小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

終戦76年――沖縄戦・原爆投下・黒い雨訴訟・北方領土・核廃絶の問題をトコトン論理的に考えてみた

2021-08-04 09:03:07 | Weblog
【特別追記】 追記であるにもかかわらず、本稿の後ではなく、最初に挿入することにした。私は本稿でアメリカの原爆投下は「人体実験である」と書いた。すでに読まれた方は、「まさか」とお感じになったかもしれないが、私は具体的な証拠を見つけて「人体実験である」と断定したのではない。あくまで、原爆投下も沖縄上陸作戦も、戦争の手段としてはまったく無意味だったころを論理的な結論として導き出した。そしてさまざまの状況証拠から、広島・長崎への原爆投下は「戦争手段ではなく、人体実験だった」という論理的結論を導き出したのだ。
 9日午後10時、NHKがアメリカの極秘文書を入手し、原爆投下の「真の目的」が、まさに「人体実験」にあったことを明らかにした。それも単に原爆の殺傷能力を試すだけでなく、生存被爆者の体内残留放射能が、人体に与える被爆後の影響を科学的に分析することまで、原爆投下の当初からの目的だったことが明らかになった。ナチスの「ホロコースト」以上の、人間ができることではない。
 実は、私はそこまで悪質な「人体実験」だとは思っていなかった。が、実際アメリカの放射能科学者は原爆投下後、被爆者の追跡研究を行っていたのだ。しかも、その研究には日本人科学者まで協力していたという。
 NHKは、よくぞ。この極秘文書を見つけ出しただけでなく、公開してくれたことに深い敬意と感謝を表する。
 と同時に、アメリカの「人体実験」の対象になった私たち日本の政府が、核兵器禁止条約への参加・批准という悲願を今でも踏みにじって、アメリカの「核抑止力」に日本の安全保障の基軸を置き続けていることに絶望感を抱かざるを得ない。この「特別追記」を読んで、本稿を読んでいただければ、私の論理的結論がより深くご理解いただけると思う。


1945年の8月6日、5歳になったばかりの私は兵庫県篠山市と福知山市の中間に位置する片田舎にいた。母方の実家に疎開していたのである。
その年の夏が来るまで、私たち一家(父・母・兄・私)は中国・北京近くの天津にいた。父の勤務先の製薬会社が天津に工場を作り、父が工場長として赴任したため、一家そろって東京から転居したためである。
天津は第2次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争で英仏連合軍が清に圧勝し、天津に「租界」(治外法権の租借地)を設け、のちに日清戦争に勝利した日本も天津に租界を設けていた。そこに私が2歳のころ、転居したというわけ。
が、終戦の年の夏を迎えるころには日中戦争で関東軍の敗色も濃厚になり、工場の責任者だった父も召集されるに至り、天津租界の日本人家族に帰国命令が出た。天津租界に住んでいた日本人は当時「高級人種」扱いされており、優先的に帰国させてもらえたようだ。5歳になるかならないかの私には、そんな事情は知る由もなく、のちに母親から聞いた話だ。ただし、帰国に際して母は青酸カリを渡されたという。万が一の時は自殺せよとの指令があったようだ。

●日本が主権を回復した日が「国民の祝日」に、なぜならない?
疎開先の片田舎はのんびりしていた。空襲もなかったし、子供たちは天真爛漫に「戦争ごっこ」に明け暮れていた。広島、長崎に原爆が投下され、日本が戦争に負けたからと言って日常生活には何の変化もなかった。周囲の田んぼには稲穂が青々と育っていたし、田んぼでいなごやたにしを取って、それが煮物の食材として食卓に乗った。いま、いなごやたにしを食することも出来ない。
その田舎で小学校に入り、2年生のころ、父が帰還した。父の話では訓練中に戦争が終わり、戦場に出ることもなく中国軍(たぶん毛沢東軍)の捕虜となって、比較的早く解放されたようだ。その後、父は伊丹市の工場長になり、私たち家族も伊丹市に転居した。そのころからの記憶はかなり鮮明だが、天津での生活や疎開先での生活についての記憶は断片的でしかない。ただ、父が疎開先の母の実家に髭もじゃの軍服姿で帰ってきて、真っ先に玄関で出くわした私をいきなり抱き上げたとき、私はその人が父とは分からず怖くて大声で泣きだしたことは、今でも鮮明に覚えている。
父が本社に異動になって東京に戻ったのは私が小学校4年の秋。いったん父は単身で東京に赴任し、5年生になる前の春休みに東京の社宅に引っ越した。世田谷区深沢で、いまでこそ高級住宅街だが、当時は田んぼが一面に広がる疎開先の片田舎とあまり変わりがない生活環境。正月はその田んぼで凧揚げをして近所の子供たちと遊んだ記憶がある。社宅も家屋は決して広くはなかったが、敷地は200坪もあって、庭で三角ベースを遊んだことは覚えている。庭の一角にブランコを作ってもらって、近所の子供たちには公園のような存在だった。
たぶん小学生のころは原爆のことは知らなかったと思う。日本がサンフランシスコ平和条約に調印したのが1951年9月8日、条約が発効して日本が主権を回復してGHQが廃止されたのは52年4月28日。私が小学校を卒業する前後だから、小学校教育もGHQの支配下にあり、悲惨な原爆のことが隠ぺいされていたのも無理はない。もちろんメディアも、原爆に関する報道は厳しく統制されていたと思う。
それはともかく、日本が主権を回復した4月28日をなぜ政府は国民の祝日にしなかったのか。「新生ニッポンの門出」ではないか。それにふつう、条約調印から発効までの期間は6か月である。広く国民に周知させるために設けられた期間であり、現行憲法も成立から発効までちょうど6か月の周知期間を置いている。一般法律も施行まで6か月の周知期間が設けられている。そういう意味では、平和条約調印と発行の間が6か月ではなく、なぜ7か月と20日も擁したのか。もうこの歳では調べようという気力も体力もないが、問題提起だけしておく。ひょっとしたら、国民の祝日にできないような事情が、平和条約締結と主権回復までの期間にあったのかもしれない。

