とりあえず書き始める。15日に投稿したブログ『安保法制懇の報告書は矛盾だらけだ。そもそも「集団的自衛権」の意味が分かっていない。①』の続きである。①が9000字に及ぶ長文になったため体力の消耗が激しく、今日投稿するブログはどこまで報告書の検証作業を進められるか正直分からない。ま、できるだけ努力はしてみるつもりだ。
②では、集団的自衛権行使と憲法解釈の変更についての報告書を検証する。前回と同様報告書に従って検証作業を行う。報告書はこう述べている。
憲法9条は、自衛権や集団安全保障については何ら言及していない。
※当り前である。日本は敗戦によって連合軍(実態は米軍)によって占領されて主権を喪失し、陸海空軍は完全に解体された。憲法は、事実上GHQの指示のもとに作成され、帝国議会=当時はまだ帝国議会だった=で承認されただけで、憲法が謳っている改正のための要件=国民の過半数の支持=すら満たしていない。だから報告書も①で述べているように「終戦直後には『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した』としていた」のである。だから憲法9条が自衛権や集団的安全保障について言及していないのは当り前であって、それをもって自由な解釈が可能になるという主張が容認されるべきではないのは当然である。
憲法第9条第1項がわが国の武力による威嚇又は武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国際連合憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経緯から見ても、適切ではない。同項の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じておらず、また国連PKO等や集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。国連PKO等における武器使用を、第9条第1項を理由に制限することは、国連の活動への参加に制約を課している点と、「武器の使用」を「武力の行使」と混同している点で、二重に適切でない。
※自衛権行使のための実力の保持は砂川判決で確定しているが、国連PKO等や集団的安全保障措置への参加については、私自身は日本が国際社会に果たすべき責任であると何度もブログで主張しているが、現行憲法はそういう事態を想定しておらず、従って国際平和と安全に寄与する目的で他国間の紛争に武力介入するためには憲法を改正する必要があるとするのが合理的である。なお報告書は「武器の使用」と「武力の行使」を別個のものと理解しているようだが、「国連PKO等における武器使用」が「武力行使」とどう違うのかの説明がない。武器使用は個人的行為で、武力行使は国の行為とでも言いたいのか。国が容認していない武器使用を、自衛隊員が個人的に行えるとでも思っているのか。アホか、と言いたい。
憲法第9条第2項は、第1項において、武力による威嚇や武力の行使を「国際紛争を解決する手段」として放棄すると定めたことを受け、「前項の目的を達成するため」に戦力を保持しないと定めたものである。したがって、我が国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力以外の、すなわち自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。
※ここまで書かれると「屁理屈」にも相当しない。たとえば貨幣には用途がかかれていない。1万円札は、どこで何に使おうと1万円の交換価値を持っている。同様に、自衛隊が保持している武器・兵器も、外国から攻撃を受けた際にも、また日本が武力攻撃を行う場合も、使用法によって武器・兵器の機能や性能が変わるわけではない。ただし、自衛隊が保持できる武器・兵器は「専守防衛」のための「必要最小限のもの」と定められており、ミサイルや核兵器など、敵国(日本を攻撃した国)の軍事基地を攻撃できる能力のある武器・兵器の保持は認められていない。報告書は「自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべき」と、あたかも「自衛」と「国際貢献」が同一の行為であるかのようなデタラメな解釈をしている。「屁理屈」「こじつけ」「牽強付会」…。私は同義語辞書を持っていないので、ほかにも該当する言葉があったら教えてほしい。
国家は他の信頼できる国家と連携し、助け合うことによって、よりよく安全を守りうるのである。集団的自衛権の行使を可能とすることは、他の信頼できる国家との関係を強固にし、阻止力を高めることによって戦争の可能性を未然に減らすものである。
※この個所は正論である。だから日米安全保障条約によって、有事の際は米軍が日本を防衛する義務を負うことになっている。問題はアメリカが有事の際、日本はアメリカを防衛する義務がないことである。だから実際に有事の際、アメリカが本当に日本を防衛してくれるのかの絶対的保証はない。日米安保条約の片務性を解消して双務的なものにすれば、有事の際の日本の安全性は飛躍的に高まることは疑いを容れない。つまり、安倍総理や安保法制懇が意図する「集団的自衛権行使の限定容認」を「憲法解釈の変更」によって可能にしたい目的は、日米安保条約を双務的なものに変えることにある。が、現行憲法下では「日米安保条約」を双務的なものにすることが不可能だとしたら、いわゆる「集団的自衛権」も現行憲法下では容認できないとするのが文理的解釈である。
