16日、政府は新たな「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)を閣議決定した。民主党最後の政権・野田総理との約束によって消費税を5%から8%にアップし、消費税増税による消費の冷え込みを防ぎ日本企業の国際競争力を回復するために、日銀・黒田総裁とのタッグで異次元の金融緩和を行い、景気のテコ入れを行ったが、結果はどうだったのか。
確かに大企業は軒並み史上空前の利益を計上し、株価もかなり上昇した。失業率も回復して史上空前の人手不足状態が続いている。大卒の就職希望者は完全な売り手市場になり、企業は人材確保に躍起だ。それなのに、消費税10%へのアップを安倍内閣は2度も延期し、来年10月に予定されている「3度目の正直」も実施が危ぶまれている。しかもプライマリーバランス(国家財政における歳入と歳出の引き算)を黒字化する時期の目標を、5年も延期して2025年まで延期した。アベノミクスは成功過程にあると、政府は強調するが、それならなぜプライマリーバランスの黒字化を延期する必要があったのか。
少子高齢化に歯止めがかけられず、社会保障費が予想より膨らんだからだというのが、政府の説明だ。もともと政権交代につながった国会での野田・安倍「約束」は、「税と社会保障の一体改革」を断行するということだった。ただ当時の野田総理はその青写真を提起できなかった。民主党が野合政党だったため、青写真を作ることが出来なかったのかもしれない。
が、政権を引き継いだ安倍内閣は一強体制を作り上げることに成功した。本気で「税と社会保障の一体改革」を実現するつもりだったら、やれたはずだ。「二兎を追うものは一兎も得ず」という。痛みを伴わない景気回復に奔走した結果が、消費も回復せず(消費税増税にもかかわらず消費税の歳入は思ったより増えなかった)、プライマリーバランスは悪化の一途をたどる結果になった。
今回は安倍総理への『追悼の辞』の続編を書く。経済政策であるアベノミクスへのレクイエムだ。
アベノミクスの目的は、日本経済を再び成長路線に回復することにあった。
そして日本の大企業の多く、とりわけ輸出企業が次々と史上最大の利益を計上したり、日経平均が大きく回復したことで、アベノミクスは成功過程にあると多くの国民は思っているかもしれない。
そのため、各メディアの世論調査でも、モリカケ問題のようなスキャンダルが生じると一時的に内閣支持率は下落するものの、騒ぎが収まるとすぐ回復する。また内閣支持率が低下しても自民党支持率は30%台を維持し、公明党支持率と合わせると与党の支持率は40%台を常に維持している。「支持政党なし」という無党派層がやはり40%台と高いため、野党の支持率は立憲民主党だけがかろうじて2ケタ台前後で推移している以外は1~2%と低迷しており、当面の政権交代可能性は極めて低い。
与党が衆参両院で3分の2以上を占めるという異常事態の原因については、小選挙区制にあるという指摘もあるが、この選挙制度を導入したのは細川政権であり、野党も選挙制度を批判しにくい状況にある。
そもそも政治的価値観が多様化している状況の中で、なぜ政権交代可能な2大政党政治を、当時の与野党が一致結束して日本に導入すべきだと考えたのか(メディアもこぞって支持した)、私にはそのことが不思議でならない。曲がりなりにも2大政党政治が行われているのは先進国ではアメリカとイギリスだけで、イギリス以外のヨーロッパ諸国の大半は多党政治である。国会での絶対過半数を占める政党がなく、第1党がどの党と連立を組むか政党間の駆け引きが日常茶飯事である。極端な話、いまのイタリアでは左翼政党が右翼政党と連立を組むという、かつての村山政権をほうふつさせるようなことが当たり前になっている。
いま世界の先進国はいずれも経済問題を抱えている。日本だけではない。なぜ共通した課題を抱えているのか。
その原因は、先進国のすべて(と言ってもいいと思う)が、従来の「経済成長神話」から脱皮できないためではないか、と私は考えている。
政治の目的は、基本的には二つしかない。そのことは資本主義の国であろうと社会主義の国であろうと、変わりがない。
一つは国と国民の安全保障をどう確保するか。
もう一つは国民生活の向上と安定をいかに実現するかである。
安全保障については、私もさんざんブログで書いてきた。軍事的抑止力に頼ることだけが、唯一の安全保障策であるべきなのかという疑問を呈してきた。
もう一つの国民生活の向上と安定についても、アベノミクスの検証を通じて「必ずしも成功したとは言えない」と、やはりさんざん書いてきた。
アメリカの大統領選で、当初は泡沫候補と見られていたトランプ氏が大逆転勝利を収めたのも、彼の経済政策がアメリカ国民の心をわしづかみした結果である。日本では「メキシコとの国境に壁を作る」と言ったエキセントリックな政策だけがクローズアップされる傾向があったが、そんな単純なことでトランプ氏が勝利を得たわけではない。
