小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

政官財癒着のトライアングルはいつから形成されたのか。

2010-02-16 07:20:51 | Weblog
 前回のブログ記事『いわゆる「太平洋戦争」について(歴史認識の方法論)』は昨日までに、私のブログ読者数として記録的な人数になった。おそらく私のブログを常に読んでくださっている方が、友人などにこのブログ記事は面白いよ、とお勧めいただいた結果ではないかと思う。
 前回のブログで書いた「殖産興業政策が政官財癒着の鉄のトライアングルの構築の原点になったことの検証は別の機会に行う」とお約束したので今回書くことにする。なお前回のブログはわけがあって(読者からの要請によって書いたため)私の文章としては異例の「です・ます」調で書いたが、今回から再び「である」調で書くことにする。
 前回のブログで書いたように明治政府が欧米列強と肩をならべ、徳川幕府が欧米列強と結んだ不平等条約を解消するために、まず最大の国家戦略として打ち立てた「富国強兵・殖産興業」政策の2本柱のうち、「富国強兵」政策が軍国主義への道しるべになったことについてはご理解いただけたと思う。
 ではもうひとつの「殖産興業」政策について検証する。もちろんこの政策の目的は軍事力と同様、産業分野においても欧米列強と肩を並べるための近代産業を育てることであった。しかし欧米列強には到底太刀打ちできなかったものの、幕藩体制下においていちおう武士階級という軍事力を擁してきて、欧米列強の近代軍事技術や近代兵器を導入できる基盤があった分野と異なり、商工分野においては欧米の近代産業技術を導入できる既存の基盤がなかった。そのため明治政府は自ら近代産業を興す必要に迫られ、いわゆる「官営模範工場」を創設することにした。
最初に創設したのが「高島炭鉱」(創設年不詳)で、採算基盤が確立できた1874年に政商・後藤正二郎に払い下げられている。また1873年に創設された「院内銀山」は84年に、「院内銅山」は85年に、のちに古河財閥を創設する古河市兵衛にともに払い下げられている。さらに77年に創設された「新町紡績所」と「長崎造船所」、「兵庫造船所」の3社はいずれも10年後の87年にそれぞれ三井財閥、三菱財閥、川崎正蔵(川崎重工の創設者)に払い下げられている。
なかでも「官営模範工場」として最も有名になった「富岡製糸場」は72年11月に操業が開始され、93年に三井財閥に払い下げられた。
明治政府にとって軍事力の近代化と産業力の近代化を進めるためには欧米近代諸国から近代兵器や近代産業施設・機械を購入する必要があったが、そのための原資は輸出によって稼がなければならないのは当然であった。当時利益を上げることが期待されたのはお茶と絹(生糸)だったが、近代的製糸技術を擁していなかった日本の絹の品質は輸出先から低く評価されていた。また繭から生糸を紡ぐ製糸方法も素朴な器具と人力に頼っていたため生産量も少なかった。
そのため明治政府はフランスから製糸機や蒸気機関を購入し、養蚕が盛んだった富岡に近代装備した製糸工場を建設し、フランス人技師のポール・ぶりゅーナの指導を受けて世界有数の近代的製糸工場に育てた。しかし政府のこの政策は当初莫大な赤字を生んだ。富岡製糸場が生産した絹(生糸)の品質は世界最高レベルにはなったが、外国製品に対する競争力をもつためには価格にコストを反映させることができず、赤字垂れ流しの生産を続けざるを得なかった。そのため採算がとれるようになるまでに20年もかかり、ようやく21年後の93年に三井財閥に払い下げられている。
このようにして政官財癒着のトライアングルが形成され、官による民への「行政指導」という名の干渉と天下りが定着するようになった。たとえば私のブログ記事「論理的思考力について私のブログ読者に挑戦します」のケースとして取り上げた電車内の携帯電話規制の行政指導を運輸省(現国土交通省)が行った業界団体の「日本民営鉄道協会」の理事長職は国土交通省の天下りポストの一つである。マスコミが大々的に取り上げたがる官僚の天下り先はいわゆる「独立行政法人」や「特殊法人」(公社・公団・事業団等)の各省庁の直接的管理下にある団体への天下りや渡りとされているが、民間の業界団体への天下りも少なくない。それどころか完全な民間企業である地銀最大手の横浜銀行の頭取職は大蔵省(現財務省・金融庁)の事務次官の天下り指定席であり、現頭取の小川是(ただし)氏も大蔵事務次官を退任後、日本たばこ産業に天下った(会長・顧問)後、横浜銀行頭取に就任している。
このようにして構築されてきた政官財癒着のトライアングルが破壊されるゆいつのチャンスは日本が敗戦した時に訪れた。すなわちGHQが行った「日本の民主化」政策がゆいつの機会だった。GHQは財閥解体、独占企業の分割(三井物産は約220社に、三菱商事も約140社に分割した)など一連の経済民主化政策を行った。政治家や軍人だけでなく松下幸之助など大企業のトップの多くも公職追放した。また独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定するなど民主化政策を行った。
だが、こうしたGHQの経済民主化政策の基本は、日本経済の民主的再建をバックアップしようというものでは必ずしもなかった。むしろ日本の工業力を徹底的に骨抜きにし、農業国に先祖返りさせてしまおうという報復的意味合いのほうが強かった。GHQはいわゆる民主化政策を行いながら、同時に日本に巨額な損害賠償を求める計画を練っていた。もちろん当時の日本にそんな経済余力がないのはGHQも十分承知していた。アメリカは日本の軍事基地や軍需工業地帯は徹底的に空爆で破壊してしまったが、それ以外の工業地帯は空爆の対象から外したのである。そのため日本の民主的経済復興の可能性はわずかに残っていたのだが、GHQはそうした日本の工業力を根こそぎ破壊するため、それらの戦火から免れた工業地帯に残った設備や機械類の売却によって損害賠償させるというたくらみを持っていたのである。
そうしたGHQの「民主化政策」にアメリカ政府の中で「やりすぎだ」という批判が高まった。1947年8月、占領政策の見直しのため来日したストライク調査団は「軍需施設以外の生産施設まで除去してしまうと、日本の自立が不可能になり、かえってアメリカの負担が増大する」と警告、続いて来日したドレーバー使節団も日本の経済復興に必要な生産設備を賠償対象から外すようGHQに勧告した。
こうした米政府の厳しい批判を受けてGHQも占領政策の大転換に踏み切る。厳しい賠償計画を中止し、財閥解体や公職追放の緩和、過度経済力集中排除法の適用を緩和することにした。松下幸之助ら大企業のトップも追放を解除された。しかしGHQの占領政策の転換だけで日本の経済力が急速に復興したわけではもちろんない。
じつはGHQは日本の民主化を進める過程で明治政府の「殖産興業」政策が生み出した政官財癒着のトライアングルの構造には気づかなかった。それゆえトライアングル構造は温存されてしまったのである。そのため官僚の民間事業に対する支配力は、「経済復興を支援する」という名目のもとでかえって強化されてしまったのである。明治政府の「殖産興業」政策に端を発して構築されてきた政官財癒着のトライアングルは単なるトライアングルから「鉄のトライアングル」へと変貌していったのだ。