●閑話休題――私がマルクス思想から離れた理由
私が初めて「核」に関心を持つようになったのは54年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で、付近で操業していた日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が被爆し、死者が出るなど乗組員に大きな被害が出て、その事件が新聞で大きく報道されたことによる。
この事件を機に日本でも反原水爆運動が盛んになり、85年8月6日、第1回の原水爆禁止世界大会が広島で開催されたが、私はまだ15歳、記憶にはほとんど残っていない。
私自身は60年安保闘争で学生運動に加わり、60年8月6日の原水爆禁止世界大会以降、何度か広島に行った。当時はいまのようなきれいな平和記念公園はまだ整備されていず、広島の街中をデモった程度の記憶しかない。
学生運動に参加していた当時、私は「新左翼」と呼ばれる過激派に属していたが、左翼組織の閉鎖性を身をもって感じた。マルクスは「宗教は民衆のアヘンだ」と若いころの論文に書いているが、左翼組織も宗教のようなものではないかと感じた。宗教が民衆のアヘンか否かは別として、宗教団体も左翼組織も異端者は間違いなく排除されるからだ。だから宗教団体も左翼組織も「教祖様」のお言葉は絶対であり、「教祖様」の主張や考えをちょっとでも批判すると除名処分になる。
現に、中国で習近平をちょっとでも批判したら、最高級幹部でもどういう目に合うか、私たちはいま目の前でその現実を見ている。
なぜそうなってしまったか。マルクスは「宗教は民衆のアヘンだ」と決めつけながら、その一方、共産主義社会への過程をこう定義している。
① 社会主義への過渡期としてプロレタリアート独裁
② 社会主義社会では人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る
③ 共産主義社会では人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る
マルクスは資本主義から社会主義への過渡期としてプロレタリアート独裁を主張したが、プロレタリアート独裁の政治形態についての解明はしていない。レーニンもスターリンもトロツキーも、毛沢東、金日成、カストロ、ホーチミンらの革命家は一度も労働者であったことはない。革命を実現した後、彼らは政権を労働者階級に渡した事実はまったくない。彼ら革命家が作った政治形態はプロレタリアートの独裁ではなく、共産党の独裁国家である。
さらにマルクスは社会主義以降の「生産と分配」の関係については書いているが、政治形態については何も示唆していない。仮にマルクスが「プロレタリアート独裁=共産党独裁」を容認したとしても、その政治形態は資本主義社会から社会主義社会への過渡期として認めただけで、社会主義以降の共産党による独裁体制を容認しているわけではない。ということは、中国や北朝鮮、キューバ、ベトナムは共産党独裁を放棄しない以上、永遠に社会主義への段階に進めないことになる。つまり人類の進歩を絶対否定する概念をマルクス主義は本質的に包含しているといってよい。

さらに、「生産と分配」の関係についても、実はマルクスは自ら自分の思想を否定する定義をしている。
まず社会主義社会における「生産と分配」の関係について、マルクスは「人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」としているが、「労働者の能力」は誰が決め、「働きに応じて」というが労働の成果を誰が査定するのかという基本的な「生産と分配」の仕組みをマルクスはどう考えていたのか。安倍前総理がマルクスの著作を読んでいたとは思えないが、アベノミクスの第3の矢「成長戦略」の最初の柱として打ち出した「成果主義賃金制度」(「高度プロフェッショナル制度」の前身)と瓜二つの考えをマルクスは社会主義段階での「労働と賃金」の関係として考えていたようだ。少なくとも私には先進資本主義社会の方が、「能力・仕事・賃金」の関係で社会主義国よりはるかにマルクスの定義に近いように思える。

さらに、共産主義の段階になると、もっと訳が分からなくなる。「能力に応じて」は社会主義段階と同じだとして、「必要に応じて」という場合、個々の労働者が必要としているものを誰が何を基準に決めるのかという、これまた根本的な問題の解決法がまったく示されていない。

仮にAがBの能力を査定し、かつBの労働成果を査定したり、Bには何が必要かをやはりAが勝手に決められるとしたら、AとBの関係はどうなるか。BはAに対する絶対の服従と忠誠を誓わざるを得なくなる。マルクスの定義によれば、論理的には間違いなくそうならざるを得ない。これは民主主義を否定したプラトンやアリストテレスと同じ独裁思想に必然的につながる。
だいいち、一人ひとりの人間の持って生まれた能力は一律ではないし、また自分が持っている能力がどういう仕事に向いているのかは多分、誰も死んでも分からない。実際、私は別にジャーナリズムの世界にあこがれていたわけでもなく、そういう関係の仕事についたこともなく、ある日突然清水の舞台から飛び降りるように、この世界に入ることになってしまった。たまたまこの世界で飯が食えたから、そういう能力があったのかもしれないが、ひょっとしたら他の分野の方が向いていたかもしれない。
またどんな能力があるかないか、また向き不向きは別として「やりたいと思う仕事」に対して社会がどう対応する? 人間が持つ本質的な欲望に対して、どう社会が答えるべきか――マルクスの思想にはそうした視点が皆無なのだ。

