9.最初の原因
あらゆる存在の最初の原因は、太初に世界を創造されただけでなく、創世以来、世界を自らの力で作動するように堅持する。神様は、世界を維持し、作動させ、たえずあらゆる実体を存在するようにする。
さらに、究極的原因者である神様は、万物の存在目的と自然的本性を規定する。これと関連し、文鮮明先生は、人間の原因者である神様が自分と似た人間を創造しだ人格的神だと教える。
いかなるものも、神様が規定した存在目的を離れて存在することはできず、あらゆるものは、神様の見えない手によってその目的に向かって動く。これはまた、神様が歴史の原因であることを意味する。
文鮮明先生は、歴史が神様の目的、すなわち一定の法則によって主導される神様の摂理によって進行し、明らかな目的を指向すると教える。世界がその摂理の目的を達成するとき、原因者である神様と結果物である人類は一つになるだろう。
①すべての存在の原因者
―宗教経典―
また、万物の種子、それは私である。アルジュナよ。動不動のもので、私なしで存在するようなものはない。いかなるものでも権威があり、栄光あり、精力あるもの、それを私の威光(光輝)の一部から生じたと理解せよ。
バガヴァッド・ギーター10.39、41(ヒンドゥー教)
私達にとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私達はこの神へ帰って行くのです。
コリントの信徒への手紙- 8.6(キリスト教)
愛情深い賢者は、その中に宇宙が一つの家庭をもつようになるあの神秘な存在を望む。全体はその中で一つになり、そこから出てくる。主は被造物たちの基本的要素である。
白ヤジュル・ヴェーダ32.8 (ヒンドゥー教)
かれこそは原始の創造をなされ、またそれを繰り返したもう方であられる。かれは、寛容者・博愛者、栄光に満ちた、至高の玉座の主であられ、かれのお望みのことを、遂行したもう。
クルアーン85.13 ~ 16(イスラーム)
絶えず彼が贈り物を分けてくれるのだから、ついにこれを受けた者は、これ以上何を求め、何を受けるというのか。森羅万象が彼から糧を受けるのだから、彼は至って厳かな主宰者。彼の命により全宇宙が運行する。ナナク曰く、彼は永遠の至福であり、永遠に満ち足りている。
アーディ・グラント・ジャプジー3、M1、p2(シーク教)
神が手を収めれば、世の中は終わるだろう。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
―み言選集―
身体の目、耳、鼻、口などはみな、生まれる前にこの世にあるすべてのことを知って生まれたのである。しかし、人間自身がすべてを知り得ようか。それらすべてを知った存在は、人間以上の全知なる存在であらざるを得ない。その存在が神様である。
(御旨の道、指導者)
神様はこの宇宙の原因的な存在です。このようなすべての作用の原因的な存在であり、このような力を注ぎ込む原因的な存在であり、方向を提示する原因的な存在であり、目的を提示する原因的な存在です。
このような存在がいるということは、不可避の結論なのです。私達はその方を人格的な神様であると言うのです。人格的な神様です。それはなぜかというと、必ず動機を中心として方向を定め、目的を提示するからです。それが一つの確実な立場なので、人格的な神様であると言うのです。ですから原因を通して方向を経て、目的の世界に出て行くのです。
(8975、1976.7.11)
神様が人間を造ったのですが、神様は第一原因的存在です。その神様が人間をどのように造ったのでしょうか。神様に似せて造ったのです。造るときに神様の形状をかたどり、その形状どおりに造りました。
それはどういうことかというと、私が神様に似ていると同時に、神様も同様だということです。私が父に似ていると同時に、父は誰に似たのでしょうか。私に似たというのです。それで答えになります。
ですから、神様を私達が模索して見てみるとき、神様はどのような方でしょうか。「私のような方だ」と言えば、(頭に)すっと入ってくるのです。
(12233、1983.5.15)
この地のすべてのものが存在するためには、存在できる原因がなければなりません。今日、私達が生きている社会、私達が過ごしているこの国、私達が見つめるこの世界も結果の位置にいるのです。
このようなすべての環境の因縁が備えられるためには、その環境が備えられ得る動機がなければならないことを、私達は否定できません。
また、一つの社会形成、一つの国家形成、一つの世界形成について見てみるとき、それを受け継いでくるのは、もちろん私達人間です。しかし、人間が形成され得る根本原因には、人間自体がなることはできません。人間は、どこまでも結果的存在の立場を避けられません。
それゆえに、私達人間が形成され得る動機と内容がなければならず、原因が必ずなければなりません。個々の人間には無限の希望があり、無限の欲望があり、無限の理想があります。結果である私達人間がこのような存在になるためには、まずそのようになれる原因がなければなりません。その原因が正に私達が言う神様だというのです。
神様は人格的な神なので、人間の全体的な動機であり原因です。その原因である神様がそのような内容を備えていらっしゃるので、結果である人間もそのような内容を備えざるを得ないのです。
したがって、原因である神様と結果的な人間が、互いに切っても切れない一つの帰結点が、人間世界を中心として現れなければなりません。これが人間を尋ね求めてきた神様の希望なのです。
(28282 ~ 283、1970.2.11)
②歴史の背後の原因者
―宗教経典―
思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。
私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる。
イザヤ書46、9 ~ 11(キリスト教)
その日われは、書いた書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造し始めたように、ふたたび繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。
われはモーゼに訓戒を与えた後、詩編の中に、まことにこの大地は、わしの正しいしもべが継ぐであろう」と、しるした。
クルアーン21.104 ~ 105 (イスラーム)
私が証するが、あなたがあらゆる被造物の主になり、見えるもの、見えないもののすべての存在の教育者であられます。私が証するが、あなたの能力が宇宙全体を網羅し、地の群れが決してあなたを失望させることはできず、万民と国の主権が、あなたがあなたの目的を成し遂げるにおいて妨害になり得ません。
