「全員野球内閣」だそうだ。もちろん、3選を果たした安倍総理が行った内閣改造についての、安倍総理自身が胸を張って発表したネーミングだ。
当然、私は違和感を覚えた。いったい「全員野球」とはどういう意味か。
ちなみに、共産党の志位委員長は「閉店セール内閣」とネーミングした。これも意味不明だ。
スーパーなど小売店の閉店セールには2種類ある。一つは近隣の同業者との競争に敗れて店じまいする際に行うセールだ。いま安倍内閣がそういう状態にあるかといえば、むしろ内閣支持率(新内閣支持率は各メディアが今週末に行うだろうが、結果は不明だが、過去に関しては内閣改造で支持率が下がったケースはほとんどない)は上がる可能性のほうが高い。もう一つの「閉店セール」は、建物が老朽化したり、さらに売り上げを伸ばすために行う店舗リニューアルの際、在庫商品を一掃するために行うセールで、むしろ前向きのセールを意味する。まさか、志位さんが新内閣を前向きの「閉店セール」と評価することはあり得ないから、たぶん前者のセールを意味したネーミングだと思う。
そう考えると、先の衆院選で共産党は議員数をほぼ半減する大敗を喫した。その大敗について共産党は「野党共闘を重視したためだ」と言い訳している。では聞くが、2年前の参院選で共産党は1人区での野党共闘という、前回衆院選と同じ選挙をした。その結果、共闘相手の民進党は惨敗したが、共産党は比例区で躍進した。そのとき、「共闘方式の勝利」と自画自賛しなかったか。同じ共闘方式で2年前には勝利を謳歌しながら、去年は敗北を認めようとしない。共産党は「ご都合主義政党」以外の何物でもない。あるいは「認知症症候群政党」とでも呼ぼうか。
全員野球とはどういう意味か。ネットで検索したが、ネットの解釈は間違っていた。「選手だけでなく、野球部に関係するすべての関係者が一丸となって戦う」という意味の高校野球用語とされている。とんでもない。最初にこの言葉を使ったのは高校野球チームの監督だったかもしれないが、いまは高校野球に限らず、プロ野球も含めて使われている言葉だ。
野球はグラウンドで試合をする選手は9人と限定されている。が、交代要員も含めてベンチに入れる選手も数が限定されている。確かプロ野球の場合はベンチ入りできる選手は25人だったと思う。とりあえず、そのうちから9人が先発メンバーとして出場する。残り16人は交代要員としてベンチで待機する。投手の場合は試合が始まった直後は別にしても、2~3人がブルペンでピッチングの練習をしているし、野手はいつでもピンチヒッターとして起用されてもいいようにベンチの裏部屋で素振りの練習をしている。
私は、自分で言うのもなんだが、非常に素直で、人の言うことをほとんどまともに聞いてしまう性格の持ち主だ。で、安倍さんの「全員野球内閣」も裏を勘ぐったりせず、素直に聞くことにした。つまり今回の内閣改造で新大臣になった閣僚は、留任も含めて20人。野球で言えばグラウンドで試合をしている選手9人に相当する。ということは、「ベンチには交代要因などいらない。先発9人で最強の布陣で臨む。この9人で最後まで戦う」という自信にあふれた人選ではないことを総理自ら表明したのが、この新内閣の閣僚ということになる。
全員野球とは、ベンチの控え選手も、リリーフ投手やピンチヒッター、代走、守備固めなどとして、ほとんど全選手が一人残らずグラウンドに出て戦う「総力戦」を意味する言葉だ。政府の場合、野球のようなベンチ要員がいるわけではない。敢えて言えば、大臣に何かあったときはとりあえず副大臣がその任に就くことになるが、副大臣がそのまま大臣に昇格するケースはほぼなく、すぐに新大臣が閣外から任命される。だから副大臣をも含めた閣僚が野球でいうベンチ要員には当たらず、与党の国会議員全員が野球でいうベンチ入り選手に相当すると解釈するのが妥当だろう。わたしと同様、素直な性格の人なら、間違いなく同じ結論に達するはずだ。
私は性格は素直だが、こういうあり得ない結論に達した場合は、本当は安倍さんは、言葉の選択を間違えただけかもしれない。全員野球という言葉に託して本当に言いたいことはなんだったのか、というように思考をめぐらす傾向がある。