●アメリカが原爆投下を「正当化」する二つの理由
ちょっと横道の話が長すぎた。76年前の8月6日、アメリカはなぜ広島に原爆を投下したのか。さらに3日後の9日には長崎にも原爆を投下した。日本との戦争に勝つために、そこまでやる必要があったのか。
これまでも何度もブログで検証してきたことだけど、改めて検証したい。新聞やテレビの恒例行事のようなものと思ってもらってもいい。
アメリカ人のおそらく90%以上は米政府が主張し続けてきた「原爆投下正当論」を信じている。具体的には「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」「戦争を早期に終了させるため」という二つだ。事実はどうか。時系列で検証する。
日本軍の敗色が濃厚になった44年以降、米軍は圧倒的な戦力で日本が支配していた地域を奪還していく。
 44年2月1日  米軍、マーシャル群島に上陸
    6月15日 米軍、サイパン島上陸(7月7日、守備隊3万人全滅) 
      19日 マリアナ沖海戦、日本は空母の大半を失う
    7月21日 米軍、グアム島上陸(8月10日、守備隊1万8000人全滅)
   10月24日 レイテ沖海戦、日本は連合艦隊の主力を失う
   11月24日 米軍、東京初空襲
45年2月14日 近衛文麿、戦争終結を上奏 昭和天皇、拒否
     19日 米軍、硫黄島上陸(3月17日、守備隊2万3000人全滅)
   3月10日 東京大空襲(死者10万5000人) 以降3月だけで名古屋・大阪・神戸を大空襲(空襲による死者は40万人超)
   4月1日 米軍、沖縄本島上陸(6月23日、守備隊全滅、死者19万人)
この沖縄戦が米軍の最後の上陸作戦だった。この戦争で米軍も2万人の戦死者を出した。ヨーロッパ戦線を除けば対日戦争で米軍も最大の犠牲者を出している。
米軍は沖縄戦の一方、44年7月にサイパン島を攻略して以降、周辺の島々も含めて日本空襲のための飛行場の建設を進め、45年3月以降、日本本土の軍事拠点ではなく人口密集地域への空襲作戦を展開、空襲だから米軍の犠牲はほとんどない。日本を敗戦に追いやるためだけだったら、沖縄上陸作戦すら必要なかったのだ。まして「これ以上、米軍兵士の犠牲を出さないため」という口実が屁理屈にもなりえないことが明確になったと思う。

では、もう一つの口実「戦争の早期終結のため」という目的は、確かにあった。別に原爆を落とさなくても、日本の敗戦は時間の問題であり、昭和天皇が45年2月14日に戦争終結を訴えた近衛文麿の上奏を受け入れていれば、戦争を早期に終結させることが可能だった。
実際、米軍の沖縄上陸作戦開始後の5月14日、政府は最高戦争指導会議(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6名)を開き、終戦工作の開始を決定、中立条約を締結していたソ連に和平交渉の仲介を依頼する方針を決めた。
が、この時期、まだ本土決戦を主張する勢力もあり、すぐには対ソ工作を始めることができなかった。
ようやく政府が対ソ交渉の開始を決定したのは沖縄守備隊が全滅した後の7月10日、近衛文麿をソ連に派遣することにした。近衛は13日、ソ連に和平交渉の仲介を依頼したが、18日、ソ連は拒否を通告してきた。
実は7月17日には第2次世界大戦終結後の戦後処理と世界秩序についてベルリン郊外のポツダムに米トルーマン、英チャーチル、ソ連スターリンが集まって相談することになっていた(ポツダム会談)。

●ことのついでに北方領土問題について
ポツダム宣言に先立って米・英・ソ3か国首脳が45年2月4~11日にかけてソ連の保養地、ヤルタに集まってソ連に対日参戦を要請する秘密会議が行われた。このとき米・英がソ連に対日参戦の条件として提案したのが ①樺太南部のソ連への返還 ②千島列島のソ連への引き渡し という、スターリンにとってはよだれが出るようなおいしい餌だった。スターリンもドイツ降伏後、3か月以内に対日宣戦の布告を約束した。この会議で3首脳が他の連合国にも諮らず勝手に結んだ秘密協定が「ヤルタ協定」である。
ナチス・ドイツが連合国に無条件降伏したのは5月7日。もちろんソ連は即座に対日宣戦の準備に取り掛かれたわけではない。ドイツの東西分割や東欧諸国に共産主義政権を樹立、共産党の支配を確実な状態にしなければソ連軍の主力をヨーロッパ戦線から大移動させることはできなかったからだ。
ドイツ降伏後に開かれたポツダム会議は7月17日から8月2日にわたる断続的な長期会議になったが、米・英がヤルタ協定に基づいてスターリンに早期の対日戦争参加を促しても、ソ連側にはすぐに応じられる状況になかった。というのは、ヤルタ協定で「千島列島を分捕ってもいいよ」という米・英のお墨付きは貰ったものの、実は旧ロシア時代からソ連軍は海戦の経験こそあれ、敵国領土に上陸攻撃した経験が一度もない。陸地続き戦争の経験しかなく、千島列島に上陸攻撃する技術も方法も持ち合わせていなかった。
このころのアメリカは気が狂っていたとしか思えないのだが、なんとソ連に上陸用舟艇を提供したり、米軍がソ連軍兵士に上陸攻撃の訓練まで行って、ソ連軍による千島列島攻撃の手助けをしたのだ。なぜか、この事実はあまり公にはされていない。
もちろん、近衛文麿が戦争終結を昭和天皇に上奏した2月14日、近衛はソ連の対日宣戦を非常に憂慮しており、「日本共産化」の危険性を強く上奏していた。が、昭和天皇は耳を貸さず、「和平するにしても敵に一泡吹かせてから」と強気の姿勢を崩さなかった。

