では、この宇宙の測定で、全体を測定しうる価値基準、いちばん最初の基準が何になるか? それが問題です。金でしょうか、ダイアモンドでしょうか? それは変わらない愛、壊れない愛です。壊れるようですが、壊れません。勝手にできるようですが、勝手にできないのです。そこに自分が含まれるのです。そこに策定されるのであって、自分が策定できないのです。
この宇宙において、そのような原因中の原因になりうる度量衡や原器が何かという問に対して考えるとき、それはある測定器の原器ではなく、変わらない本来の物ではありませんでした。
神様もその標準を変更させることができず、人間も変更させることができません。永遠不変的でありながら、内外のその宝の価値を持ち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこでも昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、時空を克服して、その絶対的測定の基準になりうる、比較の基準になりうるものが何だろうか?
地球にも緯度、経度において零点基準があります。それが英国のグリニッジ天文台を中心として、零点になっています。いくら変わらせても、変わらないのです。零点に照準を合わせたその基準、緯度・経度が会うことができるその基準が、九〇度で交差していくというときに、その基準があるべではありませんか? それがなければ、秩序の世界が形成されないのです。
*
この宇宙で測定しうる永遠不変のすべての存在が比重を合わせて、その等差位置を決定したいその本来のもの、神様もそこに従うことができ、全体がそこに従わざるをえない一つの基準が何かという問題について見るときに、お金? 黄金の固まり? ダイアモンド? それは神様が創ることができます。神様が一人で勝手にできるものです。
愛も勿論神様が創ることができると見ますが、その愛を所有するということは、一人ではできません。二人、二人、二人が所有すべきです。愛は神様も一人では見出せないのです。
それゆえ、その基準、測定原器が何か? 宇宙万象の存在世界、永遠の世界で測定しうる絶対的に一つしかないその原器が何だろうか? 根本問題です。それが愛というものです。それで、愛は春夏秋冬、季節の変化に影響を受けないのです。(一三七・二三五)
*
皆さんは、距離を測る尺度があるのを知っているでしょう。もし、1センチメートル単位なら、そのモデルというものは絶対的です。それは一つしかありません。そこに比較して、同じならそれは皆正しいというのです。しかし、いくら自分がいちばんだと言っても、そのオリジナル・フォーム(original form;原型)ときっちりと比較してみるとき、合わなければ不合格者なのです。
*
また、1センチメートルは10ミリメートルです。そこから1ミリメートルというものも絶対的です。それが10であれば1センチメートルになり、100であれば10センチメートルになり、このように上がっていくのです。それでこそ、それが連結して、どこへでもそれは共通的であり、統一的な内容を持ちます。
*
では、人の世界には、そのようなものがないか? 人の世界が統一されるには、原則的な基準から体と心が闘わず、一つになったそのようなフォーム(form;形態、形)が、「こうであるべき」というフォームがあるでしょう。(一二八・七八)
*
皆さん、メートルがあれば、そのメートルが1メートル、100メートル、いくら大きくてもそれが問題ではありません。そのメートルの基本単位が何か? 1ミリメートルです。1ミリメートルはあまりにも小さいから、大概1センチメートルで言います。
*
いくら億万でも、その単位は1ミリメートルから全部合わなければなりません。これが合って、億万の数が全部きっちりと合って、一つも残らないですべてが1ミリメートルだったと言うようになるとき、それを今日我々は世界のものとして使用するのです。それは、アメリカの1ミリメートル、韓国の1ミリメートル、あるいは英国の1ミリメートル、すべてが同様です。変わりがありません。それが真理です。
*
皆さん、真理が何ですか? 真です。真が何か? それ以上基準として数えられないという、その位置に立ったものを真理と言います。ここに物理学博士も来ていますがね。物理学を勉強するには、自然世界のすべての動きを知らなければなりません。その動くものが、漠然と動きません。
*
皆さん、考えてみなさい。この地球がどれほど大きいですか? この膨大な地球が、1年に1回ずつ太陽系を巡回するのに、それが1分も差異がありません。1秒も差異がないのです。ピッタリ合うのです。それが差異があれば、大変なことになります。差異があれば、どんどん小さくなるか、どんどん大きくなるかという問題が起こるのです。そうなれば、陸地と海が全部別れるのです。
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地球の年齢は45億年として決めるではないですか? 45億年の間を動くのにおいて、異常なく公式的基準で、単位を中心とした公式基準の上に連結された運動と作動をしてきたのです。そこには何かの原理というもの、公式というもの、公理というものを中心として、測定する単位を必要とするのです。同様に、真というものが何か? 真というものは、一つにも合いますが、千万を合わせてもきっちりと合うのです。
金の中で純金を言うときは、24金です。24金は、真の金です。そうでしょう? 25金はありませんか? 26金はありませんか? それも問題です。このように見るとき、中央に立てて、均衡になりうるそのような位置を最小単位に、我々が視覚的なところにおいて最小単位として帰るとき、それに垂直的な平衡線上に合いうる…。これが垂直なら、これが平衡になるのに、このようになってはいけません。このようなものは、真ではありません。
*
それでも、24金までは、これを入れればこれが直線になるのです。そのような基準圏内に立っているために、24金が真だと言うのです。そこは垂直を持って合わせても、縦的基準の前に持って合わせても全部合うのです。宇宙的な縦の前に平行線として立ち、宇宙的な横の前にも平行線を成すのです。宇宙の大運動、大運勢、それが漠然と動くのではありません。みな法度を中心として、主体と対象関係の循環法度運動をするところは、必ず垂直です。
その垂直が、24時間変更されるものは、飛んでいってしまいます。流れていってしまうのです。壊れてしまうのです。垂直がピッタリと位置をつかんでこそ、そこで空間世界に自分の位置をつかんで存続の基盤を持つのが常なのです。このような言葉は、少し難しいでしょう。
*
同様に、我々人のはかりが何か? 人もはかりがなければならないでしょう。そうではないですか? 数学を解くには、世界的に共通の数理的基準を設定しておいたその基盤で「一つ」と言えば世界も「一つ正しい」と言い、「二つ」と言うとき「二つ」、「三つ」と言うとき「三つ」と言いながら正しいと言うでしょう。ある基準に合格した共通的な決議基盤が世界的舞台に立つようになるとき、そのようなものを真理と言うのです。真理の中には、何があるか? 真理の中には、必ず東西四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、環境が先か、真理が先か? これが問題となるのです。環境が先なのです。
*
我々人間を見るようになるときどうですか? そのような存在的な人間を中心として見るとき、真なる人間がどのような人間かというのです。縦横の標準、「縦に見ても合う。ペチャンコにならなかった。横に見ても合う」と言える、その基準にならなければならないのです。
縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後・左右・上下が差異がありません。同じです。この同じものを、どこに持っていって合わせてもきっちりと合うというのです。東でも合い、西でも合い、北でも合い、南でも合い、地上世界でも合い、霊界でも合う、というとき「真である!」というのです。
*
ところで、いくら大きくても、ミリメートルで測定してみたら、残ったものが半ミリメートルにもならなかったとしても、その全部は否定するようになります。不完全なのです。それはごみ箱に入るべきです。そのような何かがなければならないのではないですか? 測定する基準がなければならないのです。(一八〇・一四)
四)真と真の愛
皆さん、真、トゥルー(true)という言葉は何の言葉ですか? それが丸いものか、角張ったものか、平たいものか? それの定義が何か? そして、真に対する定義を下すのに、何を中心としてその定義を下すのだろうか? それが問題なのです。
皆さんが「真の人」と言うとき、その真の人はどのような人ですか? 真の人も目が二つあって、鼻があって、簡単なのです。目、鼻、口、体が皆ある人です。では、トゥルー(true)ということは、真ということは、ある一定の場所の制限を受けることを言いますか、一定の場所を超越することを言いますか?(超越することを言います)。それがどのように? 何を持って?
