今回から、このシリーズのタイトルを表題のように変える。私のブログ記事の執筆方法は、書きながら頭に浮かんだ疑問をネットで調べ、調べたことについて疑問が生じたら、またその疑問について考える、というプロセスで書いている。私のブログがしばしば脱線するのはそのためだ。
今回のブログについても、当初は米カリフォルニア州の分離・独立運動について、米大統領選挙方式の問題をあぶりだすことが目的だったが、書いているうちに「これは民主主義の欠陥がモロに現れた選挙制度ではないか?」といった疑問が生じ、民主主義とは何か、どうやって民主主義の欠陥を人類は克服していかなければならないかという問題意識を強烈に持つに至った。
その結果、民主主義についてネット検索を始めた結果、自分でも当初は考えていなかった方向に思考が展開していった。それが、シリーズのタイトルを変えることにした最大の理由である。このシリーズにはおそらく「終わり」がない。断続的に、いろいろな問題をテーマにしながら、私がブログ活動を続けられる限り「民主主義とは何か」について考えていきたいと思う。
前回まで、マイケル・サンデル氏の「民主主義を守るための手段」についての論評に、相当の文字数を費やしてしまった。ヤフーで「民主主義」というキーワードで検索すると、ウィキペディアの民主主義の解説に次いで、2番目にランクされているのがaboutusa.japan.usembassy.govという得体のしれない個人あるいは組織によって書かれた『民主主義の原則』である。
ヤフーでもグーグルでも、検索結果の順位はアクセスされた数によって決まる。正確に言えばクリックされた数の多さでランクが決定される。私の場合で言えば、私の名前で検索すればトップに私のブログ『小林紀興の「マスコミに物申す」―Gooブログ』が出てくる。2位にランクされているのが私の最初のブログ『私がなぜブログを始めたのか』である。3位以下がアマゾンなどのネット販売業者が多い。ウィキペディアによる私についての解説はいくら検索しても出てこない。かなり前だが、ある出版社の編集長がウィキペディアに載せたいと言ってきたが、丁重にお断りした。私は著作の読者が自由に評価してくれればいいので、個人情報を必要以上に開示したくないと考えたからだ。
面白いことに、いま私の名前で検索すると約7000件の検索結果が表示されるが、1年前には3万件を超えていた。この1年間で私のブログの閲覧者は5倍ほど増えたが、検索件数は逆に減った。おそらく私の中古本が売れてしまった業者が削除したのだと思う。すこしずつ減ったのではなく、猪瀬直樹前都知事と徳洲会の不透明な金銭関係が明らかになった途端、私の処女作でもある『徳洲会の挑戦』があっという間に中古本市場から姿を消したためではないかと思う。私事はどうでもいいが、要するに検索ランクはどうやって決まるかをご理
解いただくために私事を書いた。それだけのことである。
では「民主主義」の検索ランキングでウィキペディアの解説で2位にランクされた『民主主義の原則』の書き手(個人あるいは組織)である。得体を知れなくしているのはこの項目に表示されているaboutusaという英単語とusembassyという英単語である。こんな英単語はどんな辞書を調べてもない。当り前である。二つの英単語をくっつけた造単語だからだ。もうお分かりだろう。最初の造単語はaboutとusaを、後の造単語はusとembassy(大使館)をセメダインで接着した造単語である。これで、この書き手がアメリカ大使館であることが判明した。アメリカという国はそういうやり方をする。
中国や北朝鮮などの体制が異なる国を除いて、アメリカは世界中の国で同じことをやっているのではないだろうか。しかし、最初からアメリカ大使館が世界の各国に押し付けようとしているアメリカ型『民主主義の原則』ということが明らかになっていたら、だれもそのページを開いたりしない。そこでセメダインで接着した造語を書き手として登録したというわけだ。つまり、この項目を開くとアメリカ型民主主義の説明が出てきて、それが普遍的な民主主義の原則であるかのように、他国民に信じ込ませようという小汚いテクニックなのだ。サンデル氏の「説得力をもつ方法」とは、こういうやり方のことだったのか。
