大久保さんと知り合ったのは、やはり横浜市内の古本屋がきっかけである。藤棚商店街には「一心堂」と「文林堂」という古本屋があった。「一心堂」の方は神保町、早稲田界隈や都内の古本屋にも劣らない品揃えの風格があった。店主は前掛け、下駄、はたきを必携するスタイルで、きっと小僧さん時代から鍛え抜かれた流儀と気概みたいなものがいつも漂っていた。
自分が店番のアルバイトを頼まれたのは「文林堂」の方だった。藤棚商店街が今みたいに衰退していない頃だが、その中でも一番活況がない店舗だった。当時は野毛、吉田町、伊勢佐木町、白楽、鎌倉のような町には、それなりの古本屋を見かけたもので、新刊本を漁るよりも面白い青春の懊悩の捌け口としての古本取得趣味が芽生えた時期でもある。
店主の山田さんは品揃えには全く関心がなかった。貧弱な漫画類、中間雑誌の類ばかりで、アルバイトをしているという誇りも湧かない店番だが、読書に傾注できる時間が救いだった。山田さんは店舗は開けているが、店番は薄給なアルバイトに任せて、自分は買取営業に出歩いていた。纏まった蔵書を処分する話を聞きつけると、訪問して査定する。話が纏まれば買付けをする。買い取ってきた蔵書を古書市場に運んで競りにかけてマージンを稼ぐという営業である。
山田さんの縁故頼りの営業が上手くいっていたか否かは、青二才の自分には見えなかったが、万年着の背広の色褪せ具合は生活の不如意を物語っているようだった。それでも有名な学者のお宅から引き取ってきた宮沢賢治の「春と修羅」の初版本を手に取っている時の喜び顔は、今でも浮かんでくる。市場における競りが上手くいったのか?結果を尋ねるという機知は自分の中にはなかったが。
当時の大久保さんは大学図書館に司書として復職していた。その前は著名な現代詩人谷川雁の弟さんが采配していたエディタースクールに勤務。その前は目黒通りの「油面」近くで、「一休書房」という古本屋を開いていたと聞いている。その大久保さんが勤務を終えてから資料集めを兼ねてよく立ち寄る古本屋が、六角橋にあった「篠原書店」「小山書店」であり、巡回コースの中に上記の「一心堂」があって「文林堂」はおまけみたいなものだったと推測される。文林堂の山田さんに紹介されて知り合った大久保さんによって、自分の古本趣味は地平が広がることになった。(続く)