どうしてその制限線を超えなければならないか? それは何を言うのか? すべてを代表して測りうる内容を持たなければならないことが分かります。
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皆さん、数学なら数学では公式を言い、物理なら物理では公理を言い、定義を言うのに、その定義がどのようなものか? 公式というものは、それが小さなものですか? 公式の単位というものは、簡単なものですが、その公式的というものは、すべての物を比較できる主体性を持つべきです。それでこそ公式や単位の基準が設定されます。これを知るべきなのです。それが違えば、全体、小さい論理を策定して計算したのが、膨大な宇宙にピッタリ合わないのです。
*
メジャー(measure;尺度)のようなものを見ても、一二進法とか一〇進法のようなものなどがあります。それが小さいですが、形態は皆ピッタリ合うのです。そうでなくては、これが回っていかないのです。全体が回っていかないのです。ある部分では合いますが、全体が合わないようになるときには、これが成立しないのです。全体存在の成立が喪失されるということを知るべきです。
*
それは、人間世界も同様です。真なる人とは何でしょうか? 人間が生きていくのにおいては、スケール(scale)とメジャー(measure)のようなものがあって、力を連結させて、世界に拡大していくのです。それが全部均衡に合うように拡大するということです。
人間の人生は、人間が生きていく道にも、そのような公式的な道がなければならないという言葉が出てくるようになるのです。(一三三・九)
皆さん、今人間世界には、50億の人類が暮らしますが、この世界の地球村に暮らす人たちの先祖たちは、どれほど多く地上で生きては死んだでしょうか? それを考えてみましたか? 少なくとも現在に暮らしている人の何百倍、何千倍生きて死んだでしょう。では、その人たちの中で、人類が願う真なる人が何人いただろうか? 真なるということは、千年前も、今も、いつでも真です。
*
「純金」と言うようになれば24金でしょう? それは地形的距離や、時空に従って変わりません。どんな立場に処しても、変わらないというのです。その姿は、王の手に行っても、どんな不良の手に行っても、どんな変化無双の環境に行っても、変わりえないのです。そのようなときに、黄金色を真なる色だと言うのです。分かりますか?(はい)。
黄金色好きでしょう? 色というものが何に似ているか? 黄金色に似たのです。そうではないですか? 明るい色は、黄金色に近い色です。太陽の光も白い光ですか、黄金色が多いですか?(黄金色です)。夕焼けは、もっとそうです。
それと同じように、我々人間において、千年、万年、億万年変わりえない色を持った、そのような真なる男がいるか? これが問題です。真なる女がいるか? どう思いますか?
*
宗教界では、人間は堕落したと見ています。もちろん、背景が異なる宗教もありますが、全部救いを受けるために、価値のある新しい人間を探していっています。その言葉は、どういう意味か? 真なる本然の人間、真なる本然の人間像に及ばなかったために、それをいつも追求するのです。それは、千年前も、何億年前も、今も、今以後の人類が存続するどんな環境でも、どんな時代も問わず、それを追求するようになっています。それを知るべきです。
皆さんたちも、その真なる人を探しているのです。真なる男、真なる女を探しているのです。歴史時代に生命を持って生まれた男女たちは、自他を問わずそこに首をかけて考えるようになっています。それゆえ、部落で暮らすようになれば、その部落でいちばん進んだ真なる人になろうというのです。(一七七・一〇〇)
五)真の父母は何か
・ 二つの石板と真の父母
イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱があったでしょう? 昼に導くのが雲の柱で、夜に導くのが火の柱でした。それは何を意味するか? 男女を代表して終わりの日に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、皆滅亡するのです。
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またイスラエル民族が荒野に出て40年さすらい、方向をつかめないので滅亡するのを心配して、モーセをシナイ山に呼び上げて、40日断食をさせて与えた二つの石板が何かというと、アダム・エバ、真の父母を象徴したという事実を知るべきなのです。
契約の箱の中にどうして二つの石板を入れたかというと、二つの石板は、神様のみ旨を終結することができる中心本部としてアダム・エバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。(一三四・一七四)
*
我々の願いとは何でしょうか? 神様は縦的な父母であり、アダム・エバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜びうる場で、愛されうる息子娘になるのです。ところで、そのようにできなかったのが恨です。そうでしょう? そのような愛を一度受けてみたらという熱望を皆持っているというのです。宗教も全部そのようなものです。
*
縦的な神様と横的な面で一つになって、愛することのできる父母がこの地上にいたか? いませんでした。堕落したために偽りの父母になりました。偽りの父母になったために、そのような父母がいませんでした。それで、真の父母が出て来なければならなりません。真の父母が歴史上に出て来なければならないのです。
*
そのような歴史的指名を代行する一つの名詞を被せて呼ぶその存在が誰か? これが救世主という存在であり、メシアという存在です。救ってあげるには、何を救ってあげるか? 体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。
そうするには、どのようにしなければならないか? その救いを成してあげるには、メシアはどんな存在として来なければならないか? 間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシアは、真の父母として来なければなりません。イエスという方を、キリスト教ではメシアと信ずるのです。救世主として信じます。
*
真の父母として来るには、どのように来なければならないか? 一人ではだめなのです。真なる父に代わり得る一人の男として出てこなければならないのです。今まで、数多くの宗教は、一人の男を探してきたのです。男の中でも、生活をよくする男を探してきたのが、儒教の教えと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが、仏教の教えと見ることができるのです。
では、キリスト教は何か? 神様の息子になって、愛する家庭を作ろうというのです。もっと具体的な内容を持って来たのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子」だとイエス様が言われたのです。
*
ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたら大変なことです。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに好む場で結婚しなければならないのです。結婚して、神様が縦的な父母として喜び、横的な父母として喜びうる新郎新婦になり、地上で息子娘を産まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。そういうことではないですか?