「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」であるというこれまでの政府の解釈に立ったとしても、その「最少必要限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。
※前段の部分について、これまでの政府は報告書が述べているような解釈は一切していない。政府の集団的自衛権についての解釈は「集団的自衛権も固有の権利として持ってはいるが、憲法の制約によって行使できない」である。また必要最小限度というのは「専守防衛」にとって必要な最低限の戦力のことである。それ以外の解釈は不可能だ。日本にとって「敵国」となりうる可能性のある国から攻撃された場合、日本はアメリカと共同で反撃することを前提に戦力を整備してきた。もしアメリカが日本を防衛しないケースを前提にすると「必要最小限度の戦力」はミサイルや核兵器まで含まなければならないことになる。「必要最小限度の戦力」が、状況に応じて変化するのは当然で、その戦力は個別的とか集団的とかで異なる問題ではない。安保法制懇は「必要最小限度の戦力」にミサイルや核兵器も含めたいのか。
憲法第9条第2項にいう「戦力」については、「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度は防衛力整備を巡る国会論議の中で国民の支持を得つつ考えられるべきものとされている。客観的な国際情勢に照らして、憲法が許容する武力の行使に必要な実力の保持が許容されるという考え方が、今後も踏襲されるべきものと考える。
※また前段と矛盾した主張である。前段では「必要最小限度の戦力」を、いわゆる「集団的自衛権」をも行使できる戦力としながら、ここでは「個別的自衛権行使に必要な最小限度の戦力」という考え方を今後も踏襲すべきと主張している。つじつま合わせが困難になってきて、報告書を書いた人の頭がとうとう混乱し始めたのだろうか。
「交戦権」については、自衛のための武力の行使は憲法の禁ずる交戦権とは「別の観念のもの」であるとの答弁がなされてきた。国策遂行の手段としての戦争が国際連合憲章により一般的に禁止されている状況で、個別的及び集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障措置等のように国際連合憲章を含む国際法に合致し、かつ、憲法の許容する武力の行使は、憲法9条の禁止する交戦権の行使とは「別の観念のもの」と引き続き観念すべきものである。合法的な武力行使であっても国際人道法規上の規制を受けることは当然である。
※この文章中に「観念」という言葉が3回使用されている。朝日新聞に問い合わせたが、掲載された報告書は朝日新聞が入手した報告書の重要な個所をスキャンしたということなので、報告書にはその通り記載されているようだ。一か所の入力ミスなら見落としもあるだろうが、3回も使用された言葉ということになると、入力ミスとは考えにくい。当然誤変換も考えられない。安保法制懇は「観念」という言葉に、どういう意味を含ませたかったのか、理解に苦しむ。そのことはともかく報告書は重要な、というより意図的な国連憲章の変更をここでしている。国連憲章51条が国連加盟国に認めている「自衛権」は、国連安保理が必要な措置をとるまでの間に限り「個別的又は集団的自衛の固有の権利」である。国連憲章の原文は英語のはずだから、「又は」の箇所は原文では or のはずである。が、報告書は「又は」を and の邦訳である「及び」に変更している。この意図的改変の目的はいまのところ不明だが、従来の政府解釈は「個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は憲法の制約によって行使できない」としており、その政府解釈を変更するために「及び」とすれば憲法上の制約を受けずに済む、とでも考えたのだろうか。
集団的自衛権については、我が国においては、我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。
※この文脈で重要なのは集団的自衛権についての解釈を、さりげなく「わが国においては」と日本独自の解釈に変更していることである。実はこの部分は昨日(15日)午後6時から約40分間にわたって行われた安倍総理の、報告書を受けての記者会見を見たあと書いている。すでに私は何度も安倍総理は集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更しているとブログで書き、○○省○○局の幹部官僚から集団的自衛権の解釈を変更していることについて「そうです」との回答を得ており、そのことを政府は国民に説明していないという私の指摘に対しても「その通りです」との明快な回答を得ていた。その時のやり取りもブログで明らかにしている。そして今日、ついに安倍総理は二つの解釈変更が必要であることを記者会見で認めた。一つは集団的自衛権についての解釈変更、もう一つは憲法解釈の変更である。それでも総理の会見に出席した記者のだれからも、そのことへの質問は出なかった。総理に直接質問できるほどの記者たちの鈍感さには呆れるほかない。
