響や海外子会社の収益の増加などを通じてプラスの効果がある。総合的に見てプラスであることは確実だ。
鈴木(11月2日)「私の発言が至上への影響を与えてはいけないので、足元の為替水準などについてコメントは差し控えたい。為替が安定することが重要。為替市場の動向をしっかり注視していきたい」

なお日経配信では不明だが、アベノミクスによる円安誘導で自動車や電機など輸出産業の収益は大幅に良化したが、輸出の量的拡大はどうだったのか。その検証は本文で行ったが(数字的裏付けが不十分であることは認める)、任天堂やソニーなどゲーム機メーカーは輸出増大と円安によるダブル・プレゼントにありつけたと思うが、それらの一部輸出商品以外は輸出の量的拡大はほとんどなかったのではないか。
アメリカの前大統領・トランプ氏は鉄鋼・アルミ製品や自動車の輸入に高率関税をかけて国内産業の競争力回復を目指したが、GMは5工場(うちカナダが1工場)を閉鎖して生産量を縮小した。輸入部品が高騰したせいもあるが、アメリカの自動車マーケット自体が縮小しつつあるためと考えられる。
先進国や発展途上国は軒並み人口減少時代に突入しているうえ、自動車や家電製品のマーケットは飽和状態に達し、買い替え需要にマーケットは限定されつつある。
しかも、これらの製品は技術革新によって買い替えサイクルの寿命が延び、日本では若い人たちの自動車離れも生じている。需要が伸びないのに円安誘導で自動車や電気製品の国際競争力を回復させようとしても、メーカーはおいそれと設備投資をして生産拡大に走ろうとはせず、むしろ輸出価格を据え置いて生産量を維持し、為替差益だけちゃっかりため込むという戦略に出たのではないか。
その一方、円安は輸入製品の価格上昇によって消費者物価は高騰するはずなのだが、輸入品が為替相場を反映すると消費者の購買意欲を冷え込ませるだけということもあって、海外ブランド品などは輸出ダンピングに走り消費者物価はほとんど上昇しなかった。かつてプラザ合意で日独英仏がドル安協調介入を行い、わずか2年間で円は倍に上昇したが、海外ブランド品は日本への輸出価格をほとんど引き下げなかった。そのとき海外ブランドメーカーは「日本では価格が高いことがステータス・シンボルになり、価格を下げるとかえって売れなくなる」という奇妙な論理でがっぽり為替差益を稼いだ。
日本政府は一貫して大企業の育成を経済成長の基本政策にしてきたが、そういう時代は終焉しつつあるのではないか。岸田政府の「新しい資本主義」経済政策が「ものづくり」至上主義からの脱皮による新しい市場価値の創造に向かうのかどうかが今後問われていく。


矢野康治・財務事務次官が月刊誌『文藝春秋』(11月号)に寄稿した論文『財務次官、モノ申す「このままでは国家財政が破綻する」』が話題を呼んでいる。「よくぞ警鐘を鳴らしてくれた」と高く評価する人がいる一方、MMT(現代貨幣理論)論者とみられる人たちからは「自国通貨を発行できる国は財政破綻しない」という批判も多く寄せられている。
財務次官という立場にある人が自論を一般雑誌に寄稿することの是非は置いておいて、外野席からこの問題を論理的に考えてみた。日本人は「権威」とやらに弱く、経済学の権威でも何でもない私の問題提起など見向きもされないかもしれないが、それはそれで構わない。知識に頼るのではなく、論理思考を武器にすれば、これだけの論陣を張れる。

●「新自由主義」というおかしな用語
いきなりだが、ちょっと本題から外れる。
岸田氏が自民党総裁選に臨んだとき、「小泉政権以来の新自由主義からの脱皮」というスローガンを掲げた。確かに新自由主義(新保守主義とも)という言葉は定着して使われているが、私はずって用語法として間違っていると思っていた。この言葉から受けるイメージは思想的であって、経済政策の用語としては不適切だからだ。私は「新自由競争主義」とするべきと考えている。で、私の用語を使って以下、書く。
資本主義経済原理を初めて体系化したのはアダム・スミスである。スミスの思想は「自由放任主義」とも言われ、経済活動に対する政府の関与は可能な限り小さくして「(神の)見えざる手」に委ねるべきだというもの。需要が供給を上回ればインフレになるし、逆に供給が需要を上回ればデフレになる。市場原理に任せておけば、自然にバランスが取れるようになるという超楽観主義の経済思想だ。言うなら、この思想が「古典的自由競争主義」である。
が、実際の市場はそれほど冷静ではない。需給関係は政府がコントロールすべきと主張したのがマルクスの計画経済論。経済活動の自由度を完全否定した(ここでは政治思想としてのマルクス主義は問わない)。
このマルクスの経済思想を資本主義経済理論に取り込んだのが、実はケインズ理論である。スミスの「振り子の原理」的経済政策では競争が行き過ぎる欠陥がある(デフレ不況や悪性インフレ、スタグフレーションの要因の一つ)ため、とくに不況時には政府が公共工事など財政出動して雇用を確保し、需給バランスを調整するという考えだ。
実はケインズ理論は不況対策としての経済政策論だが、マクロ経済理論としてはたぶん誰も主張した人はいないようだが(私の不勉強のせいで私が知らないだけかもしれない)、巨大な資本投下が必要な大規模交通インフラ(鉄道や道路など)や通信インフラ、電力インフラ、上下水道などの生活インフラは一民間企業の手におえるものではなく、政府が主導するケースが資本主義国でも多い。言うなら「国家独占資本主義形態」と言えなくもない。そして高度に発展した先進国では、この「親方日の丸」体質の温存が経営の非効率化を生み、「新自由競争主義」の考えが生まれる。つまり民営化理論である。
その走りは英サッチャーと言われているが(サッチャリズム)、実は鄧小平の「改革開放」政策(1978~)の方が一歩早かった。「富める者から先に富み、そのお裾分けを広げる」という、計画経済から市場経済へと大きく舵を切った経済政策である。なんと岸田総理の「成長の果実を分配に」「成長と分配の好循環」とそっくりな経済政策ではないか。
サッチャーが国営企業だった水道、電気、ガス、通信、鉄道、航空などを数年かけて次々に民営化し、いわゆる「英国病」を脱し、民間活力を経済政策の軸足にしたのは1979年以降だ。日本では中曽根康弘(元総理)が1985~87にかけて日本専売公社、電電公社、国鉄を次々に民営化して経営の効率化を進めたのが「新自由競争主義」の幕開けである。そういう意味では岸田総理の「小泉政権以来の」という歴史認識は完全な間違い。
ついでに小泉「郵政民営化」は結果的に大失敗だった。

●小泉「郵政民営化」はなぜ日本郵便の詐欺商法を生んだのか~
小泉郵政改革が実現したのは2007年。郵便事業がすべて民営化され、持ち株会社の日本郵政のもとに日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の子会社3社が発足した。もともと銀行業務や生保業務は民間と激しく競争していたから民営化による特段のメリットが生まれるわけではない。むしろ民営化したことで、利用者からすると安心感が失われた分、競争力が低下したはずだ。
問題は郵便事業である。小泉内閣は民間企業の参入についてユニバーサル・サービスを義務付けるなど、かなり厳しい参入条件を付けた。そのため民間からの参入はなかった。ゆいつヤマト運輸がコンビニを郵便局代わりに使うというアイデアで参入したが(メール便)、配達でトラブルが頻発した。ネット・オークションで一番扱いが多い商品券や株主優待券、割引券などの金券類の発送にメール便を利用する出品者が急増したのである。普通郵便の場合、発送記録がないため発送記録が残り配送追跡も可能なメール便は出品者にとって極めて便利な発送手段になったのだ。
