神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.155 棚の本 2

2024-04-30 05:20:43 | 追憶
(1)29日、今日も多摩川へ行ってきました。
 河川敷のグラウンドは満杯、その脇の駐車場も満杯、そのさらに脇の藪近くで、一人、化石の残骸を探して土工作業してきました。
 今日は、100均に篩〔ふるい〕があったことを思い出して、出がけに手に入れて行きました。まるで子供の気分です。こういうふうにあれこれと考えるのは実に気分がいいものです。
 行って、右手で土を掻いては左手で篩う。すると、細かいがポツポツと見つかります。今日の成果は下の写真をご覧ください。いままでに何回も動かした土の中からまだ出てきたのでびっくりです。うれしくて、夢中で作業を2時間以上もやったので、帰宅して片付けてからしばらくして放心状態になり、即座に寝込むありさまで、ひどいことになりました。
   
    29日の成果

(2)今日はパピヨンを紹介します。
 これは、表紙に「映画・パピヨンの原作」とありますが、映画を見た方もあることでしょう。私も見ました。
 著者:アンリ・シャリエール 訳:平井敬之 発行所:タイムライフ 刊行年:1974年 
 上下2作からなっています。
 まず表紙をお見せしましょう。
 【上の表紙】
   
 【下の表紙】
  

 これは、表紙解説を要約すると、「身に覚えのない殺人の濡れ衣を着せられ、無期徒刑囚として、フランス領ギニアの流刑地に送られた男パピヨンの復讐劇」を書いたもので、著者アンリ・シャリエールの自伝です。

(3)もう20年くらい前のことです。
 木下富市さんから、
 『パピヨン』て、読んだことある。」
 と聞かれました。
 私が「パピオン」に反応して、
 『西部戦線異状なし』?
 と聞き返すと、
 「それじゃなくて・・・。おもしろいらしいよ。
  探してもどこにもないんだ。古本屋にでも行ったときに在ったら教えて」と。

(4)木下さんとは同じ1950年生まれで、彼の方がひと月上でしたが、彼は優秀だったようで、法政大学・同大学院と進んで、私が法政大学院へ来た時には2級上の人になってました。
 当時、法政大学院の入学者は博士課程4人、修士課程10人でしたが、この新入の院生が自治会役員をすることになっていて、博士課程から委員長を決め、あとは全員が役員をするということになっていました。
 委員長となった私の頃は、院生の就職先が問題化し始めていて、売り込みの名簿作成などやっていました。その中に、木下さんの名前もあって私は知っていました。しかし、学年が違い、専攻が違い、学派も違うので、まったく話をする機会がありませんでした。
 しばらくして、ある予備校へ教えに行ったところ、そこに木下さんがいましたから、挨拶すると、それ以降は親しくしていただき、さらに法政大学の通信教育部で経済学や財政学を担当するようになって会う機会がふえてきました。そして、ひょんなことから、さらに法政のⅯさんが加わり、年に2~3回3人で会うようになりました。
 上の『パピオン』の話は、そのころのことだったと思います。 

(5)その後、立川市の古書店を見ているとき、店前の安本コーナーにきれいなまま上下セットで200円で転がっているのを見つけましたから、即買って送ってあげました。
 あとから、「おもしろかった」と感謝されましたが、木下さんは、大腸がんのため、2016年5月に亡くなってしまいました。
 いつだったか、東松山の赤ちょうちんで飲んだとき、「ここのレバー刺がうまい」といっていたのが忘れられません。

(6)木下さんとは、学派が違い、学問的方法論が違いましたが、お互いにそのことは触れずに、遠慮ではなく、一目置いて話ができました。
 木下さんは出身地の宮崎県高千穂町に分骨されているので、必ずそちらもお伺いしたいと思ってきましたが、出不精なために、残念ながらまだ実現していません。
 ここに、2010年に改訂刊行した著書を紹介しておくことにします。もうどのくらいの人が読むかわかりませんが、宇野派の人らしい本と思います。機会がありましたら、どうぞ。
  【木下富市さんの著書】
   
    時朝社 2010年7月刊
 
 今日はここまで。
   
 