日本でも安倍政権が長期化した最大の理由は、バブル崩壊以降の「失われた20年」からの回復期待がいまだに国民の多くにあるからでもある。メディアは世論調査で安全保障政策やモリカケ問題などのスキャンダルは調査するが、アベノミクスについての成否についての調査はしていない。確かに調査がしづらいという面はあるだろう。せいぜい「豊かさの実感があるか」といった質問に留まらざるを得ないのかもしれない。
が、なぜ先進国のすべてが経済問題をいま抱えているのか。
実は先進国のすべてに共通した現象がある。
少子高齢化、がその共通点だ。日本だけではない。すべての先進国がこの問題を抱えている。唯一フランスが少子化の歯止めに成功したかのように伝えられているが、多民族国家のフランスでも「貧乏人の子だくさん」の結果であり、中流階層以上の白人社会では日本と同様少子高齢化問題を抱えている。
少子高齢化が、経済的にはどういう結果をもたらすか。
消費が伸びない。その一点だ。
世界中の先進国が共通して抱えている経済問題の根本には、この同じ現象がある。富が一部の高齢者に集中し、消費の底支えを担うべき中間所得層が将来の生活不安のために消費より貯蓄や投資にカネを使っているためだ。
日本もそういう状況を前提に、経済政策を考えなければならなかった。が、アベノミクスは依然として「成長神話」にかじりついている。そういう目線でアベノミクスの検証を、経済学者やメディアは行うべきなのだが、残念ながらそういう方は一人もおられないようだ。
アベノミクスの提唱者は世界的に権威のある経済学者であり、リフレ派と見られている浜田宏一氏(内閣官房参与)とされている。浜田氏は必ずしも金融緩和だけを提唱したわけではないようだが(浜田氏は「金融政策だけではデフレ脱却は無理」と主張している)、「失われた20年」はデフレ不況によるという見方は変えていない。はたして「失われた20年」はデフレ不況によるものだったのか?
デフレかインフレかは、需要と供給の関係による。本来はシーソーのようなもので、需要が供給を上回れば商品価格が上昇し(過度に上昇した場合は悪性インフレ=ハイパーインフレとなり、石油ショック時のような状況が生まれる)、消費が手控えられることで需要が減少して商品価格も次第に下向く。供給が需要を上回った場合がデフレだが、いったん商品価格は下落するが、その結果消費が回復して商品価格も次第に上向く。アダム・スミスの「神の見えざる手」が働くのだ。こうして行き過ぎたアンバランスは自然に解消される。
だから、はっきり言って「失われた20年」はデフレが続いた結果ではない。少子高齢化が急速に進んだ、という別の要因にある。
なぜ世界の先進国で少子高齢化が共通して進んだのか。
消費の核を担うべき中間所得層以上の人たちの家に育った女性の高学歴化と社会進出の機会増大が、その原因である(そのことを私は否定しているわけではない。先進国共通の現象として私はそう認識しているだけだ)。
私がその現象を重く見ているのは、私が生まれ育った時代と無関係ではない。私は昭和15年(1940年)の生まれだが、小学校時代の同級生で大学に進学した女性は裕福な家庭に育った方一人だけであった。さらに私たちの世代が結婚した場合は女性は家庭に入り専業主婦になるのが当たり前という時代でもあった。実際、私の妻も結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦になったし、これは偶然だが結婚して新居を構えた新築のアパート6世帯がすべて新婚家庭で、しかもすべて奥さんたちは専業主婦だった。
いい配偶者に恵まれずに結婚が遅れた女性は職場の上司から、いまだったらセクハラになる「まだ結婚できないの」などと、暗に「寿退社」を求められるような時代でもあった。
ところが敗戦ですべてを失った日本が「世界の奇跡」と言われるような経済復興を成し遂げ、戦後の過度の累進課税制度もあって中間所得層の可処分所得が急増し、それが3種の神器や新3種の神器時代という消費の急拡大時代を迎え、それが高度経済成長を促した。日本の高度経済成長は池田総理の「所得倍増計画」によるという誤解が流布されているが、池田内閣は給与所得者の所得を倍増させるための具体的な経済政策は何も行っていない。皮肉な言い方をすれば、何もやらなかったからこそ日本の高度経済成長が可能になったとも言える。
その結果、日本のサラリーマンの所得水準は短期間で欧米先進国の水準に追いついた。だから少子高齢化も欧米先進国とほぼ同時期に訪れている。そして戦争のない平和な時代が世界的規模で続いた結果、日本も含め先進国の女性の高学歴化と社会進出の機会増大が急速に進む。
女性が高学歴化し、社会進出の機会も増えれば、当然のことながら家庭に閉じこもって子育てに専念するより、社会から受ける刺激に人間としての生きがいを見出すようになるのは当たり前のことだ。こうして少子化が急速に進んだ。実際「失われた20年」とされた時代でも、女性相手のビジネスはむしろ活況を呈していた。産業構造が変化しただけの話だったのだ。