が、金券類の発送に出品者が薄い茶封筒を使うなど、1円でも儲けようという心理が働くのか、郵便局の責任者に聞いたところでは封筒の手触りだけで中身がほぼわかるというのだ。そのうえ、ヤマトの配達人(ヤマト運輸の社員ではなく請負の個人事業者)は都市部にしか存在しない。過疎地への配達は郵便局に丸投げしているようだ。
そういうこともあって金券類の未着トラブルが頻発し、ヤマト運輸はメール便事業から手を引かざるを得なくなった。結局、はがきや手紙などの郵便物の独占状態に変化は生じず、民間活力を生かすという小泉構想は看板倒れというか、「絵に描いた餅」に終わってしまった。銀行業務や生保業務はもともと民間との激しい競争下にあったから。
それだけに止まっていれば、大きな問題にはならなかったが、日本郵便にとってとんでもない競争相手が異次元の世界から登場した。携帯電話(スマホ)である。日本ではすでに1999年にNTTドコモがiモードを発売、携帯電話によるインタネット接続が可能になっていたが、通話料金が高いなどの問題で広く普及するまでには至らなかった。
が、郵政民営化の翌年08年にアップルのiPhoneが日本上陸を果たし、グーグルがアンドロイド・スマホで参入、NTTドコモだけでなくKDDIのauやソフトバンクも携帯市場に参入、大手3社の通信帯を借りる格安スマホ会社が乱立、楽天も自前で基地局を持つ第4の携帯大手に名乗りを上げるなど、はがきや手紙に代わる手段としてメールが台頭するようになった。その結果、郵便物市場が縮小し、郵便局の多くが赤字経営に陥った。
郵便物の集配事業は典型的な労働集約型産業であり、事業収益は人件費のピンハネに依存するしかない。が、労働集約型産業の人件費は3K労働ということもあって高騰し続けた。一方、はがきや手紙の料金は監督官庁の総務省に抑え込まれ、扱い量もメールの普及によって減少の一途をたどる。人手不足を理由に宅配料金は数年前、大幅に値上げされたが、はがきや手紙の料金は値上げを総務省が認めなかった。バカか~
そういう状況下で、日本郵便が赤字の穴埋めとしてかんぽ商品を、特に高齢者向けに「オレオレ詐欺」まがいの商法に走ったのは、別に肯定するわけではないが、やむを得ない「正当防衛」手段だったと言えなくもない。
少なくとも郵便事業を民営化するのであれば、経営の自由度も高めてやらないと、手足を縛って「さあ、相撲を取れ」と言うに等しいと言わざるを得ない。固定電話料金みたいに距離制料金制度にするわけにもいかないのだから、はがき代や切手代の値上げや、大都市以外の集配制度の自由度を認めるとかしないと経営が成り立たなくなるのは当たり前だ。具体的方法としては人口密度に応じて地域ごとに集配を週に1~5回に区分けすることができれば、全国2万4395局もある郵便局(簡易郵便局4241局を含む)を統廃合によって半分以下に縮小できるだろう(郵便局数は17年度末)。
現に、中曽根・国鉄民営化ではJRにかなりの経営自由度を認めた。過疎地の赤字路線の撤廃や第3セクター化などで黒字経営体質への移行を容認した。それに比べれば小泉・郵政民営化は極端な言い方をすれば「角を矯めて牛を殺す」ような改革だった。

●「新自由主義競争主義」からの脱皮政策で真っ先に行うべきこと
岸田総理が「小泉内閣以来の~」と中曽根・民営化路線と切り離してスローガン化したのは、たぶん日本郵便の経営の自由度を容認するつもりではないかと思っているが、それ以外にどうしても実現してもらいたいことがある。
その一つはパソコンとスマホの共通化である。私は高齢で細かい字が読みづらくなって来たため、新聞などの活字媒体はほとんど読まない。デジタル新聞は購読しているが、スマホでも読めないことはないが、文字をかなり拡大する必要があり、そうなると読みづらくて仕方がない。しかも私のブログはかなり長文だし、書いているのはブログだけではないからスマホで長文の文章を入力するのは自殺行為になってしまう。そのため私はスマホをほぼ「かけ放題」の電話機としてしか使っていない。だからデータ容量は最低の0.5ギガにして基本料金を抑えてはいるが、それでもパソコンとスマホのプロバイダー料を別々に支払っている。なんとなくバカバカしい思いがしてならない。
私が考えているのは、イメージとして昔のワープロとスマホをUSBケーブルでつなぐような方法だ。つまり、インターネットへのアクセスはスマホで行い、その画面はパソコンのディスプレーで見る。つまりスマホで取り込んだ映像をパソコンの大画面で見る。その逆に入力作業はパソコンで行い(パソコン用キーボードを使う)、パソコン画面で推敲してからデータをスマホに移して発信する。パソコンにかかる電話回線使用料やプロバイダ料、Wi-Fiレンタル料などが一切不要になる。その程度のこと、大げさな技術革新など必要ないと思うが…。
次にスマホの6G時代に向けて民間携帯会社が別々に基地局を設置するといった無駄な投資をやめて、政府が一元的に基地局を全国に網羅してプラットホーム・ビジネス化する。つまり一つの基地局網を携帯各社が平等・公平に利用できるようにする。たとえば地デジテレビ放送用のスカイツリーのようなイメージで考えてほしい。テレビ電波の場合は放送各局に電波帯域を割り当てざるを得ないが、スマホ用の場合は携帯電話事業者に電波帯域を割り当てる必要はまったくない。基地局をプラットホーム化すれば、携帯料金は大幅に安くなる。携帯事業者もいろいろなプランを考えて公平な競争条件を活用できるようになる。例えば電気料金のように、夜料金と昼料金に分けることも出来るし、もっときめ細かく時間帯によって使用できるデータ容量を変動制にしたりする会社も現れそうだ。
とくにインフラ事業は民間に丸投げすることだけが効率化するとは限らない。インフラは官が設置し、その運用は民間に委ねることも考えていい。プラットホーム基地局についていえば、官が一元的に設置した後は、JR方式のように全国を6~8くらいの地域別に運営を民間企業に任せてサービス競争させることも考えられる。「新自由競争主義」からの脱皮という以上、官でなければ不可能な巨大インフラ投資は官が行った方が効率的なケースもあるということだ。

●PB(プライマリー・バランス)は緊縮財政の代名詞ではない
そろそろ本論に戻る。矢野次官は論文でこう主張している。
「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
 日本政府が抱える債務の巨大さを氷山にたとえるのは多少違和感がある。私の感覚では東日本大震災の前夜の状況と言いたい。08年、国の研究機関は調査・研究の結果として、東電に対し「福島第1原発には15メートル超の巨大津波が押し寄せるリスク」を警告していた。もちろん、そのリスクがいつ現実化するかは誰にもわからない。東電はリスクを承知していながら対策を先延ばしにしてきて、そして09年3月11日を迎えた。
矢野論文は3.11リスクの警告を発したもの、と私は理解している。矢野次官は論文の冒頭で、「やむに已まれぬ気持ち」をこう吐露している。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」(中略)「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」(中略)「財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」
私は涙もろいせいもあるが、涙失くして読めなかった。現在、国の長期債務は973兆円、地方の債務を合わせると1166兆円に達している。コロナ対策費がどんどん出ていく今年度末の債務残高は確実に1200兆円を超えるとみられている。これは国の借金である。国債には償還期限があり、期限が来ると返さなければならない。
「いや、国債の償還分を新たな国債の発行で賄えばいい。日本は自国通貨をいくらでも発行できるから、いくら国債を発行してもデフォルト(財政破綻)に陥る心配はない」という反論も実際に生じている。本当にそうか。
