ここしばらく花の色や形に魅了されて撮り続けて来た。同時にレンズの発色や歪み、ボケ等も探究しながファインダーから見える世界、映し込まれた二次元世界(写真)を眺めてきた。
いろいろなメーカーのレンズで試してみたり、比較したり、それはなかなか楽しいものではあったが、撮り続けているうちに気になることがあった。確かにレンズの特性(発色)の違いはあるようだが、大げさに言うほどの相違はないと思われる。ただ、好みの色と言うのはあって、自分の思い描いた色を得ることが「いいレンズ」であるように思われた。それはまったく感覚的な(他の人が何と言おうと)自分だけの追及の結果である。
そんなことを考えながら撮っている訳だが、老眼になったり、乱視や白内障が進んできたり、肝心の視覚が劣化して来てピントも随分怪しくなっており、往年の自信もかなり揺らいでいる。
そこで、見ている色(感じている色)が、レンズの発色によるものか、或いは自分の目の色彩感覚によるものなのか、ふと疑問に思うようになった。確かに世の中には視覚異常の人が居る。所謂、色盲、色弱である。しかし、人の目は色盲、色弱と言わないまでも、それほど正確に出来ているものなのだろうか。とてもそうは思えない。色盲、色弱の検査は「日常で支障のない程度」という基準で振り分けているに過ぎないような気がする。つまり、実際はもっと緩やかにいろいろな色彩感覚があるのではないだろうかと。
そんな折、NHK BSで「True Colors」というドラマが放送されている。主人公のカメラマンは進行性の難病になり、現実と自分の視覚の乖離に途方に暮れる。物語の本筋は別の所にあるのかもしれないが、それはそれとして、自分が見ている色は他の人が見ている色とは微妙に異なっているかもしれないことを知らしめている。
この視点から見て、Web上に存在する幾多の画像の中にも、素晴らしいと思えるものが少なからず存在する。投稿されたそれら画像の成り立ちを可能な限り調べてみると、画像によっては向き不向きはあるかもしれないが、ほとんどランダムなレンズで撮られており、「いい写真」に使用しているレンズに偏りは見られない。つまり、どんなレンズでも「いい写真」は撮れるという事を示しているように思う。なによりも撮影者の視点の方が重要で、被写体をどう捉えるかということが非常に大切だと思われる。自然の中であれ、人工物の中であれ、その中で「美」なるもの、「面白い」もの、「魅力」あるものを発見することが出来れば、あとは撮り方だけの技術的な問題となる。しかし、見ている世界を漫然と眺めているだけではこの「美」を「発見する」ことは出来ない。けれど、この「美」は以外にも、大なり小なりどこにでも存在するものなのである。
「美」も「醜」も混然としているのが自然である。そんな中にあって、写真用語で「構図」というものがあるが、これもまた「美」を構成するとても重要な要素である。何処にでも存在する「美」、その部分を適切に切り取ることで写真は完成しているように思う。しかし、NHK BS「世界は錯覚で出来ている/Frontiers」を見た時、その自信はいささか揺らいでしまう。自分の見ている「美」、「リアリティ」は果たして本物なのだろうか、と。
写真もデジタル化されて久しい。けれど、それが何万色になったとしても、それは連続した変化の微積分の結果であり、サンプリングであり平均化である。あくまでも「近似」であって「連続した変化」そのものではない。同じ「近似」であるならば、出来るだけ余計な構成要素を排除した、光と影、モノクロこそが真の写真であるような気がして、そのたびに振り返ってしまう。
(OLYMPUS 35RC)
カメラという道具を発明して以来、人は「写真を撮りたい」という衝動(魅惑)に駆られながら、相変わらず世界を旅し続けている。
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