「清水港は鬼より怖い、大政小政の声がする」と言われる次郎長一家の大政、小政は有名。しかし黒駒勝蔵にも大岩、小岩と言う子分がいたことはあまり知られていない。次郎長一家の大政小政に対抗して、黒駒一家の大岩小岩を挙げても、映画や講談では悪役となっている。
大岩こと岩五郎は甲州八代郡成田村(現・笛吹市御坂神町成田)の梶原権右衛門の長男として生まれた。生まれは天保9年(1838年)と言われる。成田村は黒駒勝蔵の出身の上黒駒村のすぐ近くである。岩五郎には4歳下の「まつ」という妹がいた。生家は農業、百姓をして居れば間違いはなかったが、博奕に夢中になって、親に勘当され、20歳頃勝蔵の子分となった。そのため妹のまつが婿を取り、梶原家の跡を継いだ。
小岩こと岩吉は大岩と隣り合わせの中川村出身、姓も村名と同じく中川岩吉と言った。年齢は大岩より年上と言われる。黒駒勝蔵は地元の人間を子分にしなかった。地元の人間を無宿にして危険な目に合わせることを好まなっかった。地元の子分の親族から逃亡先が判明されるのを避けたともいう。逃亡生活が長く、子分の詳細についても一切記録には残っていない。この頃の大岩、小岩についても詳細はまったく不明である。
文久元年(1860年)大岩小岩は、勝蔵と共に甲州を追われ、駿河、三河の東海道筋あたりの博徒仲間を渡り歩いていた。旅先の各地で地元博徒の間で抗争が相次いだと言われる。大岩はこの頃、23歳、若者盛りである。
次郎長の養子・天田五郎に記した「東海遊侠伝」によると、文久3年(1863年)5月17日夜、天竜川をはさんで、次郎長側と勝蔵側が対峙した。勝蔵側は子安の森を背にして西岸に陣した。夜明けとともに、双方なだれ込んで決着をつけることにした。夜が明けた頃、勝蔵側には人影一つなかった。恐れをなして、逃げ去ったという。
1年後、元治元年(1864年)6月5日(1年前の文久3年という説もある)勝蔵は、大岩、小岩ら子分を連れて、三州平井(現・愛知県豊川市平井町)雲風亀吉の家に、草鞋を脱いだ。この情報を次郎長方に通報した者があった。大政、吉良の仁吉その他30数人で殴り込みをかけた。勝蔵は逃げて、大岩はこの時、鉄砲で胸板を打ち抜かれて、即死した。大岩のほかに、次郎吉、勘重、松太郎、種吉の計5人の子分が死んだ。
小岩は、勝蔵を守って、勝蔵とともに逃げたと思われる。作家・今川徳三氏は「日本侠客100選」で、この清水一家の雲風亀吉襲撃で大岩は死んでいない。そもそもこれらの天竜川での騒動や雲風亀吉襲撃事件そのものが東海遊侠伝の創作であると主張する。
かなり期間が過ぎた明治の初め、小岩の出身地・中川村の小岩の菩提寺・九品寺に一人の博奕打ちがひよっこり来て、中川家の墓参りをした。当時、岩吉の生家中川家は東京に移り住み、地元には誰もいない。この男が、間もなく行き倒れになって死んでいたのを村人が見つけて、行倒人として処理した。その後、この男が「小岩ではないか?」と噂もあったが、確認できなかったと今川徳三氏はいう。
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清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件
次郎長一家 小政の獄死
写真は愛知県豊川市平井町小野田の墓地にある供養塔「無縁法界」勝蔵の子分、大岩、次郎吉、亀吉の子分、勘重、松太郎、種吉の名前がある。
供養塔は亀吉の弟・原田常吉が流刑先・新島から平井村に戻ってきて、建立した。
写真は笛吹市御坂町・称願寺にある黒駒勝蔵、大岩、小岩の墓。勝蔵の子孫が3人とも墓が無いため、子孫の依頼により建立されたと住職はいう。
大岩こと岩五郎は甲州八代郡成田村(現・笛吹市御坂神町成田)の梶原権右衛門の長男として生まれた。生まれは天保9年(1838年)と言われる。成田村は黒駒勝蔵の出身の上黒駒村のすぐ近くである。岩五郎には4歳下の「まつ」という妹がいた。生家は農業、百姓をして居れば間違いはなかったが、博奕に夢中になって、親に勘当され、20歳頃勝蔵の子分となった。そのため妹のまつが婿を取り、梶原家の跡を継いだ。
小岩こと岩吉は大岩と隣り合わせの中川村出身、姓も村名と同じく中川岩吉と言った。年齢は大岩より年上と言われる。黒駒勝蔵は地元の人間を子分にしなかった。地元の人間を無宿にして危険な目に合わせることを好まなっかった。地元の子分の親族から逃亡先が判明されるのを避けたともいう。逃亡生活が長く、子分の詳細についても一切記録には残っていない。この頃の大岩、小岩についても詳細はまったく不明である。
文久元年(1860年)大岩小岩は、勝蔵と共に甲州を追われ、駿河、三河の東海道筋あたりの博徒仲間を渡り歩いていた。旅先の各地で地元博徒の間で抗争が相次いだと言われる。大岩はこの頃、23歳、若者盛りである。
次郎長の養子・天田五郎に記した「東海遊侠伝」によると、文久3年(1863年)5月17日夜、天竜川をはさんで、次郎長側と勝蔵側が対峙した。勝蔵側は子安の森を背にして西岸に陣した。夜明けとともに、双方なだれ込んで決着をつけることにした。夜が明けた頃、勝蔵側には人影一つなかった。恐れをなして、逃げ去ったという。
1年後、元治元年(1864年)6月5日(1年前の文久3年という説もある)勝蔵は、大岩、小岩ら子分を連れて、三州平井(現・愛知県豊川市平井町)雲風亀吉の家に、草鞋を脱いだ。この情報を次郎長方に通報した者があった。大政、吉良の仁吉その他30数人で殴り込みをかけた。勝蔵は逃げて、大岩はこの時、鉄砲で胸板を打ち抜かれて、即死した。大岩のほかに、次郎吉、勘重、松太郎、種吉の計5人の子分が死んだ。
小岩は、勝蔵を守って、勝蔵とともに逃げたと思われる。作家・今川徳三氏は「日本侠客100選」で、この清水一家の雲風亀吉襲撃で大岩は死んでいない。そもそもこれらの天竜川での騒動や雲風亀吉襲撃事件そのものが東海遊侠伝の創作であると主張する。
かなり期間が過ぎた明治の初め、小岩の出身地・中川村の小岩の菩提寺・九品寺に一人の博奕打ちがひよっこり来て、中川家の墓参りをした。当時、岩吉の生家中川家は東京に移り住み、地元には誰もいない。この男が、間もなく行き倒れになって死んでいたのを村人が見つけて、行倒人として処理した。その後、この男が「小岩ではないか?」と噂もあったが、確認できなかったと今川徳三氏はいう。
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次郎長一家 小政の獄死
写真は愛知県豊川市平井町小野田の墓地にある供養塔「無縁法界」勝蔵の子分、大岩、次郎吉、亀吉の子分、勘重、松太郎、種吉の名前がある。
供養塔は亀吉の弟・原田常吉が流刑先・新島から平井村に戻ってきて、建立した。
写真は笛吹市御坂町・称願寺にある黒駒勝蔵、大岩、小岩の墓。勝蔵の子孫が3人とも墓が無いため、子孫の依頼により建立されたと住職はいう。