*
それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでもいちばん必要としたのがありますが、それが何か? 再び探しうる主体的動機が何か? まさに女です。男の前に女がなくてはいけません。
イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら「私は新郎であり、あなたがたは新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では二千年間新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうと、もがいてきているのです。
その標準が何か? それがメシアですが、真なる父母の位置を持って合わせるのです。それが子羊の婚宴です、子羊の婚宴。(五八・二一八j
*
・ 真の父母の定義
統一教会で言う真の父母とは何か? これが問題です。堕落しなかったらどのようになるか? 堕落しなかったら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは何かといえば、神様の体になるのです。神様の体と同じなのです。神様は骨のようであり、アダム・エバは体のようなものだというのです。神様も心があり、体があります。分かりますか?(はい)。
それで、皆さんは、誰に似ましたか?(神様に似ました)。神様と?(真の父母に似ました)。真の人。神様とトゥルーマン(true man;真の人)に似ました。そうだといって、アメリカ大統領のトゥルーマンではありませんよ。(笑い)
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神様は、内的な場で内的な父母になりアダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。内的外的父母が一つになったその場が愛で綴られて、内的父母に侍るようになり、外的父母を持つようになります。神様と人間との愛の結託により、真の父母、完成した人間が成就されるのであったというのです。愛と結託されないなら、完成人間がいないのです。
それが何かというと、本然の我々の先祖であるのです。神様が創造された本然の人間です。そのような人から我々が生まれるのです。そのような神性を持った人により、我々が生まれなければならないのです。それゆえ、我々は神性を帯びた神様の性稟も持ち、人性を帯びた、神様の前の縦的な父母の性稟も持つのです。
*
ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成が出てくるのであって、これが結ばれなければだめのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたのが、まさに我々の先祖の血統の根です。分かりますか?(はい)。そこが、我々先祖の血統です。そこから全人類が生じるのです。
*
堕落のために、男の愛、女の愛、神様の愛が皆分かれました。堕落によって、男の愛、女の愛、神様の愛が結ばれませんでした。堕落しなかったら、自動的に結ばれます。男女は愛で結ばれます、自動的に。なぜ、男女が一つになろうとしますか? 愛のためにそうです。愛で一つになった後に、何をしようと言いますか? 神様の祝福を受けようというのです。それが目的です。(一八四・七一)
*
摂理の時代を見れば、復帰摂理は終わりの日を通じて成されるのです。始まりから終わりに近づけば近づくほど、宗教の目的が成される時代が来るのです。その宗教の目的が成されうる最後の時が、父母様が現れる時だというのです。
その父母は、真の父母ですが、真の父母という方はどんな方か? これが問題です。真の父母という方は、我々の原理で教えてくれているように、原理結果主管圏と直接主管圏、すなわち間接主管圏と直接主管圏を皆経て、責任分担を完成した位置で、神様の愛を中心として一体の理想を成した父母です。歴史上初めて、神様と人間が愛を中心として一体の理想を成して、神様の愛の理想が、初めて地上に真の父母の家庭を中心として着陸し始めたのです。
*
堕落することによって、この真の父母の理想が壊れてしまったのです。アダム・エバが責任分担という使命を前にして原理結果主管圏、すなわち間接主管圏から直接主管圏に橋を置いて、これを皆完結しなければならなかったのに、そうできなかったのです。それによって、サタンがこの間接主管圏内を侵害し始めたのです。これを知らなければなりません。これを知らなければ、あの世へ行って登録できないのです。(一四三・七六)
*
真なる父母が一体何ですか?(愛の中心です)。何ですか? この宇宙が生じて以来初めて、真なる愛が、理想的愛がスパーク(spark;誘発する)しうる出発点というのです。これを知るべきです。それで真なる父母というのです。
*
では、真なる父母の前には、何の息子娘がいなければならないか?(真なる子女です)。では、真なる子女は、何のために真なる子女ですか? その真なる父母の最初の愛を受けるのに十分な内外の美を持った息子娘というのです。(一二五・一六六)
トゥルー・ペアレンツ(true parents;真の父母)、トゥルーマン(true man;真の男)、トゥルーウーマン(true woman;真の女)は何で、トゥルーチルドレン(true children;真の息子娘)が何か? 全部「トゥルー」を出して入ってこなければならないのです。根を神様を中心として連結しなければなりません。
*
愛を持って、上にいる神様が下に行くとき、愛は直短距離に行くために、その道は一つしかありません。バーチカルライン(vertical line;垂直線)は、一つしかないという結論が出てくるのです。(一八九・一九八)
統一教会で言う「真の父母」という言葉は何ですか? トゥルー・ペアレンツ(true parents;真の父母)が何ですか?(神様が真の父母を指名されたのです)。神様が真の父母を指名した、それはどういう意味ですか? それが何かというと、神様の愛が初めて人間世界に着陸したということです。真の父母が起点だということです。それを知るべきです。
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では、着陸した真の父母がレバレンド・ムーンなら、レバレンド・ムーンがアメリカに来て、真の父母になりましたか? どこで真の父母になりましたか? どこで、どこで?(韓国です)。何が?(韓国です!)韓国を誰が知ってくれますか? ですが、知ってくれても、知らなくても、砂漠でも木の枝でも、岩の塊でも、神様の初愛が着陸した所は、貴い所になるのです。(一三〇・一一一)
*
真の父母とは何でしょうか? 神様の愛を核としたその愛を中心として、アダム・エバが完全に絶対的に一つになって、出発しうる最初の我々人間先祖だったのです。それをはっきりと知るべきです。真の父母を知らなければ、真の子女ということは分からないという結論が出てくるのです。(一三五・一六一)
*
歴史的な核心になり、時代的な核心になり、未来の核心になる人は何か? 言い換えれば、歴史について見るときは、歴史的な実であり、時代について見るときは、時代的中心であり、未来について見るときは、未来的な起源になりうる、世界主義思想の中心は何であろうか? それは、真なる男と、真なる女です。では、その真なる男と真なる女の生活観は何であろうか? 世界のために甲斐を持って生きるのです。二人が愛するのは、世界のために愛するのであり、息子娘を産むのも世界をもっと愛しうる動機を作るため産むのです。
*
このような思想が、我々が今主張している思想です。このような内容を皆さんが細密に知っているかわかりませんが、私が知っている立場で見るとき、横的なすべての立体的な世界を中心として見ても、縦的な世界歴史全般を中心として見ても、必ず歴史はその基準で解明されなければいけないのです。それは、自動的な結論として出てくるのです。(二五・一四七)
堕落の起源になる所はどこですか? アダム・エバ、すなわち一つの父母から始まりました。アダム・エバが堕落して、偽りの父母になったことによって、すべて問題が起きるようになったのです。このために、心情問題、血統問題、人格問題、言語問題、生活問題、国家問題、世界問題が生じたのです。
*
では、これを一度に蓄積させることができ、このすべてを総合することができる真なる基準は、どこから始まるのか? これは、ある宗族圏内で成されるのではなく、社会圏内とか、国家圏内で成されるのでもありません。世界圏内でも絶対不可能なものです。すべての問題の起源が、偽りの父母から始まったために、真なる父母の因縁を中心としてのみ、復帰されうるのです。
