これからの季節、木々の緑が生い茂るのはよいのですが、地面の緑が生い茂るのはちょっと困りもの。ちょっと気を抜くと、園庭の雑草たちもまたたく間に大きくなってしまいます。毎日ちょっとずつを心がけながら草取りをしていますが、草取りをしながら、何か自分が抜かれているようで・・・実はちょっと心の痛みを感じながらの作業です。誰かが言っていました。「『雑草』なんて草はありません。どんな草にもちゃんと名前があるのです。それを人間の都合で『雑草』と呼んでいるのです」。まったくその通り、でもだからと言って抜かないわけにも行かず、庭の隅っこでもそもそとやっていると、子どもたちが近づいてきて問いかけます「せんせいなにやってるの?」。そして次の言葉が・・・「どうしてぬいちゃうの?」。
私は「これを抜かないとお花さんが綺麗に咲かないからだよ」「これが今度はお花さんのご飯になるんだよ」などと答えることが多いように思いますが、胸の痛みがチクチクと・・・。
大人にとっては「雑草」は抜くものと思っていますが、子どもたちにとっては、それは当たり前のことではありません。いえ、そもそも、子どもたちにとってそこに生えている草は「雑草」ではなんですよね。大人が作り上げた価値観に囚われず、偏見のかけらもない幼子(おさなご)の澄み切ったまなざしに教えられることはしばしばです。
抜かれた草が今日は子どもたちの手で「おうどん」に変身していました。あそびの道具になって生かされている草たちを見て、ちょっと慰められた気持ちかな。
私は「これを抜かないとお花さんが綺麗に咲かないからだよ」「これが今度はお花さんのご飯になるんだよ」などと答えることが多いように思いますが、胸の痛みがチクチクと・・・。
大人にとっては「雑草」は抜くものと思っていますが、子どもたちにとっては、それは当たり前のことではありません。いえ、そもそも、子どもたちにとってそこに生えている草は「雑草」ではなんですよね。大人が作り上げた価値観に囚われず、偏見のかけらもない幼子(おさなご)の澄み切ったまなざしに教えられることはしばしばです。
抜かれた草が今日は子どもたちの手で「おうどん」に変身していました。あそびの道具になって生かされている草たちを見て、ちょっと慰められた気持ちかな。