まんまるログ

融通性か?和・洋・中・無国籍・ジャンクとなんでも食べる胃袋と脳みそ。

封印された日本のタブー 

2014年10月25日 | 日記
フェイス・ブック(ヘース・ボック)私はなまってそう表現している。
友人、知人の近況を見ているだけで、参加しているとはいえない。
しかして、知人の面々は活躍甚だし…頭脳的に、芸術的に、政治的に…アミニズムの追及をしたり‥‥多士済々で触発される。
毎日、毎日見るのがが楽しみでもある。

知人のY氏(今日)のフェイス・ブックが気になった…おじろく・おばさについて触れていた。

長男以外の人間は、結婚もできず、世間との交流すら許されず、死ぬまで家のために奴隷のごとく働かされる......。
いったい、いつの時代の、どこの国の話だと思われるかもしれない。
しかしこれは日本に20世紀まで実在した「おじろく・おばさ」という風習なのである。

国土の7割が山である日本。
山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。
昔の長野県神原村(現・下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。

耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。
そのため、家に残った下の子供は「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ、長男のために死ぬまで無償で働かされた。

家庭内での地位は家主の妻子よりも下で、自分の甥っ子や姪っ子からも下男として扱われる。
戸籍には『厄介』とだけ記され、他家に嫁ぐか婿養子に出ない限り結婚も禁じられた。
村祭りにも参加できず、他の村人と交際することも無かったため、そのほとんどが一生童貞・処女のままだったと推測される。
将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

そんな奴隷的な状況が、ある種の精神障害をもたらすのだろう。
おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。
いつも無表情で、他人が話しかけても挨拶すら出来ない。
将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

16~17世紀頃から始まったとされる「おじろく・おばさ」制度だが、もちろん現在の神原では、このような制度は存在しない。
ただ明治5年でも190人、昭和40年代に入っても3人のおじろく・おばさが生きていたというから驚きだ。

この辺りの状況を報告しているのが、『精神医学』1964年6月号に掲載された近藤廉治のレポートである。
近藤は現存していた男2人、女1人のおじろく・おばさを取材し、彼らの精神状態を診断している。
普段の彼らにいくら話しかけても無視されるため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行ったそうだ。
すると固く無表情だった顔が徐々に柔らかくなり、ぽつりぽつりと質問に答えるようになったという。
以下、その答えを抜粋してみよう。

「他家へ行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。面白いこと、楽しい思い出もなかった」

「人に会うのは嫌だ、話しかけられるのも嫌だ、私はばかだから」

「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいてばからしいとは思わないし不平もない」

(『精神医学』1964年6月号・近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」)

なにごとにも心が動かず、無関心で感情が鈍く、自発性が無くなった様子がうかがえる。
依存の症状が特化していく。

この「おじろく・おばさ」の取材に先立ち、近藤は二つの推論を持っていたようだ。
一つは、もともと遺伝による精神障害が多い集落(近親者の婚姻)であり、そのような人々がおじろく・おばさになるのではという説。
もう一つは、気概のある若者は村の外に出てしまい、結果、無気力な者だけが残ったという説。
しかしこの二つともが間違いであり、長年の慣習に縛られた環境要因によって、人格が変化してしまったのではというのが近藤氏の結論だ。
彼らの多くが子供時代には普通で、20代に入ってから性格が変わってしまうというのも、その裏づけとなるだろう。
はY氏の見解である。

今の我々からすれば非人間的にも思える「おじろく・おばさ」だが、一つの村社会を継続するためにやむをえない部分もあったのだろう。
現在の立地点から善悪を断罪することは、できない。
長野県の下伊那だけではなく過疎地域では起こり得ることだとも思う。

ただもう一つ、この因習から読み取れるのは、疎外された環境が人格に影響を与えてしまうという点。
これについては、劣悪な労働状況によって精神を病んだり、ひきこもりによるコミュニケーション障害など、現在の日本社会につながる部分もあるのではないだろうか。

疎外された状況に置かれれば、適応するために人格も変化する。
やむなく、もしくは意識的に。
ブラック企業の言うような「本人が納得して働いているのだから問題はない」というのは、視点がズレた言い訳にすぎない。

今は廃絶された「おじろく・おばさ」制度だが、社会が個人に影響を与える一例として着目してみれば、さまざまな示唆を与えてくれる。
今村昌平の映画、〝楢山節考〟でも描かれていた。
長男以外は嫁取りを許されず、一生独身で終わる一種の人口抑制制度の被害者とも言える。
日本の近代史のタブー…おでんの下ごしらえをしながら、あれやこれやと考えた。
子供が巻き込まれる事件の背景には家族がいる。
どの家庭の中にも、ちいさな〝おじろく〟もしくは〝おばさ〟がいる。
閉塞状況をかかえた格差の広がる現在社会には無数のおじろく、おばさが存在している。

…ような気がする。














コメント
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