*
真の父母という名詞を中心としてこそ、初めて神様の心情と一致しうるのです。真の父母を中心として、本然の血統が始まり、真の父母を中心として、本然の人格が始まり、真の父母を中心として言語が本来の位置に帰り、真の父母を中心として生活が本然の形態に帰り。真の父母を中心として本然の国家形成が起こり、真の父母を中心として本然の世界が成されるのです。
*
では、この全体を総集約した核心的な母体が何か? 真の父母です。真の父母ひと方によって、すべてが決定されるのです。それゆえ、その方のすべての思想を自分が全部引き継がなければいけません。その心情、その人格、その生活観、その国家観、その世界観を全部引き継がなくては、中心となる位置に立てないのです。(二八・二四八)
*
真の父母を抜いては、教育もあってはならず、生活の基盤もあってはなりません。分かりますか? 真の父母と完全に一つにならなければならないのです。一つになることは、何かというと、「真の父母の生活が私の生活であり、真の父母の理念が私の理念であり、真の父母の仕事が私の仕事であり、真の父母の愛の圏が私の愛の圏である」このようにならなければならないのです。皆さんはそうなっていますか?(四四・一四五)
*
・ 真の父母は人格の実体
歴史上の聖賢たちの中で「私は人類歴史において、人間たちを代表して、体と心が闘わず完全に統一を成したので、私を見習え」と言う人がいましたか? 学校の教育で見れば、倫理生活について責任を受け持たれた教授達も多いのに、何が重要かというのです。体が重要ですか、心が重要ですか? 心も重要で、体も重要です。もっと重要な事は、私の体と心の統一圏です。それが重要な事です。それがだめな人は、いくら世界が統一されたとしてもその世界とは何の関わりも無い人です。(一四二・三二五)
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今皆さんは体が違い、心が違います。ではこれがいつ一つになるだろうか? 今人類歴史路程において体と心が闘うのを自分が統一させると体と心が闘う事を統一させると言える人は出てこなかったのです。パウロのような人も嘆息したでしょう。「心の法と体の法、二つの法があって闘うので、私はなんとみじめな人か。この死の法から誰が私を解放するだろうか? そこにはただイエス・キリスト、神の愛で…」まさにそう思ったのです。主イエス・キリストの中にいる神様の愛によって解放されるのです。(一六四・四一)
*
心と体が一つになれない原因がどこにあるか? 神様はどんな方かといえば、この宇宙の根本となる縦的な愛の主体です。その重りが地に降りてくるようになるときに神様一人ではだめです。いくら神様といっても愛を下ろすには水平線でこの基準を引き出す事ができる力が必要です。
*
電気が強くマイナス電気が地上に近くに来るようになると近い所で雷が落ちるのです。そうではないですか? 降りてこなければなりません。高い所にあっても降りてこなければなりません。同様に高い愛が降りてくるには地上にマイナスの愛がまず生じなければなりません。マイナスの愛がまず生じれば、プラスの愛は自動的に生じるようになっています。それがペア(pair;双)になっています。
*
作用するこの世界には必ず作用と反作用があるのです。互いに作用し互いに作用する反面に反作用があるのです。一般の人たちはこの反作用が対応する力の作用に反対すると見ますがそうではありません。反作用というのは対応した存在を保護するために作用します。こうしてこそ理論的に善悪のすべてが解決するのです。善を中心として悪というものに対して保護すべきであるという論理を見出さずには歴史時代の善悪対決の歴史を処理する方法はあり得ないのです。
*
神様はどこを通じて往来するか? 縦的な愛が設定されなければなりません。その縦的な愛が縦的価値を持つためには横的な基盤が築かれて入ってこなければなりません。男女もそうではないですか? 皆さんが分別のないときは何も分かりませんが、大きくなると女も世界を持とうとし、男も世界を持とうとします。ですからそのような世界を持とうとするときはどのようになるか? このように行ってはいけません。どこへ行って会わなければならないか? すっかり大きくなって成熟して会わなければならないのです。そうするには世界が自分のものであると言える位置まで出なければなりません。
*
「これを占領しなければならないな」と言いますが、占領するには自分の力をもってしてはできません。愛でなければだめなのです。その愛の力があるために、男にも女にも世界征服のための理想と夢があるのです。皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう? 天があれば、見えない世界があればその見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう? なぜそうですか? 縦的な欲望、横的な欲望があるためです。
*
横的な欲望は、横的な世界である地球星全体を自分のものにしようとし、縦的な欲望はこの宇宙を自分のものにしようとします。分かりますか? 体は制限されています。地球星の限界線を脱することができません。しかし縦的な世界はいくらでも大きくなります。
*
そのようなことを見るとき、心の位置を代表しうる父が神様であり、体の位置を代表しうる父が堕落しなかった真の愛を中心とした人類の始祖であったということです。体の位置を代表する父が人類の始祖になるべきなのだ! 分かりますか?(はい)。
*
統一教会では、歴史時代に分からなかった事実を探って、このような自体を対置して対応しうる名詞として聞いて使う言葉が真の父母というのだ!(アーメン!)ですから、横的な真の父母の位置が本来創造した理想観として見る神様の息子娘の位置であったというのです。アダム・エバの位置であったということです。ですから、神様は何ですか? 体のようなものがアダム・エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのが神様です。
*
心のような神様と体のようなこの方が一つになるには何で一つになるか? 力ではなく、知識でもなく、権力でもありません。何ですか?(愛です)。愛です。愛で一つになるのです。
*
我々の心的な人格、体的な人格が本来一つになりうる原則的モデルに似たのが私個人であるために、原則的根本を訪ねてみるときに体のような父がいなければならず、心のような父がいなければならないのです。そこで心的父の位置が神様の位置であり、体的父の位置が人類の始祖になるのです。では人類の始祖と心的父である神様がどこで一つになるのか? どこで一つになりますか? 真の愛を中心として、愛の球形の中で核の位置で一つになるべきなのです。縦的なものを中心として男女は訪ねていくのです。(一七七・三三七)
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六)我々が知るべき「真の父母」の語義
・ 真の父母という言葉は貴い
皆さんは、真の父母という言葉がどれほど重要な言葉であり、どれほど貴い言葉であるかということを知るべきです。皆さんの国と大統領、先生、父母、兄弟は信じられなくても、真の父母だけは信ずべき義務があるのです。分かりますか、何のことか?(はい)。
*
真の父母という観念の中には、地獄とか、悪なるサタン世界を救う、救いの観念がこもっているという事実を知るべきです。これを考えなさい。皆さんはサタン世界で死ぬしかない立場にいるのに、父母がいて皆さんの死の前に盾となりうる力となってあげることで、天地が公認し、歴史が公認しうるとしたら、それはどれほど誇るべきことですか? 神様が保障し、歴史が保障する真の父母! みなさん、そうですか? 真の父母という言葉がどのように出てきたか、それを知るべきなのです。
*
レバレンド・ムーンが真の父母になるんだと、このことを始めたのではないのです。レバレンド・ムーンを持たずしては仕事ができないから、仕方なくこの仕事をしているのです。分かりますか?(はい)。(一一六・一一三)
*
・ 真の父母という言葉は誇るべきでありとてつもないP.41
今まで我々継代の立場は、我々千万代の先祖たちが皆復活して、その復活した栄光を褒めたたえるとしても、それは堕落圏を脱しえない栄光であり、褒めたたえでした。
*
しかし、今日統一教会で言う真の父母というその言葉は、皆さんの立場は悲惨であっても、数限りない先祖たちとともに、あるいは万民解放圏を持った栄光の位置で褒めたたえる以上の価値を持った、誇るべき言葉であるという事実を皆さんは知るべきです。父母様に会った中で、神様に会うことができる道が連結するのであり、統一教会に出会ったこの位置は、遠くない将来に、神の国と父母様の願う祖国を探しうる道が連結しているという事実を知るべきです。
