私は現在67歳の元ジャーナリスト(フリー)である。私が別に望んでいたわけでもないこの世界に引きずり込まれたのはまったくの偶然からだった。
私が当時神奈川県茅ヶ崎市に住んでいた友人の家を訪れたのは昭和53年(1978年、私は38歳)の暮れだった。訪問の目的は忘れた。その友人から「今日茅ヶ崎市役所で公聴会があり、徳田虎雄が出席するから傍聴しないか」と誘われ、友人と公聴会を覗いたのが私の人生を大きく変えるきっかけになった。
実は私は青少年時代、本はたくさん読んだが、いわゆる文学青年ではなく、難解な純文学にはほとんど手を出していない。日記も書いたことがなく、大学に入る前に書いた文章はたぶん宿題で書かされた作文ぐらいだったと思う。大学では60年安保を契機に学生運動にのめりこみ、その時代はかなりの量のアジビラや組織の学習会のためのレポートは相当書いた。そのときの私の特技は原稿やレジュメを用意することは一切せず、いきなりガリ版の上で鉄筆を振るったことだった。私は32冊の単行本をはじめ多くの雑誌記事を書いてきたが、すべていきなり原稿用紙にシャープペンシルで書くのが私の執筆スタイルで、このブログも「何を書こうか」というテーマさえ思い浮かべばいきなりキーボーに向かう。だからこのブログも全体の構成は実は書きながら決めていくという実に横着な人間なのだ。しかも原稿用紙を使って書いていたころは推敲すら一度もしたことがなかった。で、パソコンで書くようになって一番困ったことは推敲を余儀なくされることだった。もちろん文字変換するときは当然誤変換がないかチェックするのだが、誤変換を見落としてしまうことがしばしばある。だから書き上げた後で最初から誤変換をもう一度チェックするしかないのだが、それでも見落とすことがままある。本当に厄介なものを人間は発明してしまったものだと少々恨んでいる。
余談はさておき、茅ヶ崎市の公聴会は徳洲会病院の進出をめぐって、患者を奪われると危機感を持った地元の医師会(開業医の業界団体)が「医療のスーパー化だ」と猛反発して茅ヶ崎市議会に徳洲会病院の進出を不許可にするよう強力に働きかけたため、市議会が徳田を呼んで公聴会を開き、「どういう病院を作ろうとしているのか」徳田の考えを聞こうという趣旨で開かれた公聴会だった。実はこの問題をめぐって「週刊現代」が数回にわたって大特集を組んで医師会のエゴを批判し、朝日や読売、毎日などの新聞も茅ヶ崎騒動を報道、さらに民放はおろかNHKも看板番組の「NHK特集」で取り上げるなどマスコミも大騒ぎしていたので、私も少なからず関心を持っていた。そんな状況の中で開かれた公聴会だったのでマスコミはもちろん一般市民も押し寄せ、そうなることは当然予測できたので私たちは1時間ほど前に会場に行ってかろうじて席を確保した。
公聴会での徳田と市議のやり取りはまったく記憶にない。たぶん当たり障りのないやり取りに終始したからだろう。「期待はずれ」といった思いを抱きながら席を立とうとした私のところに、何を思ったのか徳田がやってきて「今晩空いているか」と聞いてきた。「空いてますよ」「だったら赤坂のニュージャパンの○○号室に来てくれ。徳洲会の東京事務所があるから。そこで6時から幹部会議をやる。君も出ろ」
そんなことが現実に起こりうるわけがない、とこのブログを読んでいただいている方はお思いだろうが、これはまぎれもない事実なのである。
当時私はフリーの広告アドバイザーのような仕事をして生活費を稼いでいた。それまで勤めていた会社で広告宣伝の仕事を全部任されていたため、それなりにノウハウを持っていたからである。もちろんそんなことを徳田が知っていたわけではない。だからなぜ100人を超える傍聴者の中から私に目をつけ、しかもいきなり幹部会議に出席を要請したのかいまだにわからない。
