神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.82 聞き取り

2024-02-16 23:32:46 | 勝浩氏のこと
 
       朴:いよいよ開花

 次の写真は明治40年頃の神足家の家族写真です。
 すでに上條武『孤高の道しるべ」銀河書房の口絵で紹介されています。同時に、上條さんが家族のことも書いていますから割愛して、今日は、孫の勝浩氏に伺った「家族間の呼び方」を紹介することにします。
 
 なお、勝浩氏は大正5年のお生まれです。一方、友子さんは、明治45年に村尾履吉氏に嫁がれ、大正九年に早逝されました。このため、勝浩氏は友子さんをご存じありませんでした。
 また、勝浩氏は、母静子さんが大正8年に逝去され、のち勝孝氏が再婚して任地の呉へ赴任したため、勝記氏を父親役とし、叔母佐賀子さんを母親役として、祖母多喜さん・叔父勝起さん、そのほかに下婢・女中〔お手伝い〕の権田イシさんらの下で育てられました。

 以下には、どんな呼び方がされていたのかを簡単に主なものを書いておきます。しかし、長くなるので説明を略しました。

     明治40年頃の全家族:左から、友子〔二女〕・勝孝〔二男〕・佐
     賀子五女〕・勝記・勝起〔三男〕・多喜〔妻〕

  (1)家族〔勝浩氏を除く全員〕→勝記〔家族の勝記の呼び方、以下同
    様〕        :オトウサマ〔勝浩氏の回答のママ〕
  (2)家族〔同上〕→多喜:オバアサマ
 ここは面白いですね。多喜が「アバアサマ」なのに、勝記は「オジイサマ」と呼ばれていなかったようです。
 なお、勝記も多喜も家族を呼ぶときは、それぞれ名前で、カツタカ・カツオキ・トモ・サガコ〔サガ〕 だったようです。
    
  (3)勝起→勝孝:アニキ    この反対はカツオキ〔←カツオキ〕
  (4)佐賀子→勝孝:オニイサマ 〔←サガ〕
  (5)勝浩→勝記:誤記のため不明 
  (6)勝浩→多喜:オバアサマ 〔←カツヒロ〕
  (7)勝浩→勝孝:オトウサマ 〔←カツヒロ〕
  (8)勝浩→勝起:オジサマ 〔←カツヒロクン〕
  (9)勝浩→佐賀子:サガコオバサン 〔←ヒロチャン〕
 
 だいたい予想の範囲かと思われます。最後に、イシさんを挙げます。
  (10)イシ→勝記:オオダンナサマ 〔←イシ〕
  (11)イシ→多喜:オオオクサマ 〔←イシ〕
  (12)イシ→勝孝:ダンナサマ 〔←イシ〕
  (13)イシ→勝起:カツオキサマ 〔←記載なし〕 
  (14)イシ→佐賀子:サガコサマ 〔←イシ〕
  (15)イシ→勝浩:ボッチャン 〔←イシ〕
 
 このほかにもだいぶ伺ったので、
 「この頁分はいろいろのケースがあって 今后追加します」
 との「添書き」を頂戴しましたが、その機会を得ることができませんでした。
 
 なお、自慢話になりますが、
 勝浩氏は、私が何か伺った時、答えないということがなかったように思います。
 それどころか、「これは✕✕✕だが」と教えてくれたことが2つあります。しかし、 これは、「口外しない」と約束したわけではありませんが、まだしばらくは口にしないことにしています。
 私は、父親が早くに亡くなったせいもあり、勝浩氏を父親のように思っています。
 それもあり、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の刊行に際しては自由にやらせていただきました。しかし、勝浩氏に申し訳の立たないようなことはしなかったつもりです。
 なお、勝浩氏亡き後、異母弟の勝泰氏が対応してくださいました。
 お伺いしての別れ際に、
 「やりたいことがおありでしょうから、おやりになったらいいです。」と、
 勝浩氏と同様の丁重な対応をしてくださいました。忘れられません。


 ・・・!

コメント
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