安倍さんが野球に例えたように、これからの総裁任期3年は彼にとって「最後の聖戦」の重みがあるのではないか。安倍総理にとっての「最後の聖戦」は言うまでもなく憲法9条の改正だろう。来年夏の参院選はまだ予断できる時期ではないが、与党が3分の2以上の議席を確保できると決まったわけではない。去年の衆院選は直前に「北朝鮮のミサイル発射」という神風が吹いたが、与党にとっていつも神風が吹くという保証はない。そう考えたら、何としても今月中にも開催されるだろう臨時国会で憲法改正の発議を行い、参院選の前に国民投票に持ち込みたいのではないか。そのために、与党内の改憲慎重派や反対グループを根絶やしにしてでも、改憲派全員の総力をあげて正面突破するという覚悟を表したのが「全員野球」というネーミングだったのではないかと考えるのが妥当のように思える。
それにしても、「全員野球内閣」なるネーミングを安倍総理が発表した記者会見の場で、「全員野球とはどういう意味か。安倍チームが戦う相手はだれか。野党か。それとも与党内のたとえば石破氏に代表されるような安倍改憲反対グループか。それとも安倍政治に批判的なメディアか。ひょっとして改憲に批判的な国民なのか」――そのくらいの質問を安倍総理にぶつける記者が一人もいなかったのは、「このジャーナリズムの片隅に」ひたすらジャーナリストのあるべき姿を求めて細々とブログを書いている私にとっては、ショックを通り越して絶望感すら味わうほどの出来事だった。
絶望といえば、前回のブログで明らかにしたように、リベラル派メディアの本丸と、私がかってに誤解していた朝日新聞の体たらく。このブログでまた書いてしまうと、3年後の朝日の報道姿勢がどうなるか多少心配になるが、3年後に自民党総裁選が行われたとき、おそらく朝日はいけしゃあしゃあと「地方票」という表記を説明もせずに「党員票」に書き換えるだろうと、私は思っている。いったい朝日はあの「慰安婦誤報問題事件」から何を学んだのか。
言っておくが、政治家とジャーナリストにとっては、言葉は命だ。LGBTの方たちに対して「彼らはこどもをつくらない。つまり生産性がない」と雑誌に書いた杉田水脈議員に再びいう。「あなたたち夫婦は子供を一人しかつくらなかった(これからつくるのは年齢的に不可能)。つまりあなたたち夫婦二人は次世代の一人の人間におんぶで抱っこで生きることになる。日本が少子化を脱して人口減に歯止めをかけるためには、夫婦は最低でも子供を二人以上つくる必要がある。自分たちの生産性の低さを一度でも考えたことがあるか」と。
自ら発した言葉に責任を負わない政治家やジャーナリストは、直ちに表舞台から引っ込んでもらいたい。そういう日本にしていかない限り、日本の将来には夢も期待も持てない。
最後に、まだ安倍改憲論の全貌が見えていない(自民党内でまとまっていないため)ので、このブログでは最終的な評価は差し控えるが、安倍総理が常々主張している「自衛隊違憲論争」など、いま日本のどこにも存在していない。私自身は常々ブログでも「素直に憲法9条を読めば、自衛目的とは言えど戦力を放棄している以上、軍事力を擁した自衛隊は憲法9条に抵触する」と主張してきた。中学生程度の理解力があれば、だれでもそう解釈せざるを得ないはずだ。だが、メディアによる世論調査をみれば、「自衛隊は憲法違反だから、直ちに解散せよ」などと考えている国民は皆無ではないかもしれないが、ほとんどいない。むしろ「合憲派」のほうが圧倒的に「違憲派」よりはるかに多数を占めている。
違憲論に決着をつけるために憲法を改正して9条の1項、2項を残したまま3項あるいは9条の2として自衛隊を明記(どう明記するかはまだ不明)するという安倍改憲論が、たとえ国会で発議されたとしても国民投票で否決されれば、自衛隊は違憲だと国民が結論を下したことになる。
おそらく安倍総理はそうした事態を想定して、「もし憲法改正に反対すると、自衛隊は違憲ということになり、地震や台風などの自然災害のたびに国民のために命をかけて活動してくれている自衛隊をつぶさなければならなくなります。そういう結果になったいいのですか」と、おかしな論理で憲法改正の正当性を主張することは間違いない。
そうした議論に巻き込まれると、それこそ安倍総理の思い通りの結果になる。私が見ている限り、そうした事態を想定した理論武装を、まだ野党も平和団体も、また見せかけのリベラル派メディアである朝日新聞を筆頭とするジャーナリズムも、まったく不十分である。第一、私がこのブログで書いたような「国民への訴えかけ」を安倍陣営がしてくることに気付いている政党、ジャーナリズムは皆無だ。