会議が終わると徳田が「飯を食おう」と居酒屋風の店でご馳走になったが、その席で「君は正月、何か予定があるのか」と聞いてきた。「「何もありませんが」と答えると「俺は大晦日まで働き元旦が仕事始めだ。明日秘書に航空券を届けさせるから大阪に来い」と言う。大阪には徳洲会の岸和田病院をはじめ四つの病院があり、徳田自身の自宅もある。私は徳田の自宅に泊めてもらい3日間徳田の尻にくっついて徳田の仕事振りをたっぷり見た。
そんな徳田との出会いを契機に徳田から経営上の相談を受けたり、押し寄せるマスコミの交通整理をしたりするようになった(ただし徳田から報酬は1円も貰っていない)。当然多くの出版社から徳田に「本を出さないか」といった申し込みが殺到するようになった。その交通整理も任され、私は最終的に光文社か祥伝社を候補に絞り、最後の選択は徳田に任せた。そして徳田が選んだのが光文社だった。これが徳田との出会いに次ぐ私の人生を転換させる大きな出来事になった。祥伝社の編集長だった伊賀弘三郎氏(故人)が私に「小林さんほど徳田さんに密着して来た人はいない。小林さんが徳田さんについて書いてみないか」と言ってくれたのである。
伊賀氏は光文社で初の20代編集長になった人で、光文社騒動と今でもマスコミ界では知らない人がいないほどの激しい労使対立の中で光文社を追われ上司だったひとたちと祥伝社を立ち上げた名編集長である。それほどの方からの直接の申し入れである。私に断る理由などあるはずがない。
ただし、条件がつけられた。「小林さんには出版界での実績がまったくない。小林さんの著者名では出せない。『国民医療を考える会』という架空の団体を形式上の著者として、小林さんはその代表という形で紹介するようにしたい。その点を了承してほしい」というものだった。別にジャーナリストになりたいなどと思ったこともなかった私は即座に「それで結構です」と答えた。
伊賀さんはほっとした様子で「でも小林さんの名前もできるだけ目立つようにするからね」と言った後、ちょっと言いにくそうな感じで「小林さんは書いた経験がないからうちのほうで代筆者(ゴーストライターのこと)を立てたいのだが」と言ってきた。私は少し考えたうえで「とりあえず私に書かせてもらえませんか。私の原稿を読んだ上で、この原稿では本にできないとご判断されたら、後は伊賀さんにお任せします」と答え、伊賀さんも「では一応書いてみてください」と私の申し入れを受け入れてくれた。
実は後からずいぶんと無謀なことをしたと冷や汗をかいたのだが、このときもレジュメを作らず、とりあえず書き出しをどうするかだけほんのちょっと考え、いきなり原稿用紙に向かった。私は書くのはわりと早いほうで、このときもたぶんひと月ちょっとで書き上げたと思う。「原稿ができました」と届けに行ったとき伊賀さんが「えっ、もうできたの」とびっくりされたのを覚えている。
数日後、伊賀さんから電話がかかってきた。「読ませてもらった。僕はあまり著者の原稿を褒めたことはないのだけど、小林さんの原稿は私が手を入れる余地がまったくないほど、構成も文章もほとんど完璧だった。しかも現在の医療界を蝕んできた医者と患者の間に不文律化していた不当な力関係を鋭く分析し、『医は仁術なり』という医者の勝手な思い上がりによって医者が患者に君臨するような世界を正当化してきたことを見事に見抜いた。この本は単なる徳田虎雄伝を超えて医療ジャーナリズムの最高峰に値する。最初僕はこの本の著者名を『国民医療を考える会』という架空団体にするつもりだったが、小林紀興の著者名で出すことにする」
こう書けば、いかにもスムースに私の処女作が誕生したようにお思いだろうが、実はそうではなかった。まず徳田が、私が書くことに猛反発した。あまりにも徳田の世界に入りすぎ、かなりの企業秘密を知ってしまったことに、徳田が不安を感じたのかもしれない。「僕の2作目は必ず祥伝社から出すから、小林の本は出さないでくれ」と伊賀さんに圧力をかけてきた。その圧力は伊賀さんが跳ね返してくれたが、もっと困難だったのは伊賀さんの部下でデスク(副編集長)をしていたU氏がこともあろうに自分の首をかけて私の著者名で出版することに反対し、ことごとく難癖をつけ、伊賀さんとU氏、もう一人の若い編集者そして私の4人で本のタイトルを決める最終会議の席でいきなり辞表をテーブルに叩きつけ「私の辞表を受け取るか、小林の本を出版するか、この場で決めてくれ」と伊賀さんに迫ったのである。これにはさすがに温厚な伊賀さんも色をなし「少し常識をわきまえろ。編集長である私の判断に従えないならいつ辞めてもいいが、こういう席で言い出すことではないだろう」とU氏が出した辞表を破り捨てた。