「無条件降伏」を含むポツダム宣言を連合国が日本に突き付けたのは7月26日。宣言は米・トルーマン。英・チャーチル、中・蒋介石の連名だった。蒋介石はポツダム会議には参加しておらず、ポツダム宣言作成に直接加わっていたスターリンの名前はない。まだ、日ソ中立条約は破棄されておらず、有効だったからだ。
米軍は8月6日、広島に1回目の原爆(ウラン分裂型)を投下、8日、ソ連は急遽ポツダム宣言への参加を表明、日ソ中立条約の破棄と対日宣戦を布告した(ソ連の中立条約破棄・宣戦布告は10日という説もあるが、真偽は不明)。時系列的に考えると、広島への原爆投下がソ連の対日宣戦布告を速めたことになる。トルーマンはガースー並みの支離滅裂な思考力しかなかったのだろう。
米軍は9日、長崎に2回目の原爆(プルトニューム分裂型)を投下。事ここに至って軍部強硬派も戦争続行を断念、9日深夜から10日にかけて御前会議を開いて国体維持を条件にポツダム宣言受諾を決定、連合国に通告した。が、この「降伏」は国民にも戦闘中の軍隊にも伝えられず、戦争状態は継続する。
ソ連軍も10日には南樺太、千島列島への進撃をはじめ、日本はにっちもさっちもいかなくなった。こうして14日、政府は改めて御前会議を開き、無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾することを決定、スイスとスウェーデンの日本公使館を経由して連合国に通告、翌15日正午に「玉音放送」で国民に通知した。

ここで北方領土問題について重要なキーとなるのは、ソ連は7月26日に宣告されたポツダム宣言には参加していなかったが、8月8日(10日の可能性もある)にはポツダム宣言に参加したという重要な事実である。仮に10日の条件付きポツダム宣言受諾通告が無効だったとしても、14日のポツダム宣言受諾は有効であり、「玉音放送」が行われた15日をもって日本と連合国との戦争状態は終結した(その情報が届かなかった末端の一部では小競り合い程度の衝突は多少あったようだが)。
このポツダム宣言受諾は、当然、8日にポツダム宣言に正式参加を表明したソ連にも有効であり、8月14日以降の日本侵攻によってソ連が占拠した日本領土の領有は国際法上、明らかに無効である。
旧ソ連(現ロシアも)は「ヤルタ協定によって」とか、日本が正式にミズーリ号で降伏文書に署名した9月2日までは戦争状態が継続しており、北方領土は戦争による戦果だ」と今でも主張している。
が、まずヤルタ協定は米・英・ソの3国が勝手に合意した秘密協定にすぎず、国際社会が認めたものではない(ただし米・英はソ連を対日戦争に巻き込むために勝手に約束した手前もあって、このロシアの主張を今も黙認している)。いまでも米・英にも文句が言えない日本は「主権国家」と言えるのか。
さらに、ミズーリ号での降伏調印式にはソ連は参加しておらず、降伏文書にも連合国としての署名もしていない。つまり日ロの戦争状態は今でも続いていることを意味し、だからプーチンも「平和条約」の締結にこだわっているのだ。

●「黒い雨」訴訟について思うこと
今年7月29日、いわゆる「黒い雨」訴訟についての広島高裁の判決が確定した。政府がこの日、最高裁への上告を断念したのだ。
「黒い雨」訴訟とは何か、私のブログの読者ならとっくにご存じだと思うが、念のため簡単に説明しておこう。
76年前の8月6日、広島に原爆が投下された後、放射能を浴びたほこりや塵を含んで黒ずんだ雨が降った。その雨を浴びた人や、雨によって放射能に汚染された水や野菜などを飲食した人たち全員(原告84人)を被爆者と認定し、「被爆者健康手帳」の交付を広島高裁が命じ、当初上告の構えを見せていた政府が、最高裁への上告を断念したのだ。
これまで政府は黒い雨が降ったと、当時の気象情報から認定した地域の住民で、放射能被害による疾病が生じたと医師が判断したケースに限って援護してきた。が、国も自治体も、原爆投下直後に黒い雨が降った地域を実際に測定したわけではなく、机上の想定で被害地域を認定した。「被爆者」から訴えられた国や自治体としてはできるだけ被爆者を限定的に絞り込もうという意識が働かなかったとは言い切れない。今となっては、黒い雨が実際に降った地域を正確に認定することは不可能だし、また疾病と被爆との因果関係を科学的に明らかにすることもほとんど不可能だ。
2017年の「長崎被爆者」についての最高裁判決は「科学的知見によれば爆心地から5キロ以内に存在しなかった者は放射能による健康被害が生じたとは認められない」として被爆範囲を線引きし、「被爆者」原告の訴えを退けた。最高裁が認定した「科学的知見」はいかなる科学的手法に基づいているのかは不明だが、常識的に考えられる相当程度の強風(例えば風速10~20メートル)が吹いても放射性物質(ちりやほこりを含む)の飛散範囲は5キロ以内と限定できるのだろうか。「科学的知見」と称するからには、その「知見」を得た科学的根拠も明確にすべきではないかと思う。
今回の広島高裁の判決後、原告だけでなく訴えられていた側の広島県や広島市も政府に対して上告断念を何度も要求した。が、当初厚労省や法務省は上告の構えをかなり強く示していた。確かに広島高裁の判決が厳密に科学的根拠に基づいているか否かと問われたら、証明は困難というより、いまとなっては不可能だろう。
が、4回目の緊急事態宣言下でのオリンピック強行開催や、むしろ緊急事態宣言がかえってコロナ・パンデミックの引き金を引く結果になったかのような爆発的な感染拡大が進む中で、菅内閣の支持率が急降下して危険水域に突入した中で、上告することの政治的影響を懸念する向きも政府内に強かったようだ。
結果、菅総理は29日の午後4時過ぎ、記者団に対し、判決には政府として受け入れがたい部分もあるとしながらも、熟慮に熟慮を重ねた結果として上告断念することにしたと表明した。