が、こうした考え方が徐々に日本のマクロ経済学者の間でも広まりつつある。MMT(現代貨幣理論)という新マクロ経済論だが、簡単に言ってしまえば「自転車操業財政論」である。そんな自転車操業が永遠に続くとは、MMT論者も主張しておらず、「インフレが悪化し始めたら国債発行を止めればいい」と言うが、ではそのとき未償還の国債はどうする。まさか「徳政令」や「棄捐令」を発令して借金をチャラにしろなどと無茶は言うまい。
PB(プライマリー・バランス)主義は別に緊縮財政の代名詞ではなく、財政の健全化つまり「入るを図りて出を制す」という健全財政論である。

●MMT(現代貨幣理論)の欺瞞性を暴く
MMTの主な主張は次の3点からなる。
1. 自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行にはならない。
2. ただし、政府は過度のインフレが生じない範囲に財政赤字をとどめよ。
3. 税は財源ではなく、通貨を流通させる仕組みである。
いずれも従来の経済学の常識を根底から覆すようなショッキングな説である。この説に正当性があるならば、私たちは年金問題に苦しむ必要はないことになる。いま日本だけでなく世界の先進国や途上国の一部は人類がかつて経験したことがない「少子高齢化」と「人口減少問題」に直面している。
実は「少子化」と「高齢化」はまったく別の現象で、たまたま同時期に生じた「二つ玉低気圧」のような現象である。少子化とは合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が人口維持の基準とされている2.1を下回る現象。日本の場合、1.36(19年)と、基準をはるかに下回っている。一方、高齢化は高齢者の健康志向や生活様式(食生活も含む)、医療技術の進歩などによって平均寿命が延び、少子化と重なって人口構成に占める高齢者比率が高まっている現象。一般に全人口に占める65歳以上の高齢者比率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と区分けされているようだが、日本の場合、すでに高齢化率は28.4%(19年)に達しており、25年には30%、60年には40%に達するとみられている。
で、当然ながら年金問題が浮上した。従来、年金制度は現役世代の平均賃金や物価の変動に応じて支給額を調整することを原則としていたが、少子化による現役世代(生産人口=労働人口)が減少し、高齢者の年金制度を支えきれなくなってきた。で、年金制度を維持することを目的に導入されたのが「マクロ経済スライド」方式。計算方式はややこしいので説明を省くが、要するに年金制度を維持するために現役世代が負担できる範囲に支給額をとどめようという仕組み。言うなら年金制度のPB版というわけだ。
もしPBを無視していくらでも赤字国債を発行できるのなら、別に現役世代の年金負担を増やさなくても従来の年金支給制度を維持できるはず。なぜMMT論者は年金制度のマクロ経済スライド方式に噛み付かないのか~
そもそもMMTの根本的間違いは、「自国通貨の発行権」は政府ではなく中央銀行が持っていることを無視して、中央銀行を政府機関と思い込んでいることにある。日本の場合、確かに貨幣の製造は財務省造幣局が行っているが、財務省(政府機関)が勝手に貨幣を発行できるわけではない。たまたま日本の場合、日銀の黒田総裁が安倍氏と二人三脚で消費者物価2%上昇を目指し、そのために大胆な金融緩和策(「黒田バズーカ砲」の異名が付けられた)を発動してきたため、いつまでも無制限に日銀が赤字国債を買い入れることができると錯覚した経済学者たちが多かっただけのこと。
次に「悪性インフレになったら赤字国債の発行をストップすればいい」という手前勝手な主張だが、すでに述べたように既発行の国債は期限が来たら償還しなければならない。現に今でも歳出の22%強は既発赤字国債の償還に充てられている。
もちろんその償還が税収から行われているのであれば、いつかは国の債務は解消する。が、実際には赤字国債の償還のための原資は、新たな赤字国債の発行によって賄われているのが現実であり、しかも償還分だけでなく更なる積極財政の名のもとに発行額がどんどん増えていっている。
矢野次官はそういう状態を「ワニの口」にたとえる。ワニの口は「<字型」に開いている。「ワニの口は塞がなければならない」という小見出しを付けてこう説明する。
「歳出と歳入(税収)の推移を示した2つの折れ線グラフは、私が平成10年ころに“ワニの口”と省内で俗称したのが始まりですが、その後、四半世紀ほど経ってもなお、『開いた口がふさがらない』状態が延々と続いています」。つまり歳入と歳出の差が<字型にどんどん開く一方になっていっている(国の借金が増え続けていること)と言うのだ。「ですから『経済成長だけで財政健全化』できれば、それに越したことはありませんが、それは夢物語であり幻想です」「これまでリーマン・ショック、東日本大震災、コロナ禍と十数年に2度も3度も大きな国難に見舞われたのですから、『平時は黒字にして、有事に備える』という良識と危機意識を国民全体が共有する必要があり、歳出・歳入両面の構造的な改革が不可欠です」
矢野次官の「財政健全化」論は言うなら「財政安保」論と言い換えてもいいと思う。我が国自衛隊は、平時は自然災害などへの対応で済むが、万が一の有事への備えが本来の目的である。日本政府は「経済成長」を旗印に赤字国債を乱発しているが、いつまでも「自転車操業」ができるわけではなく、既発国債を償還できなくなれば、たちまち国家財政はデフォルト(債務不履行=財政破綻)に陥る。MMT論者は赤字国債の発行をストップしたとたん既発国債の償還が不可能になるという冷酷な現実が分かっているのか~。
最後に「税収は財源ではなく、通貨を流通させる仕組み」というおかしな定義について。まったく意味不明である。税収は歳入の基本であり、社会福祉や公共サービスなどに費消される。しかし個人や企業は収入のすべてを税金として国や地方自治体に収めているわけではない。そういう考え方がないではないが、その場合は国が国民生活や企業の生産活動に必要な金を税収から分配しなければならない。マルクス思想に近いが、MMTは先進資本主義国を前提にしている。であれば、「通貨を流通させる仕組み」は個人や企業が税金を納めた残りの可処分所得を決済手段として使うためのものだ。結果的に税収は社会福祉や公共サービスに費消されるから、税金としての通貨による歳入は、その費消手段でもあるが、それは結果解釈の一部に過ぎない。
それに、サウジアラビア、クウェート、カタール、ドバイ、バーレーン、オマーンなど中東の産油国には個人所得税がない国もある。そういう国では、MMTによれば通貨は流通しないことになる。奇をてらっての新定義かは知らぬが、MMTは説明すべきだ。
まだある。貨幣(通貨)には国内では売買の決済手段としての機能を持つが、自国通貨の交換価値は為替相場で決められるという事実をMMTはまったく無視している。つまり変動相場制のもとでは通貨は「商品」として売買の対象になっており、「円」の商品価値が為替市場で暴落したら、そのとき日本財政は東日本大震災に直撃されることになる(矢野氏に言わせれば氷山への激突)。前もってその兆候が分かれば手の打ちようもあるかもしれないが、1929年の世界大恐慌にしても、最近のケースではギリシャのデフォルトにしても予兆なんか何もなかった。ある朝、突然生じるのである。バブルの崩壊は一瞬ではなかったが、デフォルトは一瞬にして生じる。円に対する信用が為替市場で失われた瞬間、投資ファンドが一斉に円を売り浴びせ収拾がつかなくなる。為替市場では「通貨は決済手段ではなく取引対象の商品(ただし使用価値のない商品)」であり、現実社会における通貨の交換価値を決定的に左右しているという事実にMMTは完全に目を背けている。

●もはや経済成長の時代は終焉した。