私の処女作はこういう経緯を経て生まれたのだが、結果的には11刷り10万部を超える大ヒットになった。通常これだけのヒット作になったら出版社は次々と出版計画を立ててくれるものだが、祥伝社が私に2冊目の出版を依頼してきたのは私が光文社からヒット作を連発するようになって以降の1990年になってからであった。私の処女作『徳洲会の挑戦』が世に出たのが1979年だから、その間に11年もの歳月が流れたことになる。その事実が、この本の出版が如何に異常な状況下で実現したかを何よりも雄弁に物語っている。
その後、年月はさらに流れ、バブルの崩壊のころから出版界にも大きな変化が訪れた。漫画がブームになりいい大人が電車の中で漫画本に夢中になるような、いわゆる「活字離れ」が急速に進行し、私の執筆活動も1998年の32冊目の単行本『西和彦の閃き 孫正義のバネ』をもって終焉した。単行本の出版は事実上不可能になった(初版が3千部や5千部の仕事では赤字になる)が、雑誌の仕事はしようと思えばできた。が、雑誌は月1冊発行の月刊誌でも編集者が10人前後いて、あらかじめ編集会議でテーマからどういう主張をするかまで決めてしまう。その後、それぞれのテーマにふさわしい著者を選び原稿執筆を依頼するのだが、たとえば私が依頼されたとして、実際に取材すると編集部が決めた狙いどおりの原稿が書けるとは限らない。で、私は自分が取材した結果に基づいて私の考えで原稿を書く。ところが雑誌の編集者は自分たちのほうが著者より上位に位置していると考えているらしく、著者に断りもなく勝手に原稿を改ざんしてしまうのである。あまりにもひどかったケースでは私はその雑誌の発行差し止めの仮処分申請をしようと考え、知り合いの弁護士に相談したことがあるが、弁護士の「裁判で勝つ可能性はかなり高いが、そうなると小林さんはこれから出版界全体を敵に回してしまうことになりかねない」というアドバイスに従わざるを得ず、その代わり私はもう2度といかなる雑誌の執筆依頼にも応じないことにした。その結果私はいやおうなしに事実上の失業状態になったというわけである。
その私がブログでマスコミ批判をすることにしたのは、実は処女作(『徳洲会の挑戦』)の中で、医者と患者の力関係が圧倒的に医者側に有利になっている状況(誤解を招くといけないので現在は相当改善されている。その理由は残念ながら医者のモラルが高くなったからではなく、医者は儲かる仕事だということで開業医が増えすぎ、患者の奪い合いが始まった結果、市場原理が働いて患者を大切に扱うようになったからでもある。もちろん「患者は医者のためにある」という驕った医者ばかりというわけではなく、「医者こそ患者のためにある」という医者本来のモラルを持って診療してくれる医者は昔もいたし、今はそういうモラルを持つ医者が増えてきたことも確かである)が、マスコミと国民(読者や視聴者)の関係でもおかしな状況が定着してしまっているからである。
すでに書いたように、かつての医者は{医は仁術なり」という医者にとってきわめて都合のいい医業観(実はこの「定義」は儒教思想を背景に作られたのだが)を口実に患者に君臨してきた。同様にマスコミは「社会の木鐸」というマスコミ側にとってきわめて都合のいい「定義」を口実に国民の批判を封じ込めてきた。それが証拠に新聞はすべて読者の投稿にある程度のスペースを割いているが、その新聞の主張を批判した投稿は絶対に採用されない。読者の批判を封じてきただけではない。政官財癒着のトライアングルを「村社会」と批判しながらマスコミの世界そのものを「村社会」化することで言わば「核シェルター」の中(つまり絶対的な安全地帯)でぬくぬくと言いたい放題、書きたい放題を重ねてきた。私は4月7日に朝日新聞の秋山耿太郎社長宛てに現在のマスコミの姿勢を憂い、フェアな社会を構築するためにマスコミがどういうスタンスをとるべきかA4版9ページに及ぶ批判と改善策を提言した手紙を送ったが、たぶん社長室の愚か者が破棄したのだろう、完璧に無視された。その全文をこのブログで紹介するのは無理なので、最後の提言の部分だけ転記する。私がこのブログをはじめた理由がこの提言に込められているからだ。