サンデル氏に、アメリカ型民主主義を世界の標準ルールにしようという意図があったのかどうかは不明だが、アメリカ大使館は非常にせこいやり方で民主主義のルール(実はアメリカのルール)を、いかにも政治学者であるかのような書き方で説く。それは『民主主義の原則』の第1章「概要:民主主義とは何か」に集約されている。その文章をそのまま転載する。
「民主主義(デモクラシー)の語源は、ギリシャ語の「デモス(人民)」である。民主主義国においては、立法者や政府ではなく、国民に主権がある。世界各地の様々な民主主義制度には微妙な違いがあるが、民主主義政府を他の形態の政府と区別する一定の原則と慣行が存在する。(※どうだ、この書き方は。いかにも学者が客観的に民主主義政治の基本的理念について語っているように思えるではないか。これがアメリカのやり方だ。ただし、誤解されるといけないので言っておくが、私は反米主義者ではない。外国で一番好きな国はアメリカだし、渡航先はアメリカが断トツに多い)
① 民主主義とは、市民が直接、もしくは自由選挙で選ばれた代表を通じて、
権限を行使し、市民としての義務を遂行する統治形態である。
② 民主主義とは、人間の自由を守る一連の原則と慣行である。つまり、自由
を制度化したものと言ってもいい。
③ 民主主義は、多数決原理の諸原則と。個人及び少数派の権利を組み合わせ
たものを基軸としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する
一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する。
④ 民主主義国は、全権が集中する中央政府を警戒し、政府機能を地方や地域
に分散させる。それは、地域レベルの政府・自治体が、市民にとって可能
な限り身近で、対応が迅速でなければならないことを理解しているからで
ある。
⑤ 民主主義国は、言論や信教の自由、法の下での平等な保護を受ける権利、
そして政治的・経済的・文化的な生活を組織し、これらに全面的に参加す
る機会などの基本的人権を擁護することが、国の最も重要な機能のひとつ
であることを理解している。
⑥ 民主主義国は、すべての市民に対して開かれた、自由で公正な選挙を定期
的に実施する。民主主義国における選挙は、独裁者や単一政党の隠れみの
となる見せかけの選挙ではなく、国民の支持を競うための真の競争でなけ
ればならない。
⑦ 民主主義は、政府を法の支配下に置き、すべての市民が法の下で平等な保
護を受けること、そして市民の権利が法制度によって守られることを保障
する。
⑧ 民主主義諸国のあり方は多様であり、それぞれの国の独自の政治・社会・
文化生活を反映している。民主主義諸国の基盤は、画一的な慣行ではなく、
基本的な諸原則の上に置かれている。
⑨ 民主主義国の市民は、権利を持つだけでなく、政治制度に参加する責任を
持つ。その代わり、その政治制度は市民の権利と自由を保護する。
⑩ 民主主義社会は、寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。民
主主義国は、全体的な合意に達するためには譲歩が必要であること、また
合意達成が常に可能だとは限らないことを認識している。マハトマ・ガン
ジーはこう述べている。「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の
民主主義精神の成長にとって障害となる。」
この「民主主義とは何か」と題した概要説明自体には、格別問題が多いわけではない。ただ、やたらと出てくる「市民」という言葉に多少違和感を感じるだけだ。民主主義の制度や在り方が国によって異なることは⑧項でアメリカも認めており、日本人の感覚からすれば「市民」という言葉より「国民」という言葉のほうが違和感がないと思う。アメリカ大使館は「市民」という言葉に何らかの意図を含ませたいのかもしれない。
そういう疑問が生じると、私はすぐ「市民」というキーワードでネット検索
することにしている。ウィキペディアでは、市民と国民の使い分けについてこう解説している。
