小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

閣議決定――安倍総理の説明はでたらめだ。もっとひどいのは読売の捏造記事。小保方もそこまではやらない。

2014-07-02 08:20:01 | Weblog
 昨日、集団的自衛権行使容認のための憲法解釈の変更を行う閣議決定が行われた。午後、6時から行われた安倍総理の記者会見で、安倍総理はこう閣議決定の「意義」を説明した。しらじらしい、としか言いようがない。
「例えば海外で突然紛争が発生し、逃げようとする日本人をアメリカが救助・輸送しているとき日本近海で攻撃を受けるかもしれない。わが国自身への攻撃ではないが、日本人の命を守るために自衛隊がアメリカの船を守る。それをできるようにするのが今回の閣議決定だ」「(集団的自衛権の行使は)ほかに手段がないときに限られ、かつ必要最小限度でなければならず、現行の憲法解釈の基本的考え方は今回の閣議決定においても何ら変わることはない。自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれるという誤解があるが、そのようなこともありえない。むしろ万全の備えをすること自体が日本に戦争を仕掛けようとするたくらみをくじく、大きな力をもっている。これが抑止力だ。今回の閣議決定によって、戦争に巻き込まれるおそれは一層なくなっていく」
 そうかよ。確かに自衛隊が湾岸戦争やイラク戦争に参加して米軍と共同の軍事行動に出ることは安倍総理も(当面は)考えていないだろう。が、海洋進出を強める中国が南シナ海の油田開発でベトナムやフィリピンと一触即発の状況にあることはメディアでもしばしば報道されている。同盟関係にないベトナムに対してアメリカが一方的にベトナムを支援するための軍事行動に出ることは考えにくいが、フィリピンはこの地域におけるアメリカにとって重要な同盟国であり、実際フィリピン政府の要請に応じて同国の米軍基地を復活した。
 この地域で紛争が起きたとき、当然韓国は真っ先に米軍と行動を共にするが、アメリカが日本に軍事協力を求めてきたら、日本はどうする。安倍総理は、現実的にありえないケースを想定して「日本がアメリカの戦争に参加はしない」としたが、あえて日本の目と鼻の先できな臭い状況になっている事態について、アメリカから軍事協力の要請を受けたときに日本がどうするかについては何も言わなかった。また記者会見に出席した記者たちは、国会での質疑応答と同じくあらかじめ総理に質問状を渡していたようで、質問もペーパーを見ながらの棒読みなら、総理の答えも「待ってました」と言わんばかりのよどみないものだった。はっきり言えばメディアとの出来レースの記者会見だった。
 が、アメリカは経済力が低下する中で、「世界の警官」としての役割を必要以上に拡大行使してきた。はっきりいえば、米軍を除けばアジアで最大の軍事力を持っている自衛隊に、この地域の「警官」役の一部を肩代わりして貰いたいというのが米オバマ政権の要請だった。このアメリカの圧力によって安倍執行部が行ったのが、憲法改正という玄関からではなく「裏口から入った」(NHKニュースでの米有識者の発言)のが憲法解釈変更の閣議決定である。
 私はこれまで何度も書いてきたように、現行憲法は占領下において吉田内閣がGHQ民政局とすり合わせながら作成した政府原案を国会(帝国議会衆議院)で審議する中で政府原案が修正され(いわゆる「芦田修正」)、個別的自衛権が読められるように書き換えられた。ただ、GHQによって軍事力が完全解体されていた当時の状況では、個別的自衛権の保持を明記することは無意味でもあった。だから憲法学者の間でも解釈が分かれるような不明遼な表現になったという経緯がある。
 それに終止符を打ったのが、いわゆる砂川判決であり、だから憲法制定以降、政府は一貫して個別的自衛権について「専守防衛のための必要最小限の実力を行使すること」と説明してきた。その解釈を政府は一字一句たりともも変えたことはない。それが、憲法制定以降の政府の普遍的スタンスであり、「現行憲法解釈について個別的自衛権をも否定した時期もある。憲法解釈は時代によって変わってきた」とした安保法制懇の報告書と、それを根拠にした安倍執行部の「無限解釈変更可能」閣議決定は、ねつ造にねつ造を重ねたもの、という以外の何物でもない。
 私自身は、やはりこれまで何度も書いてきたように、日本が国際社会に占める地位や責任は、憲法制定時とは比較にならないほど大きくなった。かつて大きな過ちを犯した国だけに、日本国憲法のゆるぎない平和主義の精神を、ただお経の文句を唱えるように言葉で繰り返すのではなく、アジアと太平洋の平和と安全にいかに寄与・貢献すべきかを国民的議論を経て、最後は国民が「国のありかた」について決定すべきだと主張してきた。