国民に自ら考える能力と考える方法論を伝えるのは、いまの学校教育の担い手には、残念ながら期待できない。野党の政治家やジャーナリズムは、自らのアイデンティティがいま問われていることに、一日も早く気づいてほしい。残された時間は多くはない。
いま、何をなすべきか。また何をなすべきかを、野党の政治家やジャーナリズムは本当にわかっているのか。アイデンティティとは、そういうことだ。
民主主義とは多数決のよって決める政治のシステムだ。しかも有権者がどう判断を下すかは、メディアや政治家がどういう情報を国民に提供するかによって大きく左右される。権力者は自分たちにとって都合の悪い情報は極力隠そうとする。権力者が自分にとって都合の悪い情報を開示して、そのうえでどう対応するかを国民に問う…そういう時代はいつか来る。いや、そういう時代をつくらなければならない。それが政治家やメディアの責任だ。「多数決原理」という民主主義の最大の欠陥を、まず日本が克服したとき、世界は日本に対して尊敬の目で見てくれるようになる。
【追記】新内閣発足早々、早くもピンチヒッターの出番が生じた。新任の柴山文科相が記者会見で「教育勅語は現代風にアレンジすれば道徳教育の教材に使える」といった趣旨の発言をしたのだ。教育勅語の一字一句を読めば、現代社会でも守りたい精神的規範がないことはない。が、そうした普遍的規範は何も教育勅語を持ち出さなくても、すでに現在の道徳教育に盛り込まれている。柴山大臣が意図的に教育勅語のアレンジを公言したのは、安倍総理の考えを代弁したかったのか、それとも日本会議のさらなる支援が欲しかったのか? いずれにせよ、柴山大臣の椅子は、就任早々危うくなった。さあ、ピンチヒッターには誰がなる?
【追記】私のブログに安倍総理がさっそく反応した。記者会見で改めて「全員野球内閣」の意味を説明したのだ。
「内野とか外野とかの守備位置に関係なく、選手全員が一丸となって課題に取り組むという意味だ」(趣旨)
そうか。つまり麻生財務相の財政政策が気にくわなかったら、文科相が財務省に乗り込んで、麻生氏に代わって大臣としての権限をふるって財務官僚たちに勝手に麻生氏とは真逆の指図・命令してもいいということか。
三権分立という近代民主主義の基本的ルールを破壊しただけでなく、行政機能を大混乱に陥れることが安倍総理の目的だったのか。(7日)
当然、私は違和感を覚えた。いったい「全員野球」とはどういう意味か。
ちなみに、共産党の志位委員長は「閉店セール内閣」とネーミングした。これも意味不明だ。
スーパーなど小売店の閉店セールには2種類ある。一つは近隣の同業者との競争に敗れて店じまいする際に行うセールだ。いま安倍内閣がそういう状態にあるかといえば、むしろ内閣支持率(新内閣支持率は各メディアが今週末に行うだろうが、結果は不明だが、過去に関しては内閣改造で支持率が下がったケースはほとんどない)は上がる可能性のほうが高い。もう一つの「閉店セール」は、建物が老朽化したり、さらに売り上げを伸ばすために行う店舗リニューアルの際、在庫商品を一掃するために行うセールで、むしろ前向きのセールを意味する。まさか、志位さんが新内閣を前向きの「閉店セール」と評価することはあり得ないから、たぶん前者のセールを意味したネーミングだと思う。
そう考えると、先の衆院選で共産党は議員数をほぼ半減する大敗を喫した。その大敗について共産党は「野党共闘を重視したためだ」と言い訳している。では聞くが、2年前の参院選で共産党は1人区での野党共闘という、前回衆院選と同じ選挙をした。その結果、共闘相手の民進党は惨敗したが、共産党は比例区で躍進した。そのとき、「共闘方式の勝利」と自画自賛しなかったか。同じ共闘方式で2年前には勝利を謳歌しながら、去年は敗北を認めようとしない。共産党は「ご都合主義政党」以外の何物でもない。あるいは「認知症症候群政党」とでも呼ぼうか。
全員野球とはどういう意味か。ネットで検索したが、ネットの解釈は間違っていた。「選手だけでなく、野球部に関係するすべての関係者が一丸となって戦う」という意味の高校野球用語とされている。とんでもない。最初にこの言葉を使ったのは高校野球チームの監督だったかもしれないが、いまは高校野球に限らず、プロ野球も含めて使われている言葉だ。
野球はグラウンドで試合をする選手は9人と限定されている。が、交代要員も含めてベンチに入れる選手も数が限定されている。確かプロ野球の場合はベンチ入りできる選手は25人だったと思う。とりあえず、そのうちから9人が先発メンバーとして出場する。残り16人は交代要員としてベンチで待機する。投手の場合は試合が始まった直後は別にしても、2~3人がブルペンでピッチングの練習をしているし、野手はいつでもピンチヒッターとして起用されてもいいようにベンチの裏部屋で素振りの練習をしている。