「市民は、政治的共同体の構成員で、主権(おもに参政権)を持つもの。(中略)ここでいう政治的共同体とは、語源的には都市を指しているが、現代では国家についていうことが多い」「市民に似た概念として国民があるが、両者の違いは市民がその理想とするところの社会、共同体の政治的主体としての構成員を表すのに対して、国民はその国家の国籍を保持する構成員を表すという点にある」
分かるようで、分かりにくい。そこで「国籍」「選挙権」「参政権」など思いつくままにネット検索をかけてみた。読者も私と同じ作業をやってごらんになったら、なぜアメリカ大使館が「市民」を民主主義制度のベース概念とした意味が何となく分かるような気がするのではないかと思う。私もなんとなく分かるような気がしただけで、このブログで分かったようなふりをして不確実なことを書くことはできないので、とりあえずネット検索で分かったことだけ書く。
参政権は日本の場合「日本国籍保持者」に限定されているのに対しアメリカの場合は「選挙人登録を行った米国民」とされており、アメリカの場合、日本のような住民登録性がないため米国籍保持者でも「選挙人」として登録する必要があるようだ。ただアメリカでは外国籍の人でもアメリカ合衆国の市民権を獲得することが可能らしい。しかし、市民権を獲得したら選挙人として登録できるのかどうかはネット検索では無理だった。ただ⑥項には選挙権が市民にあるとしながら、唯一「国民の支持」という表現が使われており、この項目でだけ唐突に「国民」という概念が説明なしに使用されたのかは不明である。
いずれにせよ『民主主義の原則』は「インド独立の父」と呼ばれ、イギリスの植民地支配から平和的に独立を実現した「非暴力不服従運動」のリーダーとして知られているガンジーの言葉まで引用している。こうした姑息な方法まで駆使して、アメリカは自国の「民主主義制度」を外国に「輸出」しようとしているのである。私は、アメリカのそうした対外政策を「平和的帝国主義」という新しい概念で位置づけることにした。
実は、この民主主義についての概要説明そのものが、民主主義の欠陥をモロに明らかにしている。あらかじめ私の立場を明確にしておくが、私はプラトンのような民主主義制度否定論者ではない。あらゆる政治システムの中で民主主義制度がbetterであることは私も認めている。私が、他の民主主義を声高に叫ぶ人たちと違うのは、民主主義制度はbetterであってもbestではない、と考えている点だ。アメリカにおいても日本においても、民主主義制度は20世紀後半になって急速に進歩を遂げてきてはいるが、制度そのものが持つ構造的欠陥の克服には程遠いと私は考えている。
この民主主義制度の持つ構造的欠陥は、たとえて言えば円周率の計算のようなものである。私が小学生のころ、円周率は3.14だと教えられてきた。それが事実ではないと知ったのは高校生のとき、数学教師から教わったことによる。多分教科書には円周率についての正確な説明はなかったと思う。
ゆとり教育時代に、円周率は3になった。日本の子供たちの学力低下が問題になり、円周率は再び3.14になったが、たぶん小学校の教科書には「約」という言葉が付いていないと思う(小学校の数学教科書での記述まではネットでも調べきれなかった…私は疑問に思ったことはそこまでやる)。私は小学生に3.14という3ケタの数字を記憶させるより、円周率の持つ意味と、現在も世界の数学者たちがスーパーコンピュータを駆使して円周率の計算に取り組んでいることを教えた方が、子供が論理的な思考力を自ら培うことに大きな効果を発揮すると思っている。つまり、数学の世界でも「絶対」という基準はないことを知ることが、子供たちの思考力をどれだけ向上させることに役立つか――それが教育についての基本的な方針であるべきだと思うからだ。
民主主義制度も円周率の計算と同様、民主主義よりさらにbetterな政治システムを人類が発明するまでは、たとえ多くの欠陥を構造的に抱えているとしても、その欠陥の克服を、象の歩みのようであっても人類は目指していくべきだと私は考えている。民主主義を「絶対」的なシステムだと思い込んでいる人たちは、自分にとって都合がいい民主主義についての勝手な概念解釈をしている人たちにすぎない、ということを、腹の底から分かってほしい。それが、民主主義をよりbetterな制度に育てるための絶対必要条件だからだ。(続く)