私は、あなたが全世界の刷新と全世界の民の統一、そしてそこに暮らすあらゆる人の救い以外に他の欲望をもっていないことを認めます。
バハオラ落穂集115 (バハイ教)
―み言選集―
世界のあらゆる宗教は、宇宙の根本原因を創造主、あるいは神様という方を第一原因として認めるところから出発します。そのような神様がいらっしゃるなら、その神様は善であられ、永遠、不変であられ、唯一であられ、絶対的な方でなければなりません。
神様がこの世の中をつくられたのなら、そこには必ず創造目的が先行したでしょう。そして、その創造目的もやはり永遠、不変、唯一、絶対的でなければなりません。
(10024、1978.10.19)
人間自体を論じるとき、人間はどこまでも結果的な存在であって、根源的な存在ではありません。私は第一原因的存在だと主張する人は、一人もいません。原因は分かりませんが、結果的な存在として生まれました。
人とは何かという問題を考えるとき、結果的に生まれた人には、人になれるようになった動機があることは間違いないので、第一原因的存在として提示するその誰かがいなければなりません。
ですから、神様に対する問題について、私に対するはっきりした答え、神様に対するはっきりした答えを下すことができなけれなりません。
そのような基盤の上においてのみ、私個人の人生観が設定され、家庭がどのように生きていき、社会がどのように生きていき、国家がどのように生きていき、世界がどのようになるのか、これからこの世界の終末がどのようになるのかの方向を設定できるのです。それは私だけの方向ではありません。
(141234、1986.2.26)
流れていく歴史の中のすべてのことが、あなたの摂理と関係なくなされることはございません。
(14062、1986.2.1)
歴史の方向は悪に向かっていくように思われますが、そうではありません。人間が自分の心を中心として体を抑制し、新しい覚悟と新しい決心で進むべき方向を選ぶように、歴史も、歴史自体で指向するのではありません。
ある一時と時期、世紀を、歴史の背後にいらっしゃる神様が干渉し、支配する過程を経てきているという事実を知らなければなりません。
(4191、1958.4.20)
神様は永遠の存在でいらっしゃるので、過去、現在、未来を通して摂理してこられます。ですから、神様の歴史的な心情の曲折は時代を通じ、時代的な曲折は未来を通して連結されるのです。
(16253、1966.6.19)
10.神様の善
あらゆる宗教の経典は、神様の善を賛美する。その中の大部分は人格的な用語で絶対者の善を描写する。神様は、慈悲深く、愛が深く、美しく、恩恵に満ち、同情心に厚く、信実である。
ところで、絶対的善の基準は(人間の)日常的な善の基準を超越する。偏頗的でなく、普遍的で、すべてのものを抱く神様の善は(人間の)善悪に関係なく、あらゆる人々に及ぶ。
それゆえ、神様の善は、あらゆる所を等しく照らす太陽と、どこにでも降る雨の有り難さに比喩さ
れる。創造の多様性と豊富さは、神様の善に対するまた一つの証である。善の真ん中にとどまることを願いながら、善の神様は自然や人間の心の中、すべてのものに善を広げられる。
①人間に対する神様の善
―宗教経典―
主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
詩編145.8 ~ 9(キリスト教)
神は親切であり、親切な者を愛する。
神は清く、清い者を愛する。
神は寛大であり、寛大な者を愛する。
ハディース914.2 (イスラーム)
このヴィシュヌは、この大地を跨(また)ぎ越えたり、〔人間の〕領土となさんがため、人間を満足せしめつつ。彼の人民は、微力の者〔すら〕、安固たり。よき出生をもたらす彼は、広き住所を作れり。
リグ・ヴェーダ7.100.4 (ヒンドゥー教)
かれは、私をつくられた方で、私を導きたまい、私に食料を支給し、また飲料を授けたもう方、また病のとき、かれは、私をいやしたもう。私を死なせ、それからふたたび生かしたもう方、審判の日には、私の罪過を許したもうよう、こい願う方であられる。
クルアーン26.78 ~ 82(イスラーム)
常に彼は創造万物を大切に思われ、あらゆるものの繁栄を図る。主よ! あなたの恩寵は実に尊く、あなたの寛大さは果てしない。
アーディ・グラント、キールタン・ソーヒラーM.1、P.12 (シーク教)
われは、かれに道を示した、かれが感謝するか忘恩であるか(はかれの意志いかんによる)。
クルアーン76.3(イスラーム)
自然の道にえこひいきはない。それはつねに善人の側につく。(注23)
道徳経79(道教)
「道」はあらゆるものの底に隠されている。立派な人はそれを尊重し、価値なき人はそれによって護られるものである。
道徳経62(道教)
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせでくださるからである。
マタイによる福音書5.45 (キリスト教)
私は肉体的存在ではない。
宇宙的慈悲が私の聖なる体である。
私の力は、肉体にあるのではなく公正さにある。
私には知恵が与えるもの以上の
いかなる宗教的透視力もない。
私には平穏な幸福感の成就以上の
奇跡はない。
私には寛容の実践以外に
そのいかなる法則もない。
住吉神社の神託(神道)
神もまた、それが善い者である以上は、けっして多くの人たちが語っているようにあらゆるものの原因なのではなく、人間にとってわずかな事柄の原因ではあるが、多くの事柄については責任がない(原因ではない)ということになる。
プラトン国家2(ヘレニズム)
―み言選集―
神様は、喜怒哀楽の父母を身代わりする方になれます。私が悲しむとき、慰労の場を用意してくれ、私が困難なとき、私を保護してくれる主人の位置に立っている方です。神様は愛を中心として見るとき、歴史以来、お一人しかいない絶対的な父母なのです。真の愛を中心として、絶対的な父母の位置に立っている方が神様です。
(203228、1990.6.26)
神様がいくら永遠であられるとしても、その位置から下りたり、世の中と天地に損害を与えるなら、そのような神様は、私達人間が願う永遠の存在になれません。
過去、現在、未来を通して永遠であられる神様は、私達人類、あるいは被造世界に必要で、適切で、価値ある内容をいつでも補給してくれる立場で永遠であられるのです。
ですから、神様は、過去にも必要だったのであり、現在にも必要であり、未来にも必要だということを知らなければなりません。もしそのような内容が私達になければ、永遠の神様は私達と何の関係もないのです。
(22317、1969.5.11)
