さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

横山森子の拓いた新田村の祠を見つけ嬉しくて

2016-10-09 | 日記
私達の町の古坂下と言うところに台の宮という深い森に囲まれた公園があるんです。



公園にはこんな欅の巨木があるんです。上部が今は失われていますけど亭々として大きく空に伸びております

神木なんですね、注連縄が回され、「千年けやき幹回り.8.5m」と標示されております


幹には大きな空洞があって、ずっとずっと昔のことですけどこの洞にたくさんのコウモリが住んでいて夕方になると公園の空を舞っていました。また怖いスズメバチが巣を作って洞をコンクリで塞がれたこともありました。今はどちらもいなくて静かです。



かつてはこのケヤキの近くに盆踊りの櫓が立ち踊りの輪が幾重にもなり台の宮のある古坂下の通りは人通りでごった返しで賑わいました。

古い時代の台の宮はケヤキなどの深い森に囲まれ昼なお暗い場所だったといわれています。その森の中に「弥十郎狐一家」が住みつき夜な夜な美しい女に化けて若い男をたぶらかし頭を丸坊主にして喜んでいたなどという物語りもあったなどとも聞いています。

台の宮には五稷神社が祀れていて社前には駒犬ではなくて狐の石像が阿吽の姿で並んでおります。お稲荷さんと同じ五穀豊穣の神さんだからなんでしょうね。





台の宮の西の片隅に赤い鳥居の石の祠があります




赤い鳥居ですのでどこにでもあるお稲荷さんかと思って気にも止めずにいましたけどある日ふと思い立って祠の前の壊れた石灯籠を見てみましたら「文化14年3月吉日とありました。



そして別の側面を見て見ると「横山新田、一村講中」とありました。石の祠の両側面にも同じことが彫ってありました。この石の祠は文化14年(1817)今から300年ほど昔横山新田村の鎮守として建立されていたんですね。



私は前々からたれかに教えてもらって、会津の藩政時代に古坂下の水呑百姓の妻だけれども優れて心きく横山森子と言う女性が中心になって新田を開拓してその地を横山新田村と名付け年貢の取り立て勘定からすべて肝煎りの仕事を夫久八とともにこなしやがて肝煎り給分を貰うようになり肝煎り役の仕事をやっていたこを知っていました。会津藩の村数176の中に横山新田分として古坂下村に並んで記されておることも知っていました。

藩政時代の村は現在の集落にあたります。ところが古坂下近くには横山新田分という集落はありません。いったい横山新田分ってどこなんだろうと不思議に思っていました。

赤い鳥居の奉納の額があってそこに、荒井医院を含めて6人の方の名前が書いてありました。



この6人の方はこの石の祠の神様を信仰していらっしゃる方で横山新田分にゆかりのある方と思われます。そして古坂下にお住みになっていらっしゃいます。

このことから、私は横山新田分は古坂下とは離れていても割と近くにあって、藩政時代が終わって明治になって古坂下の人口が増え屋並が広がっていってやがて横山新田分を飲み込んでしまって横山新田分の名前が自然と消えていったんではなかろうかと思うのです。

私の知っている荒井医院も佐瀬家も古坂下の東部の台の宮に近いところにあります。横山新田分は古坂下東のちょっと離れたところにあったけれどもいつのまにか古坂下に飲み込まれてしまって横山新田分の名前が消えてしまったのではなかろうかと思うんです。

江戸時代横山森子が開拓して作った横山新田分の鎮守の石の祠がこんな所にあって今も6人の方がこの石の祠の氏子として信仰なさっていらっしゃる。私にはとっても尊いことのように思えるのです。そして横山新田分のあった場所も私なり考える出来たこともとても嬉しいことなんです。 これからはここを通る時はこの石の祠が横山新田分の鎮守さまとの思いで拝礼し横山森子のことを思うことになります。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