最後に朝日が真のジャーナリズムに立ち直るための提言をして秋山社長へのお手紙を終わりにしたいと思います。
まずマスコミ界を覆っている「村社会」を根絶することです。私はこれまで何度も朝日の広報(朝日の読者窓口)に読売のアンフェアな記事や主張を指摘してきちんと批判をすべきだと申し上げてきました。同様に読売の読者センターにも朝日批判をためらうなと言ってきました。日本のマスコミ界を代表する2紙が、主張の相違は互いに尊重しあいながらも、もし相手がアンフェアな方法で主張した場合は厳しく批判し、もし反論された場合は反論の全部ではなくても要旨は自紙でもきちんと紹介する(私のように2紙を取っている読者は少ないと思うので、フェアな論争を行うための最低限の保証です)ようになれば、朝日も読売もフェアな主張しかできなくなります。2紙とも談合を繰り返してきた建設業界に対しては「村社会」と極め付け批判してきました(それはジャーナリズムの当然の義務です)。しかしマスコミ自身が村社会の中で安穏として言いたい放題、書きたい放題、そのあまりのひどさに政府や官庁がちょっとでも口を出そうものなら、たちまち「言論の自由」を錦の御旗のように叫んで撥ね付けますね。
これで再開ブログ(gooのコンピュータが私のブログにおかしな処理をしたのでメールで改善を求めましたが、コンピュータが「迷惑メール」と判定し受信を拒否されました。やむを得ず、いったんgooブログから退会し、再入会したというわけです)の第1弾を終了します。 乞う 第2弾にご期待を。
私が当時神奈川県茅ヶ崎市に住んでいた友人の家を訪れたのは昭和53年(1978年、私は38歳)の暮れだった。訪問の目的は忘れた。その友人から「今日茅ヶ崎市役所で公聴会があり、徳田虎雄が出席するから傍聴しないか」と誘われ、友人と公聴会を覗いたのが私の人生を大きく変えるきっかけになった。
実は私は青少年時代、本はたくさん読んだが、いわゆる文学青年ではなく、難解な純文学にはほとんど手を出していない。日記も書いたことがなく、大学に入る前に書いた文章はたぶん宿題で書かされた作文ぐらいだったと思う。大学では60年安保を契機に学生運動にのめりこみ、その時代はかなりの量のアジビラや組織の学習会のためのレポートは相当書いた。そのときの私の特技は原稿やレジュメを用意することは一切せず、いきなりガリ版の上で鉄筆を振るったことだった。私は32冊の単行本をはじめ多くの雑誌記事を書いてきたが、すべていきなり原稿用紙にシャープペンシルで書くのが私の執筆スタイルで、このブログも「何を書こうか」というテーマさえ思い浮かべばいきなりキーボーに向かう。だからこのブログも全体の構成は実は書きながら決めていくという実に横着な人間なのだ。しかも原稿用紙を使って書いていたころは推敲すら一度もしたことがなかった。で、パソコンで書くようになって一番困ったことは推敲を余儀なくされることだった。もちろん文字変換するときは当然誤変換がないかチェックするのだが、誤変換を見落としてしまうことがしばしばある。だから書き上げた後で最初から誤変換をもう一度チェックするしかないのだが、それでも見落とすことがままある。本当に厄介なものを人間は発明してしまったものだと少々恨んでいる。
