三河博徒・雲風の亀吉と尾張博徒・近藤実左衛門
尾張博徒・近藤実左衛門は、戊辰戦争において尾張藩が官軍支援のため博徒中心に編成された戦闘集団「集義隊」の指導者であった、実左衛門は「集義隊」解散と同時に郷里の熊張村(現在の名古屋市中村区)に帰って博徒稼業にもどる。
この「集義隊」は、尾張藩は親藩として幕軍側に立つべきも、藩の上層部は、官軍側にも恩を売るため、両方に二股をかけた。その犠牲者が藩とは関係のない地元博徒を中心に組織された集義隊である。
尾張藩は、慶応4年(1968年)2月、博徒を士族とすることを条件に集義隊を編成した。この集義隊に参加したのが、雲風の亀吉と近藤実左衛門である。しかし北越戦争の戦いから戻ると、尾張藩は彼らを士族から平民に戻した。ここに博徒らの「士籍返還運動」が発生する。
近藤実左衛門は戊辰戦争に従軍する際に縄張りを弟分の伊三に預けたが、身内の瀬戸の愛吉が不在中に瀬戸一家を立て、縄張り争いが始まっていた。実左衛門もそれに巻き込まれてゆく。彼は血なまぐさい縄張り争いをおこないながら、士族籍挽回運動の黒幕でもあった。
この点では雲風の亀吉こと平井亀吉も同じだった。彼は名古屋に滞在中、草莽隊である「集義隊」に引き抜かれた。故郷は三州平井村である。(豊川市平井町豊川沿い、東海道線本線、西小坂井駅付近にある)
平井亀吉は甲州の博徒黒駒の勝蔵と兄弟分であり、二人は清水の次郎長と何度も激闘を繰り返す三河随一の博徒だった。主な縄張りは旧東海道の宿場、御油宿、赤坂宿である。明治になって、平井一家と清水一家は川又五郎一家を継いだ斎藤平三が仲介に入り、和解した。明治13年6月15日、清水一家と平井一家は遠州浜松宿の料亭島屋で盛大に手打ち式をした。この話は『東海遊侠伝』に語られている。講談や映画などでも有名だ。
この頃の三河地方の特徴を述べておきたい。現在の愛知県は当時では尾張と三河に分かれていた。尾張は尾張藩という大藩が唯一全域を支配していたのに対し、三河は八つの小藩がある。その上、尾張藩や福島藩など他国に本領のある六つの大名の飛地や幕府の直轄領があった。なおその上に、六十余家に及ぶ旗本の知行地があって、それらが錯綜して細切れ状態だった。どうしてそうなったのか?
幕府が尾張藩をもって西方に対する備えにした上で、三河より東を安全地帯として譜代の小藩をここに集中させたことが一つの理由。もう一つは徳川発祥の地である三河は多くの大名や旗本にとって先祖の土地であり、彼らがここに飛地を求めたことにある。
こういう土地では警察権力の及ばない地域が出てくる。そこに根を張って、入り組んだ土地を移動すれば、博徒を追捕することは容易ではない。一種の無法地帯となる。
そのような土地に有力な博徒が出てくる理由がそこにあった。実際、幕末に有力な博徒を生んだ地域は関東上州、甲州、駿州など幕府の直轄領が多い。幕末になると、財政難のために代官や役人が減らされ、その代わりに、土地の博徒に十手を持たせて、警察の代行をやらせた。ますます博徒は力を持った。
駿州清水の次郎長、三河吉良の仁吉、甲州黒駒の勝蔵、上州国定忠治など時代劇に出てくるような博徒が実際にいた。清水の次郎長の弟分である吉良の仁吉の縄張りは忠臣蔵で有名な旗本吉良上野介の知行地にあった。
平民に戻された平井亀吉は結局、故郷の平井村には帰らなかった。名古屋の一角に住み、金魚の養殖をやった。しかし、これは表向きのことで、尾張藩に反故にされた士族籍挽回運動の黒幕としての役割があったと思われる。名古屋に定着して、そこで勢力を築こうと考えていたのかもしれない。
亀吉は、名古屋の町に廓建設の話が出ると「集義隊」の手下を使って土地の買収や利権の交渉に介入して郭一帯の顔役になっている。やがて自らも廓の楼主おさまる。
三州平井村の縄張りはどうなったか?出征中は弟分の善六に任せていた。ところがどんどん縄張りを荒らされたうえ、弟分善六は清水の次郎長につながる形の原の斧八一家の食客に殺された。伊豆新島に流罪になっていた亀吉の次弟・常吉が戻ってきて、善六を殺した下手人を刺し殺し、復讐を遂げて、一家の再興を図った。
