恵比寿ガーデンプレイス内にある東京都写真美術館で9月25日まで開催している「昭和史のかたち」展を見学する。なんでもライト感覚がうける時代にこんなに重い素材はどうかな?と館内を一瞥する。旧盆まえの平日、都内はぶり返す炎暑のせいか34℃。ギャラリーはちらりほらりで作品と対峙するにはちょうどよい環境が醸しだされている。
66年前に終わったはずの戦争のいまなお人々に残している禍根!これをまっすぐに見据えてきちんと本格仕事を重ねてきた写真家の仕事が一望できるのだ。写真の展示は先の大戦に絡んだ「ヒロシマ」「「ナガサキ」「満州」などブロックごとに仕分けされていて、「太平洋」を象徴する戦争遺跡を訪問して撮った写真群に「鬼哭の島」というタイトルがついている。
「鬼哭の島」とは硫黄島、サイパン、ガダルカナル、フィリピン諸島、インドネシア等太平洋戦争時の激戦地帯を指す造語なのだろう。いまだに収集が終わっていない遺骨が何万と眠る風光明媚な南洋の島々、母や妻や子の名前を叫んで逝った無名兵卒の最期を想像すれば、鬼が泣くのは自然な感情で作家の反戦への思いが込められている言葉だ。
「火炎樹の花」はハイビスカスやブーゲンビリアなどと同じように熱帯を代表する燃えるような赤い花である。この花が地面に散っている何気ない風景写真が「火炎樹の花」という作品である。
写真家はガダルカナル島を訪問した際に猟犬の視覚で象徴主義的撮像へと見事に結晶させている。
因みにガダルカナルの戦死者数は3万以上の将兵が戦って餓えと病死を含む死者が2万1千人だそうだ。これはちょうど今回の東日本大震災によって亡くったり不明になった方の総数に匹敵する数である。一つの島でこれだけの人数が散っていったことへの痛恨をこめて写真家はレクイエム的にこの血染めの花に喩えられる花の散乱を描写している。
自分は戦後間もない日本中が一億総貧乏時代のさ中に生まれた。母は自分が生まれる前に先夫がいて、その夫とのあいだに自分にとっては異父兄にあたる男子を昭和18年に産んでいる。
その夫は空母「赤城」の兵士でこの航空母艦はミッドウエイ海域で米軍との交戦によって撃沈されて戦死したそうだ。未入籍だった母は乳児を育てながら戦後すぐに自分の父と結婚した。その乳児は不憫に思った母の姉が養子にひきとった。幼少時に従兄弟と思っていてよく遊びに行っていたのが、実は兄と知ったのはかなり後のことである。
太平洋戦争が始まったのが昭和16年、「赤城」が撃沈された頃は日本の生産力を含めた国力が米国に比べて劣っていたのは明らかだったらしい。それを承知で近代民主主義の薫陶を経ない軍部、翼賛政治党派(いまでいう自民・民主)、大本営丸のみメディアが一丸となって昭和20年の8月までズルズルと弱い立場の国民を引きずって招いた結末が先の敗戦である。
世間では懲りないプチ愛国主義(実はグローバル化大歓迎の実利保守主義者)が跋扈し始めて久しい。
江成常夫の藝術至上主義の細緻な視線と厳格主義、心根にたたえているヒューマニズム、こうした感性が齎す爪の垢でも煎じれば、自分もまだまだ田原総一郎みたいなおかっぴきに思想善導されるTV世論迎合型の類型的日本人にはなりそうもないと、終戦記念日を前にした感慨を抱いているところだ。
66年前に終わったはずの戦争のいまなお人々に残している禍根!これをまっすぐに見据えてきちんと本格仕事を重ねてきた写真家の仕事が一望できるのだ。写真の展示は先の大戦に絡んだ「ヒロシマ」「「ナガサキ」「満州」などブロックごとに仕分けされていて、「太平洋」を象徴する戦争遺跡を訪問して撮った写真群に「鬼哭の島」というタイトルがついている。
「鬼哭の島」とは硫黄島、サイパン、ガダルカナル、フィリピン諸島、インドネシア等太平洋戦争時の激戦地帯を指す造語なのだろう。いまだに収集が終わっていない遺骨が何万と眠る風光明媚な南洋の島々、母や妻や子の名前を叫んで逝った無名兵卒の最期を想像すれば、鬼が泣くのは自然な感情で作家の反戦への思いが込められている言葉だ。
「火炎樹の花」はハイビスカスやブーゲンビリアなどと同じように熱帯を代表する燃えるような赤い花である。この花が地面に散っている何気ない風景写真が「火炎樹の花」という作品である。
写真家はガダルカナル島を訪問した際に猟犬の視覚で象徴主義的撮像へと見事に結晶させている。
因みにガダルカナルの戦死者数は3万以上の将兵が戦って餓えと病死を含む死者が2万1千人だそうだ。これはちょうど今回の東日本大震災によって亡くったり不明になった方の総数に匹敵する数である。一つの島でこれだけの人数が散っていったことへの痛恨をこめて写真家はレクイエム的にこの血染めの花に喩えられる花の散乱を描写している。
自分は戦後間もない日本中が一億総貧乏時代のさ中に生まれた。母は自分が生まれる前に先夫がいて、その夫とのあいだに自分にとっては異父兄にあたる男子を昭和18年に産んでいる。
その夫は空母「赤城」の兵士でこの航空母艦はミッドウエイ海域で米軍との交戦によって撃沈されて戦死したそうだ。未入籍だった母は乳児を育てながら戦後すぐに自分の父と結婚した。その乳児は不憫に思った母の姉が養子にひきとった。幼少時に従兄弟と思っていてよく遊びに行っていたのが、実は兄と知ったのはかなり後のことである。
太平洋戦争が始まったのが昭和16年、「赤城」が撃沈された頃は日本の生産力を含めた国力が米国に比べて劣っていたのは明らかだったらしい。それを承知で近代民主主義の薫陶を経ない軍部、翼賛政治党派(いまでいう自民・民主)、大本営丸のみメディアが一丸となって昭和20年の8月までズルズルと弱い立場の国民を引きずって招いた結末が先の敗戦である。
世間では懲りないプチ愛国主義(実はグローバル化大歓迎の実利保守主義者)が跋扈し始めて久しい。
江成常夫の藝術至上主義の細緻な視線と厳格主義、心根にたたえているヒューマニズム、こうした感性が齎す爪の垢でも煎じれば、自分もまだまだ田原総一郎みたいなおかっぴきに思想善導されるTV世論迎合型の類型的日本人にはなりそうもないと、終戦記念日を前にした感慨を抱いているところだ。