*
今まで人類は、生まれた国が違い、文化背景が違い、国境を異にして自分たちの祖国だと言いながら、歴史的な先祖たちが暮らしてきて、今の我々も暮らし、後孫達も暮らすでしょうが、それは全部が堕落圏である事に間違いないのです。
*
皆さんは、その堕落圏を蹴って出て、今日の勝利を先祖達と共に、自分の一族と共に、未来の後孫の前に誇り高く褒めたたえうる、勝利の栄光を褒めたたえうる、愛の祖国を探すべきです。その愛の祖国の中で、愛の父母を持つことができ、それだけでなく、祖国の中心である神様がおられるなら、神様に侍ることのできる位置だと言うときは、それ以上の栄光の位置はないというのです。皆さんはそれを知るべきです。(一三八・一〇六)
*
メシアは何か? 神様の愛を完成したアダム格であるために、本然の父の資格として来るのです。それゆえ、その父を中心として、母がセンターとして、神様の本然の愛を中心としたその基盤を中心として、個人、家庭、氏族、民族、国家基準までの所有権が、真の愛を中心としてメシアのものとなった後に、国家のものであり、国民のものであり、家庭のものであり、個人のものであるという所有権版図が広がらなければならないのです。
*
ですから、メシア本然の愛が、初めて個人から国家まで形成されて、ローマと世界までその波紋が伝播されていたら、今日の再臨思想は在り得なかったのです。このように見るとき、アメリカが神様の愛の圏に属した国か? どうですか?(違います)。ご覧なさい。この地球上に、そのような過程を通過した国があるか?(ありません)。そうなのです。キリスト教を中心とした数多くの教会が、このような神様の愛の原則に一致した所有権に属しているかというとき、どうですか?(いいえ)。絶対的にありません。天国が地上にはないのです。
*
このように考えるとき、歴史を通じて真の愛、真の父母という言葉がどれほど偉大で、どれほどとてつもないかを知るべきです。これだけが堕落圏内を貫いて、サタン世界を貫いて、上がっていくことができる一つの基地です。ですから、その真の父母という言葉をありがたく思うべきものであり、それ自体はさておいて、言葉だけ千回聞いて、万回聞いて感謝して余りうる内容だということを知るべきなのです。(一二九・一九四)
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・ 真の父母という言葉は驚くべき言葉
皆さんが知るべき事は、我々は堕落した事によって、我々の故郷を失ってしまったという事です。また、国を失ってしまい、世界を失ってしまったのです。もっと進んでは、神様まで失ってしまい。神様の愛までも失ってしまったのです。このような膨大でとてつもないすべてを、再び探しうる一つの起源が何かというと、真の父母という驚くべき名詞なのです。
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神様から見れば、今まで歴史的に願ってこられた摂理の目的が何か? この(真の父母)基準です。人類が堕落した以後、今まで蕩減歴史をしてきたのは、何をする為か? これ(真の父母)を探すためです。数多くのキリスト教徒たちが、今まで一日の願いを持って再臨の日を待つのもこの為であり、数多くの宗教が、全部この一日を願っているのもこの為です。このような事実を考えるとき、真の父母が生まれたのは、恐ろしくも驚くべき事件である事を知るべきです。
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皆さんが故郷に行こうとするのは、そこに父母がいて、兄弟がいるためです。父母を中心として連結した人がいる所であるために、故郷をしのぶのです。そのような故郷を抱いている国、そのような故郷の人が連結しうるその国を、人々は自分の祖国だと言っています。一般的に祖国というのはそのようなものです。そのような面で、本然の人を中心として見るとき、我々には故郷もなく、祖国もないのです。過去にもなく、現在もないのです。あるといっても、それは悪であって、我々とは何らの関係もないものです。真とは関係ないのです。(六七・二二七)
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統一教会の真の父母という言葉は驚くべき言葉です。偽りの父母は、サタンの愛を中心として、落ちた愛でしたが、真の父母は神様の愛を中心として上がるので、愛の世界に前進していくのです。分かりますか、分かりませんか?(分かります!)では、なぜ我々がその愛を探そうとするのか? 愛というものは、偉大なものです。永遠に平等なものです。愛という名前だけ聞けば、いくら高い位置にでも一度に同参することができる資格をもつのです。女が字を一字も知らず、男が世界の大学者でも…。(一四四・二四一)
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統一教会では、真の父母という言葉を言っています。これは驚くべき言葉です。真の父母が何ですか? 偽りの父母が生まれたので、真の父母が出てこなければなりません。真の父母は何をすべきか? サタン世界の根となる過った血統を正すべきであり、過った生命を取り返すべきであり、過った愛の道をまさに開かなければなりません。
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聖書に「死なんとする者は生き、生かんとする者は死ぬ」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないかというのです。サタン世界では死ななければなりません。(一六九・三九)先生がハンサムではありませんがね、変わらない希望があるなら、神様のみ旨を追求しようとすることです。その理想的な目的の基準、その定着点が何かといえば、真の父母です、真の父母。分かりますか? 真の父母です。
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では、神様のみ旨の完成が何か? 創造理想完成が何か? アダム・エバが愛の理想を成して、直接主管圏内で父母の位置に立ちうる事が、理想的基準ではないかというのです。み旨の完成の位置ではないかというのです。皆さんは、先生がこの地上に真の父母という名前を持って来た事が、どれほど驚くべき事かを知るべきです。分かりますか? 真の父母という言葉。世の中の言葉の中でいちばん福となる言葉が、堕落した人間においてはその国を失って捜す事よりも、世界を失って捜す事よりも、真の父母という言葉です。それは天地の何よりも貴いという事を知るべきです。(一二七・二二一)
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・ 真の父母という言葉は恐ろしい言葉
統一教会での恐ろしい一つの教えが何か? それは「真の父母」という言葉です。この言葉は、神様も恐がる言葉であり、サタンも恐がる言葉です。我々人間は、サタン圏内にいる人間であるために、真の父母を中心として見るときに、彼に従っている人たちは、彼のみ言によって審判を受けるのです。
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このような方が出てこなかったらいいのに、出てきたために審判しなければいけない立場に立つので、神様がその方の言葉を聞いてあげるのです。またサタンがなぜ真の父母という言葉を恐れるか? この言葉を信じて従おうものなら、自分のすべてが破壊されてしまい、破綻してしまうためです。それで、彼には極めて恐ろしい言葉になるのです。
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サタンは、いつも真の父母の行く道を妨げ、倒れるのを願い、悪くなるのを願う立場にいます。ですから、皆さんがこの道に従って行くのに、どれほど信じて従うかというのが問題になるのです。皆さんが、そのような先端に立ったなら、一歩一歩、行動一つを千年以上の精誠を尽くして、感激しながら行こうとしないといけないのです、それが今日皆さんの行くべき道であることを知るべきです。(六五・二七七)