この事件が渡世人仲間に評判となり、子分が多く集まり平井一家は見事に立ち直った。清水の次郎長とも和解して、平井一家の縄張りは安定した。亀吉は常吉に跡を譲って、隠居の形になったため、清水の次郎長との手打ちにも出てこなかった。
こうして実左衛門も亀吉も表舞台に登場しなくなったが、隠然たる影響力を発揮していた。その後、近藤実左衛門はいわゆる不平士族や草莽の剣客を集めた「撃剣会」の世話役のような役割を果たす。
平井亀吉は博徒になる前、江戸で清見潟部屋に所属する相撲取りだった。しこ名は「雲風の藤八」、最高位は十両まで上がった。しかし序二段19枚目で廃業、博徒になった。明治に入り、博徒らの士籍返還運動の効あって、明治11年彼らの士族が復活した。現在、豊川市御津町下佐脇是願の川沿いの墓地に、平井亀吉の墓が妻の墓と並んで残っている。その墓石には「士族・平井亀吉」と誇らしげに彫られている。
役場に保存されていた戸籍簿を見ると
「愛知県宝飯郡下佐脇村三拾五番戸、士族、戸主平井亀吉、文政11年9月7日生、慶応4年5月朔日、当郡平井村平民大林市作二男、一戸新立につき、苗字取設、明治11年7月27日士族へ編入」と記載される。
一方、近藤実左衛門は東春日井郡水野村で「北熊一家」を名乗り、尾張から美濃まで勢力を広げ、地元博徒の大物として名を挙げた。しかし、二代目を継いだ実左衛門の甥は博徒としての才能がなかったのか、途中で行方不明となり、抗争を続けていた地元の「瀬戸一家」の傘下となり吸収された。
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会津藩に味方した越後の博徒・観音寺久左衛門
平井一家3代目博徒・原田常吉
写真は平井亀吉の墓。右となりは妻の墓。戒名「要義院大乗法雲居士」明治26年3月24日歿、享年65歳。亀吉の妻は名を「モト」と言い、弘化2年生まれ、亀吉より17歳年下。名古屋の古渡町の内田安兵衛の長女である。二人に実子なく、豊橋松葉町の皆次門先に棄てられた乳飲み女児を引き取り「イチ」と名付け、養女とした。
尾張博徒・近藤実左衛門は、戊辰戦争において尾張藩が官軍支援のため博徒中心に編成された戦闘集団「集義隊」の指導者であった、実左衛門は「集義隊」解散と同時に郷里の熊張村(現在の名古屋市中村区)に帰って博徒稼業にもどる。
この「集義隊」は、尾張藩は親藩として幕軍側に立つべきも、藩の上層部は、官軍側にも恩を売るため、両方に二股をかけた。その犠牲者が藩とは関係のない地元博徒を中心に組織された集義隊である。
尾張藩は、慶応4年(1968年)2月、博徒を士族とすることを条件に集義隊を編成した。この集義隊に参加したのが、雲風の亀吉と近藤実左衛門である。しかし北越戦争の戦いから戻ると、尾張藩は彼らを士族から平民に戻した。ここに博徒らの「士籍返還運動」が発生する。
近藤実左衛門は戊辰戦争に従軍する際に縄張りを弟分の伊三に預けたが、身内の瀬戸の愛吉が不在中に瀬戸一家を立て、縄張り争いが始まっていた。実左衛門もそれに巻き込まれてゆく。彼は血なまぐさい縄張り争いをおこないながら、士族籍挽回運動の黒幕でもあった。
この点では雲風の亀吉こと平井亀吉も同じだった。彼は名古屋に滞在中、草莽隊である「集義隊」に引き抜かれた。故郷は三州平井村である。(豊川市平井町豊川沿い、東海道線本線、西小坂井駅付近にある)
平井亀吉は甲州の博徒黒駒の勝蔵と兄弟分であり、二人は清水の次郎長と何度も激闘を繰り返す三河随一の博徒だった。主な縄張りは旧東海道の宿場、御油宿、赤坂宿である。明治になって、平井一家と清水一家は川又五郎一家を継いだ斎藤平三が仲介に入り、和解した。明治13年6月15日、清水一家と平井一家は遠州浜松宿の料亭島屋で盛大に手打ち式をした。この話は『東海遊侠伝』に語られている。講談や映画などでも有名だ。
この頃の三河地方の特徴を述べておきたい。現在の愛知県は当時では尾張と三河に分かれていた。尾張は尾張藩という大藩が唯一全域を支配していたのに対し、三河は八つの小藩がある。その上、尾張藩や福島藩など他国に本領のある六つの大名の飛地や幕府の直轄領があった。なおその上に、六十余家に及ぶ旗本の知行地があって、それらが錯綜して細切れ状態だった。どうしてそうなったのか?