失われた30年のきっかけとなったバブル崩壊は、不動産バブルを一気に弾けさせるため大蔵省(当時)が「総量規制」によって銀行の無謀とも言える不動産関連融資に歯止めをかけ、日銀はバブル経済を支えた澄田総裁のもとでの金融緩和を一気に引き締めに転じるという、「軟着陸」ではなく「強制胴体着陸」を行ったことでバブルを一気に弾かせた。自称「経済評論家」の佐高信氏は金融政策を転換した日銀・三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、その評価についての説明責任はいまだ果たしていない。
以降、一時的なミニ・バブルがIT関連で生じたこともあったが、ほぼ日本経済は停滞状態が続いている。安倍元総理はアベノミクスの成果の一つとして株価上昇を挙げたが、官製相場による効果といった方が正確だ。日銀が景気浮揚策の一環として株式や投信を大量購入し、年金機構も日銀・官製相場に便乗して株式市場で資金運用を強めた結果の株価上昇だからだ。だから日銀も年金機構も帳簿上では含み益が巨大化しているが、現実に利益として確定するには所有している株式や投信を売却しなければならない。
あまりにも大量に保有しすぎているため日銀や年金機構が直接株式市場で保有株や投信を一部でも売却すると雪崩現象のような暴落が生じかねない。それを防ぐためには場外で第3者に少しずつ保有株や投信を譲渡し、第3者が株式市場で売却するという手法を取るしかないだろう。
それはともかく、政府が赤字国債を大量に発行し、日銀が「いくらでも買う」と言っていながら金利が上昇しない。中央銀行が民間の金融機関に資金を貸し出す際の政策金利(日本では公定歩合と呼ぶ)とは別に、市場で売買される長期国債の価格変動による長短市中金利がある。すでに欧米先進国ではコロナ禍後の経済復興を見越して市中金利は少しずつ上昇しており、アメリカの中央銀行FRBのパウエル議長も政策金利の上昇を視野に入れつつある。が、日本の黒田・日銀総裁は金利引き上げなど眼中にないかのようだ。10月28日も定例の記者会見で黒田総裁は金融緩和を続けると発表した。アホか~
が、日銀がいくら金融緩和策を継続しても資金需要は生じない。すでに民間にはお金がだぶついている。コロナ禍で職を失った非正規社員や営業不振に陥った飲食業や旅行関連産業には資金需要があるが、日本の金融機関はよく言われるように「晴れの日に傘を貸したがり、雨が降り出すと傘を取り上げる」という「ユダヤの商人」根性をしっかり持っているから、資金需要がある先への融資基準はかなり厳しい。
結果として内部留保で資金がだぶついている大企業や富裕層には資金需要がないから、日銀が政策金利を引き上げたら金融機関への預貯金が殺到し、中小金融機関の経営が行き詰まってしまう。
そもそも安倍政権時代、何とかデフレ不況から脱却して経済を再び成長路線に戻そうと、日銀・黒田総裁と二人三脚で金融緩和をしたが、一向に消費者物価は上昇しない。安倍政権下で消費税を5%上昇させたにもかかわらず、消費者物価は増税分すら上昇していない。少なくともアベノミクスではデフレ脱却は不可能だったことがもはや歴然としている。
日本ではGDP(国内総生産)の55~60%は個人消費が占めるとされている。が、少子高齢化で消費活動の中核となるべき現役世代の消費志向がいま完全に萎えているのだ。
前回のブログで書いたが、金融庁が19年6月、夫65歳、妻60歳で年金生活に入った場合、年金収入だけでは生活資金が不足するという試算を公表した。不足額は月5.5万円として余命20年の場合は1320万円、余命30年の場合は1980万円の貯えが必要というのが試算結果だった。いわゆる「老後生活2000万円」問題だ。
実はこの試算方法そのものがめちゃくちゃなのだが、確かに定年退職後の数年間は現役時代の同僚や友人との交際も続くだろうし、夫婦「水入らず旅行」などで家計の出費は年金収入ではそのくらい不足するかもしれない。が、そんな生活をいつまでも続けられるわけがない。年を重ねるごとに行動範囲も狭くなり、カネを使う機会も減少する。増え続ける医療費を考慮に入れても年々出費は減り続け、個人差はあるにせよ夫75歳、妻70歳前後で家計は黒字化するはずだ。麻生財務相は、金融庁のこの報告の受け取りを拒否したが、現役世代が老後生活のためにますますカネを使わなくなることを恐れてのことだけだ。
ただし金融庁の調査報告は19年6月であり、国民の貯蓄性向はそれより早くから進んでいた。その理由は少子化傾向が明らかになりだしたころから、若い人たちの実感として「将来年金生活に入ったとき、年金だけでは食べていけなくなる」という認識が広まっていったことにある。私も含めて今の高齢者は子供たちに生活の世話になろうとは思っていないし、また子供たちも「遺産なんか残してくれなくてもいいから、私たちを当てにしないでね」とはっきり言う。核家族化の進行とともに親子のきずなもだんだん細くなっていくのはやむを得ないことだ。「老々介護」の悲劇は増すばかりだ。
そのうえ、もっと厳しい問題に日本経済は直面している。岸田氏が自民党総裁選で「宏池会」の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」をもじって「令和版所得倍増計画」をぶち上げたが、自民党内部から「時代環境が違いすぎる」と猛反発を食い、総選挙ではこのアドバルーンを引っ込めてしまった。
日本で貯蓄性向が高まったのは将来への不安だけでなく、消費マインドを刺激するような商品が高度経済成長期以降の約半世紀ほとんど出現していないことにもよる。実際戦後日本の奇跡的な経済回復は、吉田茂氏による「傾斜生産方式」で近代産業力の回復を最優先したことで朝鮮戦争特需にありつけ、「3種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が庶民の消費マインドを刺激、経済成長の原動力になった。さらに「3C」(カー、クーラー、カラーテレビ)が庶民の手が届くようになって消費マインドを刺激し、日本は高度経済成長時代を謳歌した。
さらに重要だったことは当時の所得税制が超累進課税のシャウプ税制により世界で最も所得格差の少ない国になったこともあって、「1億総中流意識」が醸成されて、それが巨大な需要を生み出したことも忘れてはならない。
その高度経済成長時代と比較すると、なぜ日本経済の停滞が生じたのか、目に見えるようだ。従業員の年収は過去30年間ほとんど横ばい状態で、可処分所得が増えない状態が長く続いている。また若い人の大都市集中で、まず自動車が若い人たちの消費マインドを刺激しなくなった。
若者の自動車離れの傾向が明らかになったのは2000年代初頭だが、自動車所有がもはやステータス・シンボルではなくなったこと、自動車は所有するものではなく利用するものという認識が浸透してレンタルやカー・シェア市場が急速に伸びたことが理由の一つと言えるだろう。また大都市部は電車・地下鉄・バスといった公共交通機関インフラが充実し、移動に要する時間が読めない車より公共交通機関の方が移動手段としての利便性の高さに対する認識が広まったことなどがある。
他の電気製品も技術の進歩で耐久年数が伸び、買い替え需要のサイクルも長くなり、それも経済活動の足を引っ張っている。
そう考えていくと、この半世紀の間、新しい市場が生まれたのはテレビ・ゲームと携帯電話くらいしかないのではないか。まさかドローンが家庭に普及するなどと考えるバカはいまい。アベノミクスで円安誘導して自動車や家電製品の国際競争力を回復しても、少子化現象で国内市場の伸びが期待できないため、メーカーはリスクの大きい設備投資にはなかなか踏み切れない。設備投資意欲を刺激しようと政府は躍起になっているが、為替の動向をもろに受ける輸出に大きな期待をかけるのはリスクが大きすぎると、メーカーは二の足を踏まざるを得ない。