 改めて書くが、吉田総理が社会党や共産党の質問に対して国会で個別的自衛権をも否定したのは、政府原案についての質疑応答でのことであり、現行憲法での質疑応答の中での憲法解釈ではない。それをあたかも現行憲法についての政府解釈変更の証拠であるかのごとき主張をするのは、STAP論文以上の出来栄えとお褒めしておこう。
 今日全国紙5紙が社説面すべてを割いて閣議決定問題を書いた。各紙の主張の検証は明日行うつもりだが、とりあえず、各紙のスタンスが明白になっている社説のタイトルだけ列記しておく(順番はABC協会調べによる発行部数順)。
 読売新聞『集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」』
 朝日新聞『集団的自衛権の容認―この暴挙を超えて』
 毎日新聞『歯止めは国民がかける』
 日本経済新聞『助け合いで安全保障を固める道へ』
 産経新聞『集団的自衛権容認 「助け合えぬ国」に決別を』
 検証記事を書く前に、結論だけ言っておくと、どの新聞の主張もフェアではない。自社の取ってきたスタンスに都合がいい理由だけを根拠にした主張だ。司馬遼太郎氏の歴史小説は、私も大好きだったし、エンターテイメント歴史小説家としては今後も彼を超える小説家は出ないのではないかとさえ思っている。だが、私は馬鹿馬鹿しい「司馬遼史観」なる言葉で、彼の捏造小説があたかも歴史認識の基準であるかのようになってしまったことに、衝撃を受けている一人でもある。
 司馬遼作品は、一時日本でも人気があったイギリスの政治家でもあり政治・経済小説家でもあるジェフリー・アーチャーの作品と同様面白くはあるが、ノンフィクションではない。彼の代表作の一つ『メディア買収の野望』(1996年刊)は二人のメディア王の壮絶なライバル争いを描いた小説だが、アーチャー自身「ファクト80%、フィクション20%」と公言したくらいだが、実は読者が受ける読後の影響は「フィクション20%」の部分のほうが大きい。
 山崎豊子氏や高杉良氏の作品も実在のモデルが存在し、たとえば高杉良氏がソニーのVTR戦争を題材にした『広報室沈黙す』は、肝心のソニー広報室の責任者が私に「ほとんど事実です。だけど、どうやって調べたんだろうとみんな首をかしげているんですよ」と内幕を語ってくれたことがある。実は私は高杉氏とは、この小説の取材で会った。彼にご馳走になったのに期待に応えられなかったのは申し訳なかったが、私はスキャンダルには一切興味がなく、当時は様々な筋から胡散臭い情報が舞い込んできたが、「私は厳しい書き方をするが、スキャンダルはテーマにしていない。週刊誌にでも売り込まれたら…」とやんわりお断りしてきた。そういうわけで、高杉氏の期待には応えられなかったが、ソニー広報室がほぼ事実に近いと認める彼の取材力には敬服する以外の何物でもない。ただ、スキャンダル的「事実」は高杉氏に情報提供できなかったが、なぜVTR戦争でソニーが敗北するかの論理的説明はさせていただいた(当時はまだソニーはお手上げはしていなかったが)。
 私はソニーの敗北する理由について、「ハード仕様のシェアは、ソフトメーカーがどっちにコミットするかで決まる。VTRの場合、テレビ放送を録画してあとでみるというタイムシェア的用途と、市場に出ている既存のソフトを再生するためという用途の二つに大別され、前者の用途が中心の時代は製品の『効果対費用』の原則でシェアが決まるが、後者の用途が中心になると勝負は一気につく。ソフトメーカーは市場でシェアが高いハード仕様にコミットするからだ」とだけお伝えした。よくご理解いただけなかったようだが。

 さて昨日のブログで書いたが、公明・山口代表は同党の「外交安全保障・憲法両調査会合同会議」で、「他国のためだけではなく、日本国民の生命、自由、権利を守るための限定的な行使容認であり、閣議決定案以上のことは憲法改正でなければできないことを確認するなどの歯止めを勝ち取った」と述べた。この発言はNHKがニュース7で武田アナウンサーが紹介したもので、私は公明党事務局に事実確認をしたことも書いた。
 実はその後、読売新聞が山口発言を改造しないように、読者センターに山口
発言の内容と、それが事実であること、さらに公明党事務局に抗議の電話が殺到していることまでお伝えしておいた。
 が、無駄だった。読売新聞は昨日の朝刊1面トップ記事で、これ以上不可能、というより小保方晴子や笹井芳樹も、「私たちだって、そこまではやってないよね」と多分言うであろうほどの「改造」を超えた「ねつ造」をした。
