小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権問題――全国紙5紙社説の論理的検証をする。結論から言えば、メディアは理解していない。②

2014-07-07 06:06:55 | Weblog
 読者の皆さん。土日の休日、といっても私のブログ読者の大半を占めていると思われるメディアの方たちには、土日が必ずしも休みとは限らないので、ゆっくり私が全国紙5紙社説の論理的検証を行う視点として、あらかじめ明らかにしておいた9つの論点の大半に「あ、そういう視点でこの問題に向き合わなければいけないのか」と気が付かれた方が多かったのではないだろうか。
 メディアの方たちが、なぜこういう視点で集団的自衛権問題に向き合えなかったのか。それは何度も私がブログで書いてきたように、「安倍総理が、従来の政府解釈を変更して、集団的自衛権の行使容認を、憲法解釈の変更で可能にしようとしている」という思い込みに思考が縛られてしまっているためである。そうなると、メディアは必然的に「憲法解釈変更の是非」という極めて狭い視野で集団的自衛権問題に向き合ってしまうことになる。
 ジャーナリストの決定的欠陥は、いったん思い込んでしまったら、あとはその思い込みが目隠しになってしまって、いわば競馬馬のように極めて狭い視野でしか見れなくなってしまう。そういう欠陥はジャーナリストに限らず、多くの人が抱きがちなことだが、いまはその思い込みを修正する手段がある。何かを考えたり書いたりするとき、自分の思い込みが正確かどうかネット検索することだ。
 ウィキペディアの存在は多くの方がご存じだが、しばしば書き換えられていることにお気付きだろうか。一度ウィキペディアで調べたら、その時の解説が「思い込み」になってしまい、同じキーワードでもう一度調べるといったことをされないのではないだろうか。ウィキペディアの解説がしばしば誤っていることは多くの方がご存じだが、かなり頻繁に書き直されていることまでご存じの方は少ないのではないか。
 私は生来、右脳と左脳のバランスが取れていなく、極端に左脳に偏っている。そのため記憶力が若いころから乏しく、中学、高校の友人たちの一部から「天才」扱いされていたが、それは数学や物理のテストの成績はつねに学年のトップクラスだったのに、すべてのテストの平均点は「赤線すれすれ」とまではいかなかったが、いわゆる「優等生」のランクには入れなかった。ただ、得意だった数学や物理も、高校3年になった途端やる気を失った。数学では微積分が教科になり、物理では電気が教科になった。いずれも、大量の公式を、なぜそういう公式ができたのかの理解もできずに記憶し、公式を使って問題を解くテクニックを覚えるのが勉強の目的になってしまったからだ。そうした公式主義の教育で優秀な成績を収めてきた人たちが大手を振って歩くという学歴社会が、メディアの世界でも構築されているからではないかと思う。
 最近、電車に乗っていて隣の席に幼子を抱いた若い女性が座った。目が大きくくりくりした可愛い子だったので、思わず見も知らぬ女性に声をかけた。
「かわいい赤ちゃんですね。いくつ?」と聞いたら、「明日が1歳の誕生日なんです」という。頭がよさそうに思えたので、余計なお世話とは思ったが、私の失敗から「子育ての方針」を教えた。「この子があと2,3年たつと、お母さんにいっぱい『なぜなぜ』と疑問をぶつけるようになります。これは幼い子供が自分の頭で考えようとする最初の行動です。それをうるさがってはダメです。自分も分からないことだったら、いまはネットなど調べる方法がいっぱいある。それでも分からなかったら、『お母さんも今は分からないから一緒に考えようね』と、子供が疑問を持つことを肯定する姿勢を持ってください」と言った。
 女性は「実はこの子の兄がいま3歳で、おっしゃる通り、いっぱい疑問をぶつけてきます。忙しいと、ついうるさいと思ってしまうんですけど、それではダメなんですね」とすぐ理解してくれた。私は「そう、子供が自分の頭で考える能力の成長を止めてしまうことになりかねません。あなたも学生時代にテストのため勉強したことのどれだけをいま覚えていますか? それを考えたら、この子が大きくなったとき、どういう能力を発揮できるようになるかは、いま子供がぶつけてくる疑問に対してどう対応してあげるかで、この子の一生が決まるといっても過言ではないんです」と話した。
 そういう会話をしながら、幼子の頭を撫でていた。幼子が私の目をじっと見つめだしたので、思わず人差し指を出したら、幼子が私の人差し指に手を伸ばして握りしめた。女性はびっくりして「この子はまだ祖父や祖母にもなつかないのに、初めて会った人にこんな態度をとったのは初めてです。嬉しいです」と言ってくれた。赤ちゃんの感性の鋭さは、このくらいある。大人は子供を見くびってはいけない。むしろ、子供が持つ疑問に一緒に向かい合う姿勢が、少子高齢化社会になかなか歯止めがかからない状況で、将来の日本を担ってもらわなければならない子供たちの能力をいかに高め、日本が世界に貢献できる国づくりを支えてくれるように育てるためにはどういう教育をすべきか、どういう子育てをすべきか、制度の問題より「教育」とは何か「子育て」とは何か、という原点に立ち戻って既成観念を超えなければならない。
 幸いこの女性は私の意図を理解してくれて、「今晩でも主人と子育てについて話し合います」と言って、電車を降りるとき何度も「ありがとうございました」と頭を下げながら私の視界から消えた。