産業構造が変化すれば、旧態型産業に対する需要が冷え込むのも当たり前の話だ。たとえば、若者たちの自動車離れ。交通インフラの整備とともに、所有することがさほどの意味を持たなくなっただけのこと。若い人たちの経済力が自動車を所有できないほど低下したわけではない。金の使い方に対する価値観が大きく変わっただけのこと。そうした社会現象の変化が見えないから、「失われた20年」はデフレ不況のためなどという非論理的な検証をしてしまい、デフレ脱却がアベノミクスの目的になってしまったというわけだ。
私は第2次安倍政権が誕生した直後の12年12月30日、『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』で、アベノミクス(当時はまだその呼称はなかったが…)についてこう注文を付けている。いまでも当時のブログはさかのぼって読めるから、結果解釈ではない。
まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共事業による経済効果の2点である。(※当時は「矢」はまだ2本だった)
金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか。私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。では例えば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはあり得ない(※結果論からいえば銀行はサラ金まがいのことを始めた。日銀がマイナス金利を始めたためである)。優良企業が銀行から金を借りなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な貸出先がなく、金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザーズが発行した証券(日本にもバブル期に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザーズが経営破たんしたあおりを食って大損失を蒙り、金融界の再編制に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない(※スルガ銀行の不正融資で実証された)。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安が進み株も年初来の最高値を記録したが、そんなのは一過性の現象にすぎない。とにかく市場に金が出回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる(※この提案は一部安倍内閣が「違法」コピーした。私はコピーを禁止してはいないが、するなら完全コピーしてもらいたい。それと提案者に対する礼儀として報告ぐらいしろ)。(中略)
また所得税制度も改革の必要がある。(中略)
私は消費税増税はやむを得ないと考えている。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層には生活保護対策として所得に応じて所得税を軽減すべきであろう。
なぜ生活必需品を非課税あるいは軽減税率にすべきではないかというと、国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としが同じ生活必需品として非課税あるいは軽減税率の対象になることに国民が納得できるかという問題があるからだ(※最近自民党の石破氏が同様の主張を始め、軽減税率を自民党に認めさせた公明党・山口代表の反発を受けているが、こういう時こそ野党は石破氏の見解を支持し、軽減税率導入を阻止すべきだ)。
翌13年3月8日にも、もう引用はしないが『再び断言する――公共事業で景気は回復しない。ケインズ循環論は今の日本には通用しない』と題したブログを投稿している。浜田氏がケインズ循環論をベースにアベノミクスの経済政策を構築したことは否定できない。しかし少子化で社会全体の需要が減退する中で、企業の業績だけを上げるための公共事業をいくら行っても、景気の浮揚策にはならない。
成長神話の時代は終わった。そうした認識をベースに、これからの経済政策はどうあるべきかを構築すべきではないか。シャウプ税制まで戻せとまでは言わないが、ある程度社会主義的政策を取り入れて累進課税制を多少強化し、消費社会の核になる中間所得層の可処分所得を拡大すべきだと思う。「孫に対する教育費」などという限定を付けずに、高齢者富裕層がため込んでいる金が市場に出回るように、贈与税を思い切って軽減化し(その場合、税負担は贈与者ではなく、贈与を受ける側にすることが重要…そのことは12年12月30日のブログでも書いている)、税率を相続税より低くすること。」