 読売新聞の記事はこうである。
「意見が一通り出たところで、山口代表が閣議決定案について『他国防衛ではなく、自国防衛であるという目的が明確になった』と歯止めを求めた成果を強調した」
 実際の山口代表の発言は先に述べたように「他国のためだけでなく」である。公明党事務局も認めている。さらにそのことを読売新聞読者センターに情報提供もした。その結果がこの記事になった。
 この表現の絶対的ねつ造と私が決めつけた理由を、親の子供教育のありかたで分かりやすく説明する。
 親が子どもの教育について「叱るだけでなく、ほめもする」あるいは「ほめるだけでなく、叱りもする」と言った場合、「叱る」ことに重点を置いているのか、あるいは「ほめる」ことに重点を置いているのかは、この数文字だけでは判断できない。前後の脈絡や、その行為が子どものどういうことに対して行われたかで、どちらに重点が置かれているかを判断するしかない。
 が、「叱るのではなく、ほめることが教育の方針だ」あるいは「ほめるのではなく、叱ることが教育の方針だ」という表現になると、重点の置き方の問題ではない。「ほめるだけ」あるいは「叱るだけ」ということを意味する。日本最大の発行部数を誇る読売新聞が1面トップの記事で「そこまでやるか」と、私は唖然とせざるを得ない。
 戦中のメディアは、大本営発表を鵜呑みにして記事を書いたことになっている。私もそこまでは検証のしようがないが、ひょっとしたら読売新聞は広島に原爆が投下されたとき、「日本軍はサンフランシスコに新兵器の原爆を投下して敵国に大打撃を与えた」と書いたのではないだろうか。この皮肉(本当は嫌味)がわかるかな?



緊急事態発生――公明・山口代表の発言が大問題になった。閣議決定強行すれば、執行部のクビが危ない。

2014-07-01 06:42:31 | Weblog
「天地がひっくり返るほどびっくりした」とは、昨日(6月30日)の公明党の「外交・安全保障に関する合同調査会」での山口代表の発言だ。この会議で公明党は、自民党・安倍執行部が公明執行部とキャッチボールの末、きょう閣議決定する運びになった集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更を執行部に一任した。そのこと自体はすでに分かっていたことだし、私がびっくりするわけがない。びっくりしたのは執行部一任を取り付けたあとの山口代表の発言である。
 NHKニュース7で武田アナウンサーが発言内容をこう紹介した。実はあまりびっくりしたのですぐに公明党に電話したが、「ただ今電話が大変込み合っています。恐れ入りますが、しばらくしてからお電話いただきますようお願いします」という自動音声のメッセージが流れるだけで、まったくつながらない。話し中にしてくれれば電話代がかからないのに、自動音声が流れて20秒で切られるたびに電話代がかかる。こういう状態が何十回も続くとさすがに忍耐強い私も我マンができなくなる。それでもかけ続けたが、とうとう諦めNHKに電話して上席責任者に出てもらった。
 私がいきなりぶつけた言葉は「山口代表の発言は本当か。NHK報道局のでっち上げではないのか」だった。私がぶつけた疑問で、上席責任者はすぐ私だと分かったようだ。念のため名前を名乗らず「私が誰か、ご存知ですよね」と聞いたら「承知しております」と返事が返ってきた。そのうえで私の詰問に対して「もしNHKの報道が事実と違っていたら、公明党からクレームが入っているはずです。まだ入っていないということは事実と考えてよいと思います」だった。ここまで書いて、ようやく公明党に電話がつながった。やはりNHKのニュースを見て抗議が殺到したことを公明党事務局が認めた。山口代表の発言もNHKの報道どおりだということを認めた。ひょっとすると、今日の閣議決定は「待った」がかかる可能性が生じた。安倍総理も昨夜オーストラリア訪問に出発したし、安倍総理抜きの自民執行部には決断できない状況が生じたと言える。
 最後の最後まで外野席をハラハラさせる「政治劇」は、ヒチコックの映画ではないが、どんでん返しの連続だ。それに今日終止符が打てるのだろうか。
 お待たせした。肝心の公明・山口代表の発言とはこうだ。
「与党協議では、他国のためだけでなく、日本国民の生命、自由、権利を守るための限定的な行使容認であり、閣議決定案以上のことは憲法改正でなければできないことを確認するなどの歯止めを勝ち取った」