「黒い雨」裁判には、いろいろなことを考えさせられた。まず広島地裁・高裁の判決基準がかなり原告(「被害者」)寄りだったこと。通常「立証責任」は原告に求められる。
が、被爆とか公害とかが原因の健康被害となると、被害者が「原因と結果の因果関係」を科学的に立証することは極めて困難である。長崎被爆についても「爆心地から5キロ以内」という最高裁が示した「科学的知見」を科学的に反証することは極めて困難である。というより事実上、不可能だ。
が、今回の場合、広島地裁・高裁は被害範囲を科学的検証として可能な限り広く認定した。そういう意味で、私は画期的判決だったと考えている。

ただ、釈然としない要素もある。いったい、被爆者に対する加害責任は国や自治体にあるのか、という疑問である。広島・長崎に原爆を投下したのはアメリカである。直接的加害者はアメリカだ。
確かに通常の戦闘行為として生じた損傷に対する加害責任は直接的加害者にはないと、国際法上は慣習的に容認している。が、アメリカの広島・長崎への原爆投下は通常の戦闘行為の範疇をはるかに超えている。だから、私はこのブログでアメリカの原爆投下についての「正当化」理由では正当化はできないことを論理的に立証してきたつもりだ。
アメリカがいまだに原爆投下について謝罪しないのは、加害者責任を免れるため以外の何ものでもない。オバマ元大統領が、大統領として初めて広島を訪れ、被爆者をハグしてくれたからといって、それがアメリカにとって免罪符になるわけではない。

●なぜ国際社会はアメリカの原爆投下を非難しないのか?
アメリカによる広島・長崎への原爆投下以降、76年間にわたり核兵器はどの国も使用していない。東西冷戦時代、米ソによる核兵器開発競争と核実験は断続的に行われてはきたが、国際紛争を解決する手段として核兵器が使用されたことはない。朝鮮戦争やベトナム戦争においても、アメリカは相当の人的損害を出しながらも、核兵器の使用には最後まで踏み切らなかった。なぜか。
もし朝鮮戦争やベトナム戦争で原爆を戦闘手段として使用していたら、世界中から非難を浴びることが必至だったからだ。
では、なぜ広島・長崎への原爆投下は国際的非難を浴びていないのか。一つは原爆が与える被害の甚大さが分かっていなかったという側面があったのかもしれない。また日本軍の「悪魔のような所業」が「残虐神話」として世界中に流布され信じられており、そうした行為と相殺されてアメリカの原爆投下が容認されてしまったのかもしれない。「南京大虐殺」とか「百人斬り」とか、物理的にあり得ない事件が「創作」され、東京裁判でも日本軍の残虐行為の証明とされたことも世界の人々に歪んだ「日本人」観が刻み込まれた可能性もある。
が、広島だけならまだしも、広島原爆投下の直後にはトルーマンやチャーチルが切望していたソ連の対日宣戦が実現し、また米軍も沖縄戦で膨大な犠牲を出したこともあって、アメリカは日本本土上陸作戦は毛頭考えていなかった。
そもそも沖縄上陸作戦は日米双方に太平洋戦争で最大の犠牲を出したが、沖縄はもともと日本軍の基地としてそれほど重要な地位を占めていたわけではなかった。むしろ当時の日本軍は台湾防衛のほうを重要視しており、沖縄守備隊の半数を台湾防衛のために移動させていたくらいだった。だから、米軍の沖縄上陸参戦に対してにわか仕立ての民兵を総動員せざるを得ず、日米双方に甚大な被害をもたらす結果になった。
実際、44年7月にサイパンを占領して以降、米軍は空爆に作戦の主力を移していた。B29の航続距離は6000キロで、サイパン・東京間の距離は2400キロ。B29はほぼ日本全域を空爆できたし、現に沖縄上陸作戦を始める直前の45年3月には10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲をはじめ名古屋、大阪、神戸と日本の大都市に対して40万人を超える犠牲者を出した大空中作戦を行い成功していた。つまり、沖縄上陸作戦自体ほとんど無意味な作戦だったと言える。
おそらく米軍も、陸・回・空軍がばらばらに戦果を競い合った挙句、陸軍が戦況にさしたる影響を与えない沖縄上陸作戦にこだわり、想定をはるかに超える2万人もの犠牲を出すことになり、その結果、九州や本土への上陸作戦を中止したと思われる。
 そういう意味ではアメリカにとっても沖縄上陸作戦は膨大な犠牲を払ったにしては、それに見合う戦果は得られず、人的被害の大きい上陸作戦はやめることにした。そして日本にとどめを刺す手段として最終兵器として原爆投下という手段を選択したと考えられる。
 実は原爆投下の目的地として京都や新潟も候補地に挙がっていたという説もあり、また長崎は当初の目的地は門司だったのが雲で視界が悪く変更したという説もある。でも、そんなことはどうでもいいことで、重要なのは広島原爆はウラン分裂型であり、長崎原爆はプルトニウム分裂型ということだ。広島で成功が確認されたウラン分裂型の原爆ではなく、長崎にはプルトニウム分裂型の原爆を使ったということ自体、原爆投下の目的が「人体実験」にあったことは否定できない。
 いずれにせよ、原爆がもたらす膨大な被害は世界が知ることになり、その結果、アメリカもソ連も事実上、原爆の実戦使用は不可能になった。ただ、被害を局地的にとどめることが可能な小型核兵器の開発には現在も米ロは余念がなく、実際、ウクライナ問題(クリミアのロシア編入)をめぐって一触即発になったとき、ロシアは小型核兵器の使用も辞さないと脅しをかけた事実もある。