余談はさておき、茅ヶ崎市の公聴会は徳洲会病院の進出をめぐって、患者を奪われると危機感を持った地元の医師会(開業医の業界団体)が「医療のスーパー化だ」と猛反発して茅ヶ崎市議会に徳洲会病院の進出を不許可にするよう強力に働きかけたため、市議会が徳田を呼んで公聴会を開き、「どういう病院を作ろうとしているのか」徳田の考えを聞こうという趣旨で開かれた公聴会だった。実はこの問題をめぐって「週刊現代」が数回にわたって大特集を組んで医師会のエゴを批判し、朝日や読売、毎日などの新聞も茅ヶ崎騒動を報道、さらに民放はおろかNHKも看板番組の「NHK特集」で取り上げるなどマスコミも大騒ぎしていたので、私も少なからず関心を持っていた。そんな状況の中で開かれた公聴会だったのでマスコミはもちろん一般市民も押し寄せ、そうなることは当然予測できたので私たちは1時間ほど前に会場に行ってかろうじて席を確保した。
公聴会での徳田と市議のやり取りはまったく記憶にない。たぶん当たり障りのないやり取りに終始したからだろう。「期待はずれ」といった思いを抱きながら席を立とうとした私のところに、何を思ったのか徳田がやってきて「今晩空いているか」と聞いてきた。「空いてますよ」「だったら赤坂のニュージャパンの○○号室に来てくれ。徳洲会の東京事務所があるから。そこで6時から幹部会議をやる。君も出ろ」
そんなことが現実に起こりうるわけがない、とこのブログを読んでいただいている方はお思いだろうが、これはまぎれもない事実なのである。
当時私はフリーの広告アドバイザーのような仕事をして生活費を稼いでいた。それまで勤めていた会社で広告宣伝の仕事を全部任されていたため、それなりにノウハウを持っていたからである。もちろんそんなことを徳田が知っていたわけではない。だからなぜ100人を超える傍聴者の中から私に目をつけ、しかもいきなり幹部会議に出席を要請したのかいまだにわからない。
会議が終わると徳田が「飯を食おう」と居酒屋風の店でご馳走になったが、その席で「君は正月、何か予定があるのか」と聞いてきた。「「何もありませんが」と答えると「俺は大晦日まで働き元旦が仕事始めだ。明日秘書に航空券を届けさせるから大阪に来い」と言う。大阪には徳洲会の岸和田病院をはじめ四つの病院があり、徳田自身の自宅もある。私は徳田の自宅に泊めてもらい3日間徳田の尻にくっついて徳田の仕事振りをたっぷり見た。
そんな徳田との出会いを契機に徳田から経営上の相談を受けたり、押し寄せるマスコミの交通整理をしたりするようになった(ただし徳田から報酬は1円も貰っていない)。当然多くの出版社から徳田に「本を出さないか」といった申し込みが殺到するようになった。その交通整理も任され、私は最終的に光文社か祥伝社を候補に絞り、最後の選択は徳田に任せた。そして徳田が選んだのが光文社だった。これが徳田との出会いに次ぐ私の人生を転換させる大きな出来事になった。祥伝社の編集長だった伊賀弘三郎氏(故人)が私に「小林さんほど徳田さんに密着して来た人はいない。小林さんが徳田さんについて書いてみないか」と言ってくれたのである。
伊賀氏は光文社で初の20代編集長になった人で、光文社騒動と今でもマスコミ界では知らない人がいないほどの激しい労使対立の中で光文社を追われ上司だったひとたちと祥伝社を立ち上げた名編集長である。それほどの方からの直接の申し入れである。私に断る理由などあるはずがない。
ただし、条件がつけられた。「小林さんには出版界での実績がまったくない。小林さんの著者名では出せない。『国民医療を考える会』という架空の団体を形式上の著者として、小林さんはその代表という形で紹介するようにしたい。その点を了承してほしい」というものだった。別にジャーナリストになりたいなどと思ったこともなかった私は即座に「それで結構です」と答えた。
伊賀さんはほっとした様子で「でも小林さんの名前もできるだけ目立つようにするからね」と言った後、ちょっと言いにくそうな感じで「小林さんは書いた経験がないからうちのほうで代筆者(ゴーストライターのこと)を立てたいのだが」と言ってきた。私は少し考えたうえで「とりあえず私に書かせてもらえませんか。私の原稿を読んだ上で、この原稿では本にできないとご判断されたら、後は伊賀さんにお任せします」と答え、伊賀さんも「では一応書いてみてください」と私の申し入れを受け入れてくれた。