神様の創造目的は喜びです。喜びを享受しようと人間と世の中を造られました。ところが、その喜びはひとりで感じることはできません。喜びを享受しようとすれば、必ず対象、あるいは相対が必要です。
主体と対象が互いに相対基準を成して授け受けするとき、初めて喜びを感じられるのです。そして、最高の喜びは、愛を授け受けするときに感じることができます。それで神様は、私達人間を対象として造られ、その対象と共に無限の愛を授け受けされながら、永遠に喜びを享受しようとされたのです。それがすなわち創造目的だったのです。
(100241、1978.10.19)
私達個人はもちろん、地上に暮らしている数多くの人間たちの中に、善であることを願わない人はいないことを、私達はよく知っています。今まで歴史の方向も、善を指向してきたのであり、教育者たちや信仰者たちも、善の基準を立てるために努力し、闘ってきたことをよく知っています。
ですから、生まれるのも善のために生まれなければならず、生きるのも善のために生きなければならず、死ぬのも善のために死ななければならないのが人生の目的です。人生の目的だけでなく、人間生活をつづってきた歴史の目的だということを、私達は否定できません。
(2413、1969.6.22)
堕落した私達人間は、どのように再び善であられる神様のところに行くことができるのでしょうか。まず良心を通して、本体の善に似ていかなければなりません。
次には、神様のみ言に従って行動し、神様の本体の善と、み言の価値を現さなければなりません。そのようになるとき、神様は被造万物をつくられた善の理想である喜びを取り戻されるのであり、善の目的を指向してきた人間たちも、神様の善の価値を感じる善の実体になるのです。
(2321、1957.7.21)
天の国の理想的人間は、どのような人間でしょうか。その門からどろぼうが入っていっても、誰が入っていっても、好きなように通ることができる人でなければなりません。神様は、そのようにしていらっしゃいます。
世界のありとあらゆる殺人強盗でも、その門を出たり入ったりするのをほうっておくのです。どろぼうが暮らしていても、神様の所有、神様の版図圏内にいるということです。それは自分の所有圏内にいるのです。物品をもっていっても、それは自分の所有圏内で移動しているものと考えるのです。これを見るとき、天国に壁があり、鍵をかけるでしょうか。そうではありません。
(224328 ~ 329、1991.12.29)
②被造物に顕示された神様の善
―宗教経典―
かれは層また層に、七天をつくりたまえる方である。仁慈者の創造には、いささかの不調和もないことを見るであろう。それで改めて観察せよ。なんじは、何か欠陥を見るか。それでいま一度、目をあげて見よ、なんじの視力は、ぼんやり疲れはてて、己れに返るであろう
クルアーン67.3 ~ 4(イスラーム)
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
創世記1.31 (キリスト教)
世界は庭園、主はこれを育てる庭師、すべてを大切にし、そこつがない。
アーディ・グラント・マージュ、アシュタパディー
. M.3、P.118 (シーク教)
稔りゆたか黍も z(いね)も
高ぐ積みあげし米倉
萬十萬さらに千萬
酒に作り甘酒に作り
み祖に烝めまつる
お祭りの限りをつくし
神のみ恵みあまねし
詩経、279 豊年(儒教)
かれこそは、なんじらのために天から雨を降らす方で、それによってなんじらは飲み、木は成長し、それによって牧畜する。かれはそれでなんじらのために、穀類・オリーブ・ナッメヤシ・ブドウその他各種の果物を生産したもう。まことにこの中には、思慮深い者への種々のしるしがある。
かれは夜と昼、日と月をなんじらのために奉仕させたもう。群星もかれの命令に服従している。まことにこの中には、理解ある者への種々のしるしがあり、またかれがなんじらのために、地上に繁殖されるよろずの物を、多様の色彩と性質になしたもう。まことにその中には、感謝して訓戒を受け入れる者への一つのしるしがある。
かれこそは、海洋を人間に使役させたもう方で、それによってなんじらは鮮魚を食べ、また服飾に用いられるものをそれからとり、またかれの恵みを求めるために、なんじらはその中に波を切って進む船を見る、おそらくなんじらは感謝するであろう。……
なんじらは、たとえ神の恩恵を数えても、到底数え尽くすことはできない。まことに神は、寛容者・慈善者であられる。
クルアーン16.10 ~ 18(イスラーム)
大いなる「道」はすべて普及する。そして、あちらへ、こちらへと行く。万物はそこにとどまり、成長する。そして、それから閉め出されるものは何もない。仕事を完成しても功績を求めない。万物を養っても支配することはない。意図をもたないから小さなものと呼ばれ、万物がそれに向かっていても、それらを所有しないから、大いなるものと呼ばれる。だから、賢人は偉大になろうとしない。ここから、その偉大さが達成されるのである。
道徳経34(道教)
無始以来、存在してきた悟りと涅槃の清浄な統一の根本原因は、統合する慈悲の原理、清浄さ、調和、相似、律動、永遠さ、そして平和の統一の原理である。それ自身の本性、光輝の中にあるこの原理を吸収することで、その統一の精神はあらゆる多様な条件の中で発見され、進展し、また実現される。
首楞厳経(仏教)
それでは、生成する事物すべてと、この宇宙万有との構築者がいったいどのような原因によって、これを構築したのかということを話しましょう。
構築者はすぐれた善きものでした。ところが、およそ善きものには、何事についても、どんな場合にも、物惜しみする嫉妬心は少しも起こらないものです。そこで、このような嫉妬心とは無縁でしたから、構築者は、すべてのものができるだけ、構築者自身によく似たものになることを望んだのでした。
まさにこれこそ、生成界と宇宙との最も決定的な始めだとすることを、賢者たちから受け入れるなら、それが一番正当な受け入れ方でしょう。すなわち、神は、すべてが善きものであることを、そして、できるだけ、劣悪なものは一つもないことを望み、こうして、可視的なもののすべてを受け取ったのですが、それはじっとしてはいないで、調子外れに無秩序に動いていましたから、それを、その無秩序な状態から秩序へと導きました。
それは、秩序のほうが無秩序よりも、あらゆる点
てより善いと考えたからです。ところで、最も善きものには、最も立派なこと以外に他のことをするのが許されないのは、かつてもいまも変わりのないことです。