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No.154 棚の本 1 

2024-04-28 21:23:32 | 追憶

        舞い降りて

(1)ブログを書き始めて良かったところは、棚の本・資料・写真を漁るようになったために、棚のものが動き、棚も棚のものも生き返ってきたことかもしれません。
 棚を見ていると、雑学で耳学問を怠らなかったため、調べるといろいろなものが出てきます。それには折々の思い出がついてますから、記憶もよみがえり、活性化します。そのついでに、ブログに「記憶の棚卸し」をしておけば、カンバコへ入れるものが圧縮され、「こりゃあ、身軽でいいわい」となります。
 しかし、あらかじめお断りしておきますと、取り上げるものについて何か論評をするわけではありません。「棚にあったよ」という程度のものです。

(2)今日は、中山義秀です。
 中山義秀〔なかやまぎしゅう〕は、「厚物咲〔あつものざき〕」で昭和13〔1928〕年に芥川賞を取った作家です。その作品は中学校の国語の教材として教科書にも出て来ますから、学校で勉強したのでよく知っているという人も多いことでしょう。
 武家物の描写では定評があり、私も、いっとき、古本屋の店先に転がっていると買ってきては読んだことがありましたが、手元に残っているのは、比較的きれいな次の3冊だけです。
 【1】主要作品集
   
  新潮日本文学34『中山義秀集』、新潮社、昭和56〔1981〕年
 
 ここには、上記の「厚物咲」のほか、「テニヤンの落日」などの11作が入っています。
 
【2】自己の半世紀
   
   『台上の月』、新潮社、昭和38〔1963〕年、

 内容については、上の帯の宣伝文を読んでもらうのがよいでしょう。

 【3】評伝
   
     清原康正『中山義秀の生涯』、新人物往来社、1993年

(3)30代の後半ころ、知り合った男が気のいい呑兵衛とわかり、ほぼ毎週落ち合って、西武線線や中央線の沿線で、例外なく終電まで飲んでいました。
 だいぶ親しくなってからのことです。
 彼は国語の先生でしたが、国語の教科書を取り出して指し示しながら、
 「中山義秀って知ってる」
 と聞いてきました。たぶん、私が芥川竜之介のことをいくらか知ったふうに話してたからなのかもしれません。ともかく、
 「読むのは苦手だからね」
 とか言いながら受け取っていくらか読んでみましたが、まったく知りませんでした。それで、
 「教科書でも出てきたことがなかったね」
 と答えながら、末尾の略歴も見ると芥川賞受賞のことなどがありました。見ていると、
 「ジイさんだよ」
 と言いながら、徳利を向けて注いでくれました。

(4)それ以来、古本屋で義秀の作品を見ると買ってきて読み、そのこともあり、お父さんの哲也さん、お母さんのトシさんと一緒に草津温泉へ泊りがけの旅行をしたこともありました。
 彼とは、60代になるころまで変わることなく毎週落ち合って飲んでいましたが、お父さんとお母さんの老後の希望もあり、一家で南房総の方へ転居をしたため、縁遠くなってしまいました。

    
 
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No.153 開店休業

2024-04-28 05:17:33 | あそび
(1)花見と運動のつもりで出かけた多摩川で4月10日に化石を見つけて、楽しいながらもだいぶ作業時間を食われましたから、ここのところ少し追い上げをしました。それもあって、今日は、連休前に片づけたいと思って続けてきた収集資料の整理ができました。とはいえ、また一から見直して、それが終わったら入力。年内に終わればいい方かもしれません。
 今日は「つれづれなるままに」です。

(2)我が家の西の景色です。
 家主が、柿の実を採りやすくするために、上の方を切ってしまいました。
 それまではいろいろな鳥が来て休憩や物見をしていたのですが、それがなくなり、なんとも前衛芸術的な、というよりも、枝垂れ松みたいな格好になりました。
   【晴れの日】
   

 でもまあ、これはこれでいいと思います。それから、先日の曇りの日には、もっと映えてました。  
   【曇りの日】
   

 どうですか。いいでしょう。
 そう思って撮った写真を見ていたら、変化が見えました。
    【ある日】
   

 どんな事態になろうとも、つねにそれを乗り越える動きが出て来る。
 進め、進め!いいですねえ。
 
(3)今年のボタン、ほれぼれです。
    
 
 知り合いも見に来ました。アップでも十分に耐えます。
    

(4)ロウバイの今です。
    
 ずいぶん実もなっています。でも、この実が落ちると、どんどん芽が出て、あとで難儀します。
 これからの季節は、木陰を作ってくれるのが何よりです。私は、見上げて緑陰を楽しんでいます。