幕府が尾張藩をもって西方に対する備えにした上で、三河より東を安全地帯として譜代の小藩をここに集中させたことが一つの理由。もう一つは徳川発祥の地である三河は多くの大名や旗本にとって先祖の土地であり、彼らがここに飛地を求めたことにある。
こういう土地では警察権力の及ばない地域が出てくる。そこに根を張って、入り組んだ土地を移動すれば、博徒を追捕することは容易ではない。一種の無法地帯となる。
そのような土地に有力な博徒が出てくる理由がそこにあった。実際、幕末に有力な博徒を生んだ地域は関東上州、甲州、駿州など幕府の直轄領が多い。幕末になると、財政難のために代官や役人が減らされ、その代わりに、土地の博徒に十手を持たせて、警察の代行をやらせた。ますます博徒は力を持った。
駿州清水の次郎長、三河吉良の仁吉、甲州黒駒の勝蔵、上州国定忠治など時代劇に出てくるような博徒が実際にいた。清水の次郎長の弟分である吉良の仁吉の縄張りは忠臣蔵で有名な旗本吉良上野介の知行地にあった。
平民に戻された平井亀吉は結局、故郷の平井村には帰らなかった。名古屋の一角に住み、金魚の養殖をやった。しかし、これは表向きのことで、尾張藩に反故にされた士族籍挽回運動の黒幕としての役割があったと思われる。名古屋に定着して、そこで勢力を築こうと考えていたのかもしれない。
亀吉は、名古屋の町に廓建設の話が出ると「集義隊」の手下を使って土地の買収や利権の交渉に介入して郭一帯の顔役になっている。やがて自らも廓の楼主おさまる。
三州平井村の縄張りはどうなったか?出征中は弟分の善六に任せていた。ところがどんどん縄張りを荒らされたうえ、弟分善六は清水の次郎長につながる形の原の斧八一家の食客に殺された。伊豆新島に流罪になっていた亀吉の次弟・常吉が戻ってきて、善六を殺した下手人を刺し殺し、復讐を遂げて、一家の再興を図った。
この事件が渡世人仲間に評判となり、子分が多く集まり平井一家は見事に立ち直った。清水の次郎長とも和解して、平井一家の縄張りは安定した。亀吉は常吉に跡を譲って、隠居の形になったため、清水の次郎長との手打ちにも出てこなかった。
こうして実左衛門も亀吉も表舞台に登場しなくなったが、隠然たる影響力を発揮していた。その後、近藤実左衛門はいわゆる不平士族や草莽の剣客を集めた「撃剣会」の世話役のような役割を果たす。
平井亀吉は博徒になる前、江戸で清見潟部屋に所属する相撲取りだった。しこ名は「雲風の藤八」、最高位は十両まで上がった。しかし序二段19枚目で廃業、博徒になった。明治に入り、博徒らの士籍返還運動の効あって、明治11年彼らの士族が復活した。現在、豊川市御津町下佐脇是願の川沿いの墓地に、平井亀吉の墓が妻の墓と並んで残っている。その墓石には「士族・平井亀吉」と誇らしげに彫られている。
役場に保存されていた戸籍簿を見ると
「愛知県宝飯郡下佐脇村三拾五番戸、士族、戸主平井亀吉、文政11年9月7日生、慶応4年5月朔日、当郡平井村平民大林市作二男、一戸新立につき、苗字取設、明治11年7月27日士族へ編入」と記載される。
一方、近藤実左衛門は東春日井郡水野村で「北熊一家」を名乗り、尾張から美濃まで勢力を広げ、地元博徒の大物として名を挙げた。しかし、二代目を継いだ実左衛門の甥は博徒としての才能がなかったのか、途中で行方不明となり、抗争を続けていた地元の「瀬戸一家」の傘下となり吸収された。
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会津藩に味方した越後の博徒・観音寺久左衛門
平井一家3代目博徒・原田常吉
写真は平井亀吉の墓。右となりは妻の墓。戒名「要義院大乗法雲居士」明治26年3月24日歿、享年65歳。亀吉の妻は名を「モト」と言い、弘化2年生まれ、亀吉より17歳年下。名古屋の古渡町の内田安兵衛の長女である。二人に実子なく、豊橋松葉町の皆次門先に棄てられた乳飲み女児を引き取り「イチ」と名付け、養女とした。