今回のブログについても、当初は米カリフォルニア州の分離・独立運動について、米大統領選挙方式の問題をあぶりだすことが目的だったが、書いているうちに「これは民主主義の欠陥がモロに現れた選挙制度ではないか?」といった疑問が生じ、民主主義とは何か、どうやって民主主義の欠陥を人類は克服していかなければならないかという問題意識を強烈に持つに至った。
その結果、民主主義についてネット検索を始めた結果、自分でも当初は考えていなかった方向に思考が展開していった。それが、シリーズのタイトルを変えることにした最大の理由である。このシリーズにはおそらく「終わり」がない。断続的に、いろいろな問題をテーマにしながら、私がブログ活動を続けられる限り「民主主義とは何か」について考えていきたいと思う。
前回まで、マイケル・サンデル氏の「民主主義を守るための手段」についての論評に、相当の文字数を費やしてしまった。ヤフーで「民主主義」というキーワードで検索すると、ウィキペディアの民主主義の解説に次いで、2番目にランクされているのがaboutusa.japan.usembassy.govという得体のしれない個人あるいは組織によって書かれた『民主主義の原則』である。
ヤフーでもグーグルでも、検索結果の順位はアクセスされた数によって決まる。正確に言えばクリックされた数の多さでランクが決定される。私の場合で言えば、私の名前で検索すればトップに私のブログ『小林紀興の「マスコミに物申す」―Gooブログ』が出てくる。2位にランクされているのが私の最初のブログ『私がなぜブログを始めたのか』である。3位以下がアマゾンなどのネット販売業者が多い。ウィキペディアによる私についての解説はいくら検索しても出てこない。かなり前だが、ある出版社の編集長がウィキペディアに載せたいと言ってきたが、丁重にお断りした。私は著作の読者が自由に評価してくれればいいので、個人情報を必要以上に開示したくないと考えたからだ。
面白いことに、いま私の名前で検索すると約7000件の検索結果が表示されるが、1年前には3万件を超えていた。この1年間で私のブログの閲覧者は5倍ほど増えたが、検索件数は逆に減った。おそらく私の中古本が売れてしまった業者が削除したのだと思う。すこしずつ減ったのではなく、猪瀬直樹前都知事と徳洲会の不透明な金銭関係が明らかになった途端、私の処女作でもある『徳洲会の挑戦』があっという間に中古本市場から姿を消したためではないかと思う。私事はどうでもいいが、要するに検索ランクはどうやって決まるかをご理
解いただくために私事を書いた。それだけのことである。
では「民主主義」の検索ランキングでウィキペディアの解説で2位にランクされた『民主主義の原則』の書き手(個人あるいは組織)である。得体を知れなくしているのはこの項目に表示されているaboutusaという英単語とusembassyという英単語である。こんな英単語はどんな辞書を調べてもない。当り前である。二つの英単語をくっつけた造単語だからだ。もうお分かりだろう。最初の造単語はaboutとusaを、後の造単語はusとembassy(大使館)をセメダインで接着した造単語である。これで、この書き手がアメリカ大使館であることが判明した。アメリカという国はそういうやり方をする。
中国や北朝鮮などの体制が異なる国を除いて、アメリカは世界中の国で同じことをやっているのではないだろうか。しかし、最初からアメリカ大使館が世界の各国に押し付けようとしているアメリカ型『民主主義の原則』ということが明らかになっていたら、だれもそのページを開いたりしない。そこでセメダインで接着した造語を書き手として登録したというわけだ。つまり、この項目を開くとアメリカ型民主主義の説明が出てきて、それが普遍的な民主主義の原則であるかのように、他国民に信じ込ませようという小汚いテクニックなのだ。サンデル氏の「説得力をもつ方法」とは、こういうやり方のことだったのか。
サンデル氏に、アメリカ型民主主義を世界の標準ルールにしようという意図があったのかどうかは不明だが、アメリカ大使館は非常にせこいやり方で民主主義のルール(実はアメリカのルール)を、いかにも政治学者であるかのような書き方で説く。それは『民主主義の原則』の第1章「概要:民主主義とは何か」に集約されている。その文章をそのまま転載する。