が、歴史の皮肉さはこのトライアングル構造が温存されたため日本が戦後、世界史的奇跡とさえ言われる急速な経済復興を成し遂げることができたことも指摘しておく必要がある。
戦後の日本は当然といえば当然だが、生産力を大きく失い、物資不足によるインフレに襲われた。政府の最大の使命はインフレの克服になったのである。
インフレにしても、現在の日本経済が直面しているデフレにしても要因は共通している。需要と供給力のバランスが崩れたことが要因である。需要が供給力を上回ればインフレになり(売り手市場)、その逆に供給力が需要を上回るとデフレになる(買い手市場)。これは資本主義社会の抱える宿命的問題で、それを克服するゆいつの手段は中央銀行(日本の場合は日銀)の金利政策とマネー供給のコントロールしかない。それが最高にうまくいったのがアメリカのニューディール政策だった。
1929年10月24日(のちに「暗黒の木曜日」と呼ばれる)、ニューヨークで株式の大暴落が突如として生じた。いわゆる世界大恐慌の発端である。この大恐慌を克服したのが33年3月4日に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトだった。ルーズベルトは大統領就任の翌日には日曜日だったにもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行に休業を命じ、国民にはラジオ放送で預金の保障を公約した。これでとりあえず金融危機を回避すると、議会で次々に景気回復の政策を提案、成立させた。その柱となったのがニューディール政策と呼ばれる大規模公共工事を行うことで経済界に事業機会を与え、その結果として雇用の需要を掘り起こすという方法だった。これが劇的な効果を生んでアメリカがまず恐慌から脱し、ヨーロッパや日本も含め恐慌の克服に成功したのである。

