会社の清算後始末がだらしなくて若僧の管財人にとっちめられながらもようやく開放された。数年間に及んだしこりがようやく融解しはじめてうす曇といった心境になっている。アルバイト風仕事の隙間で頻繁に散歩兼用逃避を繰り返しながら鬱屈を発散してきた自分がいる。やれやれという気持ちにはなっても巻き返すという資本主義的な内圧はもう高まってこない。荷風散人を真似して暇があればほっつき歩くことを是としたい気分になってきた。横浜、八王子、上野、根津、神田、などは昔ながらの好みのポイントでついつい足が向いてしまっている。昨日も古書漁りをかねて半蔵門から千鳥が淵を歩いて九段下経由の神保町というコースへ出かける。東京における初冬の凪ぎ日を満喫するにもふさわしい場所だ。
時間の余裕もあって古書はよいものにめぐりあえた。古書会館内の一階に露店を出している文献書院の特価在庫がよかった。改定版井伏鱒二「厄除け詩集」(昭和52年筑摩書房)、石上玄一郎「発作」(昭和32年中央公論社)等の初版が混じっていて入手する。「発作」所収の「春の祭典」は後年の昭和52年冬樹社版「精神病学教室」にも重複しているが悔いが残らない買い物である。表題作の「発作」は戦前の非合法左翼農民運動で特高警察に検挙された石上玄一郎の実体験が題材になっている。逃亡、検挙、虜囚記、転向という暗い時代の「内的時間意識」が浜口陽三や駒井哲郎の銅版画を彷彿とさせる硬い筆致で描かれている。ちょうど体験的には「死霊」の埴谷雄高と実体験が重なっていることに気がついた。埴谷雄高が獄中、転向の過程で極度な思考の抽象を実験化した結実が日本社会では稀な「死霊」の難解を生んでいる。これに対して石上の「発作」はほどよい抽象と物語の中和というものが図られている。しかし風俗的事象は潔く排除している為に埴谷同様の存在論的非風化を獲得している。こういう暗い光りを発する原石のような作品を慈しむ気持ちは捨てたくないものといつも思っている。