そうすれば株価の上昇は止まるかもしれないが、経済は成長しないまでも、ある程度活性化する。さらなる豊かさを求める時代の終焉を、私は宣言する。
確かに大企業は軒並み史上空前の利益を計上し、株価もかなり上昇した。失業率も回復して史上空前の人手不足状態が続いている。大卒の就職希望者は完全な売り手市場になり、企業は人材確保に躍起だ。それなのに、消費税10%へのアップを安倍内閣は2度も延期し、来年10月に予定されている「3度目の正直」も実施が危ぶまれている。しかもプライマリーバランス(国家財政における歳入と歳出の引き算)を黒字化する時期の目標を、5年も延期して2025年まで延期した。アベノミクスは成功過程にあると、政府は強調するが、それならなぜプライマリーバランスの黒字化を延期する必要があったのか。
少子高齢化に歯止めがかけられず、社会保障費が予想より膨らんだからだというのが、政府の説明だ。もともと政権交代につながった国会での野田・安倍「約束」は、「税と社会保障の一体改革」を断行するということだった。ただ当時の野田総理はその青写真を提起できなかった。民主党が野合政党だったため、青写真を作ることが出来なかったのかもしれない。
が、政権を引き継いだ安倍内閣は一強体制を作り上げることに成功した。本気で「税と社会保障の一体改革」を実現するつもりだったら、やれたはずだ。「二兎を追うものは一兎も得ず」という。痛みを伴わない景気回復に奔走した結果が、消費も回復せず(消費税増税にもかかわらず消費税の歳入は思ったより増えなかった)、プライマリーバランスは悪化の一途をたどる結果になった。
今回は安倍総理への『追悼の辞』の続編を書く。経済政策であるアベノミクスへのレクイエムだ。
アベノミクスの目的は、日本経済を再び成長路線に回復することにあった。
そして日本の大企業の多く、とりわけ輸出企業が次々と史上最大の利益を計上したり、日経平均が大きく回復したことで、アベノミクスは成功過程にあると多くの国民は思っているかもしれない。
そのため、各メディアの世論調査でも、モリカケ問題のようなスキャンダルが生じると一時的に内閣支持率は下落するものの、騒ぎが収まるとすぐ回復する。また内閣支持率が低下しても自民党支持率は30%台を維持し、公明党支持率と合わせると与党の支持率は40%台を常に維持している。「支持政党なし」という無党派層がやはり40%台と高いため、野党の支持率は立憲民主党だけがかろうじて2ケタ台前後で推移している以外は1~2%と低迷しており、当面の政権交代可能性は極めて低い。
与党が衆参両院で3分の2以上を占めるという異常事態の原因については、小選挙区制にあるという指摘もあるが、この選挙制度を導入したのは細川政権であり、野党も選挙制度を批判しにくい状況にある。
そもそも政治的価値観が多様化している状況の中で、なぜ政権交代可能な2大政党政治を、当時の与野党が一致結束して日本に導入すべきだと考えたのか(メディアもこぞって支持した)、私にはそのことが不思議でならない。曲がりなりにも2大政党政治が行われているのは先進国ではアメリカとイギリスだけで、イギリス以外のヨーロッパ諸国の大半は多党政治である。国会での絶対過半数を占める政党がなく、第1党がどの党と連立を組むか政党間の駆け引きが日常茶飯事である。極端な話、いまのイタリアでは左翼政党が右翼政党と連立を組むという、かつての村山政権をほうふつさせるようなことが当たり前になっている。
いま世界の先進国はいずれも経済問題を抱えている。日本だけではない。なぜ共通した課題を抱えているのか。
その原因は、先進国のすべて(と言ってもいいと思う)が、従来の「経済成長神話」から脱皮できないためではないか、と私は考えている。
政治の目的は、基本的には二つしかない。そのことは資本主義の国であろうと社会主義の国であろうと、変わりがない。
一つは国と国民の安全保障をどう確保するか。
もう一つは国民生活の向上と安定をいかに実現するかである。
安全保障については、私もさんざんブログで書いてきた。軍事的抑止力に頼ることだけが、唯一の安全保障策であるべきなのかという疑問を呈してきた。
もう一つの国民生活の向上と安定についても、アベノミクスの検証を通じて「必ずしも成功したとは言えない」と、やはりさんざん書いてきた。
アメリカの大統領選で、当初は泡沫候補と見られていたトランプ氏が大逆転勝利を収めたのも、彼の経済政策がアメリカ国民の心をわしづかみした結果である。日本では「メキシコとの国境に壁を作る」と言ったエキセントリックな政策だけがクローズアップされる傾向があったが、そんな単純なことでトランプ氏が勝利を得たわけではない。
日本でも安倍政権が長期化した最大の理由は、バブル崩壊以降の「失われた20年」からの回復期待がいまだに国民の多くにあるからでもある。メディアは世論調査で安全保障政策やモリカケ問題などのスキャンダルは調査するが、アベノミクスについての成否についての調査はしていない。確かに調査がしづらいという面はあるだろう。せいぜい「豊かさの実感があるか」といった質問に留まらざるを得ないのかもしれない。