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私は、真の父母の名前がどれほど恐ろしいかということをよく知っています。私は平穏な位置を探すために生きる道を取ったのではなく、このみ旨の使命を完結させるために、今まで闘ってきました。過去を回想すれば、事情も多く、無念な事もたくさんありましたが、あなたの事情、あなたの無念さに比べられない事が分かったので、ひざまづいて涙をあなたの前に見せられない、恥ずかしい姿である事が分かるのでございます。そのような事を感じる私の心をお分かりになり、この日を期して天上世界と地上世界の門を開いてくださいませ。(一三四・一一六)
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問題は何でしょうか? 真という事、すなわち真の父母という事です。真の父母が何か? 真の父母という言葉がそんなに簡単な言葉ではありません。いちばん恐ろしい言葉です。その言葉がどれほど恐ろしい言葉か分かりません。
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この真の父母という言葉一言のために、歴史が左右されます。この言葉を見つけ出すために、今まで数多くの先烈たちが犠牲の道を行きました。連続的な血の闘争を経て、身悶えし、絶叫しながら希望を抱いて探し出した名前が、真の父母という聖なる名前です。真の父母の前には、真の子女がいなければなりません。それで、皆さんが真の子女になりましたか? 考えてみて下さい。皆さんが真の子女ですか? 真とは、過去にも現在にも未来にも変わらないものです。(三三・一〇九)
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第二章 メシアと真の父母P.47
一)歴史と真の父母
・ 堕落と真の父母
今、歴史時代に人類の終末時代が来ていますが、これが何かというと、民主と共産が交差するのです。サタン世界の全権時代が来て、全世界に澎湃(ほうはい)していたのが、皆狂うようになれば、行く所がありません。そうなれば下っていくのです。70%になれば下っていきます。七千年の歴史を中心として蕩減するのです。
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この七千年が問題です。第一次世界大戦も、70%をドイツが勝ったのです。日本が大東亜戦争と言った第二次大戦も、70%以上勝利しました。そうなれば、そこから下り始めるのです。このように、皆原則的な公式を通じて、我々も発展すると言う事を知らないでしょう。
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このように、偽りの父母として生まれたので、これは曲折が過ったのです。その上に、父母を中心として、このようになるべきなのに、このようになったからこれを解かなければなりません。個人的に解かなければならず、家庭的に解かなければならず、氏族的に解かなければならず、民族的に解かなければならず、国家的に解かなければならず、世界的に解かなければならず、天宙的に解かなければならないのです。(二一一・三一〇)
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今日、我々が暮らすこの世界に、真の父母を迎えましたが、この地には真の父母の息子娘だけが暮らしているのではなく、堕落した父母の息子娘も暮らしています。本来は、真の父母の血肉を通して神様の愛する息子娘になるはずだったのが、堕落によって堕落した息子娘になってしまいました。それで、我々人類始祖が過ったことを解怨成就してあげるために、再び来られる父母が再臨主であり、救世主というものです。
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その方が来たならば、前もって産んでおいた長子を復帰しなければなりません。その長子が庶子のようになりました。血筋が変わりました。本然的愛から神様の血統を受け取っただろうに、堕落することによって他の血筋を受け継ぎました。そうだといって神様は捨てることはできません。
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これは、庶子のようです。野生のオリーブの木です。この野生のオリーブの木の畑を悪魔が支配するので、神様が野生のオリーブの木を自分の所有にしなければいけないのです。これを強制的に強奪するのではありません。銃剣でするのではありません。自然屈服できる環境を中心として、冷遇されて、打たれ、一つ、二つずつ奪ってくるのです。
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今日キリスト教が世界的版図を成すまで、どれほど犠牲の代価を払ったかしれません。殉教の祭壇に絶えず犠牲にさせることで、悲惨なその喊声が地球上に響きわたり、その泣き声が聞こえない所がないほど、そのような歴史を経てきたのです。その血の祭壇が連続し、今日目前にまで到達した歴史的な恨がもつれているということを知るべきです。これを受け継いで解怨すべき厳粛な歴史的課題を抱いている我々は、神様を解放し、キリスト教を再度解放しなければなりません。(二一〇・三六〇)
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堕落とは何かというと、悪魔の偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統を蒔いておいたものだというのです。この男たち! 男の中で愛がありますか、ないですか?(あります)。生命がありますか、ないですか? 血筋、先祖から受け継いだものでしょう? では、この男がジェントルマンなら、歴史以来先祖から受け継いだ愛の結実であり、生命の結実であり、血統の結実だというのです。
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それが何かというと、サタンの愛と、サタンの生命と、サタンの血を受け、神様の怨讐になりうるこのような立場に立ったその愛を受け継いだということです。これを振り切って脱ぎ捨てなければ、地上の平和はやってくることができないのです。それで、レバレンド・ムーンが真の父母の理想を持って出てきたのです。
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真の父母は、何をするのですか? この偽りの愛をきれいに清算して、個人が分立し、家庭が分立し、氏族・民族・国家が分立しうるよう平和と反対の悪魔の要素をきれいに清算するために闘争したのです。(二一七・一八五)
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・ 歴史の願いP.49
我々統一教会では、真の父母という言葉を使っているのです、真の父母。皆さんが今、この堕落した世界歴史について見るとき、この世界には堕落した父母が生まれた、堕落した父母が生まれて堕落した世界を成した、ということが分かるでしょう。
*
この世界は、どんな世界でしょうか? 堕落した父母と因縁づけられた世界であって、真の父母、神様が理想とした本然の世界とは関係のない世界です。それゆえ、長い人類歴史を経てきながら、この世に多くの人たちが生きては死にましたが、彼らが幸福を歌いつつ「ああ、私は人間として生まれてやはり幸せで、人間として成功した人だ。すべての面において成功した一人だった」と宇宙の前に誇って暮らしていった人は一人もいないのです。
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それで、人間の歴史は苦海と同じだ、悲哀の歴史だ、戦争の歴史だ、疾病の歴史だというのです。なぜこのようになったのかというと、堕落の結果によってこのようになったのです。今、人類の希望は何か? 人間がどのように完成した人になるかという事です、完成した人。神がいるなら、その神の前に、完全な絶対者がいるなら、その絶対者の前に、完全でありうる人をどこで探し、どこで成すかという事です。
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それで、今まですべての哲学を通じて、宗教を通じて、人間たちはそれを探しに探しましたが、その解決点を皆見れず、今はすべて放棄状態に至ったのです、それが現世の人間の立場だというのです。(一三七・八一)今まで人間達の歴史的な願いが何かというと、真の父母に侍る事です。真の父母を迎えるためのものなのです。神様がイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのは、メシアを迎えるためなのです。メシアが誰かというと、真の父母です。また、キリスト教とキリスト教文化圏を作ったのは、再臨主を迎えるためなのです。再臨主は誰かというと、第三次アダムとして来られる真の父母です。