だから神は、推理の結果、次のようなことを発見しました。すなわち、本性上可視的であるような事物のうち、どんなものも、それぞれ全体として考えられる場合には、理性なきもののほうが理性あるものよりも、すぐれて立派なものとなることはないだろう。ところがまた、理性は魂を離れては、何ものにも宿ることはできないということです。
そこでこの推理の故に神は、理性を魂のうちに魂を身体のうちに結びつけて、この万有の造作をまとめ上げましたが、それは、本性上最も立派で最も善き作品を完成したことになるようにということだったのです。
さて、このようにして、かのありそうな言論に従えば、こう言わなくてはなりません。この宇宙は、神の先々への配慮によって、真実、魂を備え理性を備えた生きものとして生まれたのである、と。
プラトン・ティマイオス(ヘレニズム)
―み言選集―
神様が誰かといえば、真の愛を中心として根だというのです。根は、トランク(注:幹)を通して芽と通じるのです。そして、枝は東西南北に伸びます。東西南北に伸びれば伸びるほど、芽も育ち、幹も育ち、根も育つのです。
それで、神様は、私達人間世界に、真の愛を中心とした縦的なお父様だということを発見できます。縦的な真の愛を中心とした父が創造主であられるのです。
(203352、1990.6.28)
すべての存在は、小さなものは大きなもののために、大きなものはもっと大きなもののために生きるようになっています。このように見るとき、弱肉強食という言葉は、チャールズ・ダーウィンが、「種の起源」で語ったそのような話ではありません。
本来、そのようになっているのです。宇宙を造った主人が人のために造ったので、人は何を食べても罪ではないのです。
(217 ~ 204、1991.6.1)
神様は、知恵の王であられ、全能のお方なので、人類世界の真の愛と真の幸福と真の平和と真の理想を、主体と対象関係の中で、主体を中心とした方向にその起源を決定するか、そうでなければ客体を中心とした立場にその起源を定めるか、どちらかにしなければなりません。
神様が、その永遠の理想世界を望まれながら、それを決定しなければならないというのです。もし神様を中心として主体だけのために生きるものになれば、また、そのような伝統的な基準を人間がつくりあげたとしても、そして、すべてのものが自分を中心として奉仕しなければならないとすれば、そこでは大変なことになるのです。
そのような所では、一つであるとか、統一という問題、あるいは融合や発展という原則を充足させられません。
ですから、主体を中心に客体が侍るのではなく、神様御自身において、客体を中心にして神様自体が存在するという立場をとらざるを得ないという事実を、私達は理解するようになるのです。
そのようになれば、すべてのものが一つになります。すべてのものが発展の原則に従うようになるので、全知全能であられる神様は、この平和と幸福、理想と愛の本源の基準を、「ために存在する」というところに定めざるを得なかったというのです。
(7214、1974.5.7)
11.神聖な愛と慈悲
神様の属性の中で、愛は最も魅力的で、感服せざるを得ない属性である。大部分の人たちは、神様の愛と慰労と恩寵を感じる神秘な経験を契機として神様を信じる。
さらには、心の真ん中に疑心をもっていても、神様の愛は心を動かし、信仰が生じるようにする。創造者の愛によって、この被造世界は生命を維持し、保護される慈悲に満ちた世界になる。善の創造は、実に善の愛の表現である。
愛は神様の本質である。いや、愛は神様の本質それ以上である。文鮮明先生の教えのように、愛は神様の創造の動機それ自体である。それこそが神様の「創造理由」である。
愛はまた、神様が数多くの苦難の道を通して救援摂理歴史を追求してきた理由でもある。愛は、はるか前に道を失い、聖霊の慈悲深い呼びかけに耳がふさがった私達、無知な人間たちに対して忍耐し、赦す神様を教えてくれる。耳が遠く、目の見えない私達であるにもかかわらず、神様は、私達を懐に抱いて前に進むように導く摂理を決してやめない。
①愛:神様の本質
―宗教経典―
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネの手紙一4.16 (キリスト教)
われの慈悲は、よろずのものを包容する。
クルアーン7.156(イスラーム)
信愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
バガヴァッド・ギーター18.55 (ヒンドゥー教)
大悲は菩薩の生処である。
華厳経、入法界品(仏教)
主よ! あなたは懇請の有無と無関係な救世者であり、理由なく慈悲を施す方であり、祈りがないときも喜んで聞いてくださる方であり、関係がないときも温かい友であられます。
ヴィータラーガ・ストゥティ13.1 (ジャイナ教)
露(あらわ)にして、しかも幽(かく)れ、玄洞(心臓)の内に逍遙するものと称(よ)ばれる所の偉大なる天地の基底、その内にぞ、ありとあらゆる蠢(うごめ)くもの、息づくもの、瞬くものは収められてあるなれ。
汝等がこの有体にして無体なる善美なるもの、智慧才覚を超えたる、生類中の最勝のものとして知れるもの、光輝あるもの、微なるよりも微なるもの、諸々の世界(果報)と世界を得し輩とがその根基とせるもの、これぞこの不滅なるものなり、梵なり、生気なり、はた語なり、意なり。これこそこの真実なるもの、不死なるもの、射抜くぺきものなれ。友よ、これを射抜けよ。
ムンダカ・ウパニシャッド2.2.1 ~ 2(ヒンドゥー教)
カーマは最初に生まれたり。神々は彼に達せざりき、父祖たちも、また人間も。これらより汝は常に偉大にして勝れたり。いかほど広く天地が〔拡がるとも〕、いかほど水が流るるとも、いかほど火が〔燃ゆるとも〕、これらより汝は常に偉大にして勝れたり。……
吉祥にして幸運に富む汝の形態、カーマよ、それにより汝の選ぶところの実現する〔形態〕、それにより汝はわれらに入れ。禍々(まがまが)しき思想は他の所に送りやれ。
アタルヴァ・ヴェーダ9.2.19 ~ 25(ヒンドゥー教)
善男子、慈は即ち大梵、大梵は即ち慈、慈は即ち如来なり。善男子、慈とは能く一切衆生の為に父母と作る。父母は即ち慈、慈は即ち如来なり。
善男子、慈とは乃ち是不可思議諸仏の境界なり。不可思議諸仏の境界は即ち是慈なり。當に知るべし、慈とは即ち是如来なり。
善男子、慈とは即ち是衆生の仏性なり。是の如きの仏性は久しく煩悩に覆蔽せらる。故に衆生をして覩見することを得ざらしむ。仏性は即ち慈、慈は即ち如来なり。(注24)大般涅槃経259 (仏教)
法(達磨)の雄牛は慈悲の所産であり、心の満足が創造を抱きかかえる。(注25)これを知る者は誰もが悟りを得るがゆえに雄牛の背に載せられた荷の重さは実に驚くべきものだ。
アーディ・グラント、ジャプジー16 M.1、p.3 (シーク教)
