私はこの「役作り」という言葉が苦手です。「作る」というほど作っていないからかしら?余程、度はずれた荒唐無稽な人物ならさすがに作るかも知れませんが、あまり「作った」という記憶がありません。役は「なる」ものであり、「作る」という概念がないだけなのでしょう。私のやっていることも、世間で言う「役作り」となんら変わらないのかもしれません。
もちろん私も「なり」で何となくやっているわけではありません。敢えて言えば、お役に役立つ要素を自分の中から引っ張り出してきて照らし合わせたり、拡大したり、味付けしたりして役と自分の距離を縮める作業をしているのです。自分の中にないものを、さもあるようにはできません。そういったペテンだけはしないようにしています。手がかりだけ掴んで後は博打を打つ、という時もないではないですが、あくまでそれは最後の手段。お役を「生きている人間」にするには、そういった誠意(面倒な作業)というものが要ると私は思います。
すべてを理解してからやれと言っている訳ではありません。理解ではなく、腑に落ちること。自分の中の引き出しが少ないと照らし合わせるものがなく、頭で何とか理解しようとします。話の筋(理屈)は頭で理解できますが、「人物」は頭だけでは不十分です。粘土みたいにあれとこれとをくっつけてという訳にもいきません。そういう意味での「作る」が私の中にないのです。
一番いけないのは「何となく」演じちゃうこと。何となく演っちゃわないように日々気を引き締めています。
もちろん私も「なり」で何となくやっているわけではありません。敢えて言えば、お役に役立つ要素を自分の中から引っ張り出してきて照らし合わせたり、拡大したり、味付けしたりして役と自分の距離を縮める作業をしているのです。自分の中にないものを、さもあるようにはできません。そういったペテンだけはしないようにしています。手がかりだけ掴んで後は博打を打つ、という時もないではないですが、あくまでそれは最後の手段。お役を「生きている人間」にするには、そういった誠意(面倒な作業)というものが要ると私は思います。
すべてを理解してからやれと言っている訳ではありません。理解ではなく、腑に落ちること。自分の中の引き出しが少ないと照らし合わせるものがなく、頭で何とか理解しようとします。話の筋(理屈)は頭で理解できますが、「人物」は頭だけでは不十分です。粘土みたいにあれとこれとをくっつけてという訳にもいきません。そういう意味での「作る」が私の中にないのです。
一番いけないのは「何となく」演じちゃうこと。何となく演っちゃわないように日々気を引き締めています。