小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

講談社のエリート編集者が「妻殺し」の容疑者になったのは? & 年頭雑感

2017-01-13 07:07:37 | Weblog
 昨年の大晦日に投稿した『電通の新人女性社員の過労自殺を無駄死に終わらせないために』の読者数がなかなか減らず、今頃になってようやく今年最初のブログを投稿できることになった。
 今年に入ってもっとも衝撃的なニュースは講談社のエリート社員の「妻殺し」(容疑)だろう。容疑者が韓国人ということなので、日本社会が抱えている「核家族」の問題と一概に結びつけるのは難しいと思うが、「核家族化=少子化」は先進国共通の問題でもあり、韓国では「核家族化」が遅れているようなので、一応その視点からこの問題を解明してみたい。
 まず「核家族」についてはアメリカの人類学者であるジョージ・マードックが定義している。①夫婦とその未婚の子供 ②夫婦のみ ③父親または母親とその未婚の子供 という家族構成を指している。
 日本の場合、1920年(大正9年)には核家族率が55%に達しており、1960年代に入って核家族率は急激に上昇しだしたようだ(ウィキペディアによる)。私は1940年の生まれだが、すでに我が家は核家族だった。父がサラリーマンだったため、田舎(兵庫県柏原)から勤務地の東京に移ったためである。終戦間際に父が当時の勤務地であった中国天津で召集され、敗戦と同時に母が私を含む子供二人と引き揚げ、兵庫の田舎に住むことになった。私にとっては祖父母との大家族生活がこの時期生じた。
 戦後2年ほどで父が帰還し、いったん再び核家族になったが、祖父の他界後、父が祖母を引き取り大家族になった。我が家の大家族時代は祖母の他界まで続いたが、その後は再び核家族になった。父の帰還後、弟が生まれ3人兄弟になったが、祖母がいたから母も子育てに専念できたのだと思う。
 私は結婚と同時にアパート住まいになり、以降は核家族しか経験していない。妻は専業主婦だったが、子育ては二人が限度だった。
 私が結婚したのは1972年だが、それまでOLだった妻は当然のように結婚と同時に専業主婦になった。これは全くの偶然だが、結婚して住んだアパートは新築の6戸(1DK)だったが、入居者の全員が新婚の夫婦で、全世帯が専業主婦家庭だった。当時は結婚すれば退社して家庭に入るのがOLの常識であり、「寿退社」という言葉が流行語になったくらいである。核家族世帯では、子供の世話をしてくれる母がいないため、大半の家が子供は二人までだった。少子化は核家族が生み出した必然の結果であり、先進国に共通した問題でもある(高齢化は所得水準の向上による食生活の豊かさと医療技術の急速な進歩による結果であり、少子化とは無関係である)。
 さて「妻殺し」の容疑がかけられている韓国籍のエリート社員だが、2005年度の韓国での統計によると、核家族率は54%と日本の大正9年以前の状態のようだ(2006年10月3日の朝日新聞夕刊の記事による)。容疑者は41歳ということだから1976年の生まれと考えられ、おそらく来日するまでは韓国で大家族制の生活をしていたのではないだろうか。兄弟も多く、被害者の妻が核家族で4人の子育てをする苦労に心が及ばなかったのではないだろうか。
 ただ容疑者は講談社では初めて育休をとって、子育ての苦労がわかっていたはずだし、朝日新聞のコラムにも自分の子育ての経験について書いていたくらいだから、なぜ妻の愚痴に真摯に耳を傾けてやれなかったのかが疑問である。実際、事件直前の妻とのメールの内容から考えても、容疑者に強固な殺意があったとは考えにくい。おそらく帰宅後の妻とのやり取りから、ついカッとなっての行為だったのではないだろうか。
 また会社での悩みを抱えていたかもしれない。メディアの報道によれば容疑者は編集者として大ヒットの連載漫画を担当し、講談社での将来も約束されていたような感じはするが、それはあくまで表面的な姿に過ぎず、いま出版界はかつてないほどの苦境に立たされている。