*
真の父母が来られる時になれば、世界のすべての国家が兄弟の因縁を持つので、第二次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家を全部解放させるということが起こったのです。これは、兄さんの立場から弟を叩いて捕まえたので、そのような非正常的な歴史的現象が起こってきたのです。
*
歴史が願いつつ訪ね来た事が何かというと、真の父母に会う事です。宗教が出てきたのも、真の父母に会うためです。世界が出てきたのも、真の父母を探すため、国が出てきたのも、真の父母を探すためです。真の父母の道を備えるために出てきたのです。(五一・三五四)
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・ 歴史と真の父母P.51
今まで宗教は何をしてきたか? 真なる息子一人に会うための努力をしてきたのです。神様は、真なる息子一人をお探しになるために、今まで苦労されたのです。それゆえ、宗教の教祖たちの中には女がいません。皆さん、宗教の教祖の中に女がいますか、いませんか? いないでしょう? 全部男でしょう? これは、真なる息子一人を作るために、繋いできたという事を意味します。一段階、二段階、三段階、百段階…。このように上がって、最後のバトンを受け継いで勝敗を決定しうる一人の主人公、息子を探してきたのです。これが今までの歴史です。(四一・二八)
*
神様が宗教を作って何をするのだろうか? 何をしようというのか? 神様が宗教をなぜ作ったのか? 世界のぼろきれ、大きなぼろの版図を作るためのものではありません。目的は簡単です。神様が真なる愛で愛する事ができる人を探すためなのです。その一人を探すために、愛の環境的要件の中で、神様が守って、相対的な一人を探せばおしまいです。愛が、二つ、三つ必要ですか? 同様です。(一七三・三四)
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神様の復帰歴史は、真の父母を立てるための歴史であるとも見る事ができます。それゆえ、カイン・アベルから今日に至るまで、天は内的に真の父母を復帰するため、摂理してこられました。誰でもこの目的を成すための根本摂理に敵対したり、妨害したりすれば、彼は天道の前に捨てられるようになり、結局滅びるしかありません。(九・一〇)
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歴史に通じるものは何か? 神様の解放は、真の父母と一つになって、地上のすべての祭物を捧げる事ができるサタンの讒訴条件を清算しなければなりません。それを清算しなければ、皆さんが行く事ができません。皆さんがどのように神様の心情的所有権に逢着するか? 皆さんの父母と皆さんと万物が、平行線上で神様の所有であると決定しうる場を持つ事ができなかったのです。これを蕩減復帰すべきです。(一三七・二六九)
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・ 復帰摂理歴史は真の父母を探すための歴史P.52
神様のみ旨に代わって、この地上に現れるべき真の父母はどんな方か? 万物に代わって、サタン世界と闘い、万物を主管しうる立場を収拾して、人間に代わって人間世界を主管しているサタンを壊滅させなければならず、霊界とも対決して、数多くの霊人たちまで主管できる絶対的な位置を構築しなければならない方です。真の父母にはそのような使命があります。
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それで、神様は堕落した世の中を復帰なさるために、万物から人間、天までつながった一つの世界を復帰するため、今まで真の父母を送りうる道を築いてこられたのです。我々は、復帰原理を通じて真の父母が現れるためには、真なる息子娘がいなければならず、真なる息子娘が現れるためには、真なる僕がいなければならないということを習いました。
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そして、神様の復帰歴史を見ると、僕の時代を経て、子女の時代を経て、父母の日を迎えることができるように、神様が役事してこられたことが分かります。また、僕の時代から、養子の時代、子女の時代を経て、父母の時代まで復帰してくる間、霊界にいる霊人達も協助してきたという事を、我々は原理を通じて習いました。
*
外的に一国家の基準を超えて、世界的な基盤が備わる前には、真の父母はこの地に来ることができません。それで、神様は、ノアとアブラハムを経る二千年の摂理歴史期間があった後、ヤコブをして初めてイスラエル民族を形成しうる基盤を築くようになさいました。そして、その民族を通じて国家を形成するようになさいました。そうするまで、数多くの歴史路程を経てきながら、ご苦労されたのです。
*
そうするためには、個人の立場で神様に代わってサタンと対決して勝たなければならず、養子の立場で神様に代わってサタンと戦って勝たなければならず、直系の息子娘の立場でも神様に代わってサタン世界と戦って勝たなければなりません。そうでなければ、真の父母を迎える事ができません。それゆえ、摂理歴史は旧約時代から新約時代を経て、今まで長い歴史を経てきているのです。
*
このように、僕の立場を復帰し、養子の立場を復帰した基盤の上で、直系の息子娘の立場を復帰し、すなわち勝利の基盤を築いておいた後に、真の父母の因縁を立てようとなさるのが、神様がこの地上にメシアをお送りになった目的でした。イスラエル民族の不信で、神様が四千年間準備なさった僕の基盤が崩れ、養子の基盤も崩れました。それで、二千年前に来られたイエス様は、僕の立場で戦って勝利され、養子の立場で戦って勝利され、直系の息子の立場で進まなければなりませんでした。これがイエス様の立場であったことを我々は知っています。
*
養子の立場と直系の息子の立場を経た後、イスラエル民族を基盤として、真の父母の因縁を立てておいて行くのが、神様がイエス様を送られた目的でした。また、それをイエス様がこの地に来てなさるべき使命でした。ところで、イエス様が十字架に掛かって亡くなられる事によって、全体的な基準で勝利の基盤を築く事ができず、霊界を中心として真の父母の因縁を開拓してこられたのです。
ところで、まだ個人的な位置、家庭的な位置、民族、国家的な位置をつかめずにいます。ただ、天のみ旨に対する個人と家庭と民族と国家を立てて、今まで回りに回ってきたという事を、み旨を知った我々は知っています。
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この世界的な時代を迎えて、天は必ず約束されたように、終わりの日になれば、新郎となられる主を送って下さるでしょう。それで、新婦を選ばれ、真なる勝利の基盤をお築きになるでしょう。真の父母の位置は、本然の創造目的の位置であるために、そのような位置を築くため、神様は今まで六千年間闘ってこられたというのです。
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それゆえ、六千年復帰摂理歴史は、この真の父母を迎えるための歴史だと言っても過言ではありません。その真の父母は、六千年摂理史全体に代わる方です。それで、その真の父母を探せなかった事が、人類の全体の悲しみに代わり、全体の苦痛に代わり、全体の悲哀に代わるという事を、我々は知るべきです。
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人類歴史は何の歴史かといえば、真の父母復帰歴史であると言う事ができます。真の父母を復帰せずには、真なる子女が存在しえず、真なる子女の因縁を立てる前に、真なる家庭と真なる氏族と真なる民族・国家・世界・天宙が存在することができません。神様は、今までこの基準を立てるため、六千年という長い歳月を苦労してこられました。
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今から二千年前に来られたイエス様は、この地上に初めて真の父母の栄光として来られた方でした。ところで、イエス様が真の父母として現れるためには、すなわち真の父母は、歴史的な結実体であるので、イエス様が歴史的な結実体として立たれるためには、一面的な勝利だけしてはいけないのです。息子の使命だけ果たしてもいけないのです。父母の使命を果たさなければならなかったのです。