おお人の子よ! わが太古よりの存在と、わが本質の不変の永遠性に包まれて、われ汝への愛を知った。さればこそ、われ汝を創った。汝の上にわが面影を刻み、汝にわが美を表わした。
バハオラ隠されたる言葉3(バハイ教)
―み言選集―
愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。
(298304、1999.1.17)
神様はどのような方でしょうか。情緒的な問題を中心として見るとき、神様は愛の母体です。愛の母体なのです。ここから父母の愛がわき出てきたのであり、子女の愛がわき出てきたのであり、兄弟の愛がわき出てきたのであり、親族の愛、民族の愛がわき出てきました。
愛の分岐というものは、根幹から伸びていく枝や葉のように、波が波打って出ていくのと同じように、遠い所に行けば行くほどだんだんと感度の差が出てくるのです。
(50267、1971.11.08)
神様は、愛の神様です。パウロは「他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできないのです」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで私達は、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
(24325、1969.9.14)
心情というものはいったい何でしょうか。これは神様の完全な愛の根本を意味するのです。あらゆる創造はそこからわき出てきました。あらゆる理想もそこからわき出てきたのです。あらゆるものの完全な根本を意味するのです。あらゆる完全完成はそこからわき出てくるというのです。それを離れて完全と完成はあり得ません。
(82292、1976.2.1)
神様は心情の主体であられます。ですから、神様も無限に喜びの心情をもっていらっしゃり、無限に悲しみの心情ももっていらっしゃいます。神様だからといって、喜んでうれしい感情ばかりもっていらっしゃるのではありません。
悲しければ、人間たちが到達できないほど深く、広い悲しみの心情をもっていらっしゃる方です。
(1189、1961.2.12)
神様はなぜ生まれたのかという時、それは愛のために生まれたというのです。愛の神様になるというのです。そして神様の愛になるのです。
それゆえに、神様は愛のために生まれたという論理を知らなければなりません。神様は、愛のために生まれたのです。愛のために生まれて生きる神様は、愛のために生きるのです。神様のために生きるのではありません。愛のために生きるのです。すべての万物も愛のために生まれたので、愛の世界には自分のために生きるという概念はないのです。
(303287、1999.9.9)
神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。
この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくれます。黄金ですか。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。
神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的な神様ならば、口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的な神様ならばです。
(14231、1986.3.3)
愛の本体であられる神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りでは成立しないものです。したがって、神様が絶対に必要とした唯一のものは、愛を施せる対象、すなわち神様が愛し得る対象なのです。
必ず相対がいてこそ愛せます。愛と心情の本体であられる神様は、愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第1章27 節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。したがって、万民において神様は永遠な無形の内的父母であり、完成したアダムとエバは永遠な有形の外的父母になるのです。
(13511、1985.8.20)
神様が必要としたものが愛だとすれば、神様が愛するにおいて、神様に似たものと愛するでしょうか、神様と似ていない動物と愛するでしょうか。似たものと愛するのです。ですから、神様はどうなのですか。神様が喜ぶことができ、愛を分かち合うことのできる相対的なものを必要とするのです。ですから、人間がそのような相対であれば、人間を中心として見るとき、神様は人格的な神様でなければならないという結論が出てきます。
そうして、そのすべての要素が100 パーセント和合しなければなりません。心と体の素性において、すべてが、和合できる神様でなければなりません。ですから、知情意をもった神様でなければならないのです。
(162274、1987.4.17)
愛は神様から始まるのではありません。相対から見いだされるのです。相対がいなければ探しだすことはできません。ですから、神様が最高の貴いものを成就させるためには、相対が必要なのです。
神様も相対がいなければならないのです。それで相対を造られたのです。神様御自身も相対から絶対的な愛を成し遂げることができるように相対を訪ねていきます。
ですから、神様も愛のためにいるというのです。
神様も人のためにいて、人は神様のためにいるのです。それで真の愛というものは、ために生きるところから始まります。
本来、人間はどこから生まれたのでしょうか。神様の愛から始まったのです。愛ゆえに生まれました。愛が起源なのです。
私達人間が受け継いだ生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が出てきたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして人間の生命が流れてきたというのです。それで愛で生まれ、愛で育ち、愛の相対に出会わなければなりません。
神様が1代ならば、2代でも、それと同じように立たなければなりません。神様が自分の息子、娘を愛するように、その愛を体恤できる立場に立ってこそ、神様の前に完全な愛の相対になれるのです。
(143310、1986.3.21)
②神聖な慈悲
―宗教経典―
神は最もよくかれを守りたもう、かれこそは、慈悲者中の最大の慈悲者であられる。
クルアーン12.64 (イスラーム)
神は、そのしもべに対して、仁愛であられ、み心にかなう者を給養したもう。