私は、自分で言うのもなんだが、非常に素直で、人の言うことをほとんどまともに聞いてしまう性格の持ち主だ。で、安倍さんの「全員野球内閣」も裏を勘ぐったりせず、素直に聞くことにした。つまり今回の内閣改造で新大臣になった閣僚は、留任も含めて20人。野球で言えばグラウンドで試合をしている選手9人に相当する。ということは、「ベンチには交代要因などいらない。先発9人で最強の布陣で臨む。この9人で最後まで戦う」という自信にあふれた人選ではないことを総理自ら表明したのが、この新内閣の閣僚ということになる。
全員野球とは、ベンチの控え選手も、リリーフ投手やピンチヒッター、代走、守備固めなどとして、ほとんど全選手が一人残らずグラウンドに出て戦う「総力戦」を意味する言葉だ。政府の場合、野球のようなベンチ要員がいるわけではない。敢えて言えば、大臣に何かあったときはとりあえず副大臣がその任に就くことになるが、副大臣がそのまま大臣に昇格するケースはほぼなく、すぐに新大臣が閣外から任命される。だから副大臣をも含めた閣僚が野球でいうベンチ要員には当たらず、与党の国会議員全員が野球でいうベンチ入り選手に相当すると解釈するのが妥当だろう。わたしと同様、素直な性格の人なら、間違いなく同じ結論に達するはずだ。
私は性格は素直だが、こういうあり得ない結論に達した場合は、本当は安倍さんは、言葉の選択を間違えただけかもしれない。全員野球という言葉に託して本当に言いたいことはなんだったのか、というように思考をめぐらす傾向がある。
安倍さんが野球に例えたように、これからの総裁任期3年は彼にとって「最後の聖戦」の重みがあるのではないか。安倍総理にとっての「最後の聖戦」は言うまでもなく憲法9条の改正だろう。来年夏の参院選はまだ予断できる時期ではないが、与党が3分の2以上の議席を確保できると決まったわけではない。去年の衆院選は直前に「北朝鮮のミサイル発射」という神風が吹いたが、与党にとっていつも神風が吹くという保証はない。そう考えたら、何としても今月中にも開催されるだろう臨時国会で憲法改正の発議を行い、参院選の前に国民投票に持ち込みたいのではないか。そのために、与党内の改憲慎重派や反対グループを根絶やしにしてでも、改憲派全員の総力をあげて正面突破するという覚悟を表したのが「全員野球」というネーミングだったのではないかと考えるのが妥当のように思える。
それにしても、「全員野球内閣」なるネーミングを安倍総理が発表した記者会見の場で、「全員野球とはどういう意味か。安倍チームが戦う相手はだれか。野党か。それとも与党内のたとえば石破氏に代表されるような安倍改憲反対グループか。それとも安倍政治に批判的なメディアか。ひょっとして改憲に批判的な国民なのか」――そのくらいの質問を安倍総理にぶつける記者が一人もいなかったのは、「このジャーナリズムの片隅に」ひたすらジャーナリストのあるべき姿を求めて細々とブログを書いている私にとっては、ショックを通り越して絶望感すら味わうほどの出来事だった。
絶望といえば、前回のブログで明らかにしたように、リベラル派メディアの本丸と、私がかってに誤解していた朝日新聞の体たらく。このブログでまた書いてしまうと、3年後の朝日の報道姿勢がどうなるか多少心配になるが、3年後に自民党総裁選が行われたとき、おそらく朝日はいけしゃあしゃあと「地方票」という表記を説明もせずに「党員票」に書き換えるだろうと、私は思っている。いったい朝日はあの「慰安婦誤報問題事件」から何を学んだのか。
言っておくが、政治家とジャーナリストにとっては、言葉は命だ。LGBTの方たちに対して「彼らはこどもをつくらない。つまり生産性がない」と雑誌に書いた杉田水脈議員に再びいう。「あなたたち夫婦は子供を一人しかつくらなかった(これからつくるのは年齢的に不可能)。つまりあなたたち夫婦二人は次世代の一人の人間におんぶで抱っこで生きることになる。日本が少子化を脱して人口減に歯止めをかけるためには、夫婦は最低でも子供を二人以上つくる必要がある。自分たちの生産性の低さを一度でも考えたことがあるか」と。