 この山口発言に対して公明党事務局に抗議の電話が殺到したということは、日本国民はバカではないことを立証したとも言える。公明執行部も自民執行部も、国民を甘く見ていたことが明らかになった。山口発言のポイントは「他国のためだけでなく」の部分である。「他国のためではなく」だったら、これまでの公明執行部の主張との一貫性はかろうじて維持できただろうが、「他国のため
だけでなく」となると「他国のためにも集団的自衛権の行使を容認する」ことを意味する。これは中学生の国語力でも理解できることだ。「閣議決定」の目的がこれではっきりした。その目的については最後に書く。
 
 昨日は新宿で、集団的自衛権行使容認に抗議して焼身自殺を図る人まで出た(未遂でよかった。消防隊の対応が素早かったためだ)。それでも、自公は集団的自衛権行使容認を憲法解釈の変更によって認めるという、前代未聞の閣議決定を今日、強行する予定になっている。
 なぜ「前代未聞」と書いたのか。たとえば「村山談話」は閣議決定されたが、「河野談話」は閣議決定されていない。政府が新しい法律を作ったり、外国との条約の締結などでは閣議決定する必要があるが、法律(憲法も含む)についての従来の政府解釈を変更する場合は、通常「サクラ議員」を使って質問させ、その質問に総理なり担当大臣が答弁するという形で行われる。今回、そういう手段が取れなかったのには、それなりの理由がある。
 メディアは、そういう子供でも気が付きそうな疑問を、持てない体質になってしまったようだ。メディアの体質については昨日のブログでも明らかにしたので、それ以上の批判はとりあえず差し控えておく。
 ただ、都議会の「ヤジ問題」はいぜんとして関心が高いようで、訪問者、閲覧者ともに私のブログ歴では空前の数字を記録した。NHK「ふれあいセンター」の責任者が、私から「最大の責任者は都議会の吉野利明議長だ。議長は議会の尊厳と品位を守るための権限を与えられ、議会の尊厳と品位を守る義務がある。その権限を行使せず、義務を果たさず、いたずらに騒ぎを放置した責任はヤジの発言者より大きい」と申し上げたのに対し「その通りだと思います」と私の主張を支持してくれた。別にNHKの責任者から支持されようとされまいと、私にとってはどうでもいいことだったが、支持されたことより、逃げずに対応してくれたことのほうがよほど嬉しかった。その責任者は、6月27日投稿のブログでは書かなかったが、女性である。私はしばしばNHKも厳しく批判するが、女性の責任者にも、責任者としての権威を与えている。はっきり言って朝日新聞の女性社員に対する扱い方とは雲泥の差がある。

 すでに、なぜ自公協議の成立が可能になったのかについては6月27日に投稿したブログで書いた。公明党執行部は自公連立政権から離脱はしたくなかった。権力の椅子は、公明党執行部にとって、それほどおいしいものだったのだ。自公連立の歴史が短ければ、公明も創価学会本部の意向に逆らってまで集団的自衛権の容認に合意しなかったと思う。
 実は自公の歴史は、くっついたり離れたりの歴史でもあった。時には自公は自民対共産のような敵対関係にあった時期もある。1992年に竹下派(経世会)が分裂して小沢一郎氏らが自民党を飛び出して新進党を結成したとき、公明党は新進党と協力して細川政権を誕生させた。公明党が政権の一翼を担った、初めての機会である。
 細川政権は一応「連立」と称してはいたが、はっきり言えば「野合政権」だった。崩壊はあっけなく、初めて野に下った自民党は社会党との「連立」という禁じ手を使って政権を奪還、村山内閣が誕生した。この自社連立政権が公明党を目の敵にする。週刊誌に掲載された創価学会名誉会長の池田大作氏のレイプ疑惑を追及、国会に証人喚問を要求するほどの敵対関係になった。
 が、消費税増税に対する反発が大きく、増税を強行した橋本内閣が1998年8月総辞職し、小渕内閣が発足した。その前後に竹下登氏が創価学会会長の秋谷栄之助氏とひそかに会談、和解が成立して創価学会の協力を取り付けることに成功した。ただ公明党は代表の神崎武法氏が「自民党の補完勢力にはならない。自公連携、自公連立は考えていない」と表明し、創価学会との溝をのぞかせた。
 創価学会には、先の大戦中、治安維持法で弾圧された経緯があり、学会員の中には自民への協力に批判的な勢力もあった。そうした創価学会の「自民アレルギー」勢力に小渕内閣も配慮し、公明の主張や提案を丸呑みすることで公明との協力関係を築いていった。
 この時期の自民と創価学会、自民と公明の関係のずれは、現在の関係と180度転換している。そのことにメディアは無関心なのか、はたまた小渕内閣時代の関係を知っているはずの記者が全員、健忘症あるいは認知症になっているのか、どっちだろう?