「民主主義(デモクラシー)の語源は、ギリシャ語の「デモス(人民)」である。民主主義国においては、立法者や政府ではなく、国民に主権がある。世界各地の様々な民主主義制度には微妙な違いがあるが、民主主義政府を他の形態の政府と区別する一定の原則と慣行が存在する。(※どうだ、この書き方は。いかにも学者が客観的に民主主義政治の基本的理念について語っているように思えるではないか。これがアメリカのやり方だ。ただし、誤解されるといけないので言っておくが、私は反米主義者ではない。外国で一番好きな国はアメリカだし、渡航先はアメリカが断トツに多い)
① 民主主義とは、市民が直接、もしくは自由選挙で選ばれた代表を通じて、
権限を行使し、市民としての義務を遂行する統治形態である。
② 民主主義とは、人間の自由を守る一連の原則と慣行である。つまり、自由
を制度化したものと言ってもいい。
③ 民主主義は、多数決原理の諸原則と。個人及び少数派の権利を組み合わせ
たものを基軸としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する
一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する。
④ 民主主義国は、全権が集中する中央政府を警戒し、政府機能を地方や地域
に分散させる。それは、地域レベルの政府・自治体が、市民にとって可能
な限り身近で、対応が迅速でなければならないことを理解しているからで
ある。
⑤ 民主主義国は、言論や信教の自由、法の下での平等な保護を受ける権利、
そして政治的・経済的・文化的な生活を組織し、これらに全面的に参加す
る機会などの基本的人権を擁護することが、国の最も重要な機能のひとつ
であることを理解している。
⑥ 民主主義国は、すべての市民に対して開かれた、自由で公正な選挙を定期
的に実施する。民主主義国における選挙は、独裁者や単一政党の隠れみの
となる見せかけの選挙ではなく、国民の支持を競うための真の競争でなけ
ればならない。
⑦ 民主主義は、政府を法の支配下に置き、すべての市民が法の下で平等な保
護を受けること、そして市民の権利が法制度によって守られることを保障
する。
⑧ 民主主義諸国のあり方は多様であり、それぞれの国の独自の政治・社会・
文化生活を反映している。民主主義諸国の基盤は、画一的な慣行ではなく、
基本的な諸原則の上に置かれている。
⑨ 民主主義国の市民は、権利を持つだけでなく、政治制度に参加する責任を
持つ。その代わり、その政治制度は市民の権利と自由を保護する。
⑩ 民主主義社会は、寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。民
主主義国は、全体的な合意に達するためには譲歩が必要であること、また
合意達成が常に可能だとは限らないことを認識している。マハトマ・ガン
ジーはこう述べている。「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の
民主主義精神の成長にとって障害となる。」
この「民主主義とは何か」と題した概要説明自体には、格別問題が多いわけではない。ただ、やたらと出てくる「市民」という言葉に多少違和感を感じるだけだ。民主主義の制度や在り方が国によって異なることは⑧項でアメリカも認めており、日本人の感覚からすれば「市民」という言葉より「国民」という言葉のほうが違和感がないと思う。アメリカ大使館は「市民」という言葉に何らかの意図を含ませたいのかもしれない。
そういう疑問が生じると、私はすぐ「市民」というキーワードでネット検索
することにしている。ウィキペディアでは、市民と国民の使い分けについてこう解説している。
「市民は、政治的共同体の構成員で、主権(おもに参政権)を持つもの。(中略)ここでいう政治的共同体とは、語源的には都市を指しているが、現代では国家についていうことが多い」「市民に似た概念として国民があるが、両者の違いは市民がその理想とするところの社会、共同体の政治的主体としての構成員を表すのに対して、国民はその国家の国籍を保持する構成員を表すという点にある」