さらにメーカーを消極的にさせているのは日本独特の「年功序列・終身雇用」という雇用形態の壁だ。コロナ禍前は派遣社員や定年退職後の再雇用などの非正規社員の占める割合が40%と高くなったが、残りの60%を占める正規社員は日本では簡単に会社都合でのレイオフが難しい。そこがドライな雇用関係の欧米との大きなハンデになっており、政府が与えてくれた程度の飴玉では容易に踊り出すわけにいかないのだ。
具体例で明らかにする。トランプ前大統領がTPPから離脱して保護主義に転じ、自動車や鉄鋼・アルミ製品などに25%という高率関税を課して自国産業保護政策を打ち出したのに、GMは国内4工場を閉鎖、従業員をレイオフした。トランプは「お前たちのために保護政策に転じてやったのに、工場を閉鎖して従業員をレイオフするとは何事か」と怒り狂ったが、GMの1現場作業員からスタートして初代女性CEOに昇り詰めたメアリー・パーラは涼しい顔でこう反論した。
「輸入自動車との競争は有利になりましたが、原材料や部品の輸入価格高騰で生産コストも大幅にアップしました。その分を販売価格に上乗せすると、一般のアメリカ人購買力の限界を超えてしまうため、工場を閉鎖したということです」
実は安倍氏も国内市場の回復の難しさはわかっていたようだ。デフレとかインフレは需要と供給の関係で決まる。民主党政権時代、円高なのになぜデフレ不況になったのか。円高であれば輸入製品価格は下落する。原材料や部品を輸入に頼っているメーカーは生産コストが軽減し、小売価格も安くなってデフレ現象を生じる。消費者にとっては消費マインドが刺激されて需要が喚起されれば、スミスの「(神の)見えざる手」が機能して需給バランスが回復し、デフレ不況からの脱却ができたはず。
ところが、先に述べた理由で国内需要は増えない。そこで安倍氏は円安誘導して自動車や電気製品の国際競争力の回復を図り、それなりに自動車メーカーや電機メーカーは増収増益の決算になった。が、海外市場にも少子化の波が押し寄せており、マーケットの拡大は望めない。だからメーカーは輸出価格をほとんど下げず(輸出価格を下げると需要が急増してリスクの大きい生産増強策を取らざるを得なくなるため)、為替差益をがっぽり貯め込むという戦略に打って出たというわけだ。
その反面、当然ながら円安誘導すれば輸入品の価格は高騰する。当然、庶民の消費マインドは冷え込む。安倍氏は毎年のように経済団体と「官製春闘」を行い、企業もベースアップを復活するなど、正規社員の給与は増やしたが、そのため非正規社員との所得格差はさらに広がった。庶民の消費マインドはますます冷え込み、目標としてきた消費者物価2%上昇は遠のくばかりだ。
そもそも「成長神話」なるものは、浦島太郎の「玉手箱」のようなもの。経済成長できる要素は何ひとつとして、いまはない。そういう時代こそ、絶対手にすることが出ない「成長の果実」を求める「バラマキ」政策をストップして債務残高を減らすべきなのだ。いずれ、市場未開拓のアフリカや中南米の諸国に成長市場が形成されるかもしれない。20年かかるか、30年かかるか、あるいはもっとかかるかもしれないが、それまでは苦難の道を歩み続ける覚悟が政府には必要だ。

小林紀興(のりおき)
TEL 045-902-8372
メール norioki1029@yahoo.co.jp
ブログURL  blog.goo.ne.jp > sawako1029














●小泉「郵政民営化」はなぜ日本郵便の詐欺商法を生んだのか~
小泉郵政改革が実現したのは2007年。郵便事業がすべて民営化され、持ち株会社の日本郵政のもとに日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の子会社3社が発足した。もともと銀行業務や生保業務は民間と激しく競争していたから民営化による特段のメリットが生まれるわけではない。むしろ民営化したことで、利用者からすると安心感が失われた分、競争力が低下したはずだ。
問題は郵便事業である。小泉内閣は民間企業の参入についてユニバーサル・サービスを義務付けるなど、かなり厳しい参入条件を付けた。そのため民間からの参入はなかった。ゆいつヤマト運輸がコンビニを郵便局代わりに使うというアイデアで参入したが(メール便)、配達でトラブルが頻発した。ネット・オークションで一番扱いが多い商品券や株主優待券、割引券などの金券類の発送にメール便を利用する出品者が急増したのである。普通郵便の場合、発送記録がないため発送記録が残り配送追跡も可能なメール便は出品者にとって極めて便利な発送手段になったのだ。
が、金券類の発送に出品者が薄い茶封筒を使うなど、1円でも儲けようという心理が働くのか、郵便局の責任者に聞いたところでは封筒の手触りだけで中身がほぼわかるというのだ。そのうえ、ヤマトの配達人(ヤマト運輸の社員ではなく請負の個人事業者)は都市部にしか存在しない。過疎地への配達は郵便局に丸投げしているようだ。
そういうこともあって金券類の未着トラブルが頻発し、ヤマト運輸はメール便事業から手を引かざるを得なくなった。結局、はがきや手紙などの郵便物の独占状態に変化は生じず、民間活力を生かすという小泉構想は看板倒れというか、「絵に描いた餅」に終わってしまった。銀行業務や生保業務はもともと民間との激しい競争下にあったから。
それだけに止まっていれば、大きな問題にはならなかったが、日本郵便にとってとんでもない競争相手が異次元の世界から登場した。携帯電話(スマホ)である。日本ではすでに1999年にNTTドコモがiモードを発売、携帯電話によるインタネット接続が可能になっていたが、通話料金が高いなどの問題で広く普及するまでには至らなかった。
が、郵政民営化の翌年08年にアップルのiPhoneが日本上陸を果たし、グーグルがアンドロイド・スマホで参入、NTTドコモだけでなくKDDIのauやソフトバンクも携帯市場に参入、大手3社の通信帯を借りる格安スマホ会社が乱立、楽天も自前で基地局を持つ第4の携帯大手に名乗りを上げるなど、はがきや手紙に代わる手段としてメールが台頭するようになった。その結果、郵便物市場が縮小し、郵便局の多くが赤字経営に陥った。
郵便物の集配事業は典型的な労働集約型産業であり、事業収益は人件費のピンハネに依存するしかない。が、労働集約型産業の人件費は3K労働ということもあって高騰し続けた。一方、はがきや手紙の料金は監督官庁の総務省に抑え込まれ、扱い量もメールの普及によって減少の一途をたどる。人手不足を理由に宅配料金は数年前、大幅に値上げされたが、はがきや手紙の料金は値上げを総務省が認めなかった。バカか~
そういう状況下で、日本郵便が赤字の穴埋めとしてかんぽ商品を、特に高齢者向けに「オレオレ詐欺」まがいの商法に走ったのは、別に肯定するわけではないが、やむを得ない「正当防衛」手段だったと言えなくもない。
少なくとも郵便事業を民営化するのであれば、経営の自由度も高めてやらないと、手足を縛って「さあ、相撲を取れ」と言うに等しいと言わざるを得ない。固定電話料金みたいに距離制料金制度にするわけにもいかないのだから、はがき代や切手代の値上げや、大都市以外の集配制度の自由度を認めるとかしないと経営が成り立たなくなるのは当たり前だ。具体的方法としては人口密度に応じて地域ごとに集配を週に1~5回に区分けすることができれば、全国2万4395局もある郵便局(簡易郵便局4241局を含む)を統廃合によって半分以下に縮小できるだろう(郵便局数は17年度末)。
現に、中曽根・国鉄民営化ではJRにかなりの経営自由度を認めた。過疎地の赤字路線の撤廃や第3セクター化などで黒字経営体質への移行を容認した。それに比べれば小泉・郵政民営化は極端な言い方をすれば「角を矯めて牛を殺す」ような改革だった。

●「新自由主義競争主義」からの脱皮政策で真っ先に行うべきこと