そのような場合に該当するかどうかについては、我が国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つき、その抑止力が大きく損なわれうるか、国際秩序そのものが大きく揺らぎうるか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他我が国への深刻な影響が及びうるかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ、責任を持って判断すべきである。
※私は何度も現行憲法無効論の主張を述べてきた。報告書が懸念を示した、このような事態には現行憲法では対処できないと考えているからである。
今日のブログはここで終えるが、安倍総理は憲法改正を目指しつつ、一方で解釈改憲によって憲法改正の必要性を否定しようとしている。明らかな二律背反である。集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更し、その変更によって憲法解釈の変更を可能にしようという二段階変更である。そういう総理の悪
巧みに、メディアや政治家が果たして気が付くかどうかで、安倍総理の政治生
命が左右される。
総理は記者会見で、安保法制懇の報告書を丸呑みはしないと発言し、安保法制懇との一定の距離感を表明したが、安倍総理が否定した報告書の箇所は意図的に否定するために挿入されたと考えてよい。具体的には報告書の、自衛隊の多国籍軍への参加を前提にした「国連の集団安全保障措置への参加には、憲法上の制約はない」とした点を取り上げて、「憲法が、こうした活動のすべてを許しているとは考えない」と否定して見せた。そういう記者騙しのテクニックに記者たちは見事に引っかかったようだ。なお総理はこの会見でさらっと「いわゆる芦田修正は認めない立場だ」と述べた。この発言はあまりにも唐突だったので、今日のブログでは総理の意図についての論評は避ける。
ただこのブログは15日に書いており、今日の朝刊でチェックできない時間帯に外出しなければならない用事がある。ブログは外出の直前に行うつもりだ。ただ多少気になったのは、NHKの『ニュース7』で公明党の山口代表が集団的自衛権の行使容認に向けて前向きともとれる発言をしたことだ。公明党は、憲法改正によって歯止めがなくなるより、集団的自衛権の限定容認を認めて歯止めをかける方を選ぶことにしたのか。あるいは政権の片隅の居心地の良さを失いたくなくなったのか…。
②では、集団的自衛権行使と憲法解釈の変更についての報告書を検証する。前回と同様報告書に従って検証作業を行う。報告書はこう述べている。
憲法9条は、自衛権や集団安全保障については何ら言及していない。
※当り前である。日本は敗戦によって連合軍(実態は米軍)によって占領されて主権を喪失し、陸海空軍は完全に解体された。憲法は、事実上GHQの指示のもとに作成され、帝国議会=当時はまだ帝国議会だった=で承認されただけで、憲法が謳っている改正のための要件=国民の過半数の支持=すら満たしていない。だから報告書も①で述べているように「終戦直後には『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した』としていた」のである。だから憲法9条が自衛権や集団的安全保障について言及していないのは当り前であって、それをもって自由な解釈が可能になるという主張が容認されるべきではないのは当然である。
憲法第9条第1項がわが国の武力による威嚇又は武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国際連合憲章等の国際法の歴史的発展及び憲法制定の経緯から見ても、適切ではない。同項の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じておらず、また国連PKO等や集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。国連PKO等における武器使用を、第9条第1項を理由に制限することは、国連の活動への参加に制約を課している点と、「武器の使用」を「武力の行使」と混同している点で、二重に適切でない。
※自衛権行使のための実力の保持は砂川判決で確定しているが、国連PKO等や集団的安全保障措置への参加については、私自身は日本が国際社会に果たすべき責任であると何度もブログで主張しているが、現行憲法はそういう事態を想定しておらず、従って国際平和と安全に寄与する目的で他国間の紛争に武力介入するためには憲法を改正する必要があるとするのが合理的である。なお報告書は「武器の使用」と「武力の行使」を別個のものと理解しているようだが、「国連PKO等における武器使用」が「武力行使」とどう違うのかの説明がない。武器使用は個人的行為で、武力行使は国の行為とでも言いたいのか。国が容認していない武器使用を、自衛隊員が個人的に行えるとでも思っているのか。アホか、と言いたい。