クルアーン42.19 (イスラーム)
私達が誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。
テモテヘの手紙二2.13 (キリスト教)
自分が聞いた侮辱を、神よりよく忍耐する者がいない。
ハディース(イスラーム)
神は尻尾のない雄牛のためにはえを追い払ってくださる。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一103(キリスト教)
神は何人にも、その能力以上のものを負わせたまわぬ。その行なったことで己れを益し、その行なったことで己れをそこなう。
「主よ、私達がもし忘れたり、あやまちをおかすようなことがあっても、とがめないで下さい。主よ、私達以前の者に負わされたような重荷を、私達に負わさせないで下さい。主よ、私達の力で、かなわぬものを、になわせないで下さい。私達の罪障を消滅なされ、私達を許し、私達に慈悲をたれたまえ。」クルアーン2.286 (イスラーム)
―み言選集―
神様はどのような方でしょうか。絶対的にために生きようとされる方です。
(175158、1988.4.16)
神様と私達について見てみるとき、私達がいくら苦労したとしても、ただの一生、80何年、100年未満です。ですから、3万6000日です。皆さんが100歳まで生きても、3万6000日しか生きられません。3万6000日は一瞬です。
それを耐えることができませんか。神様は何万年、何億年継続してきたのです。いくら人間世界がそうでも、神様は神様なので、泰然自若としていなければなりません。
その中には千万の事情がひしめきあっていますが、泰然としていなければならないのです。もし、神様が口を開いて、その事情が通じることのできる話をすれば、千年でも万年でも痛哭できる事情があるのです。
それは神様自身のために痛哭するのでしょうか。人類のために涙を流さざるを得ない神様だということを知らなければなりません。
(12459 ~ 60 1983.1.23)
神様はどのような方でしょうか。「お前たちが私を愛しなさい!お前たちが私のために犠牲になりなさい!」、このような神様ならば、どうなるでしょうか。それは、神様ではありません。
神様が伝統を立てるためには、御自身が先に赤ん坊のおしめを取り替えてあげ、父母の下の世話をし、先に犠牲奉仕して、温柔謙遜な教育テキスト(教材)のセンターにならなければなりません。
(11690 ~ 91、1981.12.20)
神様は、すべての被造世界を自分がつくったのなら、つくったその歴史を愛するのです。どのようにつくり、どのように生まれ、どのようにしたということを愛するというのです。
そのような原則によって立てた愛を中心として偉大な愛を成したので、人間が堕落したとしても、その愛を忘れられないのではないかというのです。
そのような基準を中心としていたのに、悲惨になったものを見るとき、「ええい、この者たち!あなたたちがこれでよいのか」と言うのではなく、かえってもっとかわいそうに思うのです。ですから偉大なのです。
(115320 ~ 321、1981.11.29)
③人類を愛する神様の心情
―宗教経典―
まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアルに犠牲をささげ偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。(注26)
ホセア書11.1 ~ 4(キリスト教)
生死の険しい道に入り、苦しみは連続して断えることがない。深く五欲に執着すること、ヤク(牛)が尾を巻きこんで大事にするようである。
貪愛によって自分を覆い、盲目となってなにも見えず、偉大な力のある仏を求めず、苦を断ち切る教えを求めない。
深くもろもろの邪見に落ち入って、苦によって苦を捨てようとする。このような生ける者たちであるから、私はかれらに大悲心を起こした。
法華経2(仏教)
―み言選集―
皆さんは、自分の子供一人を教育することも大変でしょう? その子供は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。
父親が涙を流して悲しめば、共に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、教育しようとすれば、非常に難しいのではありませんか。
それを見るとき、今日、私達人間は、神様の息子、娘ではないというのです。神様がどれほど泣かれでも、見て見ないふりをします。神様がどれほど悲しまれても、見て見ないふりをするのです。
これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しまれるのを見て、褒めたたえるのです。滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神様は、このような人間を指導し、彼らに開拓の方向を教えてあげようと、どれほど苦労してこられたでしょうか。
しかし、1から100、1000、万までために生きようとする心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、今まで神様が摂理歴史を抱き抱えてくることがおできになっただろうかというのです。
(42257、1971.3.21)
神様は、アダムとエバをつかんで復帰摂理を始めざるを得ませんでした。そうしてカインとアベルを選ばれ、ノアを選ばれ、また、そのほかの大勢の家庭を選び立てられて、復帰摂理をしてこられたのです。
このような摂理歴史を導いてこられた神様の心情は、とても言い表すことのできない切ない心情だったのです。しかし、そのような心情を抑制しながら、きょう、この時間まで耐え抜いてこられました。
それでは、神様が今まで耐え抜いてこられたその切ない心情を感じ、神様にしがみついて涙を流す人が、今日のこの地上に何人くらいいるでしょうか。
この地上にこのような神様の心情を知って涙する人がいれば、その人は、神様が天地万物を創造されるときに喜びがあった反面、人間の堕落による神様の悲しみが全天地、万物を覆ったという事実を知ることができるでしょう。
この地上に、このときまで耐え抜いてこられた神様の心情を身代わりする人、または神様の悲しみを共有して泣いてあげることができる人がいれば、神様も創造主の体面を忘れ、創造主の栄光も権勢もすべて忘れ、その人と共にとめどなく涙を流されることでしょう。このような事情に染まった神様の心情を、皆さんは知らなければなりません。
(4239、1958.5.18)