 集団的自衛権問題を考える場合も、まず子供のような素朴な疑問を持つ訓練を自ら行うことから始めていただきたい。具体的には従来の政府解釈についての、子どもだったら間違いなく持つはずの疑問を、メディアがなぜ持てなくなってしまったのか、ということからスタートする必要がある。
 その疑問とは、集団的自衛権問題に初めて取り組んだ昨年8月に私が抱いた疑問である。従来の政府見解は「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利で、国際法上、日本も固有の権利として保持しているが、憲法の制約によって行使できない」というものであった。今でも読者の大半はその政府見解に立って考えておられると思う。実際、私が初めて集団的自衛権問題に取り組んだとき調べたウィキペディアも、この説を述べていた。
 私は、なぜ「他国のために行う軍事行動が自衛なのか」という疑問を持った。だからこの見解は普遍的なものなのか、それとも日本政府の独自の見解なのかという疑問を抱いたのである。その疑問点を出発点にすると、日本政府がなぜこんなおかしな見解を国会答弁でしたのかという2段目の疑問を持たざるを得ない。そういうおかしな見解を発表しなければなら内容の事情が、当時の日本にあったのかと考えると思い浮かばない。ウィキペディアで野党のどういう質問に対して政府がこういう答弁をしたのかが分かれば日本独自の見解が当時の政府にとってどうしても必要だった理由が分かるのだが、それも分からない。メディアもいつの政府答弁化は教えてくれるが、なぜ当時の政府にとってそういう見解が必要だったのかの説明は一切ない。
 そう考えると、疑問は3段目に進む。日本独自の見解でないとすれば、集団的自衛権についてのそういう解釈を必要とした世界を動かすだけの力のある国が、戦争を始める際の口実にした可能性が強いと考えざるを得ない。一体、どの戦争で世界を動かすだけの力のある国が「集団的自衛権」を行使したのかが、やはりウィキペディアでは分からない。ソ連のポーランド動乱への介入や「プラハの春」の弾圧、アメリカのベトナム戦争はどう考えても「集団的自衛権の行使」には該当しない。
 たとえば今、ウクライナやイラクで国内紛争が生じている。ウクライナの紛争はどうやら収束に向かいそうな気配だが、イラクの混沌とした状況は予断が許さない。しかし、これらは国内の紛争であり、「密接な関係にある国が他国から攻撃された場合」というケースにも当てはまらないし、まして「自国に対する攻撃とみなす」ことなど、どう考えても無理がある。私はそうやって疑問を積み重ねていく。これが物事を論理的に考えていくための弁証法的手法である。別にヘーゲルの『大論理学』や『小論理学』などの難しい本を読まなくても、子供のように素直な疑問を持つように心がければ簡単にできる思考法だ。
 実は今、ウィキペディアはどう説明しているか。直接ご自身でお調べいただきたいとは思うが、面倒だという方のために私が転載する。