実は日本が戦後の大インフレを克服できたのは、吉田内閣が行った「傾斜生産方式」と呼ばれる、ニューディール政策と同様経済界に劇的効果を与えた政策だった。傾斜生産方式とは、資源(資金および原材料)を特定の基幹産業に重点的に配分、その産業の生産物をさらに別の基幹産業に重点的に配分することにより、経済界全体に波及効果を生み出そうというものだった。
吉田内閣が実際に取った傾斜生産方式は、まず資金を鉄鋼と石炭という当時の2大基幹産業に重点的に注ぎこみ、さらに鉄鋼の生産量を拡大するため重油を鉄鋼産業に重点的に配分し、こうして生産量が増大した鉄鋼を石炭産業に重点的に配分して石炭の増産を図り、その結果生産量が増大した石炭を再び鉄鋼産業に重点的な配分するという循環構造を整備したことである。そうすることで、まず日本の2大基幹産業を立ち直らせるという方法をとったのである。
もちろんそれだけで日本の経済がインフレを克服できたわけではない。インフレの勢いはかなり弱まったが、完全に沈静化したわけではなかった。
吉田内閣が行った傾斜生産方式が劇的効果を日本の経済界にもたらしたのは50年6月25日に勃発した朝鮮戦争だった。朝鮮戦争は53年7月27日の休戦協定まで3年余も続いた。そして鉄鋼と石炭という2大基幹産業の生産力の回復に成功した日本は莫大な戦争特需にありつくことができた。日本が世界史的奇跡とまで言われた経済復興への第一歩はこうして踏み出すことができたのである。もしGHQが日本経済の民主化を図る過程で、自由主義先進国の中で日本だけが作り上げてきた政官財のトライアングル構造を見抜き、その構造を破壊していたら、もちろん吉田内閣は傾斜生産方式という政官財癒着のトライアングル構造が維持できたから実現できたはずの政策を実行することは不可能だったに違いなく、朝鮮戦争特需に日本経済界はおそらくありつけなかったであろう。
明治政府の「殖産興業」政策についての歴史的検証はこれで終えるが、これだけの長い歴史を積み重ねてきた政官財癒着の「鉄のトライアングル」を破壊するには気が遠くなるほどの時間と官僚の人数を半減するくらいの公務員制度改革を行わなくてはならないことは、ご理解いただけたと思う。
 

3 コメント

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Unknown (ブログファン(自称))
2010-02-24 14:07:38
公判の結果をお願いします!!!!!!!!!
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あれ〓 (Unknown)
2010-02-27 00:04:16
早く結果書いてほしぃ(@_@)
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Unknown (Unknown)
2010-03-04 22:11:51
更新がしばらくありませんが、大丈夫でしょうか?
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