●日本がしがみ付く「核不拡散条約」の欺瞞
 アメリカの核に対抗してソ連が1949年9月、原爆保有声明を発表、核の優位性を維持するためトルーマンは翌50年1月、水爆の製造を命令する。こうして米ソの核開発競争が始まるなかで、最初の核兵器反対運動が翌50年3月、スウェーデンのストックホルムで開かれた「平和擁護世界大会」でスタートを切った。この大会では、あらゆる核兵器禁止を訴えるアピールを採択、最初に原爆で無差別大量殺りくのために原爆を投下したアメリカを「人類に対する犯罪者とみなす」と厳しく断罪した。
 日本での反核運動は54年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験で遠洋マグロ漁船の第五福竜丸が被爆し、死者まで出た事件をきっかけに東京・杉並区の主婦たちが始めたのが最初である。この運動はたちまち日本全国に飛び火し、翌55年8月6日、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、9月1日には原水協(原水爆禁止日本協議会)が発足した。
当初、原水協は「あらゆる国の、あらゆる核に反対」という運動方針を打ち出していたが、61年にソ連が行った核実験に対するスタンスをめぐって「あらゆる国の核実験に反対」とする社会党系と、「ソ連の核は防衛が目的」「アメリカの核は汚い灰をまき散らすが、ソ連の核の灰はきれいだ」と非科学的な主張をした共産党系が正面から対立、原水協が分裂して社会党系は新たに原水禁(原水爆禁止国民会議)を発足させた。
一方、世界では英・仏・中国も次々に核を保有するに至り、1963年、国連で核不拡散条約(NPT)が採択され、70年3月に発行した。日本も参加したが、NTPは「67年2月1日の時点で核を保有している米・ソ・英・仏・中の5か国のみに核の保有・開発・製造・実験の自由を認め、それ以外の国の核保有等を認めない」という内容だったため、インド・パキスタンは「不平等だ」として参加を拒否、イスラエルは賛否を明らかにせず不参加、南スーダンも参加を拒否した。北朝鮮はいったん参加したが、アメリカの核の傘で守られている韓国に対し、中国からの同様の保護が確約されていないことから93年3月に脱退した。が、国連決議によって経済制裁を受けたことから、いったんNPTに復帰したが、アメリカの露骨な北朝鮮敵視政策を受けて再び脱退、核・ミサイル開発に狂奔するに至っている。

確かにNPTは不平等条約であるうえ、二重の欠陥を抱えている。一つは「核なき世界」へのスタート・ラインのはずなのに、核保有5か国はNPT発足時に保有していた核の保持だけでなく、新たな核兵器の開発・製造・実験も容認されており、核保有国と核非保有国との格差がますます広がっていくことを容認していること。さらに、もっと重大なことは核保有5か国は、核を保有する権利だけでなく、核使用の権利も禁止されていないことである。
こうした条約上の欠陥だけでなく、とくにアメリカにとって不都合な国の核の開発・保有に対しては国連決議で厳しい制裁が加えられるが、アメリカにとって都合がいい、あるいは少なくとも不都合ではない国の核開発・保有は黙認しているといった運用上の問題もある。
たとえば、アメリカの敵視政策に対して「自衛目的」という口実で核・ミサイル開発を続ける北朝鮮には国連決議で厳しい制裁を加えているが、事実上の核保有国と国際社会が認めているイスラエルには何の「お咎め」もない。一方、イスラエルの核に対抗して核を開発しているのではないかと疑惑を持たれたアラブ諸国には厳しい制裁が発動される。実際、核を含む大量破壊兵器を持っていると誤認されたフセイン・イラクは米・英軍によって破滅させられ、無政府状態に陥ったイラクでイスラム過激派のIS(「イスラム国」)が跋扈し、他のアラブ諸国にも飛び火して大量の難民がヨーロッパに移動、それがイギリスのEU離脱の要因にもなった。さらにイランも現在、核開発の「容疑」をかけられてアメリカから経済制裁の対象にされている。その一方、中国との間で国境紛争を生じているインドが中国の核に対抗して核を開発・実験したり、またインドとの間でカシミール地域の領有権紛争を生じているパキスタンの核実験に対しても、パキスタン国内に活動拠点を設けているイスラム過激派のタリバンに対する「脅し」になると考えてアメリカは「黙認」している。
こうした重大な欠陥を持っているNPTが、「核なき世界」への道とはまったく言えないにもかかわらず、なぜか日本はNPTを「核なき世界への道」に変える努力どころか、むしろNPTを支える太い柱になろうとしている。世界で唯一の被爆国であるにもかかわらずだ。