集団的自衛権とは、他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けてい
ない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。その本質は、直接に攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処するというところにある。なお、第三国が集団的自衛権を行使するには、宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは、戦時国際法上の中立義務違反になる。なお、「第二次世界大戦後に集団的自衛権を理由に行われたアメリカの参戦などで宣戦布告は行われていない」という俗説があるが、イラク戦争ではアメリカは2003年3月17日に宣戦布告(条件付開戦宣言を含む最後通牒)を発している。

 もう以前のウィキペディアの解説はプリントしたものが手元に残っていないが、私のおぼろげな記憶では6月中旬に書き換えられている。その解説には「正確さに疑問が呈されている」という注釈がついていたが、今日調べた解説にはそうした注釈がついていない。違いはどこにあるか。書き出しの「集団的自衛権とは……国際法上の権利である」とのあとに「と日本国内の一部の法学者や政治家らが主張している権利である」という一文が付け加えられていた。また6月中旬に書き換えられた解説にはなかった「なお『第二次世界大戦以降に…』」の文章は書かれていなかった。現在掲載されている解説には「正確さに疑問が呈されている」という注釈はついていない。
 さらにウィキペディアでは国連憲章51条に加盟国の固有の権利として明記されるに至った経緯についてこう説明がされている。この個所は6月中旬のものと同じである。

1944年にダンバートン・オークス会議において採択され、のちに国連検証のもととなったダンバートン・オークス提案には、個別的又は集団的自衛に関する規定は存在しなかった(※国連憲章に全加盟国が署名したのは1945年6月。10月の国際連合=英語の原文は「連合国」=の設立と同時に発効)。しかしのちに国連憲章第8章(※第51条は第7章)に定められた“地域的機関”(欧州連合やアフリカ連合などの地域共同体のこと)による強制行動には、安全保障理事会による事前の許可が必要とされることとなり、常任理事国の拒否権制度が導入されたことから常任理事国の拒否権発動によって地域的機関が必要な強制行動を採れなくなる事態が予想された。このような理由から、サンフランシスコ会議におけるラテンアメリカ諸国の主張によって、安全保障理事会の許可がなくても共同防衛を行う法的根拠を確保するために集団的自衛権が国連憲章に明記されるに至った。

