小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

やっぱり沖縄の米軍基地は日本の安全保障が目的ではなかった。

2015-01-16 10:21:25 | Weblog
「やっぱり」。……そういう感じがぬぐえない。
 そもそもサンフランシスコ条約で日本が独立を回復した時点で、なぜ沖縄の施政権が日本に返還されず、米軍の占領下に置かれたままだったのかの、きちんとした説明責任を回避してきた日本政府の責任が改めて問われることになる。
 外務省は15日午前、沖縄返還についての日米間の外交交渉文書ファイル41冊を東京・麻布台の外交史料館で公開した。
 沖縄返還が実現したのは1972年5月15日。サンフランシスコ条約が発効して日本が独立を回復したのが1952年4月28日。日本が独立を回復してのちも、沖縄は20年間にわたって米軍の占領下に置かれてきた。なぜアメリカは長期にわたって沖縄を占領し続ける必要があったのか。
 実は日本が独立を回復したのは朝鮮戦争の真っ最中。朝鮮戦争は50年6月25日に始まり、53年7月27日の休戦協定まで続いた。朝鮮戦争の真っ最中に日本を独立させたアメリカの事情についてはここでは述べない。ただ日本の領土である沖縄の占領をアメリカが続けた理由だけ書いておく。
 朝鮮戦争のさなか、ベトナムではフランスからの独立を巡ってインドシナ戦争(1946~54年)が行われていた。先の大戦で疲弊していたフランスはベトナム民族の攻勢に耐え切れず、アメリカに資金・軍事両面での支援を要請、50年にはアメリカ軍がフランス軍への支援を始めた。が、フランスのインドシナ植民地支配の悪質性もあって、アメリカ国内でのフランス軍支援に対する厳しい世論もあり、本格的な支援には至らなかった。そうしたこともあってインドシナ戦争最後の戦いとなったディエンビエンフーの決戦でフランス軍はベトナム軍に大敗、54年4月26日にスイス・ジュネーヴに関係国が集まって戦争が終結した。この和平により、ベトナムは朝鮮と同様北緯17度線を境に南北に分裂、フランスの支配からそれぞれ独立することになった。
 このとき締結されたジュネーヴ協定では2年後の56年には南北統一全国選挙が行われることになっていたが、アメリカは協定を拒否、統一選挙も拒否して55年10月には傀儡政権のゴ・ディン・ジェム政府を樹立して南北分断の固定化を画策した。ゴ政府は南ベトナムのベトミン勢力を激しく弾圧、ベトミン勢力は南ベトナム解放民族戦線を組織し、60年12月にはゴ政権に対して武力攻撃を開始して長期にわたるベトナム戦争が始まった。
 このジュネーヴ協定が締結された時期の54年、アメリカではアイゼンハワー大統領とダレス国務長官が中心になって、冷戦時代におけるアメリカの基本的な外交戦略を決定していた。それが、いわゆる「ドミノ理論」である。
 ドミノ理論とは、一国が共産主義化するとドミノ倒しのように近隣諸国が次々と共産主義化していくという、当時のスターリン・ソ連の共産主義勢力の拡大政策に対抗するための理論である。実際、先の大戦後、東欧諸国は次々に
共産主義化し、ソ連の勢力圏に組み込まれていった。同様にアジアでもドミノ
理論が実現した場合、中国→朝鮮→ベトナム→ラオス→カンボジア→タイ→マレーシア→インドネシア→ビルマ(現ミャンマー)→インド、と次々に共産主義化しかねないという考え方が、アメリカの基本的外交戦略の根幹になる。アメリカが沖縄にしがみついてきた基本的理由は、そこにあった。
 そのため沖縄県民の悲願でもあり、日本政府にとっても沖縄返還は歴代政府の大きな課題でもあった。沖縄返還が実現したのは、すでに述べたように72年である。が、56年度の『経済白書』はその結びで「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した。日本経済は確かに朝鮮戦争特需で奇跡的な復興を成し遂げつつあったが、まだ高度経済成長期には入っていない時期だ。しかも沖縄はいぜんとしてアメリカの占領下にあった。日本が独立国家としての尊厳も矜持も投げ捨てた瞬間でもあった。そのことを私たち本土の人間も沖縄県民も、一生忘れてはいけない。
 先を急ぐ。このほど明らかになった外交文書によれば、返還前の65年8月、日本の総理として戦後初めて沖縄を訪問した佐藤栄作首相が、那覇市で行われた歓迎式典で行う予定の演説内容に関し、アメリカ側が強く異議を唱え、沖縄の安全保障上の重要性を盛り込むよう要求していた内容が判明した。
 佐藤首相が沖縄を訪れたのは8月19日。その2日前の17日に日本政府は米側に演説の原案を示していた。その内容に米側が注文を付けたのである。
 佐藤首相は訪沖縄当日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」と述べた。が、歓迎式典での演説では「安保条約に基づく日米盟邦関係、沖縄の安全保障上の役割の重要性および米国の施政下でも経済的社会的進歩のあった事実」に言及させられた。実際に佐藤首相が米側の要求を受け入れて修正演説した部分は以下である。

 わが国は、日米相互協力及び安全保障条約によって米国と結ばれており、盟邦として互いに相協力する関係にあります。また極東における平和と安全のために(※この表現が米軍沖縄基地のアメリカにおける位置づけを明白に物語っている)、沖縄が果たしている役割はきわめて重要であります。(※この後取ってつけたように)私は沖縄の安全がなければ、日本本土の安全はなく、また日本本土の安全がなければ沖縄の安全もないことを確信しております。(以下略)

 これまで、沖縄の米軍基地が日本本土の安全保障や抑止力になっているという、軍事専門家による論理的な解明は一度もされていない。
 当り前の話だ。沖縄の米軍基地は、もともとはドミノ理論に基づいて極東地
域への共産主義勢力膨張に対する防波堤として位置付けられてきたことはすで
に明らかにしてきた。森本元防衛相は民放のテレビ番組で普天間基地移設問題に関し、「移設先が辺野古でなくても九州の鹿児島・長崎あたりだったら、抑止力は多少低下するが問題ないと思う」と、あたかも沖縄県民が示した民意に同調するかのような発言をしたことがあったが、沖縄だろうと九州だろうと、米軍基地はもともと日本本土にとっての抑止力として設けられているわけではないことが、今回の外交文書公開によっても明らかになった。
 普天間基地の辺野古に限らず、沖縄県内移設に対して沖縄県民はNOという意思を、沖縄県知事選においても、また先の総選挙においても示した。それでも沖縄県民の民意を無視していいのか、ということについて国民の意志を安倍内閣は問うべきだろう。もし、日本全国の国民が「沖縄の米軍基地は日本の国益に合致する。沖縄県民は日本全体のために犠牲になってしかるべき」という民意を示したなら、それはそれで日本国民の総意として私も、日本人であることをひそかに恥じつつ認めざるを得ない。そのとき沖縄県民は、「琉球人」として民族自決の権利があることを、同時に私は認める。