(5)山椒さんです。
    
 
 左の方に来客が見えました。羽根アリさんでしょうか。
 ところで、この山椒さんが大好きなチョウチョさんがいます。
   

 熱い気持ち、伝わってきますね。そうすると、やがて次ぎのようになります。
 葉をみ~んな食べてしまいます。芯しか残しません。山椒の葉が茫々・・・。
   
 
 でも、いじめないでください。かわいいものです。
 ドラエモンのような手で、しっかりと木の枝を掴んでいます。
 私は見ると、頭をチョンチョンと叩いてやります。そうすると、嬉しそうにして、じっとしてヤアと言います。本当です。 

(6)おとといの狭山湖をもう一度お見せしましょう。
    

 堤防から、西武ドームが遠くに見えました。実物を始めて見ました。
    
 
 あそこへ行ったのはずっと前、もう50年前のこと・・・。

 それから、この日は、雲がプカプカと、きれいでした。
    

  ゴールデン・ウイーク 私はいえ マイペース 

 きょうはパソコンの動きが悪く・・・。
 

 
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No.152 新緑のたま川 

2024-04-27 05:00:54 | あそび
   今年のボタンはきれいです。咲き方も大きさも。
   
    きれいきれい!

(1)今日、朝は天気が良かったのに、昼頃には完全に曇ってしまいました。それでも、目的は運動ですから、昨日に続いて散歩に出ることにしました。
 曇りでカメラの反応も芳しくなく、おまけにずいぶん取り損ねがありましたが、まあ、そういうこともあるさ、「よき日よ来たれ」です。それを期して味わっておくことにしましょう。   

(2)行先は新緑の多摩川と八高線です。となると、やはり例の化石発見現場が気になってしまいました。
 
    たま川入り口:八高線が行きます 

 ずいぶん寝ぼけた感じですが、正午頃です。
 除草剤でも撒いたようで、この時期なのに枯れていました。けしからないことです。

(3)河川敷に入って川べりで弁当を食べていると八高線の下りが来ました。

 いちばん右の橋脚が向こう岸から数えて11番目で、この橋脚の下流100mほど〔すぐ左〕のところで1963年に「昭島クジラ」が発見され、アキシマエンシス〔図書館棟〕で一部展示されています。

(4)この下流の方に多摩大橋が見えます。

 
 新緑がきれいでしたが、私は、5月の連休が過ぎて、葉がしっかりして、太陽の光を照り返す頃になってからの方が好きです。
 沸き立つ暑さの中を飛び回る、あれが最高。これは今でも変わりません。

(5)川に沿って遊歩道があります。ここに例の「注意」の看板があります。でも、みなさん散歩しています。「犬をつれた婦人」も多いです。たしか、チェーホフの作品に「犬をつれた婦人」がありましたね。ここの通りではそんな優雅な人は見ませんでしたが、チョウが歓迎してくれました。


 これだと藪にしか見えませんが、中央稍上に小さく黄色く見えます。飛んでいるチョウを写すのはむずかしいもので、実はペアで、ひらひらと舞っていました。
 じつは、この時私は例のウグイスと会話をしていました。

 ウグイスに「元気かい」というと、ヒヨドリみたいに
 「ホヨ、ホヨ」
 と精彩がない返事をするので、元気を出せよといって、ロシア民謡の「サラベイ」を口笛で吹いて聞かせてやりました。すると、終わったとたんに
 「ホーホケキョ!」
 と元気よく返ってきましたので、
 「OK,OK!その調子」
 と激励していると、チョウチョさんが追いかけてきて、そのあと、「犬を連れたジイさん」がやってきて、
 「うまいもんですな!」
 と。
 見ると、脇で花が顔を隠して笑ってました。
   

(6)と、そこへ下りの八高線が鉄橋に乗った音がしたので、狙った1枚に挑戦しました。


 大成功、うまくいきました。でもやはり眠そうな景色です。真夏の光の下で再挑戦したい。

(7)食後、ひと息ついたところで、あの化石発見場所に行きました。
 この前のところでまた少し土を掻いてみたところ、目が慣れてきたのか、細かいのが見えましたから、拾って帰り家のと一緒にしてあげることにしました。 
 
