続・切腹ごっこ

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もうひとりの白虎隊

2007-07-10 | ★白虎隊

 前回の記事に書いた郡長正の話。
 安政三年(西暦1856年)、会津藩の家老萱野権兵衛の次男として生まれる。白虎隊士同様、藩士の子弟が通う藩校
日新館に学ぶ。
白虎隊が飯盛山で自刃した戊辰戦争(1868年)時の年齢は12歳。家老である父萱野権兵衛は会津戦争の責任を負って切腹。一家は苗字を郡に改める。
 15歳になった長正は小倉藩の藩校育徳館に留学する。長正たち会津藩からの留学生は成績優秀だったが、小倉藩士の子弟の中にはそれを快く思わない者もいた。そんな中、寮の食事の少なさを嘆いて故郷に送った手紙の返事(空腹を嘆く長正を戒める内容)を見た小倉藩士の子弟にからかわれる。会津武士の面目を潰されたと感じた長正は切腹して果てる。享年16歳。

 以上が超簡単な略歴。↑には「武士の面目を潰されたと感じて切腹」と書いたが、これは本を読んだ上での自分の想像だ。未だに切腹に至る武士の指向順序というか論理というのは、口で説明できない。多分こういう状況なら切腹してもやむを得ないだろうな~というシチュエーションは分かる。でもシチュエーションが分かってても説明するのは難しい。価値感が現代人とは違い、根本的な心情が理解できないから説明が難しいんだろうか。
 長正の切腹した理由も↑のように書いたもののしっくりこない。現代ならこれは「いじめによる自殺」ということになるだろう。しかし、この場合はやっぱりそれとは異質なものなんだろうか?

今回は割りとマジメな話になってしまった‥^^; 次回はもっと角度を変えて書こうっと。

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