 漫画家にしても小説家にしても、ある程度固定読者がつけば明日のことを心配しなくても済むだろうが(ただし明後日はわからない)、編集者に固定読者がつくわけではない。大ヒットの連載漫画を担当し、京大法学部卒という学歴もあって、周囲は「彼の将来は約束されている」と見ていたかもしれないが、そうした周囲の期待は容疑者にとって、かえって大きな精神的負担になっていた可能性はある。そういう精神状態に陥っていたとしたら、妻の愚痴に誠実に耳を傾ける心の余裕はなくなっていたのかもしれない。
 実はメディアが報道しないので一般の人は出版業界の現状を知らないかもしれないが、いまインターネット上で最も広告が多い業種の一つは自費出版業である。自費出版のパイオニアは文芸社だが、いま雨後の竹の子のように自費出版の会社がインターネットの世界にあふれている。
 問題なのは、自費出版専門の会社が競い合っているだけではなく、講談社をはじめ大手の出版社も自費出版事業で何とか本体の屋台骨を支えているという事情がある。
 そのことを私が偶然知ったのは、友人から本を書くように勧められ、いくつか大手の出版社に企画を持ち込んだことからわかったことだ。いま大半の(おそらくすべてと言ってもいいだろう)出版社が著者からの「持ち込み企画」は通常出版としては扱えないとしていることだ。つまり企画を持ち込んでも、通常出版としては取り扱ってくれず、自費出版の部門を紹介されてしまうのだ。
 それも生半可な金額ではない。原稿をデータで渡しても(出版社には編集費用がほとんどかからないことを意味する)、3000~5000部の自費出版費用が300~500万円かかるというのだ。いちおう一流出版社はネット広告はしていないが(自費出版専門業者以外でネット広告を出しているのは幻冬舎くらいだろう)、実際に企画を持ち込んでみて、私自身が「驚き、桃の木、山椒の木」だった。
 一般的に出版社の単行本出版の内訳を、私が知っている限り書いてみる。仮に定価1000円の単行本の場合はこうだ。ただし、私はこのブログ連載の1回目に書いたように、初版が1万部を切った時点でビジネスとしては採算が取れないと考え自ら失業したので、最低でも初版1万部以上という前提で計算してみる。私が上梓した32冊は、おそらくジャーナリストしては空前絶後の冊数だと思うが、初版1万部で計算してみる。
 印刷製本代 50万円(大目に見ている)
 取次への卸(30%) 300万円(1000円×1万部×30%)
 著者への印税(10%) 100万円(1000円×1万部×10%)
 合計 450万円
出版社の粗利益 1000万円-450万円=550万円(1冊あたり550円)
 3000~5000部の印刷製本コストは、用紙代を除けば1万部とほとんど差はないので40~45万円が実費と考えられる。それを著者から300~500万円ふんだくって、しかも流通させた場合の出版社の粗利益は550×(3000~5000)=165~275万円という計算になる(著者への印税を10%としての計算。実際にはほとんどの出版社が自費出版の場合は印税も支払わないから粗利益は1冊あたり650円になる)。
 こういうぼったくりビジネスで出版社本体の屋台骨を支えなければ、会社自体の存続が危うくなるらしい。実際かつてはベストセラー出版社として名をはせ、私の本を13冊も出版してくれた光文社がいま倒産の危機に瀕しているという。自費出版で著者からぶったくらなければ、大手の出版社でも存続すら危うくなるというのが、現在の出版界の実情である。
 そうした状況の中で、容疑者が大きな精神的プレッシャーを抱えていたであろうことは容易に想像できる。きわめて危機的な状況にある出版業界で、編集者として生き残るためには、次々とヒット作を世に出さなければならないからだ。今は黙秘を続けている容疑者だが、落ちるのは時間の問題だろう。