神様は4000年間人間に対してどのような心をもってこられたのでしょうか。自分のために生きようという心をもってこられませんでした。
すぐにでも死んで当然な人間であり、苦痛を受けて当然の人間でしたが、神様は人間たちに対して心を尽くす立場で忍耐の4000年の歴史路程を歩んでこられたのであり、思いを尽くして4000年間、サタンを分別する闘いの路程を歩んでこられたことを知らなければなりません。このように不変の愛の心をもって4000年間耐えてこられ、闘ってこられ、愛してこられた神様の性稟を知らなければなりません。
(178、1956.5.27)
人間が罪を犯したといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるだけの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。
悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。
皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私達の生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、6000年という歳月を訪ねてこられたのです。
(9232、1960.5.29)
お父様、私達は孤児のようにうろうろと、目的も、方向も分からず、どのような環境にいるのかさえも分からないまま、歴史の流れとともに身もだえしながら、生命の中心をつかむことができないまま、追いに追われながら今日まで来たかわいそうな姿であることを知っております。
反面、このような私達をつかんで、私達が悲しむとき、一緒に悲しまれたお父様がいらっしゃる事実も知らなかったのであり、死亡圏内に捕らわれ、呻吟する私達を取り戻すために、昼夜を意に介されずに苦労してこられた主人公がいらっしゃるという事実も知らなかったのでございます。
このような事実を知ることができ、感じることができる喜びの心情は、天と地に通じることよりも貴いということを私達が分かるようにしてください。
(5337、1959.3.8)
12.創造者
創造者として神様を扱うこの節は、世界の創造と人間の創造に対する古典的な説明を含む。ある章句はみ言による創造を描写するかと思えば、またほかの章句は、絶対者の中にある意志による創造を語る。
ある経典では、無からの宇宙創造を語るかと思えば、またほかの経典では絶対者から流出した世界、すなわち絶対者の一部の属性が虚空に流出し、形状と質量の性質を備えた世界になったと語る。
ある経典では、世界の霊魂の発現として創造の根源を語りながら霊魂がとどまる所として、その次に物質をつくったと語るのに対して、ほかの経典では、愛の創造の動機を語りながら、愛それ自体を現すために非存在から存在を分離したと説明する。(一から流出した二つの相克の相互関係による創造に関しては第2章6.「二重属性」に含まれた章句を参照)。
最後に、ヒンドゥー教と道教の経典では、神様の自分の空と犠牲の創造を描写する。このような創造の説話は、太初にどのように事物が生じたのかを説明するためだけではない。
この説話は、創造の始めから適用されていた同一の創造原理によって、今もこの世界を主管している神様の歴史を教えるためのものである。
聖書神学者である、ルドルフ・ブルトマンが語ったように、「創造説話の真の目的は、神様がそのときどきに常に役事することを教えようとしているのである」(注27)。言い換えれば、その説話は、私達に現在の自分のひととなりを指し示してくれる。
文鮮明先生自身は、神様が創造過程に投入した苦労と愛について強調する。もし私達が神様の子女たちであるのなら、創造過程で精誠と苦労を尽くした神様と同じように、私達もまた被造物として自身の潜在力を完全に実現できるよう、あらゆる精誠をすべて注がなければならない。
精神を軸として物質の創造が進行されるように、私達もまた心を中心として生きていくとき、宇宙的秩序に符合できるようになる。
神様が愛を動機として、共に喜びを感じることができる対象を求めるために世界を創造したように、私達は、神様の心情に喜びを与えることのできる愛らしい子女になるために努がしなければならない。
①太初に
―宗教経典―
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。
乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種をもつ草と、それぞれの種をもつ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種をもつ草と種をもつ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(注28)天地万物は完成された。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
創世記1.1 ~ 2.3(キリスト教)
この方こそは、幽玄界と現象界のよろずのことを、知りたもう方、偉力者・仁慈者であらせられ、かれの創造された一切を、最も善美にしたもう方であり、(注29)またかれは、土から人間の創造を始めたもう。クルアーン32.4 ~ 7(イスラーム)
「道」はすべてのものを生み出し、「徳」がそれらを養う。ものはそれぞれの性質によって形づくられ、関係ある状態がそれらを満たす。だから、あらゆるものはすべて「道」を敬い、「徳」を尊ぶ。「道」が敬われ、「徳」が自然に尊ばれるのは、誰かが命令するのではなく、自然にそうなるからである。(注30)
道徳経51(道教)
喩えば、蜘蛛が糸を吐き、またこれを収むるが如く、あるいは地上に草卉の生い茂るが如く、あるいは生ける人間より毛髪の生ずるが如く、かくの如くにごの不滅なるものより此の世にある万物は生ずるなり。
このものこそ真実在なれ。苦行によりて梵ははぐくまれ、これより食生ず。食より気、意、真実、諸世界、及び諸業における不死生ず。かの一切知者、一切明者なるものの苦行は知より成る。これよりこの梵、名色、食は生ず。
ムンダカウパニシャッド1.1.7~9(ヒンドゥー教)
聖なるその方は、天地を創造されるときまで、造ったり壊したりを反復された。そして、創造後に「見て良し」と語られた。(注31)
創世記ラッパー9.2 (ユダヤ教)
―み言選集―
本来、神様の創造というものは何でしょうか。今日のキリスト教徒たちは、「神様は全知全能でいらっしゃるので、み言でつくられた」と言うのですが、そのように何か妖術を使うようにしてつくられたと思いますか。