実は後からずいぶんと無謀なことをしたと冷や汗をかいたのだが、このときもレジュメを作らず、とりあえず書き出しをどうするかだけほんのちょっと考え、いきなり原稿用紙に向かった。私は書くのはわりと早いほうで、このときもたぶんひと月ちょっとで書き上げたと思う。「原稿ができました」と届けに行ったとき伊賀さんが「えっ、もうできたの」とびっくりされたのを覚えている。
数日後、伊賀さんから電話がかかってきた。「読ませてもらった。僕はあまり著者の原稿を褒めたことはないのだけど、小林さんの原稿は私が手を入れる余地がまったくないほど、構成も文章もほとんど完璧だった。しかも現在の医療界を蝕んできた医者と患者の間に不文律化していた不当な力関係を鋭く分析し、『医は仁術なり』という医者の勝手な思い上がりによって医者が患者に君臨するような世界を正当化してきたことを見事に見抜いた。この本は単なる徳田虎雄伝を超えて医療ジャーナリズムの最高峰に値する。最初僕はこの本の著者名を『国民医療を考える会』という架空団体にするつもりだったが、小林紀興の著者名で出すことにする」
こう書けば、いかにもスムースに私の処女作が誕生したようにお思いだろうが、実はそうではなかった。まず徳田が、私が書くことに猛反発した。あまりにも徳田の世界に入りすぎ、かなりの企業秘密を知ってしまったことに、徳田が不安を感じたのかもしれない。「僕の2作目は必ず祥伝社から出すから、小林の本は出さないでくれ」と伊賀さんに圧力をかけてきた。その圧力は伊賀さんが跳ね返してくれたが、もっと困難だったのは伊賀さんの部下でデスク(副編集長)をしていたU氏がこともあろうに自分の首をかけて私の著者名で出版することに反対し、ことごとく難癖をつけ、伊賀さんとU氏、もう一人の若い編集者そして私の4人で本のタイトルを決める最終会議の席でいきなり辞表をテーブルに叩きつけ「私の辞表を受け取るか、小林の本を出版するか、この場で決めてくれ」と伊賀さんに迫ったのである。これにはさすがに温厚な伊賀さんも色をなし「少し常識をわきまえろ。編集長である私の判断に従えないならいつ辞めてもいいが、こういう席で言い出すことではないだろう」とU氏が出した辞表を破り捨てた。
私の処女作はこういう経緯を経て生まれたのだが、結果的には11刷り10万部を超える大ヒットになった。通常これだけのヒット作になったら出版社は次々と出版計画を立ててくれるものだが、祥伝社が私に2冊目の出版を依頼してきたのは私が光文社からヒット作を連発するようになって以降の1990年になってからであった。私の処女作『徳洲会の挑戦』が世に出たのが1979年だから、その間に11年もの歳月が流れたことになる。その事実が、この本の出版が如何に異常な状況下で実現したかを何よりも雄弁に物語っている。
その後、年月はさらに流れ、バブルの崩壊のころから出版界にも大きな変化が訪れた。漫画がブームになりいい大人が電車の中で漫画本に夢中になるような、いわゆる「活字離れ」が急速に進行し、私の執筆活動も1998年の32冊目の単行本『西和彦の閃き 孫正義のバネ』をもって終焉した。単行本の出版は事実上不可能になった(初版が3千部や5千部の仕事では赤字になる)が、雑誌の仕事はしようと思えばできた。が、雑誌は月1冊発行の月刊誌でも編集者が10人前後いて、あらかじめ編集会議でテーマからどういう主張をするかまで決めてしまう。その後、それぞれのテーマにふさわしい著者を選び原稿執筆を依頼するのだが、たとえば私が依頼されたとして、実際に取材すると編集部が決めた狙いどおりの原稿が書けるとは限らない。で、私は自分が取材した結果に基づいて私の考えで原稿を書く。ところが雑誌の編集者は自分たちのほうが著者より上位に位置していると考えているらしく、著者に断りもなく勝手に原稿を改ざんしてしまうのである。あまりにもひどかったケースでは私はその雑誌の発行差し止めの仮処分申請をしようと考え、知り合いの弁護士に相談したことがあるが、弁護士の「裁判で勝つ可能性はかなり高いが、そうなると小林さんはこれから出版界全体を敵に回してしまうことになりかねない」というアドバイスに従わざるを得ず、その代わり私はもう2度といかなる雑誌の執筆依頼にも応じないことにした。その結果私はいやおうなしに事実上の失業状態になったというわけである。