●日本が「核兵器禁止条約」(核禁条約)にソッポを向く理由
 日本はなぜ核兵器禁止条約に反対し続けるのか。核兵器が完全に廃絶されれば、アメリカの「核の傘」に安全保障を依存する必要もなくなる。主権国家としての尊厳も回復できるし、日本独自の「平和外交」も進めることができるようになる。日本にとってマイナスになる要素はまったくない、はずだ。
 
とりあえず核禁条約が国連で採択され、発効に至るプロセスを検証しておく。
1996年4月、核兵器廃絶を求める法律家、科学者、安全保障学者たちが核禁条約の草案を起草して世界に核兵器廃絶を訴えたのが嚆矢である。
この草案をベースに97年11月、コスタリカが国連に条約案を提出した。
2011年10月、ようやく条約案が国連軍縮会議にかけられ、賛成127か国で採択された。
16年10月、修正案が国連軍縮会議に提出され、賛成123か国、反対38か国、棄権16か国で採択された。この採決で反対に回ったのは、米・英・仏・露・日・独などだった。北朝鮮は賛成し、中国は棄権した。
が、翌17年から賛成各国の国会で批准されるようになり、20年10月24日にホンジュラスが批准して批准国50か国に達し、国連の規定により90日後の21年1月22日、核禁条約が発効することになった。
この核禁条約によって、核不拡散条約は自然消滅するのが法社会の最低の原則である。が、なぜか亡霊のように残っている。核問題について2つの相容れない条約が成立した状態が続いているのだ。
私は、他国は別としても日本は「法治国家」だと思い込んできた。国連で採択され発効した条約は、法治国家である日本は気に入ろうと気に入るまいと従うか、それともかつて国際連盟での決議(満州事変についての日本非難決議)に反発して日本の全権大使・松岡洋右が国際連盟から脱退した歴史に倣って、国連決議で発効した核禁条約に反対するなら、日本は国連から脱退すべきだ、と私は思う。日本政府にとって都合がいい条約には従って北朝鮮への制裁は行うけど、日本にとって都合が悪い条約には従わなくてもいいというのが国連決議の軽さだったら、日本が国連にとどまる意味がない。と、私は思うのだが、政府の考え方は違うようだ、核禁条約についての日本政府のスタンスを外務省のホームページから転載する。

日本は唯一の戦争被爆国であり、政府は、核兵器禁止条約が目指す核兵器廃絶という目標を共有しています。一方、北朝鮮の核・ミサイル開発は、日本及び国際社会の平和と安定に対するこれまでにない、重大かつ差し迫った脅威です。北朝鮮のように核兵器の使用をほのめかす相手に対しては通常兵器だけでは抑止を効かせることは困難であるため、日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です。
核軍縮に取り組む上では、この人道と安全保障の二つの観点を考慮することが重要ですが、核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません。核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない、国民の生命・財産を危険に晒(さら)すことを容認することになりかねず、日本の安全保障にとっての問題を惹起(じゃっき)します。また、核兵器禁止条約は、現実に核兵器を保有する核兵器国のみならず、日本と同様に核の脅威に晒(さら)されている非核兵器国からも支持を得られておらず、核軍縮に取り組む国際社会に分断をもたらしている点も懸念されます。
日本政府としては、国民の生命と財産を守る責任を有する立場から、現実の安全保障上の脅威に適切に対処しながら、地道に、現実的な核軍縮を前進させる道筋を追求することが必要であり、核兵器保有国や核兵器禁止条約支持国を含む国際社会における橋渡し役を果たし、現実的かつ実践的な取組を粘り強く進めていく考えです。

これほど「人を食った」というか、詭弁も限度を超えていると言わざる核禁条約反対論は、多分AIに採点させれば0点間違いないだろう。
私はAIほどの思考力は持っていないが、とりあえず高校生レベルの思考力で、政府の反対論の矛盾を指摘しておく。読者が理解しやすいように箇条書きで政府主張の矛盾を指摘していこう。