*
イエス様は、この地上で肉的には息子の立場を復帰する路程を経ていかなければならず、霊的には父母の立場を復帰する路程を経ていかなければなりませんでした。このように、両面的な立場で責任を果たして、神様と一つになりうる起点を立てなければなりませんでした。そうするとき初めて、その起点は、個人的イスラエルの基盤になり、家庭的イスラエルの基盤になるのです。民族的イスラエルの基盤になり、国家的イスラエルの基盤になり、このようになっていたら、霊的肉的に真の父母の基準を立てることができたのに、イスラエル民族がイエス様を不信する事によって、その基準を立てる事ができませんでした。
*
本来、真の父母は、創造原理を見れば、霊的肉的に神様の祝福を受けた人でなければならないのです。ところで、イエス様はイスラエル民族の不信によって、真の父母になれませんでした。イエス様は、霊界に行かれても、真の父母を迎えることができる基盤を築いてこられたのです。この言葉は、どういう意味か? この地に再び来られる主は、霊的な父母の立場を復帰しなければならず、肉的な父母の立場を復帰しなければなりません。これをご存知のイエス様は、それで今まで二千年間、霊界に行かれて何をなされたのかというと、再び来られる主が霊界から迫害を受けないで、蹂躙され得ない基盤を築かれました。イエス様を中心とした霊的な社会、国家、世界的な基盤を築かれました。
*
イエス様は地上ではなく、霊界で摂理してこられたために、キリスト教を信じる人たちは、全部霊的父母と因縁を結んできたのです。この地に再び来られる主は、イエス様が洗礼ヨハネからすべての祝福を相続されたのと同様に、イエス様からイエス様が霊界で築いておかれた霊的な個人・家庭・国家・世界的な基盤を相続しなければなりません。そのような立場を経ずしては、真の父母の因縁をこの地に立てる事ができないのです。
地上で霊的な相続の基準を立てるのが原則です。これは、地上のキリスト教徒たちが、イエス様が再び来られる主に霊的な基盤を相続されるようになるとき、一つになれば、地上で相続の基準が築く事ができたのですが、今までキリスト教徒たちがこのような基準を立てておけなかったために、霊的な勝利の基盤が、来られる真の父母の前にそっくりそのまま移される事ができなかったのです。
*
それによって、再び来られる真の御父母様は、再度霊的相続の基準を復帰し、肉的な相続の基準を復帰する闘争歴史を経ていかなくてはならなかったのです。本来、神様が六千年間摂理された事は、来られる真の父母の基盤を備えて、当代に勝利の基盤を築かせるためだったのに、この地上にいる聖徒たちが霊的父母の命令に一致団結して従う事ができなかった事によって、その命令に歩調を合わせられなかった事によって、今までイエス様が築いておいた霊的基盤を、再び来られる主が相続する基準が立てられなかったのです。
*
それで、再び来られる主は、真の父母となられる方は、再び霊的な世界から、個人的試練から、家庭、氏族、民族、国家、世界的な試練を受けなければなりません。その試練に勝たずしては、内的勝利の基準を立てずしては、地上に実体的な勝利の基準を立てられないので、内的な闘いをしてこざるをえないのです。(一三・二八一)何故神様は復帰摂理をなぜなさるのでしょうか? 本然の父母、すなわち真の父母の因縁を立てるためです。では、真の父母はどの様な方でしょうか? 真の父母は、神様が臨在しうる実体聖殿です。皆さんは、これが実際に実感できますか? その価値がどれほど大きいでしょうか? 皆さんの家ぐらいになりますか? でなければ、皆さんの体、皆さんの息子娘、皆さんが暮らしている国、世界と同じですか?
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ところが、神様を知るのに、自分の家のタンスの中に入っている廃物よりも劣ると思っている人がいるのです。そのような人達が、神様に「福を下さいませ!」と言っています。そのような人達を通じて、神様のみ旨が成されうるでしょうか? 神様のみ旨が成されうるかというのです。皆さんは、それを知るべきです。(二二・四四)
*
二)メシアは真の父母
・ メシアは真の父母である
来られるメシアは、どのような方か? 個人はもちろんであり、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙全部をかけておいて、信仰と希望と愛の実体として立ちうる方です。その方が、このような場に立ってこそ、初めて人類の歴史上に残っている信仰が、結実しうるのであり、希望が結実しうるのであり、愛が結実しうるのです。そうでなければ、信仰と希望と愛が結実する事ができません。その方が言う言葉は、個人的な言葉ではありません。皆さんもそんな信念を持って叫ぶようになるとき、その言葉は個人の口から出てくる言葉ですが、世界史的な内容と因縁を備えた言葉になるという事を知るべきです。
*
知恵深い人とは、どのような人か? 世界的な時を、希望の時をまず区別するすべを知る知覚を持った人です。それを予め知って、分析して、批判して、実践して、自分のものにする責任を負う事のできる立場に立っている人が、知恵深い人です。
メシアがこの地上に来られるとき、彼は個人として来られますが、個人ではありません。その方の価値は、全世界の人類が信じている信仰の結実体であり、全世界の人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。
*
その結実体には、すべての歴史路程が繋がっています。すなわち、過去、現在、未来が皆繋がっています。そして、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界が全部繋がっており、天と地が全て繋がっているのです。(一三・一四三)メシアは真の父母である。我々は真の子女である。同じ運命圏に立って、そこに加わらなければいけない。(五五・九九)
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・ メシアの顕現過程P.58
今まで宗教が出てきていますが、使命は何かというと、一人を探そうと言う事です。数多くの宗教が救いを得て何がどうだと言いますが、世界的によりすぐって、最高の位置に上がりうる人、その位置を超えたその一人を探そうというのです。その一人を立てようというのです。
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このように、すべての宗教の中心は、一人ですが、その存在が誰かというと、メシアというものです。言い換えれば、すべての宗教が一人を探してくるのに、その一人、中心存在が誰かといえば、メシア、救世主というものです。メシアが来る所には、その場に一度に来るのではありません。七年路程を経なければなりません。メシアは男です。そのメシアが来て、サタン世界で血統的な関係を超越して、サタンに勝たなければなりません。
*
勝ったその男を中心として、家庭的に勝たなければならず、氏族的に勝たなければならず、民族的に勝たなければならず、国家的に勝った基盤を作っておかなければならないのです。男一人だけをもってしてはいけません。すなわち、サタン世界よりもましにならなければなりません。サタン世界に属した家庭より優位に立たなくては、メシアは彼らを率いる事ができる立場になれないのです。
*
サタン世界の最高の基準が何かというと、国家というものです、国家。サタンは、いつも国家を中心として反対してきました。サタンは、国を持ったために、その国を中心として個人的にも天を叩き、家庭的にも天を叩き、氏族的にも天を叩き、民族的にも天を叩いたのです。いつもこの国を中心として、天が築いてきた道をいつも妨害してきたのです。
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結局、反対されて迫害されるのは、劣っているためであって、勝っているならかえって迫害する事ができ、支配する事ができるのです。人間が堕落した事によって、この世界はサタン世界になったために、この世界にはサタン側の個人もいくらでもいるのであり、家庭もいくらでもいるのであり、氏族もいくらでもいるのであり、国家もいくらでもあるのです。ですが、天の側はいないのです。個人はいますが、その基準に上がった家庭や、氏族や、民族や、国家がないのです。結局、メシア個人として家庭に勝ち、メシア個人として氏族に勝ち、メシア個人として国家に勝ちうる基盤がなくては、一般の人が上がる道がないと言う事です。
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