分かるようで、分かりにくい。そこで「国籍」「選挙権」「参政権」など思いつくままにネット検索をかけてみた。読者も私と同じ作業をやってごらんになったら、なぜアメリカ大使館が「市民」を民主主義制度のベース概念とした意味が何となく分かるような気がするのではないかと思う。私もなんとなく分かるような気がしただけで、このブログで分かったようなふりをして不確実なことを書くことはできないので、とりあえずネット検索で分かったことだけ書く。
参政権は日本の場合「日本国籍保持者」に限定されているのに対しアメリカの場合は「選挙人登録を行った米国民」とされており、アメリカの場合、日本のような住民登録性がないため米国籍保持者でも「選挙人」として登録する必要があるようだ。ただアメリカでは外国籍の人でもアメリカ合衆国の市民権を獲得することが可能らしい。しかし、市民権を獲得したら選挙人として登録できるのかどうかはネット検索では無理だった。ただ⑥項には選挙権が市民にあるとしながら、唯一「国民の支持」という表現が使われており、この項目でだけ唐突に「国民」という概念が説明なしに使用されたのかは不明である。
いずれにせよ『民主主義の原則』は「インド独立の父」と呼ばれ、イギリスの植民地支配から平和的に独立を実現した「非暴力不服従運動」のリーダーとして知られているガンジーの言葉まで引用している。こうした姑息な方法まで駆使して、アメリカは自国の「民主主義制度」を外国に「輸出」しようとしているのである。私は、アメリカのそうした対外政策を「平和的帝国主義」という新しい概念で位置づけることにした。
実は、この民主主義についての概要説明そのものが、民主主義の欠陥をモロに明らかにしている。あらかじめ私の立場を明確にしておくが、私はプラトンのような民主主義制度否定論者ではない。あらゆる政治システムの中で民主主義制度がbetterであることは私も認めている。私が、他の民主主義を声高に叫ぶ人たちと違うのは、民主主義制度はbetterであってもbestではない、と考えている点だ。アメリカにおいても日本においても、民主主義制度は20世紀後半になって急速に進歩を遂げてきてはいるが、制度そのものが持つ構造的欠陥の克服には程遠いと私は考えている。
この民主主義制度の持つ構造的欠陥は、たとえて言えば円周率の計算のようなものである。私が小学生のころ、円周率は3.14だと教えられてきた。それが事実ではないと知ったのは高校生のとき、数学教師から教わったことによる。多分教科書には円周率についての正確な説明はなかったと思う。
ゆとり教育時代に、円周率は3になった。日本の子供たちの学力低下が問題になり、円周率は再び3.14になったが、たぶん小学校の教科書には「約」という言葉が付いていないと思う(小学校の数学教科書での記述まではネットでも調べきれなかった…私は疑問に思ったことはそこまでやる)。私は小学生に3.14という3ケタの数字を記憶させるより、円周率の持つ意味と、現在も世界の数学者たちがスーパーコンピュータを駆使して円周率の計算に取り組んでいることを教えた方が、子供が論理的な思考力を自ら培うことに大きな効果を発揮すると思っている。つまり、数学の世界でも「絶対」という基準はないことを知ることが、子供たちの思考力をどれだけ向上させることに役立つか――それが教育についての基本的な方針であるべきだと思うからだ。
民主主義制度も円周率の計算と同様、民主主義よりさらにbetterな政治システムを人類が発明するまでは、たとえ多くの欠陥を構造的に抱えているとしても、その欠陥の克服を、象の歩みのようであっても人類は目指していくべきだと私は考えている。民主主義を「絶対」的なシステムだと思い込んでいる人たちは、自分にとって都合がいい民主主義についての勝手な概念解釈をしている人たちにすぎない、ということを、腹の底から分かってほしい。それが、民主主義をよりbetterな制度に育てるための絶対必要条件だからだ。(続く)
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