そうではありません。あらゆる精誠を尽くして自分の一身をすべて投入する、このようなことをせざるを得なかったのです。ですから愛するというのです。
精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができますか。私の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。
(78111、1975.5.6)
神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。
(9168、1960.5.8)
動機のない結果はあり得ません。すべてのものは動機を経て、過程を経て、結果が出てくるのです。これが自然科学の現象です。人間がそのようにつくったのではありません。天理原則がそのようになっていて、神様の法度がそのようになっているということです。
突然変異というものはありません。秩序的なものです。動機を中心として、原理原則的な過程を経て、実体的な目的体が形成される世界が創造理念世界です。
皆さん、成功する人たちは、心の固い覚悟がなくて成功しますか。心の動機を中心として環境を開拓し、変わらずにそれを押し進めていってこそ、目的地に到達するのです。
私達個人が成功するにおいてもそうであれば、大天地を創造された神様が目的を成し遂げられるときにもそうではないでしょうか。それもやはり同じなのです。
(9227、1960.5.29)
皆さんが見つめるこの被造世界、あるいはこの自然には、様々な被造物たちが存在しています。存在する万象はいかなる過程を経て創造されたのでしょうか。
それは創造主の精誠を込めた心情の過程を通してつくられたのです。いくら微々たる存在でも、神様の愛の心情を通して、神様が願われる愛の心をもった、そのような立場でつくられたことは間違いありません。
(20248、1968.7.7)
神様の創造のための精誠と投入はこの上ないものでした。自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てておき、絶対投入するものでした。被造物は、すべて神様がこのように精誠を尽くし、投入してつくった愛の対象体です。
(40081、2002.12.27)
皆さんは、愛の相対が自分より優れていることを願います。神様も、自分の愛の相対が自分よりも優れていることを願われるのです。神様が100パーセントだけをもっていて、その100パーセントを投入すれば、100パーセントのものしか出てきません。だとすれば、1000倍を願うならばどのようにしなければなりませんか。これを忘れてしまわなければなりません。1000回投入して、その1000回を忘れてしまわなければなりません。
それ以上を願い、何万倍を願うのなら、何万倍投入して忘れ、投入して忘れ、何万倍を投入しなければならないという論理が形成されるのです。
(254266、1994.2.15)
②人間の創造
―宗教経典―
主なる神は、土の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
創世記2.7(キリスト教)
それからわれは、その精滴を一つの血の魂につくり、ついでその魂から肉魂をつくり、ついでその肉魂から骨をつくり、ついで肉でその骨をおおい、それからかれを他の造化につくりあげた。最もすぐれたもう創造者、神を祝福し奉る。
クルアーン23.14 (イスラーム)
自ら宇宙を創造したが、これに引っ張られることなく、あの慈悲深い主は、また神聖な中心(人間)を造られた。空気、水、火を混ぜて肉身の要塞を造られ、(感覚の)九つの場所を一つ一つ定め、十番目の所に、量り知れない自身の居所を定められた。(注32)
あの無限な主が、無自性の空のままで力を備えられた。無限な存在であられる主は、自ら束縛されず、創造力を広げて、空から命のない存在を創造され、また風と水を生み出すようにされた。
創造を起こしたのちに主は体の要塞の中に君主としてとどまるが、主よ!(体の)火と水の中に主の光彩がある。空でできた主の根底に、見えない創造の力が敷き詰められている。
アーディ・グラント、マール・ガウラーM.1、p.1037(シーク教)
―み言選集―
人を造るために先に土で、(体を)造っておき、外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。
現在のものよりも大きいもの、無価値なものから、より価値のあるものを求めていくのです。道埋がそうです。今日、人間創造を考えると、人間を造るときに体を先に造っておいてから霊を造ったのです。
(152319、1963.8.18)
この体は、神様があらゆる精誠を尽くし、土の塊のようなものを収拾し、永遠な理念の生命体、すなわち霊人体が育つことができるように造られました。
芸術品でも、これ以上の芸術品はありません。ただ神様が、「おい、いでよ」として造られたものではありません。最大の精力を注いで造られた体です。
そこに霊人体を吹き入れ、一人の人を造られたのです。
(880、1959.11.8)
人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。
人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。
それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。
(原理講論、人類歴史の終末論1.1)
もし目がこの足のつま先にあればどうしますか。口が後ろにあればどうしますか。「どうでもよい」ではありません。秩序が重要なのです。
口は自分の位置になければなりません。なぜかというと、目でよく監視するたのです。そして、口がそこにあるとき、手が運動するのに一番よいのです。
一度考えてみることを願います。手が後ろにあればどうしますか。後ろですべて監視しようとすれば、どれほど鋭敏でなければならないか考えてみてください。
皆さんがみな好むレバレンド・ムーンでも、しかたなく「いやあ、神様は科学者だなあ。神様は素晴らしい方だよ本当に素晴らしい!」、このように言うのです。
鼻と口の間に、両側に線ができているのですが、私は東洋の人には線があり、西洋の人には線がないと思っていました。なぜここに断崖をつくったのですか。汗が流れて口に入れば大変なことになるからです。そして、口が引っ込んでいるのではなく、突き出ています。そうでなければ大変なことになるところでした。そして、鼻が逆さまになっていればどうなっていたでしょうか。雨の降る日は大変なことになります。
(104-207 ~ 208、1979.5.6)