 99年1月、自民は自由党(新進党分裂後の小沢新党)との連立を成立させた。公明党は連立政権には加わらなかったが、周辺事態法をはじめとする重要法案に賛成票を投じ、連立への足固めを築いていく。そして同年10月の内閣改造で公明が連立に加わり、いったん自自公連立政権が誕生した。政権への影響力を相対的に弱めることになった自由党は翌2000年4月、連立から離脱して自公連立政権になった。以降自公連立は森内閣、小泉内閣、第1次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣へと継承され、民主党政権が扱(こ)けたあと成立した第2次安倍内閣で再び自公政権が復活したという経緯がある。
 つまり、かなり長期にわたって公明は政権の一翼を担い、おいしい汁を吸ってきた。その味は「平和の党」という看板以上に公明党執行部にとっては重要なものになっていたのだ。だから、今年に入って集団的自衛権問題が「国のありかた」を左右する重要な政治課題として浮上したとき、公明党の支持母体、というより「母屋(おもや)」の創価学会が公明執行部に足かせをかけようとして「集団的自衛権行使は憲法解釈の変更ではなく、憲法改正で行うべきだ」と宗教法人としては異例のコメントを出したのだが、もはや公明は創価学会の出先機関ではなく「鬼っこ」になっていた。そもそもそうした学会と公明のずれは、公明執行部と相談せずに創価学会の秋谷会長が竹下元総理と和解してしまったことから始まっていたのだが、そうした学会と公明の関係に無関心なメディアは、創価学会の正式コメントに公明執行部が反旗を翻した意味が理解できなかったようだ。
 公明執行部が「平和の党」というイメージを壊してまで自民党との連立を優先させた理由は、「おいしい汁」だけではない。96年以降実施されている衆院選の「小選挙区比例代表制」が背景にある。もともと参院選はその以前から同様の選挙制度になっていた(ただし、参院選では重複立候補は認めていない)。この選挙制度の中で、自公は「貸し・借り」の選挙協力の歴史を築いてきた。この関係は自民も公明も壊したくない。私は6月27日のブログで、集団的自衛権行使容認についての自公協議を「押したり引いたり」と表現したが、この選挙協力関係が背景にあったから、キャッチボールができたのであり、長年にわたって築いてきた選挙協力の関係がなければ、キャッチボール自体が途中で頓挫していたはずだ。
 創価学会はいったん「集団的自衛権行使は憲法改正で行うべきだ」と正式コメントを発表した後、本来なら学会本部の「政界での出先機関」にすぎないはずの公明執行部が学会本部の意のままにならなくなった事情がやっとわかったようだ。結局、学会本部は先のコメントを一度出しただけで、その後は沈黙してしまった。公明執行部に押し切られたのだろう。公明・山口代表が早い時期から「連立離脱は考えていない」と、事実上自民との協議成立を匂わせてきたのも、自民との選挙協力なしには国政選挙で公明は戦えないと判断し、学会本部を説得したと考えるのが合理的である。
 そうした事情は自民にとっても同じだ。確かに集団的自衛権行使容認の問題だけだったら、石原新党やみんな、橋下グループと結いの合流で結成される新党などの支持を得れば、公明の協力がなくても強引に閣議決定に持ち込むことは可能だ。が、集団的自衛権問題を解決したら、それで終わりというわけにはいかない。公明との選挙協力抜きに自民が政権の座に座り続けることが不可能なことは、過去の苦い経験から安倍執行部は百も承知のはずだ。だから最後の土壇場で、いったん強硬姿勢に転じて公明を硬化させてしまった安倍総理の判断ミスにより、結局、公明の主張を丸呑みするという形で協議をまとめざるを得なかったというのが真相だろう。
