さて、小さな路地を抜けて「三田清」前の通りに出ました。
この通りにも昔ながらの町家があります。この通りを突き当たれば『左東海道せき道』の道標。
伊賀といえば、『芭蕉さん』(こどもから大人まで親しみをこめて、こう呼びます。)彼の生まれたところ。
その昔、芭蕉生誕地ということで旧上野市と旧伊賀町で物議を醸したことがありますが、今も昔も母親は里に帰って出産するのが常です、よね。
だから、里帰りした母が芭蕉さんを産んだのが「上野」ということ・・・(もありでしょう?詳しいことは『芭蕉研究家』の人たちに任せるとして)
ここは、『芭蕉生家』の玄関口。少しかがんで入ります。
中に入って、「語り部」さんのお話を聞きます。
調度類が残っています。
「かまどさん」もあります。
心静かに俳句を詠んでいたのでしょうか。
奥庭の離れは芭蕉が処女句集「貝おほひ」を執筆した釣月軒です。
『芭蕉生家』でした。
つづく
この通りにも昔ながらの町家があります。この通りを突き当たれば『左東海道せき道』の道標。
伊賀といえば、『芭蕉さん』(こどもから大人まで親しみをこめて、こう呼びます。)彼の生まれたところ。
その昔、芭蕉生誕地ということで旧上野市と旧伊賀町で物議を醸したことがありますが、今も昔も母親は里に帰って出産するのが常です、よね。
だから、里帰りした母が芭蕉さんを産んだのが「上野」ということ・・・(もありでしょう?詳しいことは『芭蕉研究家』の人たちに任せるとして)
ここは、『芭蕉生家』の玄関口。少しかがんで入ります。
中に入って、「語り部」さんのお話を聞きます。
調度類が残っています。
「かまどさん」もあります。
心静かに俳句を詠んでいたのでしょうか。
奥庭の離れは芭蕉が処女句集「貝おほひ」を執筆した釣月軒です。
『芭蕉生家』でした。
つづく