 ついでに指摘しておくが、政府や地方自治体の少子化対策はポピュリズム以外の何物でもない。保育所を増やせば女性の社会復帰の機会は増えるだろうが、その結果として合計特殊出生率は間違いなく低下する。実際全国の大都市としては初めて保育所への待機児童ゼロ宣言を2013年に高らかにうたった横浜市の場合、本格的に待機児童ゼロ対策に乗り出した2010年の合計特殊出生率は1.30だったのに対して13年には1.31だった。わずか0.01ポイントしか上昇していない。その間の全国平均は1.39から1.43に0.04ポイントも上昇しているのにだ。このことは待機児童ゼロ政策が少子化対策にとっては逆効果でしかなかったことを証明していると考えていいだろう。メディアも政府や地方自治体の待機児童ゼロ政策の検証をしていないから、選挙のときの集票対策としては有効なのだろうが…。
 言っておくが、私は待機児童ゼロ政策に反対しているわけではない。ただ、少子化対策にはならないことを検証してみただけだ。それ以外の他意はない。念のため。

 以下、年頭雑感。
 昨日未明、次期米大統領のトランプ氏が記者会見を行った。テレビの速報ニュースを見て、「こんな人が大統領に…」という思いがした。と同時に、アメリカにとって『民主主義とは何か』と改めて問いたい。
 私はこれまで16回にわたって『民主主義とは何か』というタイトルで民主主義が抱えているジレンマを明らかにしてきた。民主主義は基本的にポピュリズムを醸成する政治システムであること。国によって民主主義の概念が違うこと。民主主義の最大の欠陥は多数決原理にあること。そうした民主主義が抱えている宿命的問題点を指摘してきた。
 米大統領選挙で、米メディアによる事前の世論調査が選挙結果と大きく違っていたことが問題にされた。ニューヨーク・タイムス紙は「隠れトランプ支持層への調査が不十分だった」と、世論調査のあり方に反省の社説を載せた。
 世論調査はアメリカも日本も基本的にRDD方式と呼ばれえる調査方法をとっている。RDD方式とは基本的に固定電話番号をコンピューターで無作為に選別して電話をかけて世論調査を行う。その場合、地域ごとの局番に有権者数を比例させる。
 しかし最近はスマホの利用者で、固定電話を持たない人が急増している。そのため、読売新聞や朝日新聞は携帯の090から始まる電話番号にも電話をかけるようにしている。その場合、問題は固定電話と違って地域を特定できないことだ。そのため電話をかけた相手に、どの地域に住んでいるかを聞かなければならない。RDD方式による世論調査は原則自動音声による質問だが、携帯電話番号にかける場合は自動音声による世論調査を行う前に、どの地域に住んでいるかを聞かなければならない。当然人件費がかかるため、携帯電話にも調査していますよ、というメディアの免罪符の域を出ない。
 実際、内閣支持率の世論調査がメディアによって10%を超えるケースもしばしば生じるようになっている。私はNHKにRDD方式による世論調査の限界を伝え、人海戦術による面接世論調査を行うようにすべきだと申し入れたことがある。ただ、その場合は莫大な費用がかかるため、NHK単独では不可能と考え、各メディアと共同で世論調査会社を設立したらどうかとも提案した。問題は、設問内容をどうするかであった。それも私は考えていて、公正で公平な設問をするための第三者委員会を設け、各メディアの意見を聞きながら設問内容を決めればいいと提案した。そうすればメディアによって世論調査の結果に10%を超えるような誤差が生じる余地はなくなるはずである。おそらく今年か来年にはそうなるだろうと私は期待している。
 世論調査方法の問題はさておき、今月20日には米大統領になるトランプ氏が、昨日の記者会見で初めてロシアによるハッキングがあったことを認めた。ロシアがどういう思惑で米大統領選投票の集計コンピューターにハッキングしたのかは不明だが、ロシアによるハッキングが明らかになっても選挙結果は無効にならないというのが、私には理解できない。ロシアにハッキングされた州(少なくとも従来民主党の固い選挙基盤であったウィスコンシン、ミシガン、ペンシルバニアの3州でハッキングされたようだ)で、再選挙をすべきではないかと思う。その場合、選挙のやり直しの費用は莫大になるだろうし、また空白が生じても困るので19日までは大統領職にあるオバマ氏が暫定的に大統領職に留まるべきだと私は考えるが、どうもアメリカ人の民主主義に対する考え方は私の理解を超えているようだ。
 トランプ氏の記者会見では、利益相反も問題になったが、トランプ氏は自分の会社の経営権は二人の子供に譲り、国益と自分が一代で築いてきた企業の利益との相反はあり得ないと主張したが、実は日本にもトランプ氏と同様の事業成功者が首相になったケースがある。そのことを指摘したメディアは今のところ皆無である。
 日本でのケースは言うまでもなく田中角栄氏である。彼は「日本列島改造」論をぶち上げて地方土地バブルを招いたが、そのことによって田中氏が一代で築いた不動産事業が莫大な金脈も手に入れたことを、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」日本のメディアはすっかり忘れているようだ。

 もう一つ、やはり昨日のNHK『クローズアップ現代』が取り上げたアニメ映画『この世界の片隅に』についても書いておきたい。
 アニメ映画としては『君の名は』が大ヒットしていることは知っていたが、『この世界の片隅に』がキネマ旬報の邦画部門で第1位になってヒットしていることは初めて知った。原爆投下された広島を舞台に、当時の庶民生活を描いた作品である。このアニメを制作するための費用は、カンパ(出資金)によって集めたという。カンパに応じたのは7000人を超え、7000万円の出資金を得て制作にこぎつけたという。日本の平和は、多くの人たちの犠牲の上に築かれてきたことを思うと、このアニメだけは私も観ようと思っている。平和を守り続けることの大切さを、読者の方たちとも共有したいと思う。