 一方、権力の「おいしい汁」を直接には味わえていない公明の地方代表は、また別の事情を抱えている。地方代表にとっては国政選挙だけではなく、地方自治体の選挙もある。国民の多くが反対している集団的自衛権行使を容認するための「憲法解釈変更」で自民に同調したら、地方選挙で戦えないという計算が働くのは当然である。だから公明党の全国幹部会では執行部の独走に対する不満が続出した。が、メディアの報道によれば、地方の声は執行部から完全に無視されたようだ。
 が、分かっていないのは執行部の方だ。自民との選挙協力といっても、創価学会と無関係な公明支持層がそんなに多いわけがなく、実際に選挙のとき自民立候補者の手足となって応援する運動員は創価学会員がほとんどである。彼らが執行部に反発したら、事実上選挙協力は不可能になる。そのことを、執行部は理解していないようだ(※昨夜の電話で公明党事務局はそうした地方の事情を完全に認めた。事務局自体が困惑しきっている感じだ)。
 これだけ、国民の反発が強い憲法解釈の変更によって集団的自衛権行使容認を閣議決定したら、その瞬間安倍内閣の支持率は激減する。メディアは毎月内閣支持率を調査しているが、7月の支持率の下落は、おそらく史上空前の数字になるだろう。いま固唾(かたず)をのんで見守っている野党は、内閣支持率が公表された瞬間、それまでのスタンスを一変させるだろう。ただ、国民にその豹変をどう説明するかだ。いまさら、これまで明確にしてきた容認スタンスをひっくり返すわけにもいかないだろうから、「国民の信を問うべきだ」と問題をすり替えて、国会解散を要求するしか逃げ道はない。国民の、政治に対する絶望感が膨れ上がるだけだ。

 なお、これは閣議決定後の投稿するつもりで書きためてあるブログ原稿の一部を「予告編」として明らかにすることにした。メディアが1日も早くこの重要な視点に気付いてほしいと考え直したからだ。
 自民が閣議決定を急ぐ理由は年内の「日米ガイドライン」に間に合わせたいということが最大の理由だとされている。が、アメリカは「急いではいないよ」と、日本の政治状況に配慮の姿勢を見せている。にもかかわらず、なぜ安倍総理はアメリカの配慮にもかかわらず、公明の主張を表面上丸呑みしてまで閣議決定を急ぐ理由は一つしか考えられない。
 集団的自衛権行使を限定つきではあっても憲法解釈の変更によって認めれば、当然日米安全保障条約の改定に直結する。公明党が「他国」という表現を「我が国と密接な関係にある他国」と限定するよう求めたのに対しても、また「国民の権利が根底から覆されるおそれがある」とした自民執行部案の「おそれ」を「明白な危険」に変更するなど、「てにをは」に至るまで公明の主張を丸呑みしてまで閣議決定に持ち込みたい安倍総理の執念は、はっきり言って祖父の岸信介元総理が改定した日米安全保障条約の片務性を再改定して、双務的条約に変えるための布石を打つことにある。
 公明・山口代表は、おそらく安倍総理の真意を耳元で「これは二人だけの話にしてくれ」とささやかれたのではないか。「盟友」扱いされて有頂天になった
山口代表が、つい口走ってしまった「他国のためだけでなく」という発言は「アメリカのためには(集団的自衛権を行使する)」というとんでもないことを意味すると解釈するのが、憲法解釈よりたやすいはなしだ。
 が、現行憲法下では、どんなに屁理屈をこねても日米安全保障条約を双務的な条約に変更することは不可能だ。最高裁が、もし砂川判決をひっくり返して憲法9条に抵触しないといった判断を下すようなら、もはや日本は立憲主義の国ではなく、独裁政権の国で、政権は憲法の拘束を受けないことを最高裁判所が認めることになる。
 最高裁判事は、衆院選のときに審判を受けることになっており、いまだ有権者から罷免された判事はいない。が、次の衆院選では「日米安全保障条約の再改定」は「高度な政治的問題であり、裁判所が判断するのは適当でない」と逃げたら、それは事実上安保条約の再改定を最高裁が憲法違反ではないと判断したことを意味することくらい、有権者にはすぐに分かる。
 当然、次の衆院選と同時に行われる最高裁判事の信任投票で、安保条約再改定を事実上認めた判事は全員、有権者から罷免されることはわかりきったことだ。日本国民はそれほどバカではない。