小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「のど元過ぎて熱さ忘れるな」--原発・オスプレイ・沖縄基地軍人犯罪について

2013-01-02 10:21:56 | Weblog
 明けましておめでとうございます。
 昨年は体調が回復した夏からブログ活動を再開して以降、多くの方々に訪問・閲覧していただいてありがとうございました。
 昨年のブログ活動について、反省すべきことがあります。あまりにも私のブログが長文のため「読んでいて疲れる」という友人からの指摘をたびたび受けました。ツイッターやフェイスブックなど簡潔なメッセージがインターネットでの主張発信の主流になっていることを考えると、やはりもっと簡潔なブログ記事を書くべきだろうという結論に達しました。で、今年は多くても原稿用紙にして400字詰め10枚以内(文字数実数で約3500字)に収めることを目標にすることにしました。それを可能にするには本筋から外れた余談は極力省き、「余談が面白い」という声も多数いただいていますので、余談は独立したエッセイ風なブログで書きたいと思います。

 というわけで、今年の最初のブログのテーマは「のど元過ぎても熱さ忘れるな」をエッセイ風に書くことにしました。このテーマはもちろん「のど元過ぎて熱さ忘れる」という日本人の特性に対する戒めです。
 その典型的な例として原発問題とオスプレイ問題、沖縄基地問題について書きます。すべて共通した要素があるからです。
 まず原発問題ですが、私のブログ読者は私が単純な「反原発」派ではないことをご存知です。福島原発の事故が起きるまで「日本の原発は世界一安全」という安全神話に政府も電力会社も「反原発」派を除く大多数の国民は寄りかかってきました。
 なぜでしょうか。広島・長崎という被爆体験を世界で唯一DNAに刻み込んできた日本人には原子力に対する根強い反発があります。そのため原発をつくるというとたちまち地元だけでなく広く反対運動が巻き起こってきました。その反対運動が政府や電力会社に「絶対に事故を起こしてはならない」という緊張感を培ってきたのです。その緊張感が「世界一安全な原発」を過去40年間にわたり維持してきた最大の理由です。しかし原発に限らず、安全な状態が続くと緊張感がどうしても薄らいできます。
 たとえば自動車の運転免許を初めてとった当初は誰でも安全第一を重視した運転をします。しかし、危険な目に合うこともなくある程度の年月がたつと、「自分は運転がうまいんだ。事故なんか絶対起こさない」という自信過剰状態に陥ります。20歳前後の若い人に無謀運転による事故が多いのはそのせいです。その一方若い人は運転技術は確かに上手です。だから若い人の起こす事故は重大な人身事故(無謀運転が原因です)の比率は高いのに、物損事故の比率は低いと思います(これは論理的推論です。おそらく損保会社が事故の実態を調べれば私の推論は実証されると思います)。したがって若い人の重大な人身事故を防ぐためには保険制度を抜本的に見直し、人身事故についての保険料を高くし、物損事故の保険料は安くするという方法にすれば、若い人の無謀運転は減少するはずです。一方結婚して子供ができるころになると運転は慎重になります。そういう人に対する保険料は安くできるはずです。高齢者になると運転操作は慎重になるため無謀運転による人身事故の発生率は下がりますが、とっさの時の判断力が低下しているためブレーキとアクセルの踏み間違いを生じるケースが増大しますから人身事故に対する保険料は安くし、物損事故の保険料を高くすると事故率はやはり減少するはずです。余談はやめると言いながら、また余談になってしまいましたが、要するに緊張感をどうやって持続させるかが、原発にせよ自動車事故にせよ未然に防ぐための最良の方法だということを言いたいのです。
 私が言うことは一見矛盾しているかのように思われるかもしれませんが、原発の安全神話を復活させるためには、常に政府や電力会社に緊張感を持続させるための「反原発」運動が絶対不可欠だというパラドックスです。民主主義の権力に対するチェック機能というのはこういう時最大の効果を発揮するのです。民主主義にはまだまだ多くの欠陥がありますが、見捨てたものでもないという格好の例がこういう時発揮されるのです。
 安倍首相が新しい原発建設の方針を打ち出しています。私は一概にその方針を否定するものではありません。しかし安倍首相が言う「これから建設する原発は40年前に作られた福島原発とは比較にならないほど安全性が高まっている」という主張には同意できません。具体的な根拠を明らかにしていないからです。もちろん40年の間に原発の技術は相当程度高まっているだろうことは私もわかります。しかし私に理解できるのは「相当程度」というあいまいなものです。原発建設に何の責任もない私なら「原発の安全性はこの40年間で相当程度高まっているはずだ」と言っても、だれからも責任を問われません。しかし日本のかじ取りをする最高責任者である首相はその発言に責任を負わなければならないのは当然です。安倍首相が「安全だ」という以上、「どの程度安全になったのか」という根拠を示す必要があります。たとえば福島原発の原子炉に比べ、使用する材料や構造がどう変わり、その結果安全性が何%向上したか、といったことを国民にきちんと説明する必要があります。具体的根拠を示さず「首相である俺の言うことを信じろ」方式の押しつけには説得力があるはずがありません。
 オスプレイ問題もそうです。私は何度もブログでオスプレイはまだ安全な飛行機だという検証はされていないと主張してきました。オスプレイ搬入を認めた野田内閣の森本防衛相は一回オスプレイに乗っただけで「安全であることが確認できた」と日本の米軍基地への配属を認めました。いまのところ米国防総省も日本に配備したオスプレイが事故を起こしたら日本中が大変な大騒ぎになり、一気の米軍基地撤廃運動が燎原之火のごとく広がることはわかっていますから、ものすごい緊張感を持って運営に当たっていますから事故を起こす確率は非常に低いだろうとは私も思います。しかし、これも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、無事故運行が続くのに反比例して緊張感が失われていくのは原発の安全神話がどのような過程で作られていったかを考えれば一目瞭然です。日本人のオスプレイに対する危機感が薄らいでいくのと軌を一にして米軍の緊張感も失われていき、そしていつの日か取り返しのつかない事故を起こす可能性が高まっていくことはもうこれ以上言う必要はないでしょう。
 最後に米軍兵士の犯罪問題です。これも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ケースの一つです。というより、これほど繰り返されると「のど元過ぎないうちに熱さ忘れる」と言いたいくらいです。いくら沖縄米軍基地の総司令官が「基地外での飲酒を当分禁止する」と言っても罰則規定がないのですから、そんな禁止令なんか何の効果もありません。将来の出世を望んでいる軍人には効果があるでしょうが、もともとそういう軍人が基地外で婦女暴行などの犯罪を犯すわけがありません。将来の出世が期待できない軍人が犯しがちな犯罪であることを考慮に入れると、厳しい罰則規定を盛り込んだ禁止令でないと意味がないと言えるでしょう。
 年初めの今日はこれでブログを終えますが、何事も「のど元過ぎても熱さを忘れさせない仕組み」はあらゆることにつながる問題です。このことを今年のブログ活動のテーマとして書いていきたいと思っています。
 今年もよろしくお願いします(文字実数は約3000字に収めました)。