 現在のウィキペディアにはイラク戦争についてアメリカが宣戦布告した甲斐中について書かれているが、なぜ集団的自衛権の項目に記述されるのか。湾岸戦争の場合は、アメリカとクウェートが同盟関係を結んでいたかどうかは知らないが、イラクが突然クウェートに侵攻し、無防備状態だったクウェートはたちまち中東の軍事大国イラクに占領されてしまった。クウェート政府は当然密接な関係にある国に「助けてくれ」と手を挙げたはずだ。そのクウェート政府の要請に応じてクウェートと密接な関係にある国が軍事支援をしたら、いったい「集団的自衛権」を行使したのはクウェート政府なのか、それともクウェートを助けた国なのか。
 北大西洋条約(NATO)について考えてみよう。この条約の加盟国は相互防衛協定を結んでいる。つまり加盟国のいずれかが他国から攻撃されたら、その国は他の加盟国に軍事的支援を要請する権利があり、要請を受けた加盟国はその国を助ける義務がある。このことについては異論は100%でないはずだ。
 権利と義務はいわば1枚の紙の裏表のような関係にあり(これはヘーゲル弁証法の考え方)、権利を行使するためには反対給付としての義務を負う。北大西洋条約はそういう相互の権利・義務関係を加盟国が認めることで成立している。一方すでに崩壊したが旧ソ連を中心としたワルシャワ条約機構は、北大西洋条約とはちょっと違う。
 北大西洋条約が加盟国間の対等な関係を前提としており、従って加盟国は「他国から攻撃されたとき応援を頼める権利」と「加盟国から応援を頼まれたとき支援しなければならない義務」を相互に持っているが(双務的関係)、ワルシャワ条約機構は旧ソ連邦が加盟国の防衛義務を一方的に持っていた(片務的関係)。それは、たとえば山口組のような暴力団の組織構成を考えれば理解できる。山口組の組織構成は、傘下に○○組といった多数の暴力組織を従えており、○○組は本家の山口組に上納金を納める代わりに、自分の縄張りを山口組に保証・保護してもらう。それと似た関係が旧ソ連とワルシャワ条約加盟国の間にはあった。だから、良し悪しの判断は別にしてワルシャワ条約機構加盟国の政府が反政府運動の高まりで政府が転覆しかねない状態になったとき、旧ソ連軍の戦車が反政府運動を踏みにじったのは、国連憲章上の合理性があるか否かは別として、旧ソ連にとっては正当な権利の行使と言えなくもない。
 もし、そういういびつな権利・義務の関係は、国連憲章が加盟国に認めている自衛権(51条)には該当しないということになると、同様に片務的な権利・義務関係にある日米安全保障条約も国連憲章違反の条約ということになる。この考え方に「異」を唱えられる法学者は一人もいないはずだ。念のため、国連憲章は「国際間の紛争」の解決方法についての原則は示しているが、「国内の紛争」については何の解決法も書いていない。国連憲章の致命的欠陥と言えよう。
 なお、昨年8月29日に私が投稿したブログ『安倍総理は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』で私はこう書いた。

(国連憲章51条の条文では「個別的又は集団的自衛の権利」となっており、「個別的及び集団的自衛の権利」という表記にはなっていないことを指摘したうえで)なぜそういうおかしな表現になったのか。実は国連憲章は戦争を犯罪行為と見なし、戦争という手段による国際紛争の解決を禁じている。その国連憲章に違反して加盟国に対して武力攻撃が行われた場合は、自国の軍隊による「個別的」自衛の権利を行使するか、他の加盟国に守ってもらう(これが「集団的自衛」の意味)権利があるというのが国連憲章51条の趣旨と考えるのが論理的である。(中略)
 だから、憲法解釈で集団的自衛権を認めることにするか、まだ片務性が強くアメリカとの対等な関係が築けない日米安保条約を、より双務的なものにすることによって、たとえば沖縄の基地問題などを解決するための法整備をどうするかは、別個の問題として考えるべきなのである。まず安倍総理自身がこの問題をごっちゃにしている。(中略)日本は日米安全保障条約によって、日本が他国から不法に侵害を受けた場合、アメリカが防衛する義務を負っていることにより、すでに集団的自衛権を有しているのである(※この表記はブログタイトルと同様正確ではない。「日本は有事の際、集団的自衛権をいつでも行使できる状態にある」と書くべきだった。このブログを書いた時点では、まだ「保持」と「行使」を多少ごっちゃに理解していた)。
 日本人のほとんどは日本とアメリカは同盟関係にあると思っている。とんでもない話だ。(中略)アメリカにとって最大の同盟国はイギリスである。米英の間にどういう条約が締結されているか、私には知る由もないが、おそらく双務的な軍事同盟としての細かい約束事が盛り込まれているはずだ。だから湾岸戦争やイラク戦争にも、アメリカが直接他の国家によって不法に攻撃されたわけでもないのに、アメリカの報復行動にいち早く軍事的協力を行っている。もち
ろんイギリスも議会の承認を経て行っているはずだ。
 日本は勝手にアメリカを同盟国と位置付けているが、アメリカは単なる友好国の一つ(ただし重要な友好国とみてくれてはいると思うが ※そう書いたが、いまは疑問を持っている)と位置付けているはずである。確かに日米安全保障条約は、日本が攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務があると書かれている。アメリカはその義務を負う代償として米軍基地を日本から無償で借り上げ、米兵士の宿舎をはじめ様々な施設を日本に無償で提供させ、さらに日本政府は「思いやり予算」などという屈辱的な財政的支援まで行っている。
 が、日本の米軍基地の大半は、実は日本を防衛するためのものではない。首都圏周辺にもいくつかの基地が配備されてはいるが、これらの基地にどれだけ日本の首都を防衛できるだけの軍事的配備が行われているか、マスコミは報道しようとさえしない。私はかなり前だが、米軍の座間キャンプ内にあるゴルフ場でプレーしたことがあるが、軍事基地としての緊張感はまるで感じられなかった。はっきり言って米兵のための日本における保養地でしかない。
 (※要約)アメリカにとって最重要な軍事拠点は沖縄に配備されている基地群である。もちろん沖縄を攻撃する国があるとは考えられないし、沖縄方面から日本を攻激する国もない。しかし、アメリカにとっては、東南アジアおよび東南海を勢力圏に収め続けるために、沖縄とグアムは最重要な軍事拠点なのである。
 (原文)これまで何度もブログで主張してきたが、やっと憲法96条を改正できる可能性が現実的になりつつある。いまは、とりあえず96条を改正して憲法改正の発議要件のハードルを低くし、日本という国の在り方を国民が自ら決められるようにすることを最優先すべきだ。そうした状況を整備したうえで、日本が国際社会にどういう貢献をすべきかを国民に問い、国民が決める。そういうプロセスを作り上げるのが「政治の王道」ではないだろうか。