岸田総理が「小泉内閣以来の~」と中曽根・民営化路線と切り離してスローガン化したのは、たぶん日本郵便の経営の自由度を容認するつもりではないかと思っているが、それ以外にどうしても実現してもらいたいことがある。
その一つはパソコンとスマホの共通化である。私は高齢で細かい字が読みづらくなって来たため、新聞などの活字媒体はほとんど読まない。デジタル新聞は購読しているが、スマホでも読めないことはないが、文字をかなり拡大する必要があり、そうなると読みづらくて仕方がない。しかも私のブログはかなり長文だし、書いているのはブログだけではないからスマホで長文の文章を入力するのは自殺行為になってしまう。そのため私はスマホをほぼ「かけ放題」の電話機としてしか使っていない。だからデータ容量は最低の0.5ギガにして基本料金を抑えてはいるが、それでもパソコンとスマホのプロバイダー料を別々に支払っている。なんとなくバカバカしい思いがしてならない。
私が考えているのは、イメージとして昔のワープロとスマホをUSBケーブルでつなぐような方法だ。つまり、インターネットへのアクセスはスマホで行い、その画面はパソコンのディスプレーで見る。つまりスマホで取り込んだ映像をパソコンの大画面で見る。その逆に入力作業はパソコンで行い(パソコン用キーボードを使う)、パソコン画面で推敲してからデータをスマホに移して発信する。パソコンにかかる電話回線使用料やプロバイダ料、Wi-Fiレンタル料などが一切不要になる。その程度のこと、大げさな技術革新など必要ないと思うが…。
次にスマホの6G時代に向けて民間携帯会社が別々に基地局を設置するといった無駄な投資をやめて、政府が一元的に基地局を全国に網羅してプラットホーム・ビジネス化する。つまり一つの基地局網を携帯各社が平等・公平に利用できるようにする。たとえば地デジテレビ放送用のスカイツリーのようなイメージで考えてほしい。テレビ電波の場合は放送各局に電波帯域を割り当てざるを得ないが、スマホ用の場合は携帯電話事業者に電波帯域を割り当てる必要はまったくない。基地局をプラットホーム化すれば、携帯料金は大幅に安くなる。携帯事業者もいろいろなプランを考えて公平な競争条件を活用できるようになる。例えば電気料金のように、夜料金と昼料金に分けることも出来るし、もっときめ細かく時間帯によって使用できるデータ容量を変動制にしたりする会社も現れそうだ。
とくにインフラ事業は民間に丸投げすることだけが効率化するとは限らない。インフラは官が設置し、その運用は民間に委ねることも考えていい。プラットホーム基地局についていえば、官が一元的に設置した後は、JR方式のように全国を6~8くらいの地域別に運営を民間企業に任せてサービス競争させることも考えられる。「新自由競争主義」からの脱皮という以上、官でなければ不可能な巨大インフラ投資は官が行った方が効率的なケースもあるということだ。

●PB(プライマリー・バランス)は緊縮財政の代名詞ではない
そろそろ本論に戻る。矢野次官は論文でこう主張している。
「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
 日本政府が抱える債務の巨大さを氷山にたとえるのは多少違和感がある。私の感覚では東日本大震災の前夜の状況と言いたい。08年、国の研究機関は調査・研究の結果として、東電に対し「福島第1原発には15メートル超の巨大津波が押し寄せるリスク」を警告していた。もちろん、そのリスクがいつ現実化するかは誰にもわからない。東電はリスクを承知していながら対策を先延ばしにしてきて、そして09年3月11日を迎えた。
矢野論文は3.11リスクの警告を発したもの、と私は理解している。矢野次官は論文の冒頭で、「やむに已まれぬ気持ち」をこう吐露している。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」(中略)「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」(中略)「財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」
私は涙もろいせいもあるが、涙失くして読めなかった。現在、国の長期債務は973兆円、地方の債務を合わせると1166兆円に達している。コロナ対策費がどんどん出ていく今年度末の債務残高は確実に1200兆円を超えるとみられている。これは国の借金である。国債には償還期限があり、期限が来ると返さなければならない。
「いや、国債の償還分を新たな国債の発行で賄えばいい。日本は自国通貨をいくらでも発行できるから、いくら国債を発行してもデフォルト(財政破綻)に陥る心配はない」という反論も実際に生じている。本当にそうか。
が、こうした考え方が徐々に日本のマクロ経済学者の間でも広まりつつある。MMT(現代貨幣理論)という新マクロ経済論だが、簡単に言ってしまえば「自転車操業財政論」である。そんな自転車操業が永遠に続くとは、MMT論者も主張しておらず、「インフレが悪化し始めたら国債発行を止めればいい」と言うが、ではそのとき未償還の国債はどうする。まさか「徳政令」や「棄捐令」を発令して借金をチャラにしろなどと無茶は言うまい。
PB(プライマリー・バランス)主義は別に緊縮財政の代名詞ではなく、財政の健全化つまり「入るを図りて出を制す」という健全財政論である。

●MMT(現代貨幣理論)の欺瞞性を暴く
MMTの主な主張は次の3点からなる。
4. 自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行にはならない。
5. ただし、政府は過度のインフレが生じない範囲に財政赤字をとどめよ。
6. 税は財源ではなく、通貨を流通させる仕組みである。
いずれも従来の経済学の常識を根底から覆すようなショッキングな説である。この説に正当性があるならば、私たちは年金問題に苦しむ必要はないことになる。いま日本だけでなく世界の先進国や途上国の一部は人類がかつて経験したことがない「少子高齢化」と「人口減少問題」に直面している。
実は「少子化」と「高齢化」はまったく別の現象で、たまたま同時期に生じた「二つ玉低気圧」のような現象である。少子化とは合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が人口維持の基準とされている2.1を下回る現象。日本の場合、1.36(19年)と、基準をはるかに下回っている。一方、高齢化は高齢者の健康志向や生活様式(食生活も含む)、医療技術の進歩などによって平均寿命が延び、少子化と重なって人口構成に占める高齢者比率が高まっている現象。一般に全人口に占める65歳以上の高齢者比率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と区分けされているようだが、日本の場合、すでに高齢化率は28.4%(19年)に達しており、25年には30%、60年には40%に達するとみられている。
で、当然ながら年金問題が浮上した。従来、年金制度は現役世代の平均賃金や物価の変動に応じて支給額を調整することを原則としていたが、少子化による現役世代(生産人口=労働人口)が減少し、高齢者の年金制度を支えきれなくなってきた。で、年金制度を維持することを目的に導入されたのが「マクロ経済スライド」方式。計算方式はややこしいので説明を省くが、要するに年金制度を維持するために現役世代が負担できる範囲に支給額をとどめようという仕組み。言うなら年金制度のPB版というわけだ。
もしPBを無視していくらでも赤字国債を発行できるのなら、別に現役世代の年金負担を増やさなくても従来の年金支給制度を維持できるはず。なぜMMT論者は年金制度のマクロ経済スライド方式に噛み付かないのか~