自ら発した言葉に責任を負わない政治家やジャーナリストは、直ちに表舞台から引っ込んでもらいたい。そういう日本にしていかない限り、日本の将来には夢も期待も持てない。
最後に、まだ安倍改憲論の全貌が見えていない(自民党内でまとまっていないため)ので、このブログでは最終的な評価は差し控えるが、安倍総理が常々主張している「自衛隊違憲論争」など、いま日本のどこにも存在していない。私自身は常々ブログでも「素直に憲法9条を読めば、自衛目的とは言えど戦力を放棄している以上、軍事力を擁した自衛隊は憲法9条に抵触する」と主張してきた。中学生程度の理解力があれば、だれでもそう解釈せざるを得ないはずだ。だが、メディアによる世論調査をみれば、「自衛隊は憲法違反だから、直ちに解散せよ」などと考えている国民は皆無ではないかもしれないが、ほとんどいない。むしろ「合憲派」のほうが圧倒的に「違憲派」よりはるかに多数を占めている。
違憲論に決着をつけるために憲法を改正して9条の1項、2項を残したまま3項あるいは9条の2として自衛隊を明記(どう明記するかはまだ不明)するという安倍改憲論が、たとえ国会で発議されたとしても国民投票で否決されれば、自衛隊は違憲だと国民が結論を下したことになる。
おそらく安倍総理はそうした事態を想定して、「もし憲法改正に反対すると、自衛隊は違憲ということになり、地震や台風などの自然災害のたびに国民のために命をかけて活動してくれている自衛隊をつぶさなければならなくなります。そういう結果になったいいのですか」と、おかしな論理で憲法改正の正当性を主張することは間違いない。
そうした議論に巻き込まれると、それこそ安倍総理の思い通りの結果になる。私が見ている限り、そうした事態を想定した理論武装を、まだ野党も平和団体も、また見せかけのリベラル派メディアである朝日新聞を筆頭とするジャーナリズムも、まったく不十分である。第一、私がこのブログで書いたような「国民への訴えかけ」を安倍陣営がしてくることに気付いている政党、ジャーナリズムは皆無だ。
国民に自ら考える能力と考える方法論を伝えるのは、いまの学校教育の担い手には、残念ながら期待できない。野党の政治家やジャーナリズムは、自らのアイデンティティがいま問われていることに、一日も早く気づいてほしい。残された時間は多くはない。
いま、何をなすべきか。また何をなすべきかを、野党の政治家やジャーナリズムは本当にわかっているのか。アイデンティティとは、そういうことだ。
民主主義とは多数決のよって決める政治のシステムだ。しかも有権者がどう判断を下すかは、メディアや政治家がどういう情報を国民に提供するかによって大きく左右される。権力者は自分たちにとって都合の悪い情報は極力隠そうとする。権力者が自分にとって都合の悪い情報を開示して、そのうえでどう対応するかを国民に問う…そういう時代はいつか来る。いや、そういう時代をつくらなければならない。それが政治家やメディアの責任だ。「多数決原理」という民主主義の最大の欠陥を、まず日本が克服したとき、世界は日本に対して尊敬の目で見てくれるようになる。
【追記】新内閣発足早々、早くもピンチヒッターの出番が生じた。新任の柴山文科相が記者会見で「教育勅語は現代風にアレンジすれば道徳教育の教材に使える」といった趣旨の発言をしたのだ。教育勅語の一字一句を読めば、現代社会でも守りたい精神的規範がないことはない。が、そうした普遍的規範は何も教育勅語を持ち出さなくても、すでに現在の道徳教育に盛り込まれている。柴山大臣が意図的に教育勅語のアレンジを公言したのは、安倍総理の考えを代弁したかったのか、それとも日本会議のさらなる支援が欲しかったのか? いずれにせよ、柴山大臣の椅子は、就任早々危うくなった。さあ、ピンチヒッターには誰がなる?
【追記】私のブログに安倍総理がさっそく反応した。記者会見で改めて「全員野球内閣」の意味を説明したのだ。
「内野とか外野とかの守備位置に関係なく、選手全員が一丸となって課題に取り組むという意味だ」(趣旨)
そうか。つまり麻生財務相の財政政策が気にくわなかったら、文科相が財務省に乗り込んで、麻生氏に代わって大臣としての権限をふるって財務官僚たちに勝手に麻生氏とは真逆の指図・命令してもいいということか。
三権分立という近代民主主義の基本的ルールを破壊しただけでなく、行政機能を大混乱に陥れることが安倍総理の目的だったのか。(7日)
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