①「日本は唯一の被爆国であり、政府は、核兵器禁止条約が目指す核兵器廃絶という目標を共有しています」――ウソ、つくな。はっきり言うが、アメリカが核廃絶を表明したら、すべての核保有国はアメリカに従って核を放棄する。いうまでもなくアメリカは世界最大の核大国である。そのアメリカから敵対視され、アメリカの核の脅威を受けざるを得ない国は、アメリカと「核戦争」になった場合、絶対に勝てないまでも、アメリカにも深刻な損害を与えることができる核軍事力で対抗する以外、アメリカの意のままになるしかない。日本はアメリカの意のままになる道を選ぶことによってアメリカの核の脅威から免れているに過ぎない。もし本当に核禁条約が目指す核兵器廃絶の目標を日本も共有しているならば、アメリカの核の脅威に対抗するため、やむを得ず核を保有せざるを得ない国に「日本のようにアメリカの属国的ポジションを取れ」という前に、アメリカに対して「核の力で他国を意のままにしようという驕りを捨てよ」と言うべきではないか。
②「北朝鮮の核・ミサイルは…(日本にとって)通常兵器だけでは抑止を効かせることは困難であるため…日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です」――バカ言うな。日米安全保障条約は日本が敗戦で軍事的に丸裸になったとき、共産圏からの侵略を防ぐ目的で締結された。いま、たとえ核兵器を持っていようと、日本を侵略しようと考える国がどこにいる。第2次世界大戦以降、植民地支配を拡大しようという国も、軍事力で共産圏を拡大しようという国も、まったくない。現に、日本や韓国など、事実上アメリカとの従属関係を維持するためにアメリカが支払っている費用の負担にアメリカ自身が耐えかねて、「同盟国」(実質的には従属国)に対して応分の費用負担を要求するようになっているくらいだ。
今、現実問題として日本を敵視している国は韓国くらいだ。が、日本政府は韓国の軍事力を脅威とは全く感じていない。赤ん坊が駄々をこねているくらいにしか思っていない。公平に軍事力を比べれば、韓国が日本と戦って勝てるわけがないからだし、いちおうアメリカを媒介して日韓は間接的「同盟」関係にあるからだ。まして今北朝鮮はことさらに日本を敵視しているわけではない。日本に対してなにも要求していないし、むしろ日本とは友好関係を築いて日本の資本や技術を導入して経済成長を遂げたいと思っているくらいだ、その北朝鮮の核をなぜ日本は脅威に感じなければならないのか。確かに金正恩はアメリカと戦争になった場合、真っ先に火の海になるのは日本だと脅しをかけている。それは米軍基地が日本に集中しているからに他ならない。
そういう意味では日本国内の米軍基地は、日本にとって安全保障の砦であると同時に、日本の火薬庫でもある。はっきり言えば、在日米軍基地は抑止力になるとともに、爆弾を抱えているようなものなのだ。つまり、日本がアメリカの抑止力に依存すればするほど、リスクも増えていくことを意味する。高校生くらいの理解力があれば、この論理は理解できるはずだ。
③「核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません。核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない…日本の安全保障にとっての問題を惹起します」――寝ぼけたことを言うな。核禁条約はアメリカの核だけ廃絶しろとは言っていない。アメリカだけでなくロシアや中国、ことさらに脅威を煽っている北朝鮮の核もすべてが禁止対象だ。すべての核保有国が核兵器を廃棄すれば、日本はアメリカの核抑止力に依存する必要もなくなるではないか。だいいち、日本が核禁条約に参加してアメリカの「核の傘」から外れたら、どんなリスクが生じるというのか。それに、アメリカが実際に核兵器を廃棄するとしたら、そのときはすべての核保有国が核兵器を廃棄したことを確認したのちだ。アメリカが真っ先に核兵器を廃棄するような「お人好し」の国ではないことを、日本は身をもって体験しているではないか。なにせ、ウラン分裂型とプルトニウム分裂型の効力を日本で人体実験した国だからね。

最後に「日本政府は…地道に、現実的な核軍縮を前進させる道筋を追及することが必要であり、(核保有国と非保有国の)橋渡し役をはた(す)…取り組みを粘り強く進めていく考えです」――偉いもんだ。アメリカの核抑止力に依存しなければ日本は他国から侵略されてしまうほどの弱小国なのに、「地道に、現実的な核軍縮を前進させる道筋」を作り。核保有国と非保有国の「橋渡し」までできると考えているのだ。すさまじいほどの自家撞着といってもいいだろう。 
では米ソや米中の仲介役を買って出て、実際にどんな核軍縮の道筋をつけてきたのか明らかにしてもらいたい。北朝鮮の核に恐怖で震えている日本政府が、実際に北朝鮮がアメリカの核の脅威に対抗するために核・ミサイル開発に狂奔する前に、「日本がアメリカに対北朝鮮敵視政策を止めさせるから、核・ミサイル開発のようなバカなことはやめなさい。それでも核・ミサイル開発を続けるなら、国際社会で孤立して不利になるだけだ」と北朝鮮を説得したのかね。
日本にそのくらいの力があるなら、アメリカの「核の抑止力」なんかに日本の安全保障を依存する必要なんかまったくないはずだよ。


【追記】昨日(6日)広島で平和祈念式典が行われた。その式での菅総理のスピーチが、原稿の重要部分を読み飛ばしたということでネットで大騒ぎになった。
 SNSでの反応は「原稿をちゃんと読めないような人が総理を務まるか」といった趣旨の批判が大半だったが、実は違う。ガースーは百も承知で読まなかったのだ。私がSNSで発信した私の「読み」を転記する。

ヤフコメの皆さん、人が良すぎますよ。
あれは意図的に飛ばしたんです。
だって自民党は日本の安全保障の基本軸を「アメリカの核抑止力」に置いているでしょう。だから「北朝鮮の核挑戦」に対してアメリカさんに「もっと核抑止力を強化してください」と頼んでいる立場。
それなのに、「核のない世界のために」なんて言ったら、アメリカさん、「ふざけるな。それならお前の国はアメリカの核で守ってやらなくてもいいんだね」と言われてしまう。
で、おそらく原稿は直前に読んだんだと思う。いまさら官僚に「書き直せ」と命じる時間的余裕もなく、仕方がないので「核のない世界を目指して」という部分を飛ばしたのが真実。だからガースーは意外にバカではなく、頭がいいのかもしれない。
ただ、日本にとってはガースーの存在は悪夢だけどね~。(7日)