が、なぜ先進国のすべてが経済問題をいま抱えているのか。
実は先進国のすべてに共通した現象がある。
少子高齢化、がその共通点だ。日本だけではない。すべての先進国がこの問題を抱えている。唯一フランスが少子化の歯止めに成功したかのように伝えられているが、多民族国家のフランスでも「貧乏人の子だくさん」の結果であり、中流階層以上の白人社会では日本と同様少子高齢化問題を抱えている。
少子高齢化が、経済的にはどういう結果をもたらすか。
消費が伸びない。その一点だ。
世界中の先進国が共通して抱えている経済問題の根本には、この同じ現象がある。富が一部の高齢者に集中し、消費の底支えを担うべき中間所得層が将来の生活不安のために消費より貯蓄や投資にカネを使っているためだ。
日本もそういう状況を前提に、経済政策を考えなければならなかった。が、アベノミクスは依然として「成長神話」にかじりついている。そういう目線でアベノミクスの検証を、経済学者やメディアは行うべきなのだが、残念ながらそういう方は一人もおられないようだ。
アベノミクスの提唱者は世界的に権威のある経済学者であり、リフレ派と見られている浜田宏一氏(内閣官房参与)とされている。浜田氏は必ずしも金融緩和だけを提唱したわけではないようだが(浜田氏は「金融政策だけではデフレ脱却は無理」と主張している)、「失われた20年」はデフレ不況によるという見方は変えていない。はたして「失われた20年」はデフレ不況によるものだったのか?
デフレかインフレかは、需要と供給の関係による。本来はシーソーのようなもので、需要が供給を上回れば商品価格が上昇し(過度に上昇した場合は悪性インフレ=ハイパーインフレとなり、石油ショック時のような状況が生まれる)、消費が手控えられることで需要が減少して商品価格も次第に下向く。供給が需要を上回った場合がデフレだが、いったん商品価格は下落するが、その結果消費が回復して商品価格も次第に上向く。アダム・スミスの「神の見えざる手」が働くのだ。こうして行き過ぎたアンバランスは自然に解消される。
だから、はっきり言って「失われた20年」はデフレが続いた結果ではない。少子高齢化が急速に進んだ、という別の要因にある。
なぜ世界の先進国で少子高齢化が共通して進んだのか。
消費の核を担うべき中間所得層以上の人たちの家に育った女性の高学歴化と社会進出の機会増大が、その原因である(そのことを私は否定しているわけではない。先進国共通の現象として私はそう認識しているだけだ)。
私がその現象を重く見ているのは、私が生まれ育った時代と無関係ではない。私は昭和15年(1940年)の生まれだが、小学校時代の同級生で大学に進学した女性は裕福な家庭に育った方一人だけであった。さらに私たちの世代が結婚した場合は女性は家庭に入り専業主婦になるのが当たり前という時代でもあった。実際、私の妻も結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦になったし、これは偶然だが結婚して新居を構えた新築のアパート6世帯がすべて新婚家庭で、しかもすべて奥さんたちは専業主婦だった。
いい配偶者に恵まれずに結婚が遅れた女性は職場の上司から、いまだったらセクハラになる「まだ結婚できないの」などと、暗に「寿退社」を求められるような時代でもあった。
ところが敗戦ですべてを失った日本が「世界の奇跡」と言われるような経済復興を成し遂げ、戦後の過度の累進課税制度もあって中間所得層の可処分所得が急増し、それが3種の神器や新3種の神器時代という消費の急拡大時代を迎え、それが高度経済成長を促した。日本の高度経済成長は池田総理の「所得倍増計画」によるという誤解が流布されているが、池田内閣は給与所得者の所得を倍増させるための具体的な経済政策は何も行っていない。皮肉な言い方をすれば、何もやらなかったからこそ日本の高度経済成長が可能になったとも言える。
その結果、日本のサラリーマンの所得水準は短期間で欧米先進国の水準に追いついた。だから少子高齢化も欧米先進国とほぼ同時期に訪れている。そして戦争のない平和な時代が世界的規模で続いた結果、日本も含め先進国の女性の高学歴化と社会進出の機会増大が急速に進む。
女性が高学歴化し、社会進出の機会も増えれば、当然のことながら家庭に閉じこもって子育てに専念するより、社会から受ける刺激に人間としての生きがいを見出すようになるのは当たり前のことだ。こうして少子化が急速に進んだ。実際「失われた20年」とされた時代でも、女性相手のビジネスはむしろ活況を呈していた。産業構造が変化しただけの話だったのだ。