憲法第9条第2項は、第1項において、武力による威嚇や武力の行使を「国際紛争を解決する手段」として放棄すると定めたことを受け、「前項の目的を達成するため」に戦力を保持しないと定めたものである。したがって、我が国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力以外の、すなわち自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。
※ここまで書かれると「屁理屈」にも相当しない。たとえば貨幣には用途がかかれていない。1万円札は、どこで何に使おうと1万円の交換価値を持っている。同様に、自衛隊が保持している武器・兵器も、外国から攻撃を受けた際にも、また日本が武力攻撃を行う場合も、使用法によって武器・兵器の機能や性能が変わるわけではない。ただし、自衛隊が保持できる武器・兵器は「専守防衛」のための「必要最小限のもの」と定められており、ミサイルや核兵器など、敵国(日本を攻撃した国)の軍事基地を攻撃できる能力のある武器・兵器の保持は認められていない。報告書は「自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべき」と、あたかも「自衛」と「国際貢献」が同一の行為であるかのようなデタラメな解釈をしている。「屁理屈」「こじつけ」「牽強付会」…。私は同義語辞書を持っていないので、ほかにも該当する言葉があったら教えてほしい。
国家は他の信頼できる国家と連携し、助け合うことによって、よりよく安全を守りうるのである。集団的自衛権の行使を可能とすることは、他の信頼できる国家との関係を強固にし、阻止力を高めることによって戦争の可能性を未然に減らすものである。
※この個所は正論である。だから日米安全保障条約によって、有事の際は米軍が日本を防衛する義務を負うことになっている。問題はアメリカが有事の際、日本はアメリカを防衛する義務がないことである。だから実際に有事の際、アメリカが本当に日本を防衛してくれるのかの絶対的保証はない。日米安保条約の片務性を解消して双務的なものにすれば、有事の際の日本の安全性は飛躍的に高まることは疑いを容れない。つまり、安倍総理や安保法制懇が意図する「集団的自衛権行使の限定容認」を「憲法解釈の変更」によって可能にしたい目的は、日米安保条約を双務的なものに変えることにある。が、現行憲法下では「日米安保条約」を双務的なものにすることが不可能だとしたら、いわゆる「集団的自衛権」も現行憲法下では容認できないとするのが文理的解釈である。
「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」であるというこれまでの政府の解釈に立ったとしても、その「最少必要限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。
※前段の部分について、これまでの政府は報告書が述べているような解釈は一切していない。政府の集団的自衛権についての解釈は「集団的自衛権も固有の権利として持ってはいるが、憲法の制約によって行使できない」である。また必要最小限度というのは「専守防衛」にとって必要な最低限の戦力のことである。それ以外の解釈は不可能だ。日本にとって「敵国」となりうる可能性のある国から攻撃された場合、日本はアメリカと共同で反撃することを前提に戦力を整備してきた。もしアメリカが日本を防衛しないケースを前提にすると「必要最小限度の戦力」はミサイルや核兵器まで含まなければならないことになる。「必要最小限度の戦力」が、状況に応じて変化するのは当然で、その戦力は個別的とか集団的とかで異なる問題ではない。安保法制懇は「必要最小限度の戦力」にミサイルや核兵器も含めたいのか。
憲法第9条第2項にいう「戦力」については、「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度は防衛力整備を巡る国会論議の中で国民の支持を得つつ考えられるべきものとされている。客観的な国際情勢に照らして、憲法が許容する武力の行使に必要な実力の保持が許容されるという考え方が、今後も踏襲されるべきものと考える。
※また前段と矛盾した主張である。前段では「必要最小限度の戦力」を、いわゆる「集団的自衛権」をも行使できる戦力としながら、ここでは「個別的自衛権行使に必要な最小限度の戦力」という考え方を今後も踏襲すべきと主張している。つじつま合わせが困難になってきて、報告書を書いた人の頭がとうとう混乱し始めたのだろうか。
「交戦権」については、自衛のための武力の行使は憲法の禁ずる交戦権とは「別の観念のもの」であるとの答弁がなされてきた。国策遂行の手段としての戦争が国際連合憲章により一般的に禁止されている状況で、個別的及び集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障措置等のように国際連合憲章を含む国際法に合致し、かつ、憲法の許容する武力の行使は、憲法9条の禁止する交戦権の行使とは「別の観念のもの」と引き続き観念すべきものである。合法的な武力行使であっても国際人道法規上の規制を受けることは当然である。