そもそもMMTの根本的間違いは、「自国通貨の発行権」は政府ではなく中央銀行が持っていることを無視して、中央銀行を政府機関と思い込んでいることにある。日本の場合、確かに貨幣の製造は財務省造幣局が行っているが、財務省(政府機関)が勝手に貨幣を発行できるわけではない。たまたま日本の場合、日銀の黒田総裁が安倍氏と二人三脚で消費者物価2%上昇を目指し、そのために大胆な金融緩和策(「黒田バズーカ砲」の異名が付けられた)を発動してきたため、いつまでも無制限に日銀が赤字国債を買い入れることができると錯覚した経済学者たちが多かっただけのこと。
次に「悪性インフレになったら赤字国債の発行をストップすればいい」という手前勝手な主張だが、すでに述べたように既発行の国債は期限が来たら償還しなければならない。現に今でも歳出の22%強は既発赤字国債の償還に充てられている。
もちろんその償還が税収から行われているのであれば、いつかは国の債務は解消する。が、実際には赤字国債の償還のための原資は、新たな赤字国債の発行によって賄われているのが現実であり、しかも償還分だけでなく更なる積極財政の名のもとに発行額がどんどん増えていっている。
矢野次官はそういう状態を「ワニの口」にたとえる。ワニの口は「<字型」に開いている。「ワニの口は塞がなければならない」という小見出しを付けてこう説明する。
「歳出と歳入(税収)の推移を示した2つの折れ線グラフは、私が平成10年ころに“ワニの口”と省内で俗称したのが始まりですが、その後、四半世紀ほど経ってもなお、『開いた口がふさがらない』状態が延々と続いています」。つまり歳入と歳出の差が<字型にどんどん開く一方になっていっている(国の借金が増え続けていること)と言うのだ。「ですから『経済成長だけで財政健全化』できれば、それに越したことはありませんが、それは夢物語であり幻想です」「これまでリーマン・ショック、東日本大震災、コロナ禍と十数年に2度も3度も大きな国難に見舞われたのですから、『平時は黒字にして、有事に備える』という良識と危機意識を国民全体が共有する必要があり、歳出・歳入両面の構造的な改革が不可欠です」
矢野次官の「財政健全化」論は言うなら「財政安保」論と言い換えてもいいと思う。我が国自衛隊は、平時は自然災害などへの対応で済むが、万が一の有事への備えが本来の目的である。日本政府は「経済成長」を旗印に赤字国債を乱発しているが、いつまでも「自転車操業」ができるわけではなく、既発国債を償還できなくなれば、たちまち国家財政はデフォルト(債務不履行=財政破綻)に陥る。MMT論者は赤字国債の発行をストップしたとたん既発国債の償還が不可能になるという冷酷な現実が分かっているのか~。
最後に「税収は財源ではなく、通貨を流通させる仕組み」というおかしな定義について。まったく意味不明である。税収は歳入の基本であり、社会福祉や公共サービスなどに費消される。しかし個人や企業は収入のすべてを税金として国や地方自治体に収めているわけではない。そういう考え方がないではないが、その場合は国が国民生活や企業の生産活動に必要な金を税収から分配しなければならない。マルクス思想に近いが、MMTは先進資本主義国を前提にしている。であれば、「通貨を流通させる仕組み」は個人や企業が税金を納めた残りの可処分所得を決済手段として使うためのものだ。結果的に税収は社会福祉や公共サービスに費消されるから、税金としての通貨による歳入は、その費消手段でもあるが、それは結果解釈の一部に過ぎない。
それに、サウジアラビア、クウェート、カタール、ドバイ、バーレーン、オマーンなど中東の産油国には個人所得税がない国もある。そういう国では、MMTによれば通貨は流通しないことになる。奇をてらっての新定義かは知らぬが、MMTは説明すべきだ。
まだある。貨幣(通貨)には国内では売買の決済手段としての機能を持つが、自国通貨の交換価値は為替相場で決められるという事実をMMTはまったく無視している。つまり変動相場制のもとでは通貨は「商品」として売買の対象になっており、「円」の商品価値が為替市場で暴落したら、そのとき日本財政は東日本大震災に直撃されることになる(矢野氏に言わせれば氷山への激突)。前もってその兆候が分かれば手の打ちようもあるかもしれないが、1929年の世界大恐慌にしても、最近のケースではギリシャのデフォルトにしても予兆なんか何もなかった。ある朝、突然生じるのである。バブルの崩壊は一瞬ではなかったが、デフォルトは一瞬にして生じる。円に対する信用が為替市場で失われた瞬間、投資ファンドが一斉に円を売り浴びせ収拾がつかなくなる。為替市場では「通貨は決済手段ではなく取引対象の商品(ただし使用価値のない商品)」であり、現実社会における通貨の交換価値を決定的に左右しているという事実にMMTは完全に目を背けている。

●もはや経済成長の時代は終焉した。
失われた30年のきっかけとなったバブル崩壊は、不動産バブルを一気に弾けさせるため大蔵省(当時)が「総量規制」によって銀行の無謀とも言える不動産関連融資に歯止めをかけ、日銀はバブル経済を支えた澄田総裁のもとでの金融緩和を一気に引き締めに転じるという、「軟着陸」ではなく「強制胴体着陸」を行ったことでバブルを一気に弾かせた。自称「経済評論家」の佐高信氏は金融政策を転換した日銀・三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、その評価についての説明責任はいまだ果たしていない。
以降、一時的なミニ・バブルがIT関連で生じたこともあったが、ほぼ日本経済は停滞状態が続いている。安倍元総理はアベノミクスの成果の一つとして株価上昇を挙げたが、官製相場による効果といった方が正確だ。日銀が景気浮揚策の一環として株式や投信を大量購入し、年金機構も日銀・官製相場に便乗して株式市場で資金運用を強めた結果の株価上昇だからだ。だから日銀も年金機構も帳簿上では含み益が巨大化しているが、現実に利益として確定するには所有している株式や投信を売却しなければならない。
あまりにも大量に保有しすぎているため日銀や年金機構が直接株式市場で保有株や投信を一部でも売却すると雪崩現象のような暴落が生じかねない。それを防ぐためには場外で第3者に少しずつ保有株や投信を譲渡し、第3者が株式市場で売却するという手法を取るしかないだろう。
それはともかく、政府が赤字国債を大量に発行し、日銀が「いくらでも買う」と言っていながら金利が上昇しない。中央銀行が民間の金融機関に資金を貸し出す際の政策金利(日本では公定歩合と呼ぶ)とは別に、市場で売買される長期国債の価格変動による長短市中金利がある。すでに欧米先進国ではコロナ禍後の経済復興を見越して市中金利は少しずつ上昇しており、アメリカの中央銀行FRBのパウエル議長も政策金利の上昇を視野に入れつつある。が、日本の黒田・日銀総裁は金利引き上げなど眼中にないかのようだ。10月28日も定例の記者会見で黒田総裁は金融緩和を続けると発表した。アホか~
が、日銀がいくら金融緩和策を継続しても資金需要は生じない。すでに民間にはお金がだぶついている。コロナ禍で職を失った非正規社員や営業不振に陥った飲食業や旅行関連産業には資金需要があるが、日本の金融機関はよく言われるように「晴れの日に傘を貸したがり、雨が降り出すと傘を取り上げる」という「ユダヤの商人」根性をしっかり持っているから、資金需要がある先への融資基準はかなり厳しい。
結果として内部留保で資金がだぶついている大企業や富裕層には資金需要がないから、日銀が政策金利を引き上げたら金融機関への預貯金が殺到し、中小金融機関の経営が行き詰まってしまう。
そもそも安倍政権時代、何とかデフレ不況から脱却して経済を再び成長路線に戻そうと、日銀・黒田総裁と二人三脚で金融緩和をしたが、一向に消費者物価は上昇しない。安倍政権下で消費税を5%上昇させたにもかかわらず、消費者物価は増税分すら上昇していない。少なくともアベノミクスではデフレ脱却は不可能だったことがもはや歴然としている。
日本ではGDP(国内総生産)の55~60%は個人消費が占めるとされている。が、少子高齢化で消費活動の中核となるべき現役世代の消費志向がいま完全に萎えているのだ。
前回のブログで書いたが、金融庁が19年6月、夫65歳、妻60歳で年金生活に入った場合、年金収入だけでは生活資金が不足するという試算を公表した。不足額は月5.5万円として余命20年の場合は1320万円、余命30年の場合は1980万円の貯えが必要というのが試算結果だった。いわゆる「老後生活2000万円」問題だ。
実はこの試算方法そのものがめちゃくちゃなのだが、確かに定年退職後の数年間は現役時代の同僚や友人との交際も続くだろうし、夫婦「水入らず旅行」などで家計の出費は年金収入ではそのくらい不足するかもしれない。が、そんな生活をいつまでも続けられるわけがない。年を重ねるごとに行動範囲も狭くなり、カネを使う機会も減少する。増え続ける医療費を考慮に入れても年々出費は減り続け、個人差はあるにせよ夫75歳、妻70歳前後で家計は黒字化するはずだ。麻生財務相は、金融庁のこの報告の受け取りを拒否したが、現役世代が老後生活のためにますますカネを使わなくなることを恐れてのことだけだ。
ただし金融庁の調査報告は19年6月であり、国民の貯蓄性向はそれより早くから進んでいた。その理由は少子化傾向が明らかになりだしたころから、若い人たちの実感として「将来年金生活に入ったとき、年金だけでは食べていけなくなる」という認識が広まっていったことにある。私も含めて今の高齢者は子供たちに生活の世話になろうとは思っていないし、また子供たちも「遺産なんか残してくれなくてもいいから、私たちを当てにしないでね」とはっきり言う。核家族化の進行とともに親子のきずなもだんだん細くなっていくのはやむを得ないことだ。「老々介護」の悲劇は増すばかりだ。
そのうえ、もっと厳しい問題に日本経済は直面している。岸田氏が自民党総裁選で「宏池会」の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」をもじって「令和版所得倍増計画」をぶち上げたが、自民党内部から「時代環境が違いすぎる」と猛反発を食い、総選挙ではこのアドバルーンを引っ込めてしまった。
日本で貯蓄性向が高まったのは将来への不安だけでなく、消費マインドを刺激するような商品が高度経済成長期以降の約半世紀ほとんど出現していないことにもよる。実際戦後日本の奇跡的な経済回復は、吉田茂氏による「傾斜生産方式」で近代産業力の回復を最優先したことで朝鮮戦争特需にありつけ、「3種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が庶民の消費マインドを刺激、経済成長の原動力になった。さらに「3C」(カー、クーラー、カラーテレビ)が庶民の手が届くようになって消費マインドを刺激し、日本は高度経済成長時代を謳歌した。
さらに重要だったことは当時の所得税制が超累進課税のシャウプ税制により世界で最も所得格差の少ない国になったこともあって、「1億総中流意識」が醸成されて、それが巨大な需要を生み出したことも忘れてはならない。
その高度経済成長時代と比較すると、なぜ日本経済の停滞が生じたのか、目に見えるようだ。従業員の年収は過去30年間ほとんど横ばい状態で、可処分所得が増えない状態が長く続いている。また若い人の大都市集中で、まず自動車が若い人たちの消費マインドを刺激しなくなった。
若者の自動車離れの傾向が明らかになったのは2000年代初頭だが、自動車所有がもはやステータス・シンボルではなくなったこと、自動車は所有するものではなく利用するものという認識が浸透してレンタルやカー・シェア市場が急速に伸びたことが理由の一つと言えるだろう。また大都市部は電車・地下鉄・バスといった公共交通機関インフラが充実し、移動に要する時間が読めない車より公共交通機関の方が移動手段としての利便性の高さに対する認識が広まったことなどがある。
他の電気製品も技術の進歩で耐久年数が伸び、買い替え需要のサイクルも長くなり、それも経済活動の足を引っ張っている。
そう考えていくと、この半世紀の間、新しい市場が生まれたのはテレビ・ゲームと携帯電話くらいしかないのではないか。まさかドローンが家庭に普及するなどと考えるバカはいまい。アベノミクスで円安誘導して自動車や家電製品の国際競争力を回復しても、少子化現象で国内市場の伸びが期待できないため、メーカーはリスクの大きい設備投資にはなかなか踏み切れない。設備投資意欲を刺激しようと政府は躍起になっているが、為替の動向をもろに受ける輸出に大きな期待をかけるのはリスクが大きすぎると、メーカーは二の足を踏まざるを得ない。
さらにメーカーを消極的にさせているのは日本独特の「年功序列・終身雇用」という雇用形態の壁だ。コロナ禍前は派遣社員や定年退職後の再雇用などの非正規社員の占める割合が40%と高くなったが、残りの60%を占める正規社員は日本では簡単に会社都合でのレイオフが難しい。そこがドライな雇用関係の欧米との大きなハンデになっており、政府が与えてくれた程度の飴玉では容易に踊り出すわけにいかないのだ。
具体例で明らかにする。トランプ前大統領がTPPから離脱して保護主義に転じ、自動車や鉄鋼・アルミ製品などに25%という高率関税を課して自国産業保護政策を打ち出したのに、GMは国内4工場を閉鎖、従業員をレイオフした。トランプは「お前たちのために保護政策に転じてやったのに、工場を閉鎖して従業員をレイオフするとは何事か」と怒り狂ったが、GMの1現場作業員からスタートして初代女性CEOに昇り詰めたメアリー・パーラは涼しい顔でこう反論した。
「輸入自動車との競争は有利になりましたが、原材料や部品の輸入価格高騰で生産コストも大幅にアップしました。その分を販売価格に上乗せすると、一般のアメリカ人購買力の限界を超えてしまうため、工場を閉鎖したということです」
実は安倍氏も国内市場の回復の難しさはわかっていたようだ。デフレとかインフレは需要と供給の関係で決まる。民主党政権時代、円高なのになぜデフレ不況になったのか。円高であれば輸入製品価格は下落する。原材料や部品を輸入に頼っているメーカーは生産コストが軽減し、小売価格も安くなってデフレ現象を生じる。消費者にとっては消費マインドが刺激されて需要が喚起されれば、スミスの「(神の)見えざる手」が機能して需給バランスが回復し、デフレ不況からの脱却ができたはず。
ところが、先に述べた理由で国内需要は増えない。そこで安倍氏は円安誘導して自動車や電気製品の国際競争力の回復を図り、それなりに自動車メーカーや電機メーカーは増収増益の決算になった。が、海外市場にも少子化の波が押し寄せており、マーケットの拡大は望めない。だからメーカーは輸出価格をほとんど下げず(輸出価格を下げると需要が急増してリスクの大きい生産増強策を取らざるを得なくなるため)、為替差益をがっぽり貯め込むという戦略に打って出たというわけだ。
その反面、当然ながら円安誘導すれば輸入品の価格は高騰する。当然、庶民の消費マインドは冷え込む。安倍氏は毎年のように経済団体と「官製春闘」を行い、企業もベースアップを復活するなど、正規社員の給与は増やしたが、そのため非正規社員との所得格差はさらに広がった。庶民の消費マインドはますます冷え込み、目標としてきた消費者物価2%上昇は遠のくばかりだ。
そもそも「成長神話」なるものは、浦島太郎の「玉手箱」のようなもの。経済成長できる要素は何ひとつとして、いまはない。そういう時代こそ、絶対手にすることが出ない「成長の果実」を求める「バラマキ」政策をストップして債務残高を減らすべきなのだ。いずれ、市場未開拓のアフリカや中南米の諸国に成長市場が形成されるかもしれない。20年かかるか、30年かかるか、あるいはもっとかかるかもしれないが、それまでは苦難の道を歩み続ける覚悟が政府には必要だ。