産業構造が変化すれば、旧態型産業に対する需要が冷え込むのも当たり前の話だ。たとえば、若者たちの自動車離れ。交通インフラの整備とともに、所有することがさほどの意味を持たなくなっただけのこと。若い人たちの経済力が自動車を所有できないほど低下したわけではない。金の使い方に対する価値観が大きく変わっただけのこと。そうした社会現象の変化が見えないから、「失われた20年」はデフレ不況のためなどという非論理的な検証をしてしまい、デフレ脱却がアベノミクスの目的になってしまったというわけだ。
私は第2次安倍政権が誕生した直後の12年12月30日、『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』で、アベノミクス(当時はまだその呼称はなかったが…)についてこう注文を付けている。いまでも当時のブログはさかのぼって読めるから、結果解釈ではない。
まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共事業による経済効果の2点である。(※当時は「矢」はまだ2本だった)
金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか。私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。では例えば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはあり得ない(※結果論からいえば銀行はサラ金まがいのことを始めた。日銀がマイナス金利を始めたためである)。優良企業が銀行から金を借りなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資する場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な貸出先がなく、金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザーズが発行した証券(日本にもバブル期に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザーズが経営破たんしたあおりを食って大損失を蒙り、金融界の再編制に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない(※スルガ銀行の不正融資で実証された)。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安が進み株も年初来の最高値を記録したが、そんなのは一過性の現象にすぎない。とにかく市場に金が出回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる(※この提案は一部安倍内閣が「違法」コピーした。私はコピーを禁止してはいないが、するなら完全コピーしてもらいたい。それと提案者に対する礼儀として報告ぐらいしろ)。(中略)
また所得税制度も改革の必要がある。(中略)
私は消費税増税はやむを得ないと考えている。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層には生活保護対策として所得に応じて所得税を軽減すべきであろう。
なぜ生活必需品を非課税あるいは軽減税率にすべきではないかというと、国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としが同じ生活必需品として非課税あるいは軽減税率の対象になることに国民が納得できるかという問題があるからだ(※最近自民党の石破氏が同様の主張を始め、軽減税率を自民党に認めさせた公明党・山口代表の反発を受けているが、こういう時こそ野党は石破氏の見解を支持し、軽減税率導入を阻止すべきだ)。
翌13年3月8日にも、もう引用はしないが『再び断言する――公共事業で景気は回復しない。ケインズ循環論は今の日本には通用しない』と題したブログを投稿している。浜田氏がケインズ循環論をベースにアベノミクスの経済政策を構築したことは否定できない。しかし少子化で社会全体の需要が減退する中で、企業の業績だけを上げるための公共事業をいくら行っても、景気の浮揚策にはならない。
成長神話の時代は終わった。そうした認識をベースに、これからの経済政策はどうあるべきかを構築すべきではないか。シャウプ税制まで戻せとまでは言わないが、ある程度社会主義的政策を取り入れて累進課税制を多少強化し、消費社会の核になる中間所得層の可処分所得を拡大すべきだと思う。「孫に対する教育費」などという限定を付けずに、高齢者富裕層がため込んでいる金が市場に出回るように、贈与税を思い切って軽減化し(その場合、税負担は贈与者ではなく、贈与を受ける側にすることが重要…そのことは12年12月30日のブログでも書いている)、税率を相続税より低くすること。」
そうすれば株価の上昇は止まるかもしれないが、経済は成長しないまでも、ある程度活性化する。さらなる豊かさを求める時代の終焉を、私は宣言する。