※この文章中に「観念」という言葉が3回使用されている。朝日新聞に問い合わせたが、掲載された報告書は朝日新聞が入手した報告書の重要な個所をスキャンしたということなので、報告書にはその通り記載されているようだ。一か所の入力ミスなら見落としもあるだろうが、3回も使用された言葉ということになると、入力ミスとは考えにくい。当然誤変換も考えられない。安保法制懇は「観念」という言葉に、どういう意味を含ませたかったのか、理解に苦しむ。そのことはともかく報告書は重要な、というより意図的な国連憲章の変更をここでしている。国連憲章51条が国連加盟国に認めている「自衛権」は、国連安保理が必要な措置をとるまでの間に限り「個別的又は集団的自衛の固有の権利」である。国連憲章の原文は英語のはずだから、「又は」の箇所は原文では or のはずである。が、報告書は「又は」を and の邦訳である「及び」に変更している。この意図的改変の目的はいまのところ不明だが、従来の政府解釈は「個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は憲法の制約によって行使できない」としており、その政府解釈を変更するために「及び」とすれば憲法上の制約を受けずに済む、とでも考えたのだろうか。
集団的自衛権については、我が国においては、我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。
※この文脈で重要なのは集団的自衛権についての解釈を、さりげなく「わが国においては」と日本独自の解釈に変更していることである。実はこの部分は昨日(15日)午後6時から約40分間にわたって行われた安倍総理の、報告書を受けての記者会見を見たあと書いている。すでに私は何度も安倍総理は集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更しているとブログで書き、○○省○○局の幹部官僚から集団的自衛権の解釈を変更していることについて「そうです」との回答を得ており、そのことを政府は国民に説明していないという私の指摘に対しても「その通りです」との明快な回答を得ていた。その時のやり取りもブログで明らかにしている。そして今日、ついに安倍総理は二つの解釈変更が必要であることを記者会見で認めた。一つは集団的自衛権についての解釈変更、もう一つは憲法解釈の変更である。それでも総理の会見に出席した記者のだれからも、そのことへの質問は出なかった。総理に直接質問できるほどの記者たちの鈍感さには呆れるほかない。
そのような場合に該当するかどうかについては、我が国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つき、その抑止力が大きく損なわれうるか、国際秩序そのものが大きく揺らぎうるか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他我が国への深刻な影響が及びうるかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ、責任を持って判断すべきである。
※私は何度も現行憲法無効論の主張を述べてきた。報告書が懸念を示した、このような事態には現行憲法では対処できないと考えているからである。
今日のブログはここで終えるが、安倍総理は憲法改正を目指しつつ、一方で解釈改憲によって憲法改正の必要性を否定しようとしている。明らかな二律背反である。集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更し、その変更によって憲法解釈の変更を可能にしようという二段階変更である。そういう総理の悪
巧みに、メディアや政治家が果たして気が付くかどうかで、安倍総理の政治生
命が左右される。
総理は記者会見で、安保法制懇の報告書を丸呑みはしないと発言し、安保法制懇との一定の距離感を表明したが、安倍総理が否定した報告書の箇所は意図的に否定するために挿入されたと考えてよい。具体的には報告書の、自衛隊の多国籍軍への参加を前提にした「国連の集団安全保障措置への参加には、憲法上の制約はない」とした点を取り上げて、「憲法が、こうした活動のすべてを許しているとは考えない」と否定して見せた。そういう記者騙しのテクニックに記者たちは見事に引っかかったようだ。なお総理はこの会見でさらっと「いわゆる芦田修正は認めない立場だ」と述べた。この発言はあまりにも唐突だったので、今日のブログでは総理の意図についての論評は避ける。
ただこのブログは15日に書いており、今日の朝刊でチェックできない時間帯に外出しなければならない用事がある。ブログは外出の直前に行うつもりだ。ただ多少気になったのは、NHKの『ニュース7』で公明党の山口代表が集団的自衛権の行使容認に向けて前向きともとれる発言をしたことだ。公明党は、憲法改正によって歯止めがなくなるより、集団的自衛権の限定容認を認めて歯止めをかける方を選ぶことにしたのか。あるいは政権の片隅の居心地の良さを失いたくなくなったのか…。
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