 きりがないとはいえ、まだずいぶんありそうです。

(8)化石を洗って新聞に広げて見ているうちに、新聞記事の方が見えてきました。
  自治体消滅、麻生・トランプ、墜落機。
 どれも国民泣かせ・・・。これはまたとしましょう。

 本格的な夏までもう少し。お~い、待ってたぞ・・・。
 
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No.151 傷ついた犬の目は 3  

2024-04-25 21:21:03 | 新聞記事

    狭山湖:25日

(1)No.149で取り上げた河村たかし名古屋市長の発言に対して撤回を求める署名運動が始まりました。当然と思います。

 河村氏の発言内容のヒドサは、No.150で取り上げた柳沢協二氏へのインタビューの内容と比べるとよくわかります。なんと言い訳しようと、戦争を煽っていますし、英霊思想を言っています。

 河村氏は、市長の立場にありながら、おそらく憲法の平和原則などの精神を理解していないでしょう。だから、大事な式典のあいさつなのに、先入観として持っている考えなしの持論をしゃべって批判を受けることになるのだと思います。
 そういう市長の音頭で「サンキューベリーマッチ」とか「高度な道徳的行為」と言われても、駆り出されて死地に追いやられた「戦没者」は浮かばれないのでないでしょうか。

   
    〽ことしのぼたんはよいぼたん

(2)ところで、No.150で触れませんでしたが、柳沢さんは、憲法13条の「個人の尊厳」のことをいっていました。大事なことなので、そこをとりあげましょう。
 まず、柳沢さんが、「そこ〔英霊の思想〕には、他者の人生を自分の道具として考える政治指導者のおごりがあります」とプーチン大統領の発言などを批判します。
 すると、それを受けて記者が、「権力者に道具として利用されず、犠牲の問題を冷静に考えていくためには、何を大事にしいけばよいのでしょう。」と問い返しました。
 これを受けて、つぎのように言います。 
 「自分の人生の目的を他者に強制されることなく自分で決めることが、ひとがひととして生きる原点だと確認すべきです」
 「日本国憲法では、個人の尊厳や幸福追求権を定めた第13条などにその精神が刻まれています。」
 「そうした価値に対する畏怖の念を持つことこそが政治の原点だと考えるべきでしょう。」
 
(3)こうしてみると、柳沢氏と河村市長との違いが明瞭です。いちばんの違いは何でしょうか。それは、憲法遵守の姿勢の有無です。憲法尊重の姿勢のありなしは、憲法に依拠して国民の権利を説き、その実現をいうところによく現われてきます。
 プーチン氏と河村市長を同列に言うつもりはありませんが、それでも共通しているところがあると私は思います。それはどこかというと、出発点が、「法」とか「国民の権利」ではなく、「国」や「自分」にあって、「国のため」とか「自分の考え」で政治をおこなっていることがわかるところです。
 政治家が、「法」とか「国民の権利」とかを言う前に「国」や「自分の考え」を言うのは「独裁の思想」です。そういう習癖や思想を持つ人は政治家に最も不向きです。
 河村さんには発言を撤回するとか見直してほしいと思います。
 言うまでもなく、プーチン氏はすでに犯罪者として裁かれるべきと思います。

   
    

(4)みなさんは、あの「大東亜戦争」といって遂行された戦争はいつ終わったと思ってますか。
 もちろん、戦闘は終わりましたし、一応の取り決めはできています。
 でもそれは、領土問題ひとつとっても、不当な取り決めで、北方領土は4島になっているだけですし、基地問題なども、日本が平和国家になる道を決めておきながら、むしろ邪魔してきました。
 それどころか、まだ不発弾の発見が続くなど、終戦処理費はかかり続けています。直接の戦費はもうありませんが、間接の戦費はこの先まだいくらかかるかわかりません。わからないから、帳簿を閉じられません。つまり、永久に終わりません。
 さらに、戦争で受けた軍人の戦傷・非戦闘員の被害(空襲・原爆など)は生きている限り続きますし、戦没者の遺骨収集でさえ終わっていません。
 これでわかるように、戦争には、始まりはあっても、たいがい終わりはありません。終わりは、政治決着というだけです。たいがい、ウヤムヤのうちに終わり・・・です。
 
 ずいぶん硬いなりましたが、目をそらさないようにしましょう。
 死者が身をもって警告しているのです。

   
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