 さて最新のウィキペディアには、集団的自衛権の項目で、日米安全保障条約についても触れている。上記のブログを投稿した時点では、この説明はなかったと思う。私のブログを読んで書き変えたのか、それとも独自にそういう結論に達したのかは定かでない。最新のウィキペディアは、集団的自衛権の行使についてこう解説している。

集団的自衛権が攻撃を受けていない第三国の権利である以上、実際に集団的自衛権を行使するかどうかは各国の自由であり、通常第三国は攻撃を受けた国に対して援助をする義務を負うわけではない。そのため米州共同防衛条約、北大西洋条約、日米安全保障条約のように、締約国の間で集団的自衛を権利から義
務に転換する条約が結ばれることもある。国際慣習法上、相手国の攻撃が差し迫ったものであり他に選択の余地や時間がないという「必要性」と、選択された措置が自衛措置としての限度内のものでなければならないという「均衡性」が、国家が合法的に個別的自衛権を行使するための条件とされる。

 憲法解釈の変更などしなくても、日本の安全のための自衛手段として「集団的自衛権」は日米安全保障条約によって保障されていることをウィキペディア最新版は認める解説をしている。
 だが、実際に権利の行使として自国が攻撃されたとき、共同防衛する条約を結んでいる「同盟国」が、条文に従って軍事的支援行動に出るかどうかはわからない。米オバマ大統領が「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条(※日本の領土が攻撃された場合、日米は共同で防衛することを約した条文)の範囲だ」と
言ってくれても、それで尖閣諸島が中国から侵略されないという保証にはなら
ない。現に竹島は日本が主権国家として独立を回復したとたん韓国が武力占拠し、アメリカは韓国に「不法だ」と警告し、さらに竹島に米軍基地を置くことまで日本政府と約束しておきながら、韓国の不法占拠を黙認し続けている。尖閣諸島の防衛にしたって、米中関係の変化によっては、アメリカは日本との約束を反故にすることなど「へ」とも思っていないだろう。(続く)