その私がブログでマスコミ批判をすることにしたのは、実は処女作(『徳洲会の挑戦』)の中で、医者と患者の力関係が圧倒的に医者側に有利になっている状況(誤解を招くといけないので現在は相当改善されている。その理由は残念ながら医者のモラルが高くなったからではなく、医者は儲かる仕事だということで開業医が増えすぎ、患者の奪い合いが始まった結果、市場原理が働いて患者を大切に扱うようになったからでもある。もちろん「患者は医者のためにある」という驕った医者ばかりというわけではなく、「医者こそ患者のためにある」という医者本来のモラルを持って診療してくれる医者は昔もいたし、今はそういうモラルを持つ医者が増えてきたことも確かである)が、マスコミと国民(読者や視聴者)の関係でもおかしな状況が定着してしまっているからである。
すでに書いたように、かつての医者は{医は仁術なり」という医者にとってきわめて都合のいい医業観(実はこの「定義」は儒教思想を背景に作られたのだが)を口実に患者に君臨してきた。同様にマスコミは「社会の木鐸」というマスコミ側にとってきわめて都合のいい「定義」を口実に国民の批判を封じ込めてきた。それが証拠に新聞はすべて読者の投稿にある程度のスペースを割いているが、その新聞の主張を批判した投稿は絶対に採用されない。読者の批判を封じてきただけではない。政官財癒着のトライアングルを「村社会」と批判しながらマスコミの世界そのものを「村社会」化することで言わば「核シェルター」の中(つまり絶対的な安全地帯)でぬくぬくと言いたい放題、書きたい放題を重ねてきた。私は4月7日に朝日新聞の秋山耿太郎社長宛てに現在のマスコミの姿勢を憂い、フェアな社会を構築するためにマスコミがどういうスタンスをとるべきかA4版9ページに及ぶ批判と改善策を提言した手紙を送ったが、たぶん社長室の愚か者が破棄したのだろう、完璧に無視された。その全文をこのブログで紹介するのは無理なので、最後の提言の部分だけ転記する。私がこのブログをはじめた理由がこの提言に込められているからだ。
最後に朝日が真のジャーナリズムに立ち直るための提言をして秋山社長へのお手紙を終わりにしたいと思います。
まずマスコミ界を覆っている「村社会」を根絶することです。私はこれまで何度も朝日の広報(朝日の読者窓口)に読売のアンフェアな記事や主張を指摘してきちんと批判をすべきだと申し上げてきました。同様に読売の読者センターにも朝日批判をためらうなと言ってきました。日本のマスコミ界を代表する2紙が、主張の相違は互いに尊重しあいながらも、もし相手がアンフェアな方法で主張した場合は厳しく批判し、もし反論された場合は反論の全部ではなくても要旨は自紙でもきちんと紹介する(私のように2紙を取っている読者は少ないと思うので、フェアな論争を行うための最低限の保証です)ようになれば、朝日も読売もフェアな主張しかできなくなります。2紙とも談合を繰り返してきた建設業界に対しては「村社会」と極め付け批判してきました(それはジャーナリズムの当然の義務です)。しかしマスコミ自身が村社会の中で安穏として言いたい放題、書きたい放題、そのあまりのひどさに政府や官庁がちょっとでも口を出そうものなら、たちまち「言論の自由」を錦の御旗のように叫んで撥ね付けますね。
これで再開ブログ(gooのコンピュータが私のブログにおかしな処理をしたのでメールで改善を求めましたが、コンピュータが「迷惑メール」と判定し受信を拒否されました。やむを得ず、いったんgooブログから退会し、再入会したというわけです)の第